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銀の伝承  作者: 銀の伝承
第八章「神域決戦編」
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第164話「聖女システィーン」

風が静かに吹いていた。夜の空は高く、星々は静かにその輝きを放っている。

今この場には、彼と、彼女だけしかいなかった。


「……ブリシンガー」


後ろから、そっと、名前を呼ぶ声。優しくて、強くて、心をまっすぐに伝えてくれるシスティーンの声だった。


「システィーン……」


彼女は、一歩ずつ、迷いなく歩いてきた。

月光がその風に揺れる金の髪を照らし、彼女の姿を神話の中の女神のように輝かせていた。

けれどその瞳の奥には、穏やかさの中に、嵐のような感情が渦巻いていた。


「私たちが、気づいていないと思ってるの?」


「……何のことだ?」


「……本気で言ってるの?」


その声は、かすかに震えていた。

「特に私が……気づいてないとでも、思ってたの?」


ブリシンガーは答えず、ただ静かに目を閉じる。ひとつ、深く息を吐く。


「あなたは……死ぬつもりでしょう?」


その言葉が放たれた瞬間、風が止まり、空気が凍りついたように静まり返った。


「そんなことはない」


ようやく口を開いた彼は、どこか影を含んでいた。


「……嘘つき」

システィーンの目から、光の雫がこぼれる。その声は、痛みに満ちていた。


「あなた、全部わかっているのでしょう……?あのガウレムと戦って、生きて戻ってこられるはずがないって……どこかで、納得してるくせに……」


「俺は……皆を守りたいだけだ。それが、俺の―」


「だったら……どうして……!」

彼女の声が一段高くなる。


「どうして、私の気持ちは置き去りなの……?」


彼女の頬を伝った涙が月光に輝き、まるでひとしずくの光の刃のように、ブリシンガーの心を貫いた。


「これまで、あなたの背中をずっと見てきた。どれだけ傷ついても、どれだけ孤独でも、あなたは前を向いて進み続けてきた。私は、それを誇りに思ってる」


「でも、お願い……!今だけは……私の声を聞いて……!」


ブリシンガーは、俯いたまま拳を握りしめた。握りしめた拳が、わずかに震えていた。

「……お前が泣くのは、似合わない」


「やめて……!そうやって、私の想いをやさしく包み隠そうとしないで……!」


大粒の涙が彼女の頬を伝わる。そして振り絞るかのように、彼女が全身全霊で叫ぶ。


「私は!!貴方を愛してます!!心の底から愛しています!!ずっと、ずっと……あなたが世界で一番大事なの……!!」

「あなたがいない世界なんて、たとえ平和になっても……私には、意味がない……!!」


ブリシンガーは絞り出すように答えようとする。

「……システィーン」


「……帰ってきて。何があっても、帰ってきて……!あなたがいなければ、私は……私は……!」

声が、もう続かなくなっていた。


システィーンは、ブリシンガーの胸に飛び込み、両腕で彼を強く抱きしめる。


「……怖いの!!あなたが、どこにもいなくなるのが……怖い……」


彼女の震える声が、彼の胸元でささやくように響いた。

彼はそっと彼女の背中に手を回す。その腕は強く、しかしどこか切なげだった。


「……約束はできない」

「でも、戻りたいと思ってる。お前の元に」


「……私、信じるから。信じて、待ってるから……」


その瞬間、言葉にならない感情が、二人の間に溢れ出した。

ふと、ブリシンガーは微笑んだ。ほんの一瞬、口元をほんの少しだけ緩めた微笑み。

それは、彼の長い人生の中で、最も静かで、最も確かな「幸せ」の証だった。


(……こんな日が、来るとはな)


その胸の奥で、温かいものがゆっくりと波紋のように広がっていく。

何千年という時を、使命と戦いの中で生きてきた。


仲間を失い、何度も孤独と恐怖に飲まれ、それでも剣を握り続けてきた。

必要とされることも、愛されることも、知らなかった。諦めていた。


だが今。全身で自分を求め、涙を流し、心をさらけ出して「生きて帰ってきて」と願ってくれる存在がいる。彼女の体温が、涙が、鼓動がまるで、彼の全てを、存在のすべてを包み込むように、優しく、温かかった。


