揺らぐ現状維持政策
尖閣諸島周辺では、ほぼ毎日のように中国公船が接続水域を通過し、月1回以上は領海に侵入する。
警備する海保の巡視船は、その都度無線で警告する。
「貴船は我が国の領海に侵入しています。直ちに退去して下さい」
すると、中国側から同じように海保へ退去を促す連絡が入る。
「魚釣島および周辺の島は中国固有の領土であり・・・」
しばらくして中国公船は立ち去り、海保も所定の警備海域に戻る。この奇妙な繰り返しから、双方とも一歩も引けない状況にある。
国際法上、単なる通行目的であれば、軍艦でさえ相手国の領海を通過できる。中国公船の場合、日本の実効支配を揺るがす目的であり、いわゆる「無害通航」とはいえない。従って海保は少なくとも退去要求をできるわけだが、それ以上の行為に出ることはない。相手が「うろつく」程度であれば、武力行使するに及ばず、下手に緊張を高める必要もない。
しかし「無害通航」の場合でも潜水艦となると話は別だ。潜水艦は浮上したまま、国旗を掲揚しなくてはならない。相手国の領海で潜航すること自体、「無害」と見なされないからだ。
与那国島から北上していた大型巡視船「あさづき」は、台湾の漁船とともに北東に向う二隻の小型交通船を認めた。周辺は日台漁業協定で取り決められた共同水域であり、漁船の操業には何ら問題ない。
「台湾船籍です。測量船のようにも見えます」
大型双眼鏡を覗く、当直の見張り員が報告した。尖閣諸島の接続水域に入っているが、中国船籍でなく特に問題視されなかった。
巡視船はいつもより穏やかな東シナ海を航行し、中国公船の姿も見えない。しかし乗組員たちの平穏な船務は、通信長の報告で一変した。
「海自からの情報です。水中聴音網が潜水艦らしき反応を探知・・・領海へ侵入したと思われます」
船長はその位置を確認し、命じた。
「直ちに急行する。付近の巡視船は?」
「既に五隻が向かっています」
潜航する潜水艦に対抗手段はないが、国際法に従うなら潜水艦は浮上するはずである。その場合、退去するまで警告を続けるしかない。
「近くに海自の船は?」
「護衛艦が一隻向かっています」
巡視船は海中捜索用のソナーを装備しているが、潜水艦の探知はできない。最近の潜水艦は静粛性に優れ、ソナーの音波を吸収する特殊な加工が施されている。
護衛艦の尖閣諸島への接近は、日中の現状維持を守る暗黙のルールを崩すことになりかねない。しかし先に侵入したのは潜水艦という、れっきとした「軍艦」であり、相手に合わせた相応の対応にすぎない。
護衛艦「しらぬい」は問題の海域に到着したが、巡視船とは離れた距離で停止した。六隻の巡視船は、当初探知された海域を取り囲むように展開している。
護衛艦は別の潜水艦を捕捉していた。搭載ヘリコプターが潜水艦探知用のソノブイを投下し、位置の特定を試みる。潜水艦は悟られまいと息をひそめ、速度を抑えることになる。
潜水艦に密かに接近する物体があった。護衛艦から放たれたAUVは訓練通りの進入角度で、後方から潜水艦を追っている。訓練との違いは、AUVが回収されないことだ。
「しらぬい」の艦橋は緊張感に包まれている。AUVは潜水艦に気付かれてはならなかった。これは「グランドゼロ」の開始に欠かせない極秘作戦であり、海保でさえ知らされていない。
SH-60Kヘリコプターは、ついでのように巡視船上空へ向かい、包囲の輪の中央へソノブイを投下した。
「もう一隻の探知は期待できないな・・・とっくに移動しているだろう」
艦長には目の前の獲物しか関心がなかった。むしろ海保がこちらの動きに関心をもたれることが厄介だと思っていた。
「巡視船が一隻、接近してきます」
その巡視船は魚釣島へ向きを変えた。海保の交信内容から、小型船舶が魚釣島へ接岸していることが分かった。
「どさくさに紛れて何者かが上陸したらしい」
艦長はむしろ好都合だと思った。これで海保は忙しくなる。真下にいる潜水艦を逃さぬよう、全神経を集中できる・・・
尖閣諸島、魚釣島の最高峰は奈良原岳と呼ばれる山で標高362メートルある。その山頂へ「五星紅旗」と呼ばれる中華人民共和国の国旗が掲揚された。
山頂から突き出した岩場にポールを立て、ワイヤーと杭で倒れないよう固定されている。
登頂するだけでも2時間はかかる。巨大な国旗を掲げるとなると、それなりの技量と装備が必要だ。王克印は工作資金の大半を、この作業チームの招集に投じ、彼らは見事にやり遂げた。
海上保安庁の航空機は、上空からその作業の一部始終を撮影していた。不法侵入の証拠として公開された映像は、中国の世論を沸き上がらせる結果となった。
「中国台湾の同胞は、統一中国の領土を守る偉業を成し遂げた・・・」
政府系メディアのはしゃぎぶりと違い、中国政府はそのことには触れず、海自の動きに厳重に抗議した。
「即刻、軍艦の退去を要求する。日本側の行動は、いたずらに緊張を高める挑発行為であり、我々も対抗措置をとらざるを得ない」
日本政府は真っ向から反論した。
「潜水艦は潜航したまま領海へ侵入した。先に軍艦を投入したのは中国側であり、我々は相応の措置をとった。緊張を高めているのは中国側である」
「その海域に我々の潜水艦は存在しない。根拠のないでっち上げである」
それは表面上の応酬にすぎず、既に水面下の駆け引きが始まっていた。日本政府は公表しなかったが、アメリカのメディアが暴露した。
「領海侵入の中国の潜水艦は、潜航したまま航行不能の状況に陥っている・・・」