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深海魚のリスト  作者: おわん


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深海魚のリスト


【主な登場人物】

主人公:寛人ひろと 通称ピーくん 

主人公の嫁:見知明みちあ 通称みっちー(通称みみっちぃーではない)


【*後編*】



「星のかがやきよ ずっと僕らを照らして 失くしたくない少年の日の夢よ~」(ZARD「星のかがやきよ」より引用)

そう歌った後に、嫁が盛大な溜息をつく。

「どうしたの?」

そう聞いてみると、

「昔の夢は、ずっとセーラームーンになることだったのに、そんな夢を無くして大人になっちまったなと思って。汚れちまった悲しみよ」

そう言って落ち込んでいる。

「もはや周りの幼稚園生が、七夕でお花屋さんになりたいとかケーキ屋さんになりたいとか書いている中で、ずっとセーラームーンになりたいと書き続けていたのに……。いろんな服を買ってもらったのに、二枚だけ持っていたセーラームーンの服ばっか着まわしていたのに。毎晩腹巻までセーラームーンだったのに。あああ~」

言葉にならない音を発している。詳しくなかったのでセーラームーンとネットで検索すると、セーラームーンのミュージカルというものも出てきて、北川景子が昔そのミュージカルに出ていたとも書かれていた。

「北川景子じゃなきゃ無理じゃない?」

そう言うと、ギロリと睨まれた。

「別にミュージカルに出たいわけじゃないもん。セーラームーンになりたかっただけだもん」

とんがらせた口でそう言う。ミュージカルまで知っているんだな。昔の夢を思い出してしまったことによる落ち込みが、体の外にまで滲み出ていた。仕方ないなぁ。

 後日ハロウィンの日に、俺はタキシード姿で帰宅した。

「おおお!」

驚く嫁が、犬のように俺の周りをぐるぐると回る。

「タキシード仮面は、別の特に好きってわけでもないんだけど」

そう言いながらも、嬉しそうな目で嘗め回すようにじろじろと見ながら周りを回っている。

「はい」

そう言って包まれた袋と一輪のバラを渡すと、それを開封した嫁が発狂していた。嫁もそれに着替えて、一緒に写真を撮った。ノリで口にバラを加えてみたら、すごく痛かった。

 嫁は結婚する時に、私は人から見られることが好きではないから、結婚式はしたくない。と言って結婚式を挙げず、ドレスを着るのも疲れるだけだし着たくない。と言って結婚記念の写真すら取りに行かなかった。そんな嫁が、結婚写真を撮りたくなった。とノリノリに言い始めたので、その日に写真館を予約して、週末に写真を撮りに行くことにした。

「お客様、ご結婚のお写真でお洋服を持ち込みと伺っていましたが、こちらでよろしいでしょうか……」

一生懸命気を使いつつも、少しひきつっているような笑顔を保っているスタッフの方の表情などは一切気にも留めずに、

「はい!」

こう元気よく返事をした嫁は、満面の笑みで額縁の中に納まった。

 こうして、俺と嫁の結婚記念のセーラームーン&タキシード仮面風写真が、無事撮影された。もはや、何の写真かわからない。子どもができて説明することになったらなんと説明すればいいのだろうか……。



「俺の正義はみなのもの〜。俺の正義はみなのもの〜」

意味不明なフレーズを口ずさみながら、今日も嫁は平和に生きている。

 突然嫁が、自分自身の両腕をまっすぐに伸ばしてクロスさせたかと思うと、クロスさせたまま一人で恋人繋ぎっぽく手を握り、肘を折ってぐるんと自分自身の方向に一回転させながら上に上げた後に、繋ぎっぱなしの手の中を少し丸めて覗き込んだ。

「え?なにやってんの?」

そう聞くと、

「何か見えるかなと思って」

そう言いながら、左目をつぶって右目で覗いている。一応説明しておくが、ここは屋内である。外の星が見えるとかではない。

「何が見えるの?」

「ん〜」

そう言いながら、複雑そうな顔をする。

「カラス」

え? 聞き間違えたかと思って

「カラス?」

と聞き返すと、

「カラスのような君の心の色が、はっきりと見えます」

そう言ってヘッーヘッヘッと悪魔のように笑った。

 そんな風に言われて黙っている俺じゃない。いつもの嫁みたいに、ホラーの音程を真似しながら

「きっと来ない。きみのおやつ」

と俺が言ったら、ガーンという顔をした後に、

「もうぅ〜。君がせかすように質問してくるからカラスとか言っちゃったけど、ほんとはカラクレナイニって言おうとしてたんだよぉぉ」

当たり前でしょ、と言いたげな声で言ってきた。

「ていうか、カラクレナイニってなんだよ」

と言ってみたら、

「ほらーー地獄にそっくりな色」

と言い終えるやいなや、ハッとした目をして、

「えっとあーーーー」

帰り道を忘れてしまった自動掃除機のように唸りながら、絞り出した声で、

「ほらあれ。今めっちゃ噛んじゃったけど、ちこくじゃなくて、四国ね。四国色」

あたかも最初からちこくと言いましたよ? という雰囲気を出しながら言ってきたので、仕方なく、

「四国色ってどんな色?」

と聞いてみたら、

「それはもうコバルトブルーで透き通ってて美しくて」

と話しながら、そろそろとキッチンへと歩み寄り冷蔵庫を開けたかと思うと、おやつのティラミスを二つがっしりと手に持ち、

「美しい四国色ですっ」

そう言って自分の部屋へと駆け込んだ。甘いな。あいつはスプーンを忘れている。そう思って高みの見物でもとゆったり歩いて部屋へと向かったところ、覗いた先に見えたのは手乗りティラミスをした嫁だった。まじか。そして俺の顔をチラッと見ると急いで掻き込んで、少しむせていた。まぁ、一つはあげるか。そう思って机を見ると、空の容器が、ぽつねんと二つあった。呆然としながら、その時負けたのは俺だったことに気づく。くそっ。あいつ、俺の分まで食べやがった。わざわざ有名店まで行って買ったものなのに。ほんと許すまじ。

 翌日、会社から帰ってきて家のドアを開ける時に、昨日のティラミス事件を思い出してちょっともやもやした気持ちになった。それでもドアを開けてただいまと言うと、嫁が玄関まで出迎えに来た。嫁は、ほら見てくださいと言わんばかりに右手に白い箱を持ち、左の手全体でそれを指している。リビングでその箱を開けると、俺が食べ損ねたティラミスが四つ入っていた。

「二つあげる」

ニッと笑って、満足げに言っていたので、

「いや、そこはごめんだろ」

とツッコミながらも、もう仕方ないなぁ。と許すことになった。本当に美味しいティラミスで、(実はお口に合わないのでは? 私の胃袋はいつでも開いていますよ? )という期待の目で見てくる嫁の思惑とは裏腹に、ぺろっと食べ切ってしまった。ちらっと残りのティラミスに視線を向けると、視線を感じた嫁はそれらを自分の両腕で隠すようにしてから、どこかに持って行ってしまった。以前、温泉まんじゅうを、私のと言い張ってどこかに持っていき、かなり経った後に机の中を開けたら、カビ饅頭がいたことがあった。なので、今回はどうかドングリを埋めるリスパターンにならないようにしてくれ。そう思っていたら、名前を書いて冷蔵庫にしまっていたので安心した。俺も大事なものには名前を書こう。まぁ、意味があるかはわからんが。



 どうやら嫁は、以前の旅行で買ったお気に入りのキーホルダーを無くしてしまったらしい。めずらしくクヨクヨしていて、

「私の厄を落としてくれたらしいことはわかるけど、でも……」

とよくわからないことをぶつぶつと言っている。最終的に、くよくよしている自分に、

「男だろ!」

と言い聞かせていて、なんかスッキリしたようだったが、嫁は女である。まあ、それで気持ちが和らぐならそれでいいが。

 いや、女だけどな? とツッコむか迷ったが、謎の男気(女気? )を発揮したことで丁度気持ちを切り替えた時に余計なチャチャを入れて、火の粉がこちらに降り注いでも嫌なので、俺は空気でいることに努めた。



 今日は珍しく、替え歌をせずにスピッツの曲を連続フルで歌い出したかと思ったら、ノリノリで何曲か歌った後に、

「楽しんでるかーっ? イエェェェーーーッ」

と自分に言って、自分で叫んで答えていた。本気の声量で言っている。その後に、

「ああ、なるほど。ライブって、全力で本気で盛り上がっても変だと思われなくて、むしろそれが良いことで、その感じが生演奏に加えて人気の秘訣なのかもな」

とか言いながら、また

「イエェェェーーーッ」

と一人で本気で言っていた。

 この時は、外では普通の人に化けるのが上手いやばい人と結婚してしまったな、程度にしか思っていなかった。でも実は本当にやばい人と結婚してしまったのかもしれないと気づいたのは、それからずっと後のことだった。



「アニメが好きは、いい女〜。アニメが好きは、いい女〜」

今日も嫁は、元気に謎のフレーズを口ずさんでいる。そのフレーズは、完全に自分の趣味を肯定するために作り出したフレーズにしか思えない。

「アニメばっか見てても、いい女度は上がらないでしょ」

そうツッコむと、

「いやいや。なにをおっしゃるお兄さん。役に立ちまくりですよ。ほら、たとえばコナそくんとか。推理する力が身につけば、見えたものを読み解けるでしょ」



「ぶどう、ぶどうぶどう〜、ぶどうを食べると〜、こころこころこころ〜、こころがよくなる〜」

ぶどう一粒を食べる前に高らかに掲げて、嬉しそうに小刻みな謎の左右ステップを踏みながら歌っている。

「食べてそれなの?」

そう言うと嫁がむすっとして黙り込んだ。でも、その後にいいことを思いついたように目を輝かせて、

「そう。ぶどう足りてないんだよ。高級だからってほとんど買ってくれないもんね。もっと良くなって欲しいよね? ねっ? ほら、家に天使召喚したくない?」

「誰が天使だ。君が天使になるのは千年早い。いや1億年かも」

とか言いながらも、しまった……。俺としたことが墓穴掘ってしまった……と思っていた。

 ぶどうがちょこちょこと大切に消費され切った翌日、俺は仕事後に、普段は無い手提げを持って家へと帰宅した。つややかなその丸い紫色は、冷蔵庫へ、はたまた嫁の胃袋へと吸い込まれていった。こうして俺の残業代は、ぶどうへと錬金術されていった。

 翌日から、ぶどう在宅期間だけは、俺が家に帰ると嫁が正座をして出迎えるようになった。

「おかえりなさいませ、若様」

そう言って頭を下げるのだが、なぜ若様なのだ。とりあえず若い感じを出しておけばいいだろうというものでもないだろう。俺の趣味はもっとこう……(以下略)。



「ジャンプしてみて。高くジャンプしてみてよ。そこでジャンプしてみて。早くジャンプしてみて~よ~♪ちょっとそこのニーチャン。ジャンプしてオニーチャン」(宮野真守「ジャンプしてみて」より引用)

そう嫁が歌いながら、ぐるぐると俺の周りを回ってダル絡みしてくる。無視するとまた面倒なので、適当にちょっとだけジャンプしてみた。そうしたら、フッと笑みを浮かべた嫁が、屈伸するのかというくらいしゃがんだ後に、思いっきり上へと飛び跳ねた。

「嫁子選手! ちょっとそこのにーちゃんに勝って、なんとっっ、優勝ぉぉぉ! それでは、嫁子選手にインタビューをしましょう。いかがですか」

嫁はそう自分で言った後に、伸ばした指で目だけを隠しながら、ヘリウムガスを吸ったみたいな異様に高い声で、嬉しそうにこう言った。

「えーー、最高ッス」

なんで優勝インタビューで、モザイクなんだよ。



「じごくっきんぐ」

嫁がボソッとそう言ったので、

「なに?」

と聞いてみた。

「料理するのが面倒すぎて地獄クッキングで、略してじごくっきんぐって言ってみた。食べる専門なら天国専門なのにな。なんでこう、料理って驚くほど面倒なんだろう」

そう言った嫁に

「自分ですごく稼いだら、食べる天国専門になれるかもよ?」

と言ったら、

「月収10万以下だけど〜君にジュースを買ってあげる〜♪」「食事は君が払いなよ。僕がジュースを買ってあげる〜」(グループ魂「君にジュースを買ってあげる」より引用)

と嫁が歌ってきたので、

「まぁ天国を選ぶか地獄を選ぶかは、君の手に委ねられている」

とふっと笑みを浮かべながら俺が言ったら、じごくっきんぐとは比べものにはならない地獄激務を思い出したのか、嫁は若干身震いした後に、

「いやーじごくっきんぐとか、気のせいだったわ。さー。レッツゴー。てんごくっきんぐ。てんごくっきんぐ」

そう言って目を泳がせて、そそくさとキッチンへと向かった。

「できたよーー!」

そこには納豆卵かけご飯、ウィス海苔が置いてあったので、ほんとにてんごくっきんぐしやがったなと思いつつ、まぁこんな日があってもいっかと思ってしまうのであった。せめてお味噌汁は欲しいけどな。



「あのね、私が有名になったら、こういうふうに登場したいんだ」

休日に嫁が突然そう話し始めたと思いきや、すごく激しく足をクロスさせながらヘドバンのようにめっちゃ頭を上下させてモデルウォークをし始めて、それから息絶え絶えに、

「はっ……早くインタビューしてっ……」

と言ってきた。とりあえず、

「いやー。斬新な登場にびっくりしました」

って言ったら、

「そこはあざといですねって言ってよ」

と言われた。意味が分からないが、仕方がないので

「あざといですね」

と言い直したら、

「すみません、もう喋れないくらい疲れたので帰ります」

そう息絶え絶えに言って、帰っていった。

 ていうか、なんであざといと言われたいんだ? と疑問に思ったので、とりあえず

「かわいい」

と言ってみたところ、今にも舌打ちしそうな顔で睨んでくる。

「あざとい」

と言ってみると、ニヤッと嬉しそうにしている。

「かわいい」

キッ。

「あざとい」

ニヤッ。

 なんでかわいいは嫌で、あざといは嬉しいんだよ。嫁の感性謎すぎる。じゃぁ、かわいいじゃなくて、何か別の言葉でも言ってみるか。

「わーすごいー。ミッチー天才!」

そう言ってみたら、こう返ってきた。

「いや、私は天使才と呼ばれたいですね」

「天使才ってなんだよ。ていうか、天使じゃなくね? みみっちーはもっとこう……。鬼とか。ほら、鬼才とかの方が! でもそれだとすごい人っぽいよな。違うな。んー、じゃぁきもうな才能と言う意味での奇才でいいんじゃない?」

「きもうってなんなの? キモイとか? 漢字にするとキモく生きるって書くとかじゃないよね?」

「いや、普通に噛んだ。奇妙な才能って言いたかった。奇妙な才能という意味での奇才」

「じゃぁ、天使才ということで」

そう言って、嫁はドヤ顔をした。俺の話なんも聞いてないじゃん。もう、キモうな才能のキ才でいいんじゃない?

