第178話「祝福のワルツ」
夜が訪れた王都は、昼以上の光で輝いていた。
城壁から塔の先端まで、無数の燭台と魔法灯が灯り、漆黒の空に金と白の星々を咲かせるかのような幻想。
遠くには花火が上がり、夜風に乗って音楽が流れる。
王城の大広間はまるで天空の神殿だった。
純白の大理石の床に映るのは、無数の燭光と七色の幻光。
天井からは水晶のシャンデリアが、星の雫のような輝きを放って降り注いでいた。
壁には各国の旗と英雄の名を刻んだ金の紋章。
中央には、黄金と瑠璃を組み合わせた長卓が並び、銀の食器に盛られた豪華絢爛な料理が溢れんばかりに並んでいた。
祝宴が始まった。
音楽隊が奏でるのは、英雄を讃える新たな楽曲。その調べに合わせ、舞踏会の輪が広がっていく。
だが、その中心に座る男は、誰よりも静かだった。
ブリシンガー。
豪奢な席に座りながらも、彼は鎧ではなく、落ち着いた礼服に身を包んでいた。
周囲を取り囲む王族や貴族たちの視線に、彼はただ穏やかな微笑みを返すだけだった。
ロズベルク王子が杯を掲げ、声を張る。
「ブリシンガー殿」
その声に、音楽が止む。大広間の視線が、一斉に二人へと注がれた。
「今宵、我らはあなたのためにこの宴を開いた。だが、これは単なる祝賀ではない。あなたが護った世界と、その英雄に、永遠の感謝を捧げる証です」
ロズベルクは深く頭を垂れた。続いて、ヤシーンが歩み出る。
紅の衣を翻し、口の端に笑みを浮かべる。
「グランヘイム王子の言う通りだ。ブリシンガー、そなたがいなければ、我らの命もなかった。……だから、今日は死ぬほど飲め。いいな?」
その言葉に、場に笑いが広がる。
次いで、アリュセールが、静かな微笑みとともに告げる。
「久方ぶりに、人の宴に身を置いたが、今宵ほど美しい夜は歴史にもそうはないだろう。その立役者は、貴方だ、ブリシンガー殿」
リゼルフェインは、静かに杯を掲げた。
「あなたの歩んだ道は、我らの想像を超えていた。だが、今―その結末をこうして共に祝えることを、心から嬉しく思います」
その言葉の一つ一つに、大広間が拍手と歓声で震えた。
グラスが打ち合わされ、黄金の酒が煌めく。
音楽が再び鳴り響き、舞踏が、歌が、笑いが、夜を埋め尽くした。
「諸君!この杯を、世界を救った英雄に捧げよ!」
「英雄ブリシンガーに!」
「そして誇り高き我が父、故レオニダス王にー」
「栄光あれ!」
大広間が揺れるほどの歓声と、杯が打ち鳴らされる音が轟いた。
ヤシーンは、片手にワインを掲げながらブリシンガーに笑いかける。
「……この日が来るとはな、英雄殿」
その瞳は紛れもなく敬意を宿していた。
ブリシンガーは、軽く笑って答える。
「英雄って柄じゃない。……ただ、やるべきことをやっただけだ」
その言葉に、アリュセール王がゆるやかに頷いた。
「それで十分だ。その望みが、この世界を護った」
リゼルフェインは杯を口に運び、低く柔らかな声で言った。
「神を動かした人間。その名は、我々の歴史に永遠に刻まれるでしょう」
ブリシンガーは少しだけ笑みを深め、
「……そうなら、歴史の本にそう書いて静かにしておいてくれ。これ以上は、目立ちたくないのでな」
そう呟くと、周囲から小さな笑いが漏れた。
その一方で仲間たちは、別の円卓で大騒ぎをしていた。
祝宴というものは、いつまでも厳粛ではいられない。
「ブリシンガーが!なんて場違いな絵面だ!!!」
ドゥガルが豪快に酒をあおりながら叫ぶ。
「お前、うるせぇぞ!」
バルダーが肉の塊を片手にツッコミを入れ、「……でも、悪くないな。こういう夜も」と、しみじみ呟く。
彼が、煌びやかなシャンデリアを見上げて呟く。
「オレ、こういう場所に一生縁がねぇと思ってたぜ。だがドゥガル、飲みすぎたら翌日にさわるぜ?」
「説教でもなんでもいい!今夜は騒ぐ!英雄と、俺達が帰ってきたんだ!」
だが、その平穏は長く続かなかった。
「……あなた方が、あのブリシンガー殿の仲間?」
突然、背後から柔らかな声。
振り返れば、豪奢なドレスを纏った令嬢たちがずらり。
その後ろには、貴族の男たちや、諸国の王族までもが微笑んでいる。
「そ、そう……っすけど……」
バルダーの声が裏返った。口をパクパクさせる。
「戦場でのご武勇、ぜひ聞かせていただきたいわ!」
一斉に浴びせられる質問。
令嬢の瞳はキラキラ、王侯貴族の紳士たちも興味津々。
「え、えっと……その……あの……」
カチャン!
