第13話「眠る力」
夜が明ける気配と共に、空が青く染まり始めた頃、システィーンはまだベッドの上に座り込んでいた。
目はぱっちりと冴えたまま。
(……結局、一睡もできなかった……)
不思議と眠気はない。ただ、心臓の鼓動だけが、夜通し彼女の中で鳴り響いていた。
朝の支度は、いつもよりずっと慎重だった。普段は気にしないような細かなところにまで意識が向く。
(大丈夫……落ち着いて……いつもの私……)
そう自分に言い聞かせながらも、鏡の前の机の両角に両手をドン!と突く。
(落ち着けるかぁあああ!?一緒に行くんだぞ!?今から!?)
完全にパニック寸前だった。
そして、玄関をそっと開けた瞬間、彼は、そこにいた。
朝靄に満ちる村の通り。まだ人々が動き出す前の静けさの中、門の前でじっと佇むその姿はまるで絵画だった。
銀の髪が、朝日を受けて淡く揺れていた。村人から貰った外套の裾が風にそよぎ、背に差した剣がかすかに光を反射する。
その佇まいは静謐で、異様に美しかった。この村の風景には、あまりにも浮いている。
(えっ……!?)
システィーンの思考は一瞬で崩壊した。
(えっ……?なにこれ夢?現実!?まって、私の家の前に伝説が立ってるんですけど!?)
(これは夢!?昨日の神殿で祈りすぎた!?)
彼女の鼓動が、心臓ブレイクビーツモードに突入する。バクバク、じゃない。
ドッッドドドドドドドドッ!!!
動けない。いや、動きたくない。いや、近づきたすぎて逆に動けない。
その時—彼が、こちらにゆっくりと顔を向けた。
「起きたか」
身体が、ぶるっと震えた。それでも、どうにか立て直して、返した言葉。
「っ、は、はいっ!!」
声が裏返りそうになるのを必死で抑え込み、いつもより二拍早い歩幅で彼のもとへ駆け寄った。
いつも彼の横にいるバルダーが見当たらない。彼女は噛まないように必死に声を押さえながら聞いた。
「あ、あの……!バ、バルダーさんは……?」
ブリシンガーがポケットから何かが書かれていた紙切れを取り出し、彼女に見せた。
「訓練場、先に行ってる ―バルダー」
システィーンの目が一瞬だけ点になった。
(ええええええええ!!)
ブリシンガーとシスティーンは、並んで歩いていた。二人の間に言葉は少ない。けれど、不思議とその沈黙は心地よかった。
そっと彼の横顔を見やった。村の中より、こうした自然の中の方が、彼はずっと馴染んでいるように思えた。
ふと、彼が口を開いた。
「眠れたか?」
突然の問いに、システィーンの心臓が軽く跳ねた。
「えっ!?え、あ……はい……!あ、いえ、その……ちょっとだけ……!」
必死に取り繕おうとする彼女を見て、ブリシンガーは小さく首を傾げた。
「……落ち着け」
その言葉が、妙に優しく響いた。
そして、訓練場へと辿り着く。そこにはすでに、剣を腰に下げたバルダーの姿があった。
彼は二人を見るなり、口角を上げて、全力で悪意のある声で言った。
「おはよう。随分いい雰囲気だな、二人とも」
「……っ!?」
明らかにからかっている様子のバルダー。システィーンは言葉にならない声をあげそうになった。
ブリシンガーはといえば—
「……?」
全くと言っていいほど動じず、むしろ首をわずかに傾げる。
バルダーはそれを見て、満足そうに二人の間をすれ違いざま、ポンとブリシンガーの肩を叩いた。
「……罪な男だな、あんたは」
ブリシンガーは小さく眉をひそめたまま、「何の罪だ……?」と静かに呟いた。
森の奥にある開けた訓練場—そこで二人は向き合い、バルダーが構える。
いつもの朝の訓練が開始された。
少し離れた場所、木陰の石の上に腰かけるシスティーンは、両手を膝の上で組みながら二人を見つめていた。
訓練が終わり、バルダーがふっと肩を落として息を吐く。
「……今日も全く刃が立たなかったな」
「技術は磨かれてきた」
「お前の言うそれ、毎回負けてる側には褒め言葉に聞こえないんだよ……」
ぼやくバルダーを横目に、ブリシンガーは静かに視線をシスティーンの方へ向け、ゆっくりと彼女の方へと歩み寄った。
システィーンは、何も言わずにまっすぐ彼を見据え、彼が話し出すのを待っていた。
そしてブリシンガーは口を開いた。
「言うべきか、ずっと悩んでいた」
システィーンの表情がわずかに変わる。
彼は彼女を正面から見据えたまま、言葉を続けた。
「お前の中には……膨大な“核”のような魔力が眠っている」
「……っ」
その一言に、システィーンは息を呑んだ。
「魔力…?」
「村の者には、おそらく一生気づかれない。だが俺は長く生きてきた分、見えるものがある」
「……でも、私……そんなの、全然……」
システィーンは本当にまったくの無自覚だった。
自分が特別だと思ったこともない。むしろ、どこにでもいる村娘の一人だと、ずっとそう思っていた。
「数千年に一度、現れるかどうかの才だ。村を去る前に、どうしても伝えておきたかった」
彼の声は、いつになく慎重で優しかった。
システィーンの中に強烈な好奇心が芽生える。自分の中に、そんな力があったという事実。
知らなければ、今まで通りの人生だった。
でも、知ってしまった。
(……もっと知りたい)
彼らの強さを、その重さを、目の当たりにした。胸の奥から絞り出すように、ゆっくりと言葉を紡いだ。
「だとしたら……私にも、その……魔法を教えてもらえませんか」
ブリシンガーの眉が、わずかに動いた。
「それを聞いたら、私、知りたいんです。もし……その力が、本当に私の中にあるのなら、見つけたい。だから—」
強い言葉ではなかった。けれどその目は、どこまでも真剣だった。
「……お願いします」
沈黙が落ちた。やがて、ブリシンガーは、静かに言った。
「村で人助けとして使える、正しい魔法を教えるぐらいならいいだろう」
確かな答えだった。そのやり取りを、少し離れた場所から見ていたバルダーが、ふぅっと息をついて近づいてきた。
「俺がちょっと水飲んでる間に、なんだこの流れは」
彼は笑っていた。あきれたような、でもどこか優しげな笑みだった。
「まさか、システィーンまで訓練に参加とはな。急に本格的になってきたな。でも俺、最初は“剣を振れ”って言われただけだったぞ?システィーンには“教える”って言ったな、今。えらい差だな」
ブリシンガーは淡々とした声で言った。
「お前には戦い方を教えている。彼女には、“向き合い方”だ」
その言葉に、バルダーは一瞬だけ目を細め、ふっと笑って言った。
「そうか。では俺は先輩面でもしとくか」
それは、軽口ではあったが、どこか、訓練仲間が増えることを素直に喜んでいるようにも聞こえた。
「まずは、全ての基礎となる呼吸だ」
ブリシンガーは、地面に静かに腰を下ろしながら言った。
「魔力は筋力や技とは違う。外から加えるものではなく、内から滲み出るもの。それを制御するには、まず己の内に意識を向ける必要がある」
その言葉に従って、立っていたシスティーンもそっと座る。
「目を閉じろ。……深く吸って、ゆっくり吐く。酸素を全身に巡らせるように意識するんだ」
彼に言われたとおり、システィーンは目を閉じ、呼吸を整えようとする。
だが―
(……苦しい……うまく、吸えない……)
胸の奥で、硬い石が詰まっているようだった。焦れば焦るほど、呼吸は浅く、細くなる。
何度やっても、胸が苦しくなるばかりで、逆に呼吸が浅くなってしまう。
普段何気なく行っている呼吸だが、いざ意識して行おうとすると全身に力が入ってしまい、身体がこわばる。
「……すみません。中々、うまくできません……」
焦りが口に出る。そんな彼女に、ブリシンガーは短く言った。
「焦るな。初めてで出来るものではない」
「でも、こんなことでつまずいてたら—」
「これは“こんなこと”ではない」
彼の声が、はっきりとした強さを持った。
「呼吸は、基礎中の基礎だ。軽く見れば、それに応える魔力もまた浅くなる」
その言葉に、離れた木の根に座っていたバルダーが声をかけてきた。
「俺も最初、同じだった。呼吸と聞いて何だと思ってたら全然できなかった。でも不思議と、できた瞬間は……身体の中で何かが“開いた”って感じがした。焦らずにやればいい」
その何気ない言葉が、妙に安心をくれた。システィーンは目を閉じたまま、再び深く、ゆっくりと呼吸を始めていた。
(……吸って、吐いて……)
より深く、自身がまるで周囲の環境と同調しているかのように、潜在意識を自然の流れに任せる。
最初の頃よりも、明らかに身体が緩んでいる。肩の力も抜け、息の流れが静かに、穏やかに身体の中を通っていく。
(……不思議。さっきより、呼吸が深くなってる)
それはほんの些細な変化だった。でも確かに、身体の内側に静かな水面のような感覚が広がっていく。
心のざわめきが、少しずつ落ち着いていく。
そして—
(……なにか……感じる)
説明のつかない気配だった。胸の奥。
もっと深く、言葉にならないほど深くに、澄んだ水面の底で、小さな光がわずかに波紋を作るような—
それが自分の魔力なのだと、直感で分かった。
「……今、少し……」
目を開けながら呟いたシスティーンに、ブリシンガーが静かに頷いた。
「感じたか」
「はい……ほんの少しですけど……」
彼女の頬には、ささやかな達成感が浮かんでいた。
バルダーが声をかけた。
「俺の時より早いぞ……!一歩どころじゃない、五歩くらい進んでるな」
「い、いえ……そんなことは……」
ブリシンガーは、静かに言葉を重ねた。
「謙遜は不要だ。感じ取るということは、もう第一段階を超えたということだ」
その言葉は、温かい鎖のように彼女の心をしっかりと支えた。
システィーンはまっすぐブリシンガーを見つめた。
「ありがとうございます……!」
微笑みそうで、けれど微笑まない彼の表情。その静かな誇りに満ちた眼差しが、初めて魔力を感じた彼女の胸の奥にそっと火を灯した。