 そんなこんなで全く息切れをしなくなり、落ち着き話せるようになった嫁がこう言った。

「でもさ、ずるくない?」

「なにが?」

ちゃんとしたあざとさを表現できる人のことを言っているのだろうかと思ったが、そうではなかった。

「知的に口で面白いことを言う人は、面白いって言われて日常でも受け入れられるのにさ、面白いと思った行動を公共の場でしたら、やばい人認定されそうじゃん」

「まあね。だって、職場で朝からさっきの登場の仕方をして、その直後帰っていく人がいたら怖くない?」

「確かに怖いかも。でも面白い人、職場にも1人くらい欲しいな」

「じゃぁ仕事を失わない程度に、自分でやれば?」

「いや、私、人間という仕事を与えられているので。それに、多分職場って真面目そうにしないといけないのは、多分面白いことを考えるのに脳のリソースを一切割かずに、効率的に仕事のことだけに頭使えよっていう、仕事を与える側の人間の思惑があるからだと思うんだよ」

なんてぶつぶつ言いながら、

「人間という仕事を与えられてどれくらいだ」(BUMP OF CHICKEN「ギルド」より引用)

とバンプの曲を歌い出していた。しかし、途中から繰り返し同じ歌を歌うことに飽きたのか、気づけばグローリアスレボリューションという、昔から一番好きだったと嫁が豪語しているバンプの曲にすり替わっていた。

「実は飛べるんだ~その気になればそりゃもう遠くへ! 放り投げるんだ~その、外したばっかりの~エラい頑丈~に作っちま~った自前の、手錠を、さ」「グローリアスレボリューション、オイェ~。なんだコレ オレにもついてるじゃねぇか、エラく頑丈な~自前の手錠がさ、グローリアスレボリューション、オイェ~。まいったなコレとれねぇしよ、カギも多分、失くしちゃった……」(BUMP OF CHICKEN「グロリアスレボリューション」より引用)



「こんな子に産んだ覚えはないわっ」

言い合いになったときに、嫁が大げさにそう言ってきたので、

「君は俺を産んでないから、覚えてないのは正常だよ」

と返すと、

「そんなへ理屈いう子に育てた覚えはないわ」

と言ってきたので、

「君は俺を育ててもいないから、その記憶も正常だよ」

と言ったら、反論されているのか、正常だと肯定されているのかわからなくなったようで、

「ちょっとよくわからない……」

そう言ってフリーズしたパソコンのように一度黙った後で、

「今こそルートシックスティーンの出番だ」

とカメハメハを起こす前のような、謎のポーズと共に言ってきた。

「なに? ルート16って?」

「なにかわからないけど、今ふと思いついて、なんかかっこいいから言ってみた」

そう言って嫁はショートし、嫁の脳が食らいつくしたのであろう糖分を補充しにキッチンへと消えて行った。



 この日はいつもにも増して寒い朝だった。隣で起きた嫁が、

「寒っ」

とつぶやいた後に、

「凍えるようなアバンチュール~」

と歌い出したので、

「どんなだよ」

と言ったら、首をかしげて、

「さぁ」

と興味なさげに言った。時間をかけてようやく目が覚めてきたようで、

「これの元は、俺のすべてっていうスピッツの曲なんだけど、好きすぎて、歌詞が良くわからないまま、中学生の頃にお風呂で大声で熱唱してたんだよね。そしたら母が飛んできて、歌詞の意味が分かるか聞いてきたから、バンチュールは何なのかわからないけど、気に入っているって説明したら、ちょっと不適切かもということで、結局この歌は家で出禁になっちゃったんだよねぇ~。だけど、この曲のノリとか音程とかすごい好きなんだ~」

そう話して、凍えるようなアバンチュールを歌い続けていた。

「俺の前世は たぶんサギ師かまじない師~」(スピッツ「俺のすべて」より引用)

そう歌いながらお風呂場に向かった嫁が、奇声を上げて戻ってきた。

「見て見て!」

そう言って、凍ってまっすぐになったタオルを見せてきた。

「昨日お風呂上りに使って、干しておいたタオルが凍ってた」

「え? すごっ。触りたい」

そう言って固くなってまっすぐになったタオルを握ってみると、ぱりぱりと音がする。確かに昨晩、ここの地域はこの時期異例のマイナス七度との予報があった。マイナス二度以下になる時は、蛇口の水を出しっぱにするようにしているので、冬は毎晩夜中の温度を確認するようにしているのだ。ちなみにうちの家は、時々なぜか外より寒い。寒い日に外に出て、あったかいと思うことがある。そして、冷蔵庫の中の方があったかいことも日常的にある。札幌の気温をたまたま見たときに、うちとそれほど差がない気温で驚いた。北海道の家は、寒くないように断熱がすごいらしいが、うちは残念ながら断熱とは無縁の響きのする家である。

「もういい?」

そう言って、嫁はタオルを我が物としたかと思ったら、勢いよく頭の上で振り回し始めた。

「これテレビで見るやつ」

そう言って、喜びを隠しきれずにジャンプしながら、振り回している。それだけでは飽き足らないのか、徐々に頭も前後に降り始めた。英語の比較級でmoreが付いて、最上級では、the mostと変化するように、その後、タオル振り回しながら謎の反復横跳びも追加で始めた。かと思ったら、滑って転んでいた。でもタオルだけは頭上で回しながら、何が何でも死守していた。

「違うよ。テレビのは、濡らして振り回すと凍る方だよ。今は凍っているタオルを振り回しているから逆だよ」

と言ったが、転んだ苛立ちも含まれているのか、ナニヲイッテイルンデスカ……? と俺の方がおかしい人なのではというちょっと憐れみを含んだ目で見てきたので、説明は諦めた。

「ピーくんもやってみなよ?」

そう悪魔な嫁に勧められて、しぶしぶ振り回したら意外と楽しかった。窓からご近所さんに見られることがあったら、だいぶ危ない光景だろう。



 休日ふらっと散歩をして帰ってきたら、嫁が家のそばで近所の子どもたちと遊んでいた。

「三人そろえば、みつどもえ~」

と嫁が謎な言葉を発している。いや、それは、三人寄れば文殊の知恵だろ。お願いだから、近所の子供たちに嘘を教えないでくれ……。

「そういえばね、昨日お庭を掘り起こしていたら、すごいもの発見しちゃったんだよ」

嫁はそう言って爛々とした目で話している。何だろう? 鑑定団に出せそうなものだろうか?

「ちょっと待ってて」

そう告げて一度庭へ入って、ニヤニヤとして戻ってきた嫁がパッと手を開くと、そこには割れた石があった。途中から俺も子どもたちに混ざって俺も見ていたが、なんだかよくわからなかったので、

「なにこれ?」

と言ってみたら、

「旧石器時代のたまごっち。すごくない?」

そう言って見せびらかしている。よく見てみると、たまごっちより若干一回り小さい気もするが、形やサイズ感、平さはかなりそれに近い。

「でも割っちゃったからもう使えないんだ」

そう言って若干しょげている。やめろ~。子どもたちが信じちゃうじゃないか。

「これを、君たちの今年のクリスマスプレゼントにしてくれるように、サンタさんにお願いしておくよ」

「え~」

もっとかわいいお人形などを持っている子どもたちが、嫌そうにそう言うと、

「あ、トゲピ、トゲピ、トゲピって鳴く鳥が来たよ」

そう言って話をそらした。

「この鳥時々、トゲゲピって鳴くよね~」

自分の蒔いた種が上手く芽吹かないことを悟った嫁は、そう言ってしれっとこの場を切り抜けようとしていた。



 大掃除の季節がやってきた。基本めんどくさがりな嫁と、掃除分担のために家中を回って掃除個所を確認した後に、嫁は

「ヤマのように見える~ヤマのように見える~ヤマのように見える~」(キャプテンストライダム「マウンテン・ア・ゴーゴー・ツー」より引用)

と歌いながら、早くも現実逃避をしそうな勢いでいた。

 家は築三十年以上の物件で、やたら段差が多い。色々な窓がなぜか出窓形式になっており、お風呂も御多分に漏れず出窓だった。マンションだったころはお風呂には窓そのものがなかったので、普段のお風呂掃除の際に出窓部分の掃除をすっかり忘れていた。普段目が悪いので気づかなかったが、今回大掃除で見回っている時に、出窓のところに粉みたいな緑の何かが存在していることに気づいた。

 どこを担当するか話しながらもう一周回った後に、一瞬嫁の目が光ったような気がした。そして、普段はまともにしないお風呂掃除を、なぜか今回は嫁が買って出た。普段ならあり得ないのに、嫁がお風呂掃除を喜んで買って出たことと、嫁の目に宿った怪しい目の光が気になった。なので、何かやらかさないか、念のためこっそり掃除現場を見に行ってみた。

 嫁はすぐには掃除には取り掛からずに、じーっと出窓にある緑色の何かを見つめている。すると、突然こう叫んだ。

「オーイッツジャパニーズ、マッチャ〜!」

初めて抹茶を生で見て、驚き感動している外国人の真似を、ジェスチャー付きで一人でし始めた。最初に大掃除の話が出たときのぐったりとした様子とは打って変わって、ノリノリに楽しんでいる。嫁も日本人なので、流石に抹茶の出来方は知っているだろうとは思った。でも、中学生の時に冷凍食品はそのまま土に埋まっているものを掘り起こしたものだと思っていた、と以前話していたことを思い出し、突然舐め出したら怖いので一応見ていた。そうしたら、ノリノリで楽しんだ後に、ちゃんと拭いて掃除をしていた。

 さて、俺も掃除に戻るかと思ったところで、後ろに目があるのか、後ろを見ていないのに

「壁に耳あり障子にメアリー」

と言ってパッとこちらに振り向いた。

「ねーーメアリー、ちゃんと掃除してよ」

と不満げに言われる。

「はいはい」

とその場を去ったが、背中越しに

「あーー、メアリー。そういえばさーー、抹茶飲みたくない?」

という悪魔の声が聞こえたので、俺は聞こえなかったふりをして二階へと駆け上がった。



「え~どうしよっかな~」

人差し指を自分の頬に突き刺して首をかしげながら、嫁がそう言う。

「指、刺さってますよ。大丈夫ですか?」

「刺さってるんじゃなくて、これはあざといなの。あざといですねって言ってよ」

「何を言っているんですか。というか今喋っている間もまだ取れないんですか?重症じゃないですか。病院に行きますか?頭の」

とふざけて言ってみたら

「おい」

と言われたので、何事もなかったかのように黙った。先ほど指を刺していた頬の箇所がまだへこんでいる。むしろ、えくぼもあばたってやつか。っていうか、言われたがってこだわっているあざといって言葉、そもそも悪口じゃね? と思いつつも、目の前のご飯をしれっと口に運ぶ。今日も白身魚フライが美味しい。



 おかしい……。どうして俺はおかしい嫁に飲まれてしまうんだ……。そう思ってGrokのAIに相談してみた。ひとまず、天然ボケな人は生まれた瞬間から天然ボケなのか、環境によって生じるのか、という予てからの疑問を聞いてみた。すると、両方が絡み合って発生するが、環境の影響はかなりデカい。とAIが教えてくれた。なんでデカだけカタカナなんだ? と気になりつつも、幼少期の環境や周囲の反応が表現の仕方を強く作るとあり、例えば親や周りが天然ボケを可愛がったりすると、その子は素のままの自分でいられる安心感を得て、どんどん変わり者度が加速すると書かれていた。逆に普通になれと言われる環境だと、抑え込むようになるらしい。心理学の一卵性双生児の双子研究でも、同じ遺伝子でも育った環境が違うと、性格の「変わり者度」が結構変わることがわかっている。とも教えてくれた。変わり者度研究ってどんなだよと思いながらも、なるほどな、と思った。

 ただ、その後に、遺伝子の影響は意外と強い。とあって、驚いてしまった。嫁の両親は、とても優しくて賢くて、そして器用だ。どう考えても、変わり者遺伝子が義父母に流れているとは思えない……。でもAIによれば、開放性・外向性・神経質傾向などは、40~60%くらい遺伝が関わっているとあった。そして、

「つまり生まれつき『情報処理の仕方がちょっとズレている』人っているんだよね」

とあっけらかんと書かれていた。脳の報酬系や注意力の配分が平均と違うと、自然と天然ボケっぽい反応が出てしまうらしい。

「赤ちゃんの頃から、なんかこの子普通と違うなと分かる子っているじゃん。あれは環境が整う前からすでに『素質』として出ている証拠」

なんだ素質って。確かに、前に嫁が、私は生まれたとき看護師さんに、この子は普通と違うのですごい子になると思います、って言われたんだ。と自慢していたことがあったけど、きっと看護師さんは急いでいて、ある意味、という言葉をつけ足し忘れたのだろう。 AIの説明は続く。