風が再びそっと吹き始め、夜の静けさが、優しく二人を包んでいく。


やがて、システィーンが顔を上げた。

涙の跡が頬を濡らしていたが、その瞳はもう、覚悟の光を宿していた。


「……ねえ、最後に……一回だけ、甘えさせて」

その言葉は、どこか恥ずかしげで、けれど真っ直ぐだった。ブリシンガーは、何も言わずに彼女を見つめ、うなずいた。


すると、システィーンは彼の手をそっと取り、指を絡めた。その手はあたたかく、確かに彼の存在を伝えてくれた。


システィーンは、ふふっと小さく笑った。

「子どもみたいでしょ? ……でもどうしても、またこうしたかったの」


「いいんだ。今だけは、甘えてくれ」


二人は、手をつないだまま、ゲートへとゆっくりと歩き出す。

足取りは静かで、でもひとつひとつの歩みが、まるで永遠に刻まれていくようだった。


ゲートの光が、彼らを淡く照らす。

その光の前で二人は立ち止まり、システィーンが名残惜しそうにブリシンガーの顔を見つめた。


「……絶対に、帰ってきてね」

その声は震えていたが、強く、揺るぎなかった。ブリシンガーは優しく微笑む。


「ここからは、お前の道だ」


システィーンは静かに頷く。

そしてシスティーンは手をそっと離し、涙を堪えながら、最後に笑顔を見せた。


「……行ってくるね、ブリシンガー……待ってるからね」


そう言って、彼女はブリシンガーの顔を、しっかりと見つめた。その視線に、全てが詰まっていた。

そして、システィーンはそっと手を振る。


「またね……絶対に、またね……!」


その声は、涙を堪えながらも笑顔を崩さない、強い女性の声だった。

彼女は、ブリシンガーの方を向きながら後ろ向きにゲートの光の中へと一歩、また一歩と歩き出す。


ブリシンガーは控えめに、だが優しく手を振り返した。

最後の瞬間ー彼女は振り返らずに光の中へ走って消えていった。


その背中は、何よりもまっすぐで、美しかった。


ブリシンガーは、彼女の消えた光の先を眺める。その胸の奥で、言葉にならぬ祈りが、強く燃えていた。


残されたのは、ゲートの前に立ち尽くす男ただ一人。


英雄ではなく、神の戦士でもなく。ただ一人の男として、大切な者を守ろうとするその背中だった。


全員を転送したゲートは、静かに風の中に溶けるように消えた。

星々は未だ瞬き、夜は深く、静寂がすべてを包んでいた。

残されたのは、ただブリシンガー一人。


風が、静かに吹き抜ける。

それはまるで、去りゆく者たちの声のようであり、彼を見守る者たちの祈りのようでもあった。


ブリシンガーはゆっくりと一歩、地を踏みしめる。

深く息を吐く。


「……これで一人か」


その声には寂しさもあったが、決して迷いではなかった。

自らの意志で、この地に残ることを。


ここから先は、誰にも踏み入れさせない。


己の奥底に眠る神の欠片。

その“欠片”が、彼の魂に静かに問いかけてくる。


『本当に、進むのか?』


ブリシンガーは静かに目を閉じ、そして、はっきりと答えた。


「……ああ。すべてを懸けてでも、俺はこの世界を護る」


覚悟が、今、ここに宿った。


「……待っていろ。必ず、決着をつけてやる」


ローブの裾が風に揺れた。


ただ一人。

この世界のすべてを背負い、最も過酷な運命へと、最後の戦いへと向かって。

ブリシンガーは、星明かりに照らされた丘の上に、静かに腰を下ろしていた。


眼下には、もう誰もいない避難所。


残されたのは、頭上の星々だけ。

彼は何も言わず、そっと目を閉じた。


呼吸は静かで、穏やか。

胸の奥では、すでに魂が研ぎ澄まされている。


あの禍々しき気配は、刻一刻と近づいている。次元の彼方で、ガウレムの思念が世界に染み出していく。


恐れがないと言えば嘘になる。


だが恐怖があるからこそ、灯すべき光が明確に見える。


ブリシンガーは、瞼の裏で世界を視ていた。

記憶をたどり、自らの過去と向き合う。


戦いの中で失ったもの。得たもの。


「……ありがとう」


ふと、彼の唇から、誰に向けるでもない言葉が零れた。


共に旅した仲間たち。

自分を想ってくれた人々。


何千年もの孤独の中で、ようやく手に入れた心が、彼の中で静かに脈打っていた。


静かに、彼は両掌を膝の上に置き、完全なる静寂の中へと身を沈めていく。


時は、やがて訪れる。

破壊の化身と、希望を灯す者。運命の果ての戦いが、静かに、だが確実に近づいていた。


そしてブリシンガーは、ただ黙って、それを待つ。

何も恐れず、何も拒まず、ただその時を迎えるために丘の上に、一人。


英雄は、星の下で、静かに目を閉じていた。

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