第11話「英雄の名」
システィーンは、胸の奥で何度も言葉を反芻していた。
助けられたことへの礼を。自分が尾行していたことの謝罪を。
そして、何よりあの名前を、確かめることを。
今、言わなければ何も始まらない。震える声を、無理にでも押し出すように彼女は言った。
「……あの……!」
歩き出そうとしていたブリシンガーの動きが止まる。
ゆっくりと彼が振り返る。その瞳が、また彼女を捉える。やわらかな光の中で、システィーンは恐る恐る言葉を続けた。
「……その……名前を……教えてくれませんか……?」
間があった。
そして、彼は答えた。
「……ブリシンガー・ヴァルディアだ」
空気が変わった。彼女の心に走ったのは驚愕ではない。確信と、感動と、そして歓喜が入り混じった熱だった。
(やっぱり……)
彼女の鼓動が強く脈打っていた。
「……あの……その名前……昔、神話で読みました」
ブリシンガーは、その言葉に反応を示さなかった。ただ、静かに彼女の言葉を待っていた。
「銀の髪を持つ戦士。永劫の戦を生きる者。光を纏い、世界を渡り歩いた人—」
震える声で彼女は続ける。
「……あれは、ただの物語じゃなかったんですか……?」
彼は再び前を向く。そして、何かを振り返るような静けさの中で低く、ゆっくりと答えた。
「……物語は、いつも誰かが語り継いだものだ。その語り手が真実を知っていたかどうかは、俺にはわからない」
それは、肯定とも否定ともとれない答えだった。けれど、システィーンには、それで十分だった。その声が、本物だったから。その姿が、物語の彼そのものだったから。
そして何より、彼の目が、戦火の向こうを見てきた静寂の瞳だったから。
一方、ブリシンガーも、改めて彼女の秘めたる魔力量に内心驚愕をしていた。
(なんという魔力だ)
間近に彼女がいることでより鮮明に感じる、重く、無尽蔵にも見える強大な魔力。
もし、このような力を持つ者が彼らの仲間に加わったら―
一瞬、旅に彼女を勧誘する考えが脳裏を過った。
いや、ありえない。
ファルデンは平和な村だ、この女も生まれて一回も戦いというものを見たことがない。このような純白な女性を、暗く、危険な旅に同行させる訳にはいかない。
ここは魔物が出現する可能性のある地域、ブリシンガーとバルダーはシスティーンの護衛も兼ねて、一緒に村へ戻ることにした。
三人は、村へと続く細道を並んで歩いていた。
前を歩くブリシンガー。その隣を少し遅れて歩くシスティーン。そして最後尾で肩に剣を担いでいるバルダー。
しばらく、誰も口を開かなかった。
(あの人が……本当に、伝説の……)
憧れだった。何度も繰り返し読んだ神話。読み進めるたびに心を奪われた、遠い世界の物語。そして今、自分のすぐ前を、その人物が歩いている。
(信じられない……でも、本当だったんだ……)
その背中は、静かで、凛としていて、どこか儚げだった。そして—なにより、美しかった。言葉にできない何かが、彼の全てに宿っていた。
ふと、後ろを歩くバルダーに視線が向く。自分よりも少し若いはずの彼もまた、幾多もの闘いを越えてきた目をしている。
気がつくと、言葉が口をついていた。
「……その……お二人は、どういう関係なんですか?」
バルダーが肩をすくめて答える。
「旅の同行者、ってとこだ。気づいたら、こいつに付いて行ったんだ」
「俺が誘った時に、お前がしがみついてきたんだろう」
「”しがみついて”はいなかったな」
軽口を交わしながらも、どこか慣れた空気が流れていた。それはまるで、言葉少ななふたりが育んできた無言の信頼のようだった。
システィーンは、もう一つどうしても聞かなければならないことを思い出した。
「あ、あの……もう一つだけ……聞いてもいいですか……?私……その……さっきまで……」
ブリシンガーが静かに振り返る。
「尾行していたこと、か?」
「――っ!」
思わず変な声が喉に詰まった。顔が一気に熱くなる。
「き、気づいて……っ!?い、いつから……!?」
代わりにバルダーが答える。
「最初からだよ。宿から出た時点で分かってた」
「そ、そんな……!」
恥ずかしさで足がもつれそうになるシスティーン。だがブリシンガーはその反応を責めるでもなく、落ち着いた声で続けた。
「邪気のない気配だった。……ただ、危なっかしい、という印象はあったが」
「…………」
バルダーが付け足す。
「悪い気配なら対峙してる。だが放っといたら森で魔物に出くわすと思っていた。案の定だったけどな」
「うぅ……!」
システィーンは顔を覆った。恥ずかしさで死にそうだ。ブリシンガーは、そんな彼女を見て静かに語る。
「無事でよかった」
その一言が、システィーンの胸をまた強く打った。
「……不思議ですね。全然違うお二人なのに、一緒にいるのがとても自然に見えます」
「そう見えるなら、俺も少しは成長したのかもな」
バルダーが短く答える。ブリシンガーは何も言わなかったが、ほんのわずかに口元が緩んだように見えた。
システィーンは、自分の胸に芽生えた強烈な感情を、静かに受け止めていた。
憧れ。
最早、ただの好奇心や尊敬ではない。もっと深く、もっと根源的な想い。彼の背中を見ながら、彼女はそっと胸に手を当てた。
まだその感情に名前をつけることはできなかった。けれど、それは確かに、これまでの人生で一度も抱いたことのない、特別なものだった。
ファルデンの村へと戻ってくると、朝の空気はすでに少しずつ動き出していた。
広場へ近づくにつれて、どこか慌ただしい空気が漂っていることに、システィーンは気がついた。
「あ……」
神殿の前や、畑の道端、家々の前には何人もの村人たちが集まり、顔を見合わせていた。
彼女に気づいた母親と村人たちが駆け寄ってくる。
「システィーン!どこ行ってたんだい!朝から行方不明になって、みんなで探してたんだよ!」
システィーンは驚いた表情のまま、母にぎゅっと抱きしめられた。
「……ごめんなさい、お母さん。このお二人の、森での訓練をどうしても見たかった……でも、私は大丈夫だよ」
それだけでは収まりきらない空気を察して、彼女は一歩前に出て言った。
「そこで、魔物に襲われそうになって……でも、この人たちに助けてもらったんだ」
そう言って後ろを振り返る。村人たちの視線が、ブリシンガーとバルダーに集まる。
「……魔物が……?助けてくださったのか?」
ざわめきが広がる中で、ブリシンガーは何も言わなかった。ただ、静かに一礼をしただけだった。
バルダーが肩をすくめる。
「当然のことをしただけだ」
それを見て、村人たちの空気が変わっていった。口々に礼を言い始める村人たち。その様子に、システィーンの母も、涙ぐみながら頭を下げた。
「ありがとうございます。本当に……」
「礼は不要だ」と、ブリシンガーは短く返した。その声は冷たくはなく、静かで穏やかだった。
助けられた娘と共に村へ戻ったブリシンガーとバルダーを、ファルデンの人々は温かく、けれどやや過剰なくらいの歓迎で迎えた。それだけシスティーンは村にとって宝物だったのだ。
「おい、兄ちゃんたち!」
宿の主が、大きな声を上げて出てくる。恰幅のいい中年の男で、普段は寡黙な方だが、今は声も顔も熱を帯びていた。
「二人とも、今日は宿代なんていらん!いや、今日どころか、数日はいい!」
「……いや、だが—」
「嬢ちゃんを助けたって聞いたぞ。俺はもう十年以上この宿やってるがな、命を救ってくれた奴に金なんか取れん!俺も悩める時はあの子には世話になったんだ。……だからこれは、村全体の気持ちだ!」
バルダーがぽかんとし、ブリシンガーは少しだけ眉を動かした。そこへ、さらに市場の商人が手に大きな布包みを抱えてやってきた。
「これ、旅の方には重宝するだろう。干し肉と保存食、それから薬草と……まぁ、他にも色々だ!」
「うちの娘が縫ったマントも……こんな時でないと渡せんと思ってな!」
もはや感謝というより、押し付けのような勢いで、村人たちが次々に物を持ってくる。バルダーとブリシンガーの手に荷物が大量に積み重なる。
「なあ、ブリシンガー……これ、逆に困るやつじゃないか?」
「……断る理由もない」
その様子を、少し離れたところからシスティーンの両親が見ていた。母は、胸に手を当てたまま、娘の無事に安堵しきった表情で微笑んでいる。父は、少し照れたような、けれどどこか誇らしげな顔でふたりに近づいてきた。
「娘を助けてくれて、本当にありがとうございました」
言葉は短かったが、その声には深い感謝が込められていた。
母も、にこやかに続ける。
「この子、小さい頃からずっと冒険者や英雄のお話が好きでね……寝ても覚めても本を読んでましたよ。神話や伝説ばっかり読んで、夢ばかり見てるような子で……」
「そんな子が、あなた方のような旅人に出会えて……助けてもらえて……きっと、嬉しかったと思います」
システィーンは恥ずかしそうに顔を伏せる。
父がにやりと笑う。
「……まぁ、あの様子見りゃわかりますがな。この村じゃ、あなた方はもう“英雄”ですよ」
ブリシンガーは何も言わず、視線をほんのわずか下げた。けれどその目の奥に、ごくごく淡い、しかし確かな喜びの色が浮かんでいた。
その姿は、確かに英雄だった。