「一番美しいのは、遺伝子×環境の掛け算だと思う」

なんだ一番美しいって? 天然ボケキャラが輝くのは、その個性を肯定してくれる環境に巡り合った時、とも書かれていた。そういう意味で、俺は物凄い貢献者なのだろう。

 先ほど教えてもらった開放性の意味が分からなかったので、コミュニケーション能力が高いということと同じ意味か聞いてみたら、違うと言われた。新しいこと・変わったことにどれだけ興味を持って柔軟に受け入れられるか、を示す特性らしい。なるほど、義両親も確かにこの能力は高い。そして、変わったものを好んでしまう俺も、実はこれが高いのかもしれない。開放性が高い人は、想像力が豊か、好奇心旺盛、芸術・アイディア・哲学的なことに興味を持ちやすく、普通と違う考え方を自然と受け入れるらしい。

「つまり、開放性が高い人は、話すのが上手いわけではなくて、『話す内容が普通の人とズレてる。(=面白い)』みたいな特徴が出やすいんだ。遺伝で開放性が決まりやすい(40~60%くらい)から、生まれつき『変わった視点』を持っている人が一定数いるってこと」

なるほど。神経質傾向もわからなかったので聞いてみると、感情の揺らぎやすさやネガティブな感情を感じやすい度合いを表す特性らしい。高い神経質傾向だと、不安や心配、イライラや落ち込みを強く感じやすく、ストレスに敏感で、ちょっとしたことで感情が揺らぐタイプだという。逆に、低い神経質傾向だと、感情が安定している、ストレス耐性が高い、「まあいっか」と思えるタイプだとあった。そういえば友人の子どもが、現在二歳になりかけの一歳児なのだが、年の離れたお姉ちゃんからの日々の攻撃の末、数少ない話せる言葉の一つが「まあいっか」となり、望まないことが起きるたびに言っていて、それが口癖になっている、と言っていたことを思い出した。一歳にして悟っていらっしゃる……。俺も見習わなければ……。

 それはさておき話を戻すと、天然ボケで神経質傾向が低めの人は、失敗しても気にしないし、周りの目が気にならないから、素の変わった反応をそのままだせるんだよね。とAIは教えてくれた。これも遺伝の影響が高いらしく、40~50%くらいらしい。

 あともう一つ気になった脳の報酬系や、注意力の配分が違うという話を詳しく聞いてみたら、

「これが一番面白い部分!」

と急にノリノリで答えてくれた。

「脳の報酬系(主にドーパミン系)が違っていて、普通の人は、『みんなと同じこと』をすると気持ちいい(報酬が出る)。でも一部の人は『普通とズレたこと・意外なこと』をしたときに、ドーパミンがドバっと出やすい。だから天然ボケみたいな反応を、無意識に繰り返す」

との説明があった。なんと、嫁そのものではないか……。この系統の人は、みんながAと答えるところで、Zと答えると、自分自身がめっちゃ楽しいらしい。

 追加で、注意力の配分も影響があるらしい。脳は普段情報をフィルターして、大事なものだけに集中する。でも天然ボケタイプの人はそのフィルターが緩い、もしくは違う方向にかかっている、とあった。だからみんなが見落としている細かいことや意外なつながりに自然と気づいてしまい、結果周りから、なんでその反応? となる変わり者行動になる、と説明してくれた。

 確かに以前、義母が嫁の小さい時の話をしていたのを思い出した。嫁がいない時に、嫁の妹と義母だけでたまたまおやつを買って食べた日に限って、幼稚園から帰ってきた嫁がなぜかごみ箱でその入れ物を見つけて、私がいない間に自分たちだけでおやつ食べたでしょ、と仁王立ちをしていたらしい。そういうのには、妙にめざとかったと言っていた。嫁は隠そうとする心理をむしろ察知するような、そんな動物的嗅覚を持ち合わせていたのかもしれない。フィルターがおかしく、みんなが見落とす細かいことを、何の気なしにごみ箱から見つけてしまうのかもしれない。探偵かっ。

 AIは、追加でこんなこと教えてくれた。

「『みんなと同じが気持ちいい』のは、人類の進化的なデフォルト(集団で生きるため)だけど、『ズレれたことが気持ちいい』人は、脳の工場出荷設定がちょっと違うだけ」

脳の出荷状態……wでも、みんなと同じが気持ちいいのは集団で生き残るためのデフォルトだとしたら、どうしてそうじゃない人が生き残れたのかが気になったので聞いてみた。

「まさに進化心理学の、面白いジレンマだよね」

との発言の後に

「みんなと同じがいいだけじゃ、人類が環境変化に負けて絶滅していた可能性が高いんだ」

と驚きの文言があった。

「ズレてる人、天然ボケタイプが生き残った理由は、集団全体の生存戦略として多様性が超重要だったから。みんなと同じだと、協力しやすく争いが少ないので、安定した集団で生き残りやすい。でも、環境が変わったり新しい脅威が出たりすると集団全体が硬直して困る。ズレていると、新しい場所・食べ物・アイディアを探す探索者になれる。環境が変わったときに突破口を開く役割。完璧な性格なんて存在しないと生物学者のDaniel Nettleさんの研究でも言われていて、状況によってどっちが有利かはコロコロ変わるから、両方の遺伝子が残ったんだ」

意外と深い話になってきた。嫁は生きるべくして生き残った生存者なのだろう。

「集団に変わり者がいるメリット」

プチ情報みたいな感じでその後そう書かれていた。というか、もはや天然ボケを通り越して、変わり者と書かれている。

「原始時代の集団を想像して?」

いきなり、原始時代の話にタイムトリップした。

「ほとんどの人は、今までどおり安全に狩りをしようとする。でも1~2人の『なんか変な人』が『こっちの森行ってみようぜ』って新しいルートを探す。結果、食糧危機の時に救う。これが、頻度依存選択ってもので、変わり者が少なすぎると集団が硬直、多すぎるとバラバラで危険なので、ちょうどいいバランスで両方が残る。実際、現代の研究でも発散的思考の天然ボケタイプが、創造性や適応力で集団を強くするのが分かっている。要するに、みんな同じだけじゃ、人類はここまで生き残れなかった。ズレ報酬タイプは、保険みたいな存在だったんだよね。環境が変わるたびに輝く希少価値」

そう書かれていた。っていうか、変な人を説明する言葉のバリエーション多いな。それにしても、食べ物のために新しい未知の場所に行ってみるとか、まさに原始時代の嫁、してそう~。でも、原始時代だったら情報が少なすぎて、おなかすいた。あ、このきのこ美味しそう、いただきまーー、ガブッ。あ、体痺れてきた。グヘッ。とかで、終了してそうだよな。即退場にならない現代に生まれてきてくれてよかった。

 思いがけず色んな事を知れて、Grokに感謝しながらそっとスマホの電源を落とした。

 よくよく考えてみたが、つまり嫁の天然は遺伝子的な部分も多く、子どもが生まれた場合、「嫁2号」的な感じになるのだろうか……。ヨメガフタリ……。想像して、少しだけ身震いした。



「ねぇ聞いてよ、今日くちさき女って言われたよ」

「口さき女って何?」

「口先だけで言うだけの女でしょ。言われてちょっとムッときたわ。まぁ、お褒めの言葉ありがとうございます。ちょっと私今忙しんでそれじゃって言って、すぐその場を去ったけど」

 玄関で俺はしゃがんで靴を脱ぎ、立ち上がって、帰宅後初めて嫁が視界に入った。嫁の口の両端には、赤く長い線が入っていた。

「いや、それくちさき女じゃなくて、口裂け女って言ってたんだよ」

「私のこんなにこじんまりとしたキュートな口に対して、口裂け女なんて……」

そう言ってプンスカしていたので、俺が洗面所に行って鏡を指さすと、覗き込んだ嫁がハッとした表情をした。

「なんと……」

目を丸くして、そうつぶやいた。こっちがなんと、と言いたいよ。同僚、隠れイライラされて可哀想。そして、この顔で仕事してたのか。

「あれーっ? おっかしーな~。なんでだろ~? これは別に、お昼に巨大ストロベリーパフェを頼んで間に合わなそうで急いで掻き込んだ……あっ……とか、そんな出来事なんて微塵もなかったのになぁ~。おかしいなぁ~」

そう言って目が泳いだまま、口を洗っている。嫁は今ダイエット中だったはずだし、二人とも食べることが好きで貯金もしたいから、贅沢なおやつは一緒の時にだけって決めていたはずだが。

「え、パフェって……」

そう俺が言いかけたら、

「あーーいそがしいそがし~」

そう言って嫁は、さっきののんびりさとは真逆の動きで、そそくさと退散していった。一度お祓いにでも行こうか。いや、そうしたら嫁が祓われてしまうか。

「そういえば、今日お刺身買い忘れちゃったんだ。だけど、ごはんにお醤油かけると、ちょっとお刺身を食べた気分になれるよ」

と言ってきたので、そんなわけないだろうと思って試してみたら、ちょっとお刺身を食べた気分になれた。あれ? 普段俺は、お刺身を食べている気でお醤油を味わっているのだろうか。

「ほら、これを足せば完璧」

そう言って買い置きしてあった白身魚の練り物も出してきて、さらにお刺身を食べた気分になった夕飯だった。お醤油系の味付けだからって、おかずの茄子のお浸しは、お刺身の味がしたわけではないぞ、断じて。きっとこれは洗脳と言うやつだな。うん。



「嬉しすぎるぅ」

久々にるみあちゃんという親友の一人に会えることになったらしく、喜びのあまり、るの発音で、巻き舌「る」を発動していた。鳥なのか? 水属性、火属性と並んで、喜びを言葉以上の何かで表現する、巻き舌タイプ属性なのか? といっても、これ、何に使えるんだろう。鳥を召喚できる。ただし種類は選べない、とかかな? 嫁が召喚したはずの猛禽類が、頭上で円を描きながら、誤って嫁を狙っている様子を思い浮かべてみた。



 リビングに飾ってあった宝石がふと目に留まり、結婚前に嫁が遊びに来た時のことを思い出した。小学校の同窓会で嫁とは久々に再開し、同窓会のノリでその翌日何人かでご飯でも食べようとのことになった。結局バーベキューができる俺の家で集まることになったが、その時にミッチー(今となっては嫁)が一番早くうちに来た。家で待っている間に、飾ってあった宝石を見つけたミッチーは、

「エメラルドとかかな」

そう言ってガラスケースを遠慮なくのぞき込んでいた。

「親からもらったんだ。親も親から引き継いだみたい。これは、魔除けの役割があるらしくて、さらに幸運を呼ぶって言われている石だから、親が飾っとくのがいいって言ってていつも飾っているんだ。」

 そう俺は説明しつつ、しまったと思った。普段は人が来る時は目立たないようしまうようにしていたのだが、今回は掃除ばかりに気を取られてうっかりしまい忘れていた……。まぁいいか。ずっと昔から仲がいい芦山が来る時も、よく忘れて出しっぱにしちゃうんだよな。芦山に、女子かよ。っていじられるから、しまい忘れるの嫌なんだけど。あれ、そういえば芦山って、ミッチーとも同じクラスだったことあるよな、と考えていると、

「大きい!これ凄いね!」

キラキラした目でそう言って、ミッチーはその場から離れない。

「色が濃いのに、中に傷みたいなのもなくて透明感があって綺麗」

そう言ってうっとりとエメラルドを眺めている。確か、10カラット以上はあると親から聞いていたような……。

「他も綺麗だねぇ」

そううっとりしながら舐め回すように見ていた。

「これは?」

「こっちのは、ブルーダイヤモンドだね。こっちはレッドトパーズで、こっちはオパールって言うらしい」

「私石は好きだけど、宝石は特に興味なかったんだよね。でも、これだけ大きいと石って感じがしてワクワクするわ!」

そう言って齧り付いていた。そんな時にピンポーンとチャイムが鳴ったので、

「ドアを開けてもらってもいい?」

そうミッチーに言い、玄関にミッチーが向かったところで俺は宝石ケースをさりげなくしまってから、ドアへと急いだ。

 俺自身、宝石の価値はよくわからないけど、綺麗だしまぁいいかなと持ち続けている。



 年末の特番でだらだらと音楽番組を見ていたら、

「そういえば昔、やたら歌詞を間違えて覚えている子がいたんだよね~」

と嫁が言い始めた。

「ほら、この栄光の架橋とか、『いくつもの~日々を超えて~辿り着いた~今がある~』(ゆず「栄光の架橋」より引用)

の後って、だからもう~じゃん? ここを、なぜか『宝も~の~』って自信満々に歌ってたんだよね。」

そう言って懐かしそうにしている。

「GReeeeNのキセキの時はさ、『二人寄り添って歩いて』(GReeeeN「キセキ」より引用)

ってところあるじゃん? あれを、何を間違えたか、『だいこんしょって歩いて~』って歌ってて、聞き間違えかと思ってもう一回歌ってもらったけど、やっぱり『だいこんしょって歩いて~』と歌ってたんだよね」

そう言って、嫁がケンケンのようにククククッと、音を出さずに笑っている。

「でもさ、百歩譲って大根しょって歩いてから始まってもいいけど、その後って、永遠の愛を形にしてって歌詞になってたのかな?そうなると、大根しょって歩いていたところから何があって永遠の愛を形にすることになったのか、その間がめっちゃ気になるわ……」

そう嫁は言って、大根と永遠の間の出来事を考えているような間があった。

「残念なのがさ、大根しょって歩いてで笑っちゃったから、その後の歌詞を聞きそびれちゃったんだよね。ほんともったいなかったわ~」

と悔しそうにしていた。

 大根しょって歩いているくらいだから、大根を落としてしまって、ほら、お姉さん、大根を落としましたよ。あら、ありがとう。と始まった恋なのだろうか。それとも、お姉さん、大変そうですね。僕が持ってあげますよ。いやいや悪いですわ。いや、そんな遠慮せずに。と言って始まったパターンだろうか。もしくは、こら、うちの大根を盗んだのはおまえさんだろ。違いますわ、私じゃありませんわ。じゃぁ誰なんだ。と言ってふと目をやった視線の先に、大根をしょって、いかにもな風呂敷を頭に巻き付けた怪しい人物が遠くに見えて、あいつでは? とお互い目配せをして、二人で追いかけて、捕まえたことから始まった愛なのだろうか。

「そういえば大根で思い出したけど、大学生の頃にカフェでバイトしていたら、酔っぱらったお兄さんとおじさんの間くらいの人がきて、私ほら、眉間あたりにほくろがあるじゃん? それを見て、『めっちゃありがたい。幸運だ』とかなんとか言って拝んだ後に、私の肩を、持っていた大根でバシバシ叩いてきた人がいたのを今思い出したわ。ってか、なんで都会のど真ん中で、だいこんを一本丸々持ってんの? そして、ありがたいはずの存在の肩をなんで大根で叩くの? って今思い出してもツッコミどころ満載の人だったわ。あの日が唯一、そのお客さんが来た日だったな。あの人はきっと、お釈迦様を見つけたら、大根で肩を叩く風習の土地で生まれ育った人なんだと思う」

そうしみじみと言っていた。

「立派だと思った人の肩を大根で叩くって、どこの国の風習だよ。ていうか、そのためにいつも大根丸々一本持ち歩かなきゃいけないとか、過酷すぎるだろ」

そうツッコミながら、その時の衝撃で嫁の脳に影響が出てしまったのではないだろうかと、俺は思ったのであった。

「大根がないときはニンジンでもいいんじゃない?」

嫁がそう言った後で、

「そういえば肩で思い出したんだけど」

と嫁の話は続く。

「会社でさ、国立大を出ていて、頭が良くて、すごく明るくて仕事もできて、性格もいい女の子がいるんだけど、この間、突然肩を抑えて『胃が痛い』って叫びだしたんだよ。で、話を聞いてみると、やっぱり肩が痛かったみたいなんだけど、その子が、胃は肩の中にあるんだとずっと思いこんでいたことが発覚して」

どうして嫁の周りには不思議なことがたくさん起きるのだろうか。触ると手が離れなくなる金のガチョウの変質系のように、嫁がなにか吸い寄せていて、関わると気づいたら離れられなくなりながら徐々に嫁化されていくシステムになっているのだろうか。それとも俺が特殊で、なぜか周りに普通の人ばかりが集まっているだけなのだろうか。一人を除いて。

「胃が痛いって必死に肩を抑えているから、とりあえず安静にしてもらって、その後無事落ち着いたみたいだったし良かったよ」

 もしかしたら、知られていないだけで実は嫁病というものがこの世には存在して、その子は感染の上、既に末期症状なのかもしれない。俺はどう対策を取ればよいのかわからないまま、ひとまず手を洗ってうがいをしてみた。なんとなく、目も洗ってみた。そして、翌日から目を洗うことを忘れ、目の洗浄は習慣にはならなかった。いざというときは、大根で脳が埋まっている可能性がある嫁の肩を……。



 嫁が、京都旅行に行きたいと言い出した。なんでも昔行った貴船神社が「超良かった」らしく、もう一度行きたいと言っていた。

「あそこ、私の御用達なんだよね。ていうか庭?」

御用達って、なんで自分に使ってるんだよ。ていうかこの間、池袋も私の庭とか言ってなかったっけ。

「ちゃんと京都旅行に行くために、アニメに出てきた関西弁も覚えたんだ~」

そう自慢げに言ってくる。

「何を覚えたの?」

一応聞いてみると、思いがけない言葉が返ってきた。

「儲かりまっかーー? ぼちぼちでんなーー」

「え? それだけ? ていうか、その言葉?」

「そう。ちゃんと覚えたの」

「それいつ使うの? ってか、その関西弁が出てくるアニメってどんなアニメなの?」

「え~名前忘れちゃったけど、今超人気で、見てない人がいないアニメだよ」

どんなアニメだ。俺は見てないぞ?

 こうして、結局嫁とは京都旅行に行くことになった。俺はなんとなく、今回はお守りのような気がしているエメラルドも持っていくことにした。それを、お財布と携帯が入るくらいの、背中に斜め掛けするタイプの小さなバッグの中に入れておいた。

 旅行当日、移動は基本新幹線だが、駅までは車で向かった。移動中の車内で、ラジオから懐かしいスマプーのライオンハートが流れてきた。その曲を聞いて、

「あなたのことを見ていると、この曲のサビを思い出すん……」

といったようなことを嫁が言った気がしたが、窓を開けていて風が強かったせいでよく聞こえなくて、

「なんて言った?」

と聞き返すと

「え? 何も言っていないよ?」

と嘘をつく時によくする目の動きをした。何を言ったか気になったが、運転に集中していたら、気づけばうやむやになっていた。

 無事京都についてからの嫁は、チラチラとお土産屋さんを見ながら、完全にマスターしてきた「儲かりまっか」をいつ言うか迷っているようだが、追加で誰に言えばいいのか迷っていて、チャンスをうかがっているようだった。言わなくていいからな。

 今回メインの貴船神社は、京都駅からさらに電車とバスで登って行った山の中にあった。時間をかけて着いた先は、綺麗な川が流れる清々しい森だった。

「甘くて良い香りがするね~。人工的じゃないとっても良い香り。

 柔軟剤とか強い人工香料の洗剤は、自分が使ってなくても使っている人がいると呼吸が苦しくなって神経と心臓も痛くなって寝込むから、空気中を漂ってくるとガードしようもないボクサーが永遠とジャブを打ちまくってくる感じがして超ストレスなんだけど、そっち系じゃない、自然の甘い香りがする。ていうか、柔軟剤と強烈な人工香料が好きな人って、ボコボコにされるのが嬉しくてしょうがない、そっち系の趣味の人っていう共通認識で合ってるよね? 本人がいいならいいけど、まぁ正直その癖に周りを巻き込まないでほしいけど、煙草も含め人それぞれ違った趣味はあるから、こればかりはしょうがないよね。それにさ、綺麗なお姉さんが広告で出ていたりするから、使っていたらそういう人に好かれるんじゃないか、もしくはなれるんじゃないかという錯覚も併せて持ちそうだけど、むしろ嫌だと感じる人も多いっていう逆パターンが多いのも、悲しき側面ではあるよね。後者の人の場合は、苦手でも言えない人が多いことをこっそりと教えてあげたいけど、後者だと思いきや前者だった場合の気まずさがぬぐえないから、やっぱり何も言えないよね~。

 話がそれちゃったけど、私はシャボン玉石鹸推しで愛用しているけど、こういう森の天然の良い香りはやっぱりいいよね。は~。癒されるぅ~」

嫁は巻き舌「る」を使ってそう言ってきた。空気は綺麗だが、甘い香りは全くしない。

「え? 甘い香りとかわからない。っていうか、全体的に何を言ってるかわからない。でもあんまり人の趣味に関わることは、どうこう言わない方がいいと思うぞ」

っていうか嫁よ、言っている意味は分からないが、少なくとも人の趣味は自由であって、否定してはいけないものだと俺は思うぞ。あ、でもそれも米印で、ただし人に迷惑が掛からない場合に限るとかただし書きされているようなものなのか? よくわからん。

「うん。そうだよね。人の趣味に関しては、今後は言わないようにする。

 でも、やっぱり甘い香りはわからないのか~。別の二人とそれぞれ違うタイミングに来たことがあったんだけど、その時も甘い香りがしたのに、二人とも甘い香りはしないって言ってたんだよね~」

と少し残念そうに嫁が言っている。

「ていうか、他に二人と来たの? 誰と来たの?」

そう質問すると少し遠い目をして

「内緒」

と人差し指を自分の口の前に持っていったっきり、教えてくれなかった。

「何度も来ているから、やっぱり御用達だよ~」

そう言って話題を変えようとしているが、誰と来たのかが気になる。

 そうこうしているうちに、神社にたどり着いた。無事お参りを済ませて俺が山を下ろうとしていると、服の裾を引っ張ってきたので振り返ったら、嫁が登る方面の道を指さしている。

「まだあるよ」

そう言って森を進んでもう一つの社殿をお参りし、さらにその先にあった奥宮という場所にも足を延ばした。

「ここ、凄い癒されるんだよね~」

そう言って、嫁は奥宮の敷地内に吸い込まれるような速さで入っていった。奥宮の境内には二つの社殿があったが、嫁はその中でも奥の社殿の前に張り付いたっきり動かない。どのくらいそうしていただろうか。嫁が携帯を見た後、ようやく満足した様子で、

「ありがとうね。よしじゃぁ、伏見稲荷に行こうか」

と言ってすたすたと歩き始めた。

「今まで結構色んなところを旅行してきたけど、国内も海外も含めて、今のところ貴船神社の雰囲気が一番好きなんだ」

そう言って安らかな表情でバス停へと向かった。バス停にたどり着くとタイミングよく数分でバスがやってきて、それに乗った俺たちはまた山を下って行った。電車を乗り継ぎ、今度は伏見稲荷という、またしても山? にたどり着いた。

 こちらも山と表現するのにふさわしい神社で、歩く距離は貴船神社よりもさらに長かった。というか、もはや山登りのレベルだった。嫁はちらちらと後ろを振り返りながらも、元気に足を進めている。普段の運動不足が祟ってか、俺は息切れしながらなんとか必死についていこうとする。途中左手に、この登り道とは関係のないかなり遠くに、黄色いユンボがあるのが目に入った。何か遠くで工事しているな。そう思いながら、赤い鳥居をくぐり続ける。

「おかしいなぁ」

もうどれくらい歩いただろうか。さっきまでの勢いとは対照的に、首をかしげて嫁が不可思議そうな表情をする。

「全然頂上が無い」

俺も、なにかがおかしいとは思い始めていた。なぜなら、最初に上っていた時に左手に見かけた黄色いユンボが、また登り道の左手に、同じ景色として出てきたからだ。

「歩くのに必死で、頂上を見落としたんじゃない?」

俺がそういったが

「うーん……」

と言ったっきり、納得できない様子でいる。

「とりあえずもう一回、今度は見落とさないように、よく見ながら頂上を目指そうよ」

それが正しい選択だと思った俺は、そう言った。見落としている他ありえない。

「そうだよね。もう一回登ろう」

そう言って、体力が削られている中、息を切らしながら無言で登っていく。周りに注意しながら歩き続けて、愕然とする。

「あれ、またユンボだ」

気づいたら、また最初に見た、上り坂の最初と同じ景色の位置にいる黄色いユンボが俺たちを遠くから見下ろしていた。

「嘘だろ……」

正解だと思った選択肢で、頂上にはたどり着けなかった。嫁が顎に手を当ててうーんと少しの間悩んでから、

「さっき見た、小さな看板で矢印があって、頂上って書かれていたあの場所が頂上なのかな? でも、前に来た時には、もっとずっと広い場所が頂上だったんだよね。そこには、無料の大きなカシャカシャ回すおみくじがあって。おみくじから木の棒が出たら、そこに書かれている番号を大きな掲示板で見るって感じの、そういう開けた場所が頂上だったのに……」

そう言いながら、狐につままれたような顔をしている。嫁はやたら携帯も気にしているようだった。

「どうした? 大丈夫?」

そう俺が言うと

「時計を見てた」

と嫁が言った。普段時間とか気にする人じゃいのに珍しいなと思いつつ、せっかく来て、さらになぜか三周もしたのに頂上を見られなかったら癪なので、俺らは仕方なくもう一度頂上を探しに山を登った。ユンボを左手に赤い鳥居を登り続け、上った先の途中で出てきた、申し訳程度の小さな木の板に、矢印で頂上と書かれたその場所に俺たちは入ってみた。そこは、どこを歩けばいいかわからないほどの大量のお稲荷さんの祠のあるとてもこじんまりとした場所で、その稲荷のお社の間の狭い道を細々と割り込むように歩かせていただいてから、頂上を後にして下山した。

「いや~やっぱり明らかに前と違うんだよね~」

腑に落ちない嫁が、キツネにつままれたような表情をしながら、今度は黄色いユンボが見えた時に、下る方の道に足を進めた。結局四周もして俺があまりにもヘロヘロになっていたのを見兼ねて、嫁が俺の小さい斜め掛けバッグを持ってくれた。優しいところもあるんだな、と少しだけ見直した。それからなんとか完全に山も下って、平地の舗装された境内っぽい場所に辿り着いたあたりで、少し先にいた人が被っていた見覚えのある帽子が目に留まった。

「あれ? あそこにいるのって芦山じゃない?」

こんな離れた土地でいるわけがないのに、芦山みたいな人を見つけた俺は、そう嫁に話しかけた。

「誰?」

「ほら、小学校のとき同じクラスだった芦山」

「覚えてないな」

「ほんと? 昔はよくしゃべってたと思うよ?」

「それに遠くてよく見えない」

山を下った後の場所は人が多くて、芦山っぽい人も、人の流れに紛れて消えてしまった。

「あ、見失った」

「最近は人も多いからね。すごい人数の訪日観光客が来ているって、ニュースでも話題になってたし」

そう話しながら、俺たちも人の流れに乗りながら駅へと向かう。

 なぜ俺が遠くにいた人を芦山だと思ったのか。それは、なかなか売ってない珍しいキャップを被っていたから、もしやそうでは? と思った。あれ、ヒアウィーゴーっていう海外でしか売ってないブランドのはずなんだよな。海外出張から帰ってきた時のお土産に、俺が渡したのにそっくりだった。なかなか無い色でかっこいいんだよなぁ。普段ブランド品には興味がない俺も、空港でたまたま見かけたあの帽子には一目惚れして買ってしまった。何種類か買っておいたのだが、芦山に褒められたので、元々お土産に渡す予定はなかったが一つ譲っていたのだ。結局その後、芦山らしき人物に会うこともないまま、俺たちは夕食へと向かった。

 途中で、嫁がお土産を買い忘れたと言い、俺も一緒に行くといったが、疲れているでしょ、と言って俺をカフェにおいて、一人で買い物に出かけて行った。1時間後ぐらいだっただろうか。嫁は無事帰ってきたところで川床のご飯屋さんに向かい、美味しいおばんざいを食べた。貴船神社でも、実は無礼にも参拝前に、美しい川床で早めの美味しいお昼を食べており、本日2度目の川床ご飯だった。最高である。そういえば、今日、やたら嫁が時計気にしているように見えたのは、この夕飯に間に合うためだったんだな。そう思って美味しい食べ物に満足してうっとりしながら、流れゆく川を眺めた。



「あーー、もう無理だ。俺仕事辞めよっかな」

普段は人に弱音を吐くことができないのに、今回は溜め込むことができずに思わず言ってしまった。

「ん、いいんじゃない?」

と嫁が普通のことのように言った。絶対辞めるなと反対されると思っていたから、意外な反応に拍子抜けする。

「え、でも辞めたら困るよね?」

「意外と今はそんなにお金がかかる趣味もないし、コツコツ貯金もしてきているし、少しの間はどうにかなるでしょ。仕事きついの?」

「ああ。人間じゃない気分。最近は毎日二十二時頃まで仕事だし、ニンジンを目の前にぶら下げられて、でも決してそれを食べられることはないまま永遠と全速力で走り続ける馬車の馬みたいな? 仕事も次から次に雪崩れて来るし。人間関係もなかなか大変だし……」

そう言った後で、あ、と思い、

「そういえば前に、会社で愚痴を聞かされるのが好きじゃないって言ってたよね。ごめん」

と俺が言うと、

「いや? 今のは嫌じゃないよ。なんて表現すればいいんだろう。私が苦手な愚痴は、見たもの全てを否定していくタイプの物かな。いや、人間って本当に辛いとそうなるのはわかるし、そうなっちゃうこともあるよね。っていうのはわかるんだけど、ずっとそれに当てられていると、徐々に枯れていくというか……。だから、ずっとじゃない今みたいなのは平気だし、むしろ今のは言ってもらった方がいいよ。それに、人生には休みが必要な時もあるよね」

そう言って、遠くを見るような目をする。

「そうか。でもなんか辞めていいって言われると、逆に続けたくなるかも」

「なにそれ」

「いつでも逃げられる退路を持った状態で戦うのと、絶対死ぬまで逃げられないと思って戦うのとの違いかな」

「死ぬまでって……。わかるようなわからないような」

「ありがとう」

「私は何もしてないけど、まぁ、いざとなったらピーくんの宝石を売って、あと昔集めていたピーくんのコレクションも売って……」

「おいっ。いや、売るとしたら、みみっちーの天然石コレクションでしょ」

「みみっちー言うな。っていうか、あれは私には価値があるけど、一般市場で価値があるとは限らないから」

「そう言って、逃れようとしているな。あ、じゃぁ、困ったときは、みみっちーの一番好きなアニメって言っているあのblアニメのブルーレイと漫画を、俺がフリマに出店しておくよ」

 シーンと静まり返った後でギッと軽蔑するような目で俺を睨んだので、仕事を辞めるなと言われるかと思ったが、結局その言葉は最後まで出てこなかった。

「それは断固拒否。そうされたら家出してやる。しかたないから、このいら、いや、私が作った作品を売ってもいいよ~?」

いまいらないと言おうとしたよな。というか、作った作品って、あの怪しげなオブジェのことだろうか。まぁ、まず売れることはないだろう。ていうか俺はいらない。

「あ~喋ってたらおなかすいてきちゃった。オムライスが食べたい。オムライス」

俺がそう言うと、

「らじゃっ」

嫁はそう言ってキッチンに向かうと見せかけて、リビングに飾ってあった自分のお気に入りグッズをかき集めて自分の部屋へせっせと運んでから、オムライスを作り始めた。俺はソファーになだれ込んでいたが、気づいたらそのまま寝てしまっていた。



 意味が分からない姿で、嫁が登場した。なぜか突然電気が消えて、ブレーカーでも落ちたのかと思ったら、机に置かれた懐中電灯がついて、なぜか器用にも嫁はそれに照らされる位置に立っている。懐中電灯に照らされた嫁は、ダボダボの服を着ていた。あれはおそらく俺のタキシード仮面衣装だろう。おそらくと言ったのは、そのタキシードの上から、何を思ったかクリスマスツリーのキラキラした飾りを、元々そこにありましたと言わんばかりに、追加でいくつも付帯した状態で照らされていたからである。

「ミュージックスタート!」

嫁が謎の言葉を発した後から、音楽が流れてきた。

「おめ~おめ~チャチャッチャチャッ、ぴーくんサンバ~

 おめ~おめ~チャチャッチャチャッ、ぴーくんサンバ~

 チャチャッチャチャチャッチャチャッ、おめっ!」

と何かを乗せたお皿を右手で掲げて歌いながら、若干左右に変にキレのある動きをして歌っている。何を持っているのか気になって見ていたら、ろうそくの乗ったケーキだということがわかった。あぁ。そういえば今日は俺の誕生日だったな。これはどうやら誕生日のお祝いのようだ。

 間奏の間にチャッカマンを取り出して、なかなかうまくいかないながらも、なんとかろうそくに火を付けた嫁が、

「歌が終わるまでに吹き消してね。そうじゃないと今年の願いはかなわないみたい」

と誕生日を祝ってくれているはずなのに、何とも呪いのような言葉を当たり前のように放った。

「なんだよ。みたいって」

そうツッコみながらも、良い年にすべく、踊りながら動いているケーキを、息を吹くような顔をしながら必死で追いかける羽目になった。そして、なんとか最後の「おめっ」を聴く前に、無事消せた。

 踊り切って満足したのか、嫁は

「ほらほら飲んで、食べて」

と色々な食べ物が乗ったお皿を出してきて、お酒も注いできた。普段は酔いやすいのでお酒はあまり沢山は飲まないのだが、つられて沢山飲み食いしてしまった。結局、ベロンベロンに酔ってしまって意識がもうろうとしている中、嫁がなぜか懸命に俺を着替えさせて躍らせようとしていた。翌日見せられたのは、ファスナーの締まらないぱつんぱつんのセーラームーンの服を着させられて、サンバらしきものを踊らされている動画だった。色んな意味で閉まり切っていない、目も当てられないようなものだった。

「消して」

「嫌。これは、嫌なことがあったときに見るコレクションに追加しておくから」

そう言われて、結局動画の削除には失敗した。俺の誕生日のはずが……。

「チャチャッチャチャッ、ぴーくんサンバ~」

動画を流しながら、エーヘッヘッと、今日も嫁は隣で悪魔のような笑いを湛えている。



「ねえ、聞いてよ」

そう言って嫁の話が始まった。

「この間、実家に帰った時なんだけどさぁ」

先週俺が海外出張だった時に、嫁は久々に実家に帰っていた。

「なんかさ、朝起きて良い香りが漂ってきて、父が焼いた激うま発狂級ライ麦パンにツナを乗せてお醤油をかけて、母が用意してくれたサラダを平和な気持ちで食べていたのね。そうしたら妹が突然、

『お姉ちゃんって、ハリーポッタンのあれに似てるよね?』

って言ってきたんだよ。でも名前が出てこないらしくて、

『ハ、ハ……』

って言ってたの。え? ハリーポッタンの女性キャラでハって言ったらもうあの子しかいないじゃん! 自分では全く似てないと思うけど、妹にはそう見えるのかぁ。そうかぁ。ワックワックと思っていたら

『ハグリッダ』

って言われたの。

『え……?』

まさかのハーマイオネーじゃなかった。ていうか、ハグリッダってなんなの⁉ 性別すら違うじゃんって思ってたんだけど、

『寝起きの髪型とか似てる』

とか言われて、ただの悪口だったの。ひどくない?」

そう言われた俺は、時々寝ぐせで凄いことになっている嫁の髪を思い出して、必死に笑いを堪えて口元を押さえた。

「ね、ちょっ今笑ったでしょ」

「っいや、笑ってないよ」

「毛根のまじないかけてやるからな」

「なにそれ、怖い。やめて。てか、とばっちりだし」

 少し経ってから若白髪が突然何本か見つかったのは、嫁のまじないの効果なのだろうか。

「仕方ないなぁ~塗ってあげるよ~」

そう言ってピンクの油性ペンを笑顔で握りしめている嫁は、名前を呼んではいけないあの人にそっくりだった。



 リビングを歩いていた時にふと、飾ってある結婚写真? が目に入って、嫁にプロポーズしたときのことを思い出した。

「俺と一生一緒にいてもらえませんか」

そう言って手のひらに乗った小さな箱をパカッと開けた。すると嫁が突然話し出した。

「おーっと嫁子選手。ここでま、さ、かの逆転ホームラン! 逆転ホームランですっ! 嫁子選手以外の誰が想像したでしょうか。おおっと。嫁子選手、左手を高く掲げ、いや、あれは手ではなく中ゆ、いや、薬指でしょうか。器用にも薬指一本だけを高らかに掲げて、アルカイックスマイルを浮かべながら、マウンドをゆたーりと進んでいます。あれはまるで沼からようやく現れることができたネッシーが、認識して欲しいのか、なかなか進まないあれと同じでしょうか。あっ。ここでお時間となりました。それではっ。バイバイっ。

 あ。ごめん、嬉しすぎて謎の回想シーンに行ってしまった」

「え? こういうのって普通涙して喜ぶとか、抱きつくとかそういうものじゃないっけ?」

「あぁ、ごめんっ」

そう言って、両手を合わせて頭を軽く下げている。

「もう一回リベンジさせて」

上目遣いで申し訳なさそうにそう言うので、

「わかったよ」

そう言ってもう一度仕切り直ししようとしたら、

「指輪貸して」

となぜか言われた。疑問に思いながらと渡すと、スッと右足を後ろに引いたかと思ったら右膝をついて屈んだ。左足を立膝の状態で、なぜか俺の左手を取っている。軽く手の甲に口付けをしたかと思ったら、

「姫、私と結婚してください」

と言った。

「え? やり直しって、俺のプロポーズがミスだった訳じゃないよね?」

そう言うと

「あ、そうか」

そういえばそうだったね、という感じの顔をした。その後、ひとまず俺の薬指に指輪をはめようとしていたが、無理やりねじ込もうとしたけれど無理なのがわかったようで、諦めて箱に戻していた。これが俺と嫁の結婚の始まりであった。



 こんな感じで、異常さを伴っているとはいえ、俺はなんだかんだで楽しい結婚生活を送っていた。とんでもないものを見つけてしまうこととなった、あの日までは……。



 その日の朝も、いつもと同じように何の代わり映えもない休日の朝だった。その日嫁は、友達と遊びに行くとのことで、割と早い時間に家を出て行った。いつもながらだが、なぜかのんびり朝食を食べていたのに、最後の方に急に時間が……と焦りだして、バタバタと大慌てで出て行った。

 嫁が出て行った後に、今日はひとまずごろごろするかと思って寝室に行こうとしたら、嫁の部屋が開けっ放しになっているのが見えた。大雑把な嫁だが、なぜか普段は嫁の部屋の扉が空いていることはない。嫁は、俺が嫁の部屋に入るのを嫌がるので、嫁の部屋には基本的には立ち入ることはない。

 普段開かずの扉が開いていたので、気になってちらっと覗いてみた。あれ? 最初の時より、趣味の物がまた増えていないか。そう思って何の気なしに足を踏み入れてしまった。進んでいくと、机の上に一つのノートが置かれているのが目に入った。不思議な模様の表紙だったので、なんだろうと気になって手に取ってみた。普段見ない感じの、レトロで独特な雰囲気だなと思って再び机に置こうとしたところ、床に落としてしまって一ページ目が勝手に開いてしまった。そこには、ミッションリストと書かれていた。なんだこれ?  悪いとは思いながらミッションって言葉がなぜか気になって、次のページをめくってしまった。そうしたら、そこには衝撃的な内容が書かれていた。久しぶりに同窓会で俺と再開するより二年ほど前の日付で、「ピーくんと結婚しなさい」と書かれていた。え? どういうことだ? しかも、その下には、(ピーくんに恋愛感情を持ったことないんだけどな)との追記まであった。つまり、自分は恋愛感情を持ったこともないのに、結婚するように誰かに仕向けられていたということなのだろうか。

 その先日付が変わっても、「ピーくんと結婚しなさい」という一文は何度も出てきていた。 どういうことだ? 頭の中が、真っ白になる。同窓会で自然と久々に再開したと思っていたのは、全て仕組まれたことだったのか? わけがわからず、怖くて足がガクガクとしだした。チクタク、チクタク。時計が淡々と時を刻み続ける音だけが、部屋一面に響き渡った。そんな時に、なぜか玄関の扉がガチャっと開く音がして、嫁が帰ってきた。俺は慌ててノートを閉じて机の上に置き、急いで嫁の部屋を出てリビングへと滑り込んだ。

「携帯忘れちゃった」

そう言った嫁は、リビングで携帯を見つけたようで、

「そういえばハンカチも忘れた」

と言って、自分の部屋にも寄ってからまた出て行った。

 嫁が出て行ってから、また戻ってこないか気が気でなく、五分ほど待ってからまた嫁の部屋に侵入した。不自然な点があったのだろうか……。そこにはもうミッションリストと書かれたノートは、どこにも見当たらなかった。引き出しにしまったのではと思って開けようとしたところ、引き出しには鍵がかかっていた。いくら探しても、鍵は見つからなかった。

 あれはどういうことなんだ……。俺は、都合よく使われていただけなのか。俺が好きだと言った時に、嫁が私もと言ってくれたのは嘘だったのか。色んなことが頭をよぎる。

 思い返せば、不自然なことも多くあったように思う。恋人だった頃、嫁は付き合った記念日を忘れていた。あれも今思えばおかしなことだったよな。あの日ケーキを買って行ったら、え? 何の日だっけ? とか言われたし。こういうのは女の人の方が気にすることで、祝いたがる物なんじゃないか。そもそも俺のことは最初からきっとどうでもよかったから、すっかり忘れていたんじゃないか。それにプロポーズの時だっておかしかったよな。突然プロポーズされた時に、あんなに余裕のある意味のわからない話なんて、普通できないだろ。つまりどうでもいいことだから余裕があって、感極まって泣いたりとかそういうのがなかったんじゃないか。

 そもそも嫁が同窓会後に、わざわざ小学校のあったこの地域に引っ越してきたのもミッション達成のためだったのか。実際その後、俺からのアプローチで付き合うことになったし。仕事の関係で引っ越したと当時は言っていたけど、嫁は引っ越してから結局転職したものの、その前はフルリモートの事務仕事をしていたよな。ってことは、仕事で転勤は、ありえなくない……?

 そういえば前に、コナそを見るといい女度が上がるとも言っていた。あれって、悪いことをしているのに良心が耐えきれず、そのことを匂わせるために言っていたのだろうか。いや、そもそも嫁にそれほどの良心といったものはあるのだろうか。

 あの時のあざといとは思えない自称あざといウォークも、計算だったのだろうか。色んな事がぐるぐると頭を駆け巡る。

 あれ? ちょっと待てよ。そういえば、俺はこのミッションと言う言葉に聞き覚えがある。なんだっけ。そうだ。前に嫁がひまりちゃんと呼ぶ友達とオンラインで話していた時に、嫁がこの言葉を叫ぶのを、俺は確かに廊下で聞いた……。ほんとどうなってんだよ……。そう思って頭を抱える。あの時は気にも留めなかったけど、実はひまりという嫁の友達もこの件に関係しているのだろうか。確か元モデルだったと言っていたし、華やかな人だと人脈も多いかもだから、何かこの人経由で依頼されたとかあったのだろうか。そもそも依頼ってなんだよ。スパイ的な何かか? だとしたら依頼者にどんなメリットがあるんだろう?

 それとも罰ゲームか何かか? でも罰ゲームで結婚とかは、普通に考えづらい。でももし仮に物凄い負債を負って、罰ゲームを飲むならチャラにしてくれるとかいう取引があったとしたらどうだろうか? でもなぜこの結婚で、負債があったとしてチャラになる要素がある? 実はお金をくすねられているとか?

 気になって銀行口座を確認してみたが、おかしいところは見当たらない。そもそも京都旅行の時以外では現金の引き出しがなくて、クレジットカードしか使っていない。カード履歴も見てみたが、買ったものとざっと照らし合わせても違和感がない。家から比較的高い物が減っている様子もない。一体どういうことなんだ……。俺は思わず頭を抱える。

 でも罰ゲームよりは、スパイ的な何かの方が可能性としては高いのではないか。そういえば前にテレビで、スパイ疑惑のあった芸能人の当時の恋人がやたら写真に写りたがらなかったって話を見たけど、嫁は普通に写真に写っているから違くないか。あ、でもすっぴんでメガネかけると、眼鏡をかけずにメイクしている時とは顔が相当違くなるみたいで、顔認証されないって嫁がイラついてたことがあったな。私はお前を信用しないぞとスマホに向かって言っていたっけ。確かに写真はメガネをかけていないのばかりかも……。

 考えても埒が明かなくて、とりあえず「ミッション 妻」とネットで検索してみた。しかし、自分が欲しいような情報は出てこなかった。

 いっそ探偵にお願いするべきなのだろうか。いや、でもそもそもノートも今手元にないのに、妻がミッションリストと書かれたノートを持っていて、自分が何か騙されていないか知りたいですと相談したところで、頭がおかしいと思われて終わるだけなのではないか。具体的に何を調べて欲しいかもわからないのだし……。思わず腹の底から絞り出すような悲痛な溜息をついてしまう。本当に何なんだよ……。

 スパイか? でも俺は何も重要な情報を持ってなどいない、はず。となると、高額な生命保険を知らないうちにかけられていて消されるとか? はたまた、実は後妻業の人だとか? あれ? でも俺は、嫁以外に妻がいたこともないし、高齢でもないし、資産があるわけでもないから後妻業には当てはまらないか。そもそも、あの平たいプロポーションで、さらに万人ウケしないだろうと思われるあの性格でそれはないだろう。俺はこの手の話は全然詳しくないから、どうしても発想が貧弱になる。いや待てよ。あのミッションノートには俺の名前があって、俺と結婚するようにって会う前から書かれていたよな。つまり、俺が特殊なものに弱いこともちゃんと調査済みで、こいつでもこいつなら行けるだろうということで、誰かからピンポイントで指示が出たんじゃないだろうか。誰かとは誰だ。でもそんなの考えても分かるわけがない。それに、今の時代で、携帯じゃなくてやり取りにノートを使っているあたりが、情報的痕跡を残さないようにしているようで、ますます手が込んでいて怪しい気がした。あれ以来、あのノートも見かけていないし。いや、でも俺は別に資産をたくさん持っているわけでもないし、やっぱり生命保険か……。そう思うと、悲しいことに色々と辻褄が合ってきてしまう。

 きっと俺は消されるんだ……。愕然として、目の前が真っ暗になった。俺はあと何回季節を巡ることができるのだろう……。せめて家の中では、自分の身を守らないと。でもミッションのことに気づいたことがバレたら、決行が早められてしまうかもしれない。そう思って俺は何も気づいていない風を装いながらも、家の中では慎重に注意深く暮らすことに決めた。

 俺がノートを見たことがバレたらどうなるのだろう。この結婚が終わってしまうのだろうか。それとも俺は消されるのだろうか……。

 この日は眠れない夜を過ごした。と言いたいところだが、生まれてこの方徹夜などできたためしのない俺は、気づいたら寝落ちしていた。朝起きて、昨日見たミッションブックは全て夢なのではないかという淡い期待を持ってカーテンを開けたが、部屋を歩いたときに目に入ったベッドのサイドテーブルには、ミッションブックを見たパニックで思わず描いた困り猫の落書きが、今日も堂々と存在していた。可愛い猫のはずが、どこか豹のような凶器さを目に宿しているようなその落書きを目にして、やはりあれは夢ではなかったと現実に引き戻された。



 今までは、なんだかんだ言ってこのドアの中の空間に二人で愉快に暮らせていることが、花が舞っているんじゃないかというくらい幸せでしょうがなかった。でも今となっては、家が二人の密室空間だという事実が、危険そのものだと感じるようになってしまった。ドアを通過して一般世界に出る以外に、逃げ場はない。そして、このドアの中の密閉空間には、凶器にできるものなんて山ほどある。この間なんか、嫁は庭でのこぎりを片手に倒れた木を切り刻んでいたし、嫁を呼んだらのこぎりを右手に掲げたまま笑顔でこちらをやってきたもんな。かと言って、凶器はわかりやすいものだとも限らないよな。料理は全て外食にしよう、なんてことを不審がられずに言える訳もないよな。食べるふりをして、しれっと処分してしまおうか。いや、それはさすがに食べ物にも申し訳なさすぎるし、難しすぎる。それに、処分しているのがバレた時、俺は現時点で置かれているよりもっと危険な状況に、自ら足を踏み入れることになるのではないだろうか。

 そういえば、まだ付き合っていたころに怖い系のテレビを一緒に見ていた時のことを、ふと思い出した。その中に、殺人事件の捜索で超能力を持った人間が、死体がどこに埋められているのかを大きな湖の周りから探し出したという実話が流れていた。その時に、確かに嫁ははっきりとこう言ったのだ。

「こんなんでお金もらえるのずるい」

と。その後、嫁はハッとした顔をして、

「なーんて」

と茶化すように笑っていた。もしやこの時に、犯罪関連で簡単にお金を稼げてしまう可能性を考え始めてしまったのだろうか。いや、でもこの時は既に付き合っていたから、地道で時間と負担がかかるであろう自分のミッションよりも、楽にお金をもらえていることを羨んだのだろうか。不安が海の水のように、口元まで上がって俺を飲み込もうとする。



 あの日以来、嫁の言動が何の意図で行われたことなのか、些細なことまで気になるようになってしまった。家にいても神経がずっと研ぎ澄まされて張り巡らされているようで、会社とはまた違った形で気が休まらなくなった。

 あれ? そういえば、前に喧嘩した時にルートシックスティーンって言っていたけど、あれって、4、つまり死って意味だったのだろうか。今こそそれを発動してしまえと思ってから、まだ指示は来ていないではないか、と思い止まったのだろうか。 

 そもそも嫁があまり人の悪口を言わないこと自体、おかしいとは思っていたんだよな。そこが異常さの中にちょっとだけ存在する優しい部分でもあって好きなのだけれど、実は嫁がほとんど悪口を言わないのは、ミッションを遂行するために、俺に好かれたり人からいい印象を持たれたりする必要があるからなのではないだろうか。

 でも同時に、あのミッションノートを読んでもなお自分からの押さえきれない嫁への気持ちにも戸惑う。騙されているのでは?そう思うのに、どうして俺は愛嬌があり楽しそうなあの人を愛せずにはいられないのだろうか。

 そういえば、俺は前にピーケンサンバを撮られている。あれを脅しに使われたら、俺は色々と終わる……。くそっ。実はそのための動画だったのか……。ノリ良くお祝いされて浮かれている場合じゃなかった……。

 嫁の今までのあれは天然ボケではなく、人工ボケだったのか……?



「はーーぁ」

鏡の前で身支度をしながら、絞り出すように濁った溜息を吐く。このところ、食べ物もろくに喉を通らない。鏡に映った俺の顔は、土気色になりつつある。

 そんな食欲不振の俺を見かねて、

「最近食欲無くない? 何か仕事で嫌なことでもあったの?」

と、嫁は白々しく心配そうなふりをして見つめてきた。悪意がなさそうに見せるのが上手なその目に、不信感を抱きながら、

「いや別に」

と言い放ってしまった。自分でも消化できていない状況に、どう対処して良いかわからなかった。

 今までは、何か問題があれば徹底的に対応方法を調べつくして、最善と思われる方法で対処してきた。でも今回は……。まるで頭の中に、急に意味のない文字が一斉に大量に浮かび上がって、こちらを嘲笑うかのように浮遊して見下ろしているかのような感覚になる。それくらい俺の頭の中はぐちゃぐちゃで、収拾がつくことはなかった。不安で血が逆流する不快感がある時でさえ、俺は常に自然体を装わなければならない。

 俺は、一般的には普通と言われる選択肢を自ら取ったように見えて、実は、蟻地獄の底で得体のしれない嫁が大きく口を開けて待っているかのような場所に、知らぬ間に足を踏み入れてしまったのだろうか……。俺は、蟻地獄の上り方なんて、人生で教わってこなかったよ……。



 もやもやとした黒雲を心に抱えながら過ごし続けていたある日、

「ねーねー、見て見てーー。これピーくんみたい」

そう言った嫁が、それに包丁を向けた。いかにも切れ味の良さそうな光沢を湛えている包丁の刃が指した先のまな板の上には、一匹の魚が丸々と乗せられていた。包丁を向けられた魚は、異様な不気味さを放っているように見えた。

「どこらへんが?」

力のない声でそう言うと、

「ほら、この目のあたりがそっくり」

愉快そうにそう嫁は言ってから、少しだけハッとした表情をした。そして、泳ぎ切った目を隠すかのように、死んだ魚をジロジロと見ているふりをしていた。

「私が美味しく食べてあげよう」

冗談めかしてそう言ってから、俺みたいだと言ったその魚に、嫁は躊躇うことなくぐさっと包丁を入れる。

 なぜハッとした表情をするのか。え? もしかしてミッションとやらで、やはり俺は最終的に殺されるのだろうか。そう思って身震いする。思わずそのことを日常で匂わせてしまったことに気づいて慌てていたのだろうか……。ああ、もうっ。思わず顔を覆ってしゃがみ込みたい気分だった。



 体が重い。鳥の声がしない朝、無理やり目を開けたものの、目を開けた分だけ体の重さが軽くなることはなかった。そんなはずないのに、嫌に湿度をたくさん含んだ灰色の霧が俺を縛り付けて動けなくさせるために俺に向かって押し寄せてきて、俺を覆う形で留まり続けているかのような、そんな感覚がする。起き上がれない。仕方なく、俺はスマホを手に取る。結局やり場のない思いから、なんとなくマウンテン・ア・ゴーゴー・ツーを聞き始めた。流し始めたのに、音が耳に入って来ずに少しぼーっとしてしまって、気づいた時には

「終わらないバイバイのリズムで ヤマのように見える」(キャプテンストライダム「マウンテン・ア・ゴーゴー・ツー」より引用)

というフレーズが流れて来た。気を取り直して聴いていたが、倒れて山積みにされた人たちの上に嫁が旗を持って立ち上がり、悪魔のような笑い声を高らかにあげている、そんな映像が見えてしまう感覚を、俺はどうしても拭い去ることができなかった。