緊張で、バルダーの手からフォークが床に落ちた。
「……俺、こういうの無理だ……!」
バルダー、顔真っ赤で目を泳がせる。隣のドゥガルも、豪快にキョドっていた。
「お、おう!武勇談な!任せろ!あれだ、あの時……ドゴォーンってなって、ズバァーン!って……」
言葉が迷子だ。横で貴族たちが「ズバァーン?」と首を傾げる。
バルダーは必死に助けを求める目でフィリアを探す。礼儀作法を完璧に弁えている彼女ならと思ったが、彼女は遠くのテーブルでワイン片手に優雅に談笑中。
完全に見捨てられていた。
「ちょ、ドゥガル!お前、なんとか……!」
「無理だ!俺、フォーク三本ある時点でパニックだ!」
「知らねぇよそんな情報!」
会場のあちこちから笑いが漏れ、「英雄の仲間」二人は完全に令嬢の輪に捕獲された。
その後バルダーは、舞踏会のフロアで何故かダンスの相手に引っ張り出され、ドゥガルはワイン片手に「乾杯!」を十数回繰り返し、二人とも顔を真っ赤にして魂が抜けかけていた。
最後に、二人が席に戻ってきた。
「……死ぬかと思った……」
テーブルに突っ伏しながらも、どこか満足そうな笑みを浮かべていた。
ゼルグは人の形を取っていたが、その圧倒的な存在感に、周囲の貴族たちは遠巻きに見て息を呑んでいた。
カリスは仲間のザルドと並び、静かに杯を交わしていた。その横顔には、長い戦いを終えた者だけが持つ、かすかな安堵があった。
祝宴の熱気が最高潮に達したとき、王子が立ち上がり、手を掲げて静寂を促した。
「諸君!今宵の宴の主役である英雄、ブリシンガー殿より言葉を賜ろう!」
その瞬間、大広間は静まり返った。
何百という視線が、一斉に彼へと注がれる。
ブリシンガーはゆっくりと席を立ち、杯を卓に置き、前へ歩み出た。天井のシャンデリアが、銀の髪に反射して煌めく。
その姿を見た誰もが「神話が動いている」と錯覚するほどの静謐な気配を感じていた。
ブリシンガーは、広間を一望した。
王族、貴族、騎士、兵士、魔術師、そして、旅を共にした仲間たち。
その一人一人を、ゆっくりと見渡した後、静かに口を開いた。
「……長い戦いだった」
低く、だが澄んだ声が、大広間を震わせた。
「気がつけば、何千年も……剣を手放すことなく、戦いに明け暮れていた」
会場に、押し殺した吐息が響く。
ブリシンガーは、続けた。
「仲間を失い、幾多もの近しい人たちを見送ってきた。何度も、この世界を憎みかけた。それでも剣を捨てなかったのは、この世界に、まだ希望があると信じていたからだ」
視線を落とし、拳をゆっくりと握る。
「だが俺は、もう神の戦士ではない。英雄でも、伝説でもない。ただの、一人の人間だ」
静寂が、波のように広がる。
「世界を救ったのは、俺だけではない。ここにいる一人一人だ。王も、兵も、魔術師も、そして命を懸けて共に戦った仲間たちも」
ブリシンガーは仲間たちに視線を向ける。
「だから……ありがとう。俺を、一人にしなかったお前たちに。そしてこれからも、この世界を繋いでくれる全員に」
静かな声に、誰もが胸を震わせた。
「戦いの時代は、終わった。これからは誰もが、剣を捨てて笑える世界を作ってくれ。俺はその世界の片隅で、人として生きる」
そう言って、杯を掲げた。
「この世界に!そして、ここにいるすべての命に!」
大広間が、轟音のような歓声に包まれた。
杯が打ち鳴らされ、祝福の声が波のように広がる。
魔術師たちが光の花を天井に咲かせ、音楽隊が凱旋の調べを奏でた。
そしてその騒がしさの中、ブリシンガーは、遠くからこちらを見ている一人の女性に気づいた。
システィーン。
月光のような白のドレスに、金の髪をゆるやかにまとめ、胸元には淡い宝石の輝きがあった。
彼女は、静かに笑いながら、「おいで」とでも言うように、そっと視線を送っていた。
ブリシンガーは群衆の中を抜け、彼女のもとへ歩いていく。
その瞬間、音楽隊の調べが変わった。
ゆるやかなワルツ。
大広間が一瞬、静まり返る。
システィーンは小さく首を傾げ、
「……踊ってくれる?」
その声に、ブリシンガーは苦笑しながら手を差し出す。
「俺は剣ばかりで、踊りは不得手だぞ」
「大丈夫。あなたとなら、きっと綺麗に踊れるわ」
二人が手を取り合った瞬間、祝宴の空気は、爆発するような歓声と拍手に包まれた。
システィーンの姿は女神そのものだった。
月光を凝らしたような純白のドレス。胸元には淡い宝石が星のように瞬き、腰から流れる裾は、まるで天の川が舞い降りたように輝く。
黄金の髪は光を抱き、一度の振り返りで、万の燭光を跳ね返す。
その微笑は、戦乱を越えた世界に春を告げる光。
「……なんという……」
老貴族が、思わず言葉を漏らす。
「ファルデンの村娘だというのか……?否、女神だ……」
王城のバルコニーに並ぶ姫君たちでさえ、羨望とため息を隠せなかった。
「こんなに美しい人間が……」
そして彼女の手を取る男ブリシンガー。
黒の礼服を纏い、戦場では決して見せなかった穏やかな微笑を浮かべている。だが彼の一歩、その姿勢、指先から漂う威厳は、なおも神々しさを帯びていた。
二人が、ゆっくりと舞い始める。
一歩、また一歩。その動きは、ただの舞踏ではなかった。
世界の戦乱を終わらせた二人の歩み。希望を抱いた足取りが、大理石に静かに刻まれていく。
群衆が息を呑む。彼女の裾がひるがえるたびに、花びらの幻影が舞い、彼のステップのたびに、床に光の紋様が浮かぶ。
バルダーは拳を握りしめながら叫んだ。
「おい……似合ってんじゃねぇかよ!お前ら……クソ、泣きそうだ……!」
その横で、ドゥガルがぼそりと呟く。
「……これでいい。これが、一番いい終わり方だ」
フィリアは、グラスを胸に寄せ微笑んでいた。
その瞬間、天井のシャンデリアから、光が一筋、二人を照らすように落ちた。
影さえも許されぬ、完全なる祝福の光。
城外に溢れ、夜空を焦がす花火と共に、王都を光の海に変えた。
英雄と、彼と共に歩む女性。世界は静かに、そして確かに、新しい時代の始まりを告げた。




