序
目覚めるなり、どうしてこんなところで寝ているのだろうと訝しんだ。
目に入るのは天蓋の内側だ。ここ一週間ほとんど毎日寝起きした天蓋付きのベッド。重厚な布を存分に使い、刺繍が施されていて豪華な造り。
場所になじみがあるのはいいのだけれど、私には昨日このベッドに入った記憶が無い。
一番近い窓に近づき、カーテンを開ける。背の高い格子窓の向こうには、都市部では贅沢すぎるほど広い庭が広がっていた。
窓を開けると、朝のさわやかな風が吹き込んできた。ベランダの外に人影は見えず、庭木に集まる小鳥の声と、朝日に輝く芝生が出迎える。やや中心部から離れているからか、街の喧騒は聞こえない。初めて案内された日にはしゃいだこの客間の豪華さにもだいぶ慣れてきた。
「…………痛った」
自分の両頬をぺしりと叩いて夢じゃないことを確かめる。半端に伸びた髭が指に触れた。
今年二十歳になったばかりの一般的な女子大生であるところの私は、ホテルだったらちょっと背伸びしても届かないレベルの豪奢な部屋を横切り、隣の小部屋の洗面台で鏡を覗きこんだ。
「やっぱ、戻ってないよね」
縁の装飾の美しいぴかぴかの鏡の中には、見慣れたおじさんが映っていた。
ぼさぼさで長い、金と茶色の中間くらいの色の髪。それより少し細いひょろひょろの髭がまばらに口周りを覆っている。青白い肌。朝の肌寒さで、高い鼻の頭が薄っすら赤くなっている。眉毛は太くてぼさぼさ。たれ目だけど、むくんで重い瞼がたれ目気味に見せているだけで、見開いてみればぱっちりしたアーモンド形の目。くっきりした二重がうらやましい。青い色素の薄い瞳は、瞳孔の収縮がはっきり見えすぎて違和感がすごかったけれど数日で慣れた。目の下の隈は最初に見た時よりはましになったような気がする。
このおじさんの名前はヴィクトル。外見年齢三十五歳。職業は魔術師らしい。
らしい、というのも私、戸松絢音はヴィクトルと会ったことがない。一週間前、目を覚ましたときから、私の意識はこのヴィクトルの身体の中にいた。
「一週間で戻れるかもって話だったんだけどなー……」
直近での希望が断たれた。この先の展望も未知数だ。先行きの不透明さを考えると、ちり、と焦りが背中に忍び寄ってくる。
ふと、下の階のどこからか、ベーコンの焼けるいい匂いが漂ってきた。
「とりあえず、ごはん食べるか!」
訳の分からない状態だけど、生きているだけで丸儲け、寝る場所と食べるものがあるだけで百点満点だ。分からないことは一つ一つ確かめていくのみ。
一人で考えても分かんないしね!
一週間前、二十一世紀の平均的な日本人女性であったはずの戸松絢音は、目が覚めたら魔術師のおじさんの身体になっていた。
魔術=フィクションの世界で生きてきた私には到底信じられない話だった。
これが噂の異世界転生ものと言うやつかとも思ったが、確かそういうのって、チート的な何かに目覚めるんじゃなかったっけ? 残念ながら何か面白い能力が見つかることはなく、それどころか普通に言葉に苦労している。
周りの言語は英語だ。世界地図は知っている形そのもので、ここは西ヨーロッパの端っこの小さな国、時代は二十世紀初頭。国名は聞き覚えのない音だったけれど、ヨーロッパの全ての国を把握しているわけではないので、元の世界にこの国があったかどうかもよく分からない。
はじめは夢でも見ているのかと思っていた。しかし妙にリアリティのある事実がいくつも見つかり、現実として受け入れざるを得なくなった。
ありがたいことに、ヴィクトルの周りにはお世話をしてくれる人がたくさんいて、私とヴィクトルの状況について一緒に考えてくれた。そして、「おそらく一週間で戻れるだろう」という結論を出した。
だったら観光するしかないじゃん!?
これを言ったら周りの人たちに「えっ」という顔をされたけれど、きっと同じ状況になったらみんなそう考えるよね!?
だってヨーロッパだよ? 海外だよ? 無料の海外旅行じゃん! やったー!
そんなわけでこの一週間、私はヴィクトルの身体で存分に観光を楽しんだ。腹が立つこともあったけど、全体的に最高に楽しい旅行だった。
いつ元に戻るか分からないと予想された一週間の最後の二日でお世話になったみんなを訪ね、方々にお別れの挨拶をし、楽しい旅行の終わりを寂しく思いながらベッドに入ったのが昨日の夜のこと。
そして朝、目を覚ましたら現代日本に戻っていなかった。由々しき事態である。
こうなったら、ちょっと本格的に自分に何が起こっているのか確かめなくちゃいけない。
ポジティブさが売りの私でもこのまま戻れないのは流石にまずいと思う。一足先に就活を始めた友達の話だって聞いていた。まだまだ大学卒業までは余裕があったけど、あんまり周りから遅れるのも怖いもんね。
(なにより、私には思い出さなきゃいけないことがある)
そんなわけで、これからは何か分かったら日記に書いていこうと思う。その前に、まずはこの一週間でどんなことがあったのか、一通り整理しておこう。