 それにしても、何で最近料理の品数が多いんだ……。今日なんて、白身魚フライに肉じゃが、ひじきの煮物に、野菜の味噌汁だった。以前の嫁なら考えられない豪華さである。

「え? なんでもとりあえず焼いて、お醤油をかけて、気分でお酢も足して、それをどんぶりに入れたご飯の上に乗っけとけばいいじゃん」

という、以前の男飯風料理の欠片もない。もしや俺を太らせて、どこかに出荷しようとしているのではないか……。いや、俺、冷静に考えろ。それは基本的にはありえないはずだから、きっと太らせて病気にさせて、俺を始末しようとしているに違いない。考えるのに疲れて、窓から見える青々とした空をふと見上げた。シシャモ一匹、べちゃべちゃご飯が懐かしい……。できるならタイムスリップして、あの頃に戻りたい……。



 嫁がケーキを買って来た。それは、俺の好きなケーキだった。今まで一度だって誕生日以外で俺にケーキを買ってきたことなんてなかった嫁が、俺の大好物のガトーショコラを買ってきた。

 これは、実際は手のひらの上で転がしておきながらも、俺にそのことを悟られずに危機感を与えさせないために、喜ぶことでもしておこうという計画の一つなのかもしれない。だが、そんなことで俺は騙されないぞ……。それにもしかしたら、これは俺を安心させる罠ですらないのかもしれない。その手の方面は詳しくないが、市販のケーキで俺が倒れた場合、手作りの食事よりも嫁が疑われにくいとも考えられるので、わざと市販のケーキに毒を仕組んでいるという可能性だって否めないだろう。

 てらてらとした、いつもなら美しいはずの茶色い光沢が、今日はなぜか怪しさを湛えているのが俺にはわかる。手前にだけに毒があるとか、左右のどっちかに毒が偏ってるとかあるかもしれないよな。さて、どうすべきだろうか……。悩んだ末に、俺は嫁の目を見ながら

「半分あげるよ。どっちに切ろうかな。縦か横か」

と言いながらケーキを着る仕草をしたが、どっちの時も嫁の表情が変わらなかったので、結局縦に半分に切ってみた。

「どっちがいい?」

と選ばせたら嫁が向かって右側を選んだので、

「じゃぁこっち」

とふざけているふりをして向かって左側を渡した。その後、俺は緑茶を入れるよと言って立ち上がり、俺は緑茶を入れるのに時間がかかっているふりをしてキッチンからずっと嫁の動向を伺いながら、嫁が食べ切るのをじっと待った。嫁が食べ終わったのを嫁の斜め後ろから見ていたが問題なさそうだったので、お茶を準備して席に戻って、俺も食べた。ケーキは、普段よりほんのり苦いだけだった。



 今晩も、俺の夕食の右上にはビールの缶が置いてある。前はあれほど、毎日晩酌をしていると体に良くないからと、俺から缶を奪い取ろうとして量を減らさせようとしていたのに、今はむしろ当たり前のように毎晩お酒が食卓に出されている。もう俺の体調は気遣わなくていい、むしろ悪化させるように、といった指示でもどこかから出たのだろうか。俺もあれだけ飲みたがっていたのだから飲まないのはかえって不自然なので、今日もプシュッと開けてグラスへと注ぐ。でも、前ほど美味しくない。お酒は笑いながら飲むから楽しいものなのかもしれない、とこの時俺は初めて気がついた。今は亡き祖父が、連休に家族で会いに行った時はいつも、

「みんなで食べると美味しいね」

と目を細めながら優しく言ってくれていたことを、ふと思い出した。その時は、味は変わらないけれど優しさであえてそう言ってくれていたと思っていたが、もしかしたら本当にそう思ってくれていたのかもしれない。俺にとってのお酒は今や、喜びの象徴という座を降りてしまっていた。むしろ、酔った勢いで自分が変なことを口走らないかが気が気でなく、脳内は自由に解放されようとしているのに、それを自分の両手が全力で抑え込んで、元の理性的位置に押し戻そうとしているような、そんな不毛な戦いが脳内で繰り広げられているようだった。飲む前より逆に倍疲れるような、そんな感覚に見舞われる。どうして普通に楽しかったことが、楽しくなくなってしまうのだろう。答えのない問いを抱えながら、俺は明日も生きていかなければならない。



 家に帰ったら、以前嫁が気に入ったと言って買っていた透明なオーロラ色の一輪挿しに、真っ赤なバラの花が生けてあった。俺はなんだか吸い寄せられるように、その花びらに触った。すべすべとした感触に、なぜか癒された。

 翌朝リビングに行くと、バラ花は昨日の跡形もなく茶色くなって枯れていた。不吉に思って、捨てようと茎を触ったときに、棘が刺さってしまった。ああもう、と苛立ちが込み上げてきて、そのままゴミ箱へと放り込んだ。俺が棘に刺さるのを見越して、買ってきたのか? もしや、棘に毒とか塗ってないよな? そう思って念入りに手を洗ってから絆創膏を付けた。一人では上手く貼ることができず、ぐしゃっとよれてしまった。



 俺がミッションのことを知ってしまってどうにも落ち込みを隠し切れなくなってからも、なんだかんだ嫁はいつものように俺に絡んできていた。しかしこのところ嫁は、時々気分が悪いと言って、あまり俺に関わらなくなっていた。

 そういえば昔、嫁と遊びに出かけた大きな公園で、

「私、ここは体調が悪くなるから無理」

と言って、その公園に行くためにその場所に行ったのに、結果的に公園の外でピザを食べて帰ってきたことがあった。そう言えばその時に嫁が話してたっけ。確か、雰囲気が悪いところで体調が悪くなる……と。俺は、その公園に悪い雰囲気などを感じることもなく全く平気だったが、嫁はなぜかダメなようだった。その公園から帰る車内で、

「体調が悪くなるようになって、会えなくなった友達もいるんだよね。別にその友達自体は嫌いじゃなかったし、むしろかなり仲良かった方なんだけど、なぜか社会人になってからその子と会うと、必ずその後三日間体調を崩すようになって……。私も原因はわからないんだけど、決まって毎回その子と会った後なんだよね。でも、そういえばなぜかその子はいつも帰り際に、『すっごい元気出たわ』って言ってたなぁ。それで、自分の気持ちとは関係なくて、体調的にその子と会うのがしんどくなって、会えなくなったんだよね」

確かそう話していた。意味が分からなかったので覚えている。特に吐き気が出たらしい。それに、自分は何も落ち込んでないのにびっくりするほどネガティブにもなったらしく、そのことに対してなんで? と客観的に思っていたらしい。

 もしかしたら、俺のことを雰囲気が悪いという理由で避けているのだろうか。俺と関われなくなっているのだろうか。それとも自分の悪事による罪悪感や、自分の悪で体調を崩し始めたのだろうか。



 今日は、ご飯を食べていた嫁が、突然手で口を覆ってリビングから飛び出して行った。ドアも開けっぱなしで、気になって廊下に出てみると、トイレで戻してしまっている声が聞こえた。何度も続く。心配と驚きとで、俺もご飯に手を付けられなくなって箸を置いた。

 もしや毒を盛っていて、間違えて俺に当たるはずのものを自分で食べてしまったのだろうか? 嫁なら有り得る。気分が悪いと言って俺とあまり関わらなくなったのは、もしや毒を入れる方を間違えないためだったのではないか。同じお皿で同じ盛り付けのどちらに入れたかわからなくならないように、わざと食事の時間をずらしていたのではないか。それに、今回は速攻効果が出るものだったようだが、蓄積するタイプの遅延性の毒を混ぜてきている可能性だってあり得るよな。

 その夕食から、俺は家でのご飯に手につけることをやめた。翌朝、俺は嫁に、

「今まで我慢していたけれど、職場で夜お腹が空くから、夕飯は職場で済ませてくるよ。朝食は、体調管理のために食べないようにするよ」

と伝え、その日から朝食と平日の夕食を家で食べることは無くなった。添加物などに弱い俺は、それからの日々、慢性的な胃の痛みを抱えることになるのだが、それが食べ物によるものなのかストレスによるものなのかはわからなかったし、そのことを考える余裕なんてなかった。週末は俺が作るか、何か買ってくるかにした。いずれも、スーパーやお店から買ってきた直後に食べるようにしていた。それでも嫁は時々トイレに駆け込んでしまうので、もしかしたら逆に俺が嫁に何か変なものを食べさせようと企んでいる可能性を考えて、嫁は何か怪しいと思った時は吐くようにして、警戒しているのかもしれない。



 休日ぼんやりとしていると、気づけばミッションのことで頭が一杯になっていた。嫁は最初こそは俺の暗さを心配していたけれど、俺が頑なに理由を話さないからか、あまり話しかけてこなくなった。もう結婚というミッションは達成したから、エサはやらなくてよくなったのだろうか。そういえば山をはしごしたあの京都旅行も、実は俺を消すための舞台の一つだったのではないか。何らかの理由で事が上手く運ばず、あのタイミングで俺を消すことを断念したのではないか。あの時、普段は時間を気にしない嫁が、やたらスマホを見て時間を気にするのはおかしいとは思ったんだよな。それに思い返せば、普段猫かぶりモードを発動していないときの嫁は気遣いとは無縁のはずなのに、俺が疲れているのではとカフェで休ませて自分だけ一時間もどこかに出かけていたこと自体、おかしい気がした。清水寺だとあからさますぎるから、最期の場所としてどこか別の場所を検討していたのではないか。それに、あの日は現金を沢山持ち歩いていた。カードが使えないことも考えて念のためと嫁は言っていたが、逆に多いのも不安だと突然駅で言い出して、結局全て現金で支払ったのも、クレジットでの痕跡を残さないためだったのではないか……。

 答えを探しながらぐるぐると考えていると、突然コナそのテーマソングが流れだしたので、俺はビクッと椅子から少し浮いて飛び上がってしまった。何が鳴っているのかと出所を探すと、俺の携帯が鳴っていた。そう言えば、以前嫁が、

「着信音が人ごとに設定できるアプリを見つけた」

と言っていた。その時に携帯貸してと言われて、嫁は俺の連絡先に記載されている人の着信音を、人ごとに変えて遊んでいたことがあったのを思い出した。コナそのテーマソングで表示された名前は、芦山だった。びっくりしたことによる速い鼓動と動揺を抑えるため、一度深く深呼吸してから電話に出た。

「久しぶり。元気にしてる?」

そう芦山が言った。体に似合わず実は俺は小動物で、本心を言うことは危険だと感じる本能があるのか、昔から自分の弱みをあまり人に見せることができない。普段なら芦山には割と素で話せるのだが、今は軽く弱音を吐けるほど、うまく感情が整わない。

「元気元気。芦山は?」

心のこもっていない軽い口調となった気もするが、できるだけ明るさを心がけてそういった。

「元気だよ。でもこの間腕を骨折しちゃってさ、ほんと大変だったわ」

「え?大丈夫なの?」

「大丈夫、大丈夫。なんか階段を下りていた時に、後ろから押されたような感覚があって、気づいたら落ちてた」

「何それ、やばいじゃん」

「でも振り返っても誰もいなかったから、きっと風が吹いてふらっと、足を踏み外しちゃったんだと思う。まあ、足じゃなくて左腕だったし、仕事も何とかなってよかったよ」

マジか……。昔から運動神経の良い芦山が、腕を折るなんて……。

「全治何か月なの?」

「いや先週治ったから、もう大丈夫なんだけどな」

「なんかお見舞いに行ったり、手伝えればよかったな」

「いや、新婚さんに気を使わせるのは悪いなと思って、あえて言わなかったんだよ。命に別状はないし気にしないで」

そう言ってハハッと笑ったように聞こえた。

「心配だから、なんかあったら言えよな。そう言えばお前、この間伏見稲荷にいた? こっちで、ジャポンヌのお祭りがあった日」

「いないよ。伏見稲荷って京都だろ? ちょうど俺が腕を骨折した時だから、いないよ」

「え、お前よく伏見稲荷が京都にあるって知ってんな」

「俺を舐めないでください」

「え、お前いつも歴史30点とかで、暗記最悪じゃなかったっけ?」

「俺はこう見えて、お前とは違ってまぁまぁ信心深いんです。ってのはジョークで、今の彼女が神社好きだから覚えちゃっただけだけどね」

「そうか。お前じゃなかったんだな」

「なんで?」

「いや、お前のそっくりさんがいたから。きっと気のせいだわ。とにかく体は安静にして無理すんなよ」

「ああ」

「そういえば、何か用があったのか?」

「いや、最近会ってなかったから、元気かなと思って連絡してみただけだよ」



 この日は会社から帰宅して深夜にお風呂に入っていたら、すぐ外でドーンというすごい音がした。それは、お風呂の壁を外から何かで強く打ち付けたような音だった。ドキッとした俺は、反射的にぐっと息を殺して、浴槽の中に身をひそめた。何回かドーンと言う音は続いた後に、何事もなかったかのように音は止んで、その後は不気味なほどの静けさが訪れた。

 急いでお風呂を出て、二階の部屋からお風呂の窓の下あたりを覗いてみたが、何も見えなかった。寝室に行くと、嫁は既に寝ていた。いや、本当は寝たふりをしていたのかもしれない。

 あれは、嫁による何らかの攻撃だったのだろうか。俺に不安感を与えて、気持ちを弱らせるための作戦なのだろうか。それとも、嫁以外の誰かがグルになっていて、その誰かが大きな音で壁を叩きに来たのだろうか。でも、何のために……? 息を殺すようにしてベッドに潜り込んだが、早まる鼓動はなかなか収まらなかった。冴え切った目で時折スマホを覗いて時間を確認しながら、ただただ夜の暗闇だけが深くなっていった。



 今日は仕事で遠出の必要があり高速に乗っていたら、何もなかったはずなのに突然バリンという音と共に、運転席とは反対側の助手席の窓ガラスが割れた。ひびが入ったとかではなくて、窓は完全に割れていた。あまりに驚きすぎて、言葉が出なかった。正直、何が起きたのかわからなかった。幸いそのガラスが俺の体をかすることはなかったので命に別状はなかったが、パニックになった頭で必死に対応方法を捻り出して、とにかく警察を呼んだ。突然のことに震えが止まらなかったし、警察の人も、なんで割れたのかは原因不明だと言っていた。急遽仕事は休みを取り、保険会社にも連絡をして車の修理へと向かった。命の危機はここまで来ているのだろうか……。スナイパーだったのか? だとしたら、弾丸があるはずだよな……。運転席側のドアを見たが、それらしきものはどこにも無い。読み解くことのできない不可解な事態に、頭を抱える。それはまるで、俺の世界を黒い靄が徐々に、しかし確実に覆ってきて、俺の空間そのものを支配してきているようだった。そう言えば、芦山が腕を折ったと言っていたけど、芦山も俺と仲がいいから、何かに狙われているのだろうか。そう思うと、気安く芦山にも関われないと思って、それがさらに俺の心に重さとしてのし掛かるのだった。



 最近背中が五角形の緑の虫が、やたら家の中に入り込んでくる。刺したりする虫でないしいいかと思っていたが、よく考えたらこんなに家の中に入り込んでくるのはおかしい。実はこれは、マイクやカメラを搭載した、盗撮、盗聴器なのではないか。嫁が家の中から放っているのか、もしくは他に共謀している存在がこれを放ってきているのではないか。虫に盗聴器などを搭載しているか、もしくは虫自体が機械でできているのではないか。とにかく捕まえようと試みたが、なかなか上手く捕まえられない。最終的には捕まえられたが、もしも虫だったら自分に害のないタイプの虫のため、結局潰すことができず、怪しげな機械かもしれないのに俺は外に逃がしてしまった。

 追加で、今日なんか外から家に帰った時に、なぜかドアの目の前に、丸々とした黒猫がいた。俺を見た途端、ぽっちゃり体形なのに、驚くような速さで坂を上っていった。あいつも、実はどこかからの偵察猫なのだろうか。訓練されていて、実は肉に埋まって隠れている首輪に、手紙とかを付けていたのだろうか。



 毎日考えて、考えて、考えすぎて……。でもどうにもできなくて……。唯一のオアシスは、実は危険地帯かもしれない。そのことが、脳を常にひりつかせる。ただでさえ仕事では部下もできてマルチタスクが増えてきたのに、脳が休まらずに頭が冴えて寝られないことが増えた。寝ないといけない。そう思えば思うほど、脳が反抗するかのように冴えていく。日に日に体が重くなり、職場で人の言葉が聞き取れないことが増えた。大丈夫ですか? 心配されると、逆にちゃんとしないといけないと思うから、余計に神経が張り詰める。ありがとう、むしろごめん。そう謝った。

 なぜかここにきて、新人の終わらない仕事も抱えることとなり、二十時に帰れる日は早いなぁなんて思ってしまう。ヒリヒリが続くと、感覚が麻痺してくる。疲れた……。休みが欲しい……。物理的な休みは週末にあるはずなのに、心だけが、ハムスターが走っている回し車のように意味もなくカラカラと回り続けている気がする。暗い中を、いつどこに辿り着くかわからないまま走り続ける。それが例え、痛くても、馬車馬のように食べられることのない人参をずっと目の前にぶら下げられている感覚がするような日々だとしても。

 仕事ではちゃんとしようとしているのに、ふっと気づけば心から魂が抜け出して脳内をさまよってしまうような、そんな日々が続くようになった。それから間もなくして、俺は仕事で大きな失敗をしでかしてしまった。上げられてきた書類に目を通していたはずだったのに、そこにはあってはいけないミスが存在していた。それは重大な修正を伴う、部にもお客様にも多大な迷惑のかかるものだった。

「本当に申し訳ございません……」

そう言って、ただただ深々と頭を下げて謝罪に奔走する。ただでさえ忙しい職場が、俺のミスにより火の海になる。俺には袋の中に入ってしまったネズミのように、明るい場所に出られる道などどこにも存在しないかのように感じられた。

 対応に追われる日々を過ごしながら、ふとある日の帰り道に、海が見たい。なぜかそう切に思った。家に帰ると遅い時間なのに、嫁は俺が帰ってくるのを待っていたようだった。あのミッションブックを見つけてしまって以来、帰宅後はテレビをつけるのが習慣になっていた。別に見たいものが無くても、どうしたら普通に振舞えるのかわからなくて、今日もリモコンに手を伸ばした。そこには燦々と太陽に照らされて溢れんばかりの光を溜め込んだ海が映っており、ハワイの特集をしていた。思わず

「海に行きたい」

そうぼそっと呟いてしまった。

「いいね! 海行こうよ」

そう嫁が言う。

「疲れているからいいや」

そう言うと、嫁は真剣な強さを感じる目で見つめてきて、

「いや、行こう?」

と言った。

 しかし、この嫁と季節外れの海というのは、かなり相性が悪い。そして、この真剣さは俺を消すちょうどいいタイミングを見つけたということから来る、決意の宿った目なのではないかとも感じられた。もしも、俺が沈められることになったなら……。そう思うのと同時に、もう俺の知る嫁などいないのだから、別に嫁に沈められたところでもうこの世に悔いなどないではないか。別に、自ら沈もうとかは一切思わないけど。とも思ったら、疲労感を差し引いても行ってもいいような気がしてきた。

「別にいいよ」

そう言ったら、嫁はいつもの様子に戻り、

「やったー! 海だ海!」

と言って喜んでいた。

 週末は、朝から高速を飛ばして海へと向かった。嫁は相変わらず楽しそうで、スピッツを歌っている。

「君の青い車で海へ行こう

 おいてきた何かを見に行こう

 もう何も恐れないよ~

 そして輪廻の果てへ飛び下りよう

 終わりなき夢に落ちて行こう

 今 変わっていくよ~」(スピッツ「青い車」より引用)

 そうこうしてたどり着いた季節外れの海は、休みの日だというのに閑散としていた。車から降りると、犬の散歩をしている人が二、三人くらい見えた。海の方に歩いていくと、ある程度一定のリズムを奏でている波の音がなんだか心地よい。しばらく歩いたところで、ふと急激な眠気が襲ってきたので、砂浜に大の字になって横たわった。

「えー、お兄さん、海に来たんだから、ほら、水を掛け合って、アハハハハッ、うふふふふっ、とかしようよぉ~」

と嫁が言ってくる。

「嫌」

ふざけもしない口調で俺がそう言うと、

「仕方ないなぁ。じゃぁ、あの砂浜のやつでいいから。砂浜をアハハハハッ、うふふふふ、って言い合いながら走るやつしようよ~。私はアハハハハッの役がいい」

どう考えても逆だろ。俺がうふふふふっとか言ってたら怖いだろ。そう思いながらも返答するのも面倒で、ふっと目を閉じる。普段なら人の目を気にして、地面に寝そべるなんて絶対にできない。でも今はなんだかどうでもよかった。

「1人で寝そべってたら変な人だと思われるよ?」

そう言われたので若干目を開けると、

「でも私も寝そべるから平気だね」

ニッと笑って、嫁も横に大の字になった。

 俺が再度目をつぶった後に、

「あ、カニ」

と嫁が言ったのでびっくりして身を引くと、

「嘘」

と言ってニヤッと笑った。

「ほんと、そういうのやめて」

と、最近の疲労から少し苛立ちのある声で言ってしまうと、

「あ、気のせいだった。ほら君。そんな紛らわしい格好をしてはダメじゃないか」

そう言ってカニとは似ても似つかない巻き貝の殻を持ち上げて、そいつのせいにしている。さらに急激な眠気が襲ってきて、目を閉じた。

 しばらくしてから目を開けると、目の前をゆっくりと大きな魚が通っていくのが見えた。何事かと驚いていると、急激な息苦しさを感じた。そこで始めて、俺は海の中にいることを悟った。ああ、とうとうこの時が来てしまったか……。どこかでそう思いながらも、急いで水面に向かおうと手足をジタバタさせた。しかし動けば動くほどその甲斐虚しく、まるで体に重りがつけられているかのようにじわじわと沈んでいく。抵抗しても意味がないとわかって、仕方なく身を任せる。落ちて、落ちて……。気づいたら海の底に背中が当たった。海の底って意外とたどり着けるもんなんだな、そうどこか冷静な自分が思いつつ、同時に息苦しさからここが俺の最終地点かと諦めかけていた。すると、突然上に向かう上昇気流のような、それでいて何か生き物に押し上げているような、そんな不思議な流れが無数の泡と共に巻き起こった。なにかわからないそれは、俺の体を上へ上へと押し上げていった。気づいた時には、俺は浜辺の水際ギリギリに横たわっていた。マジか……。俺は生きている……。驚きと共に、とにかく助かった安堵からなのか、また急激な眠気に襲われた。

 再び目を開けると、そこにはこちらを見ている嫁と、最初に寝そべった時から変わらない風景が見えた。あれ? 俺はさっきまで水際にいたはず……と思って起き上がるも、その時初めて服が濡れていないことに気づいた。

「あれ? 俺溺れたよね?」

そう嫁に聞いてみたが、

「ん? ぐっすり眠っていたよ。ずっと私ここにいたけど、海の中には入っていないよ」

と言った。確かに息も苦しくないし、水を飲んだ感じも海水の味もしない。どうやらあれは夢だったようだ。時計を見ると、気づけば一時間くらい経っていた。

「手足をジタバタさせながら楽しそうに寝ていたね。よく寝られてよかったね。それじゃぁ見張りも終わったし、私一瞬海入ってくる」

そう言って、靴と靴下を脱いで、嫁が海に走る。

「チベタッ」

そう嫁が叫んだ。水が思ったより冷たかったらしい。それでも水のかけ合いができなかったのがよほど悔しかったらしくて、一人で二役、水をかける役とかけられる役を急いで左右に動きながらこなして、アハハハハッ、うふふふふっとも言っている。結局、そこそこビチャビチャになって海から上がってきた時には、嫁の唇は紫になり震えていて、寒いっ寒いっと言って、普段のように歌う気力もない状態だった。

「帰ろう?」

そう嫁が言ってきたので、俺も寄せては引く波を軽く手で触れてから、帰ることにした。結局、今日も危険はなかった。嫁に沈められることはなかった。むしろ嫁が意味の分からない形で風邪をひきそうなレベルである。帰ってからは、何か憑き物が落ちたかのようなスッキリ感があった。

 この日、嫁は早くに寝てしまった。それでもいつもの癖で、俺はテレビをつけっぱなしにしていた。すると特番で、過去の名曲特集が始まった。

「あ、スピッツだ」

ロビンソンが流れてきて、嬉しさで思わずそう口に出してしまった。ゲストの方が、僕はこの曲が一番好きですねと言って、君が思い出になる前に、も短く流れた。懐かしいな。そう思って聴いていたところ、

「次は、平井堅さんのノンフィクションです」

とアナウンサーが言い、映像が流れた。この曲が売れていた当時もテレビで見てはいたが、なぜ今の方がこんなにも心にグッと響くのだろう。テレビに噛り付くように見入った後で、ソファーに座りなおしてふと考えた。学生の時、国語で有名な小説家の名作が連ねられている便覧があったが、音楽にも同じものが存在したら、平井堅が歌うこの曲は、スピッツ、バンプと共に、間違いなくそこに記載されるだろう。そんなことを考えている内に急激な眠気が襲ってきて、この日は珍しくぐっすりと眠ることができた。



 月曜日は、朝から定例の会議があった。

「では、部の定例会議を始めます。まずは前回議題に上がった大規模トラブルに関して部長から」

「えーー皆さん。今回は繁忙期に起きたトラブルで、本当に大変だったと思う。その中で、各々が時間を作ってみんなで対応に当たってくれたことで、無事解決に導くことができた。本当に大変な中、よくやってくれた。ありがとう。君たちだからできたことだと思う。疲れも出るだろうから、今日からは早く帰れる人は早く帰るように。以上」

部長が話し終わった後に俺も立ち上がり、

「この度は多大なるご迷惑をおかけし、本当に申し訳ございませんでした……」

と頭を下げる。席についてから、俺は音を殺しながら長く息を吐く。

 会議が終わった後、俺は睨んでくる副部長の横を軽く頭を下げながら通り抜けて、部長の元へと向かった。

「この度は、本当に申し訳ございませんでした……」

そう言って頭を深々と下げる。頭を上げずにいると、

「頭を上げてくれ」

と言われた。

「誰にでもミスはある。君がいつも頑張っているのは知っているし。今後は気をつけてくれ。でも気にするな。そもそも今回のは、君の担当ではないだろう。それでも、そのミスを一人で一手に引き受けたことは、偉かったぞ。君が引き受けなかったら、あの若手は自分を責めて会社に来られなくなっていたんじゃないか?」

そう言ってくれた。上司の俺が目を通したのにミスに気づかなかったのだから、確実に俺の責任だ。でもそういう風に言ってくれる人がいることが救いだった。部長は厳しくて、人前でも構わずよく部下を叱る人で、さらにお酒が入ると昔は帰らずに働いてあの過渡期を乗り切ったという武勇伝が始まるので、部内では嫌煙する人も少なからずいた。しかし今回の騒動で、俺には帰るように言いながら、実は部長だけは会社に泊まり込んで誰よりも火消しに奔走くれていたことを俺は知っている。人に厳しいけれど、それは驚くほど自分にも厳しい人だからだと思う。俺は部長に何度も注意されたことはあるけれど、どれも筋が通っていたので個人的に嫌な気持ちになることは特になかった。今回のことで、本当にありがたさが身に沁みたし、部長に足を向けては寝られないと思った。

「それに」

部長が声のトーンを落として続ける。

「副部長のことは気にするな。理不尽なことで怒鳴り散らしていびるのは有名で、もう何人も部下を休職に追いやっていて、正直会社も手を焼いている。ここだけの話だが」

以前、驚くような罵声を言われたことを思い出して、身震いする。でも同時に、今回の件とは別の時に、副部長の意味不明な雷が落ちそうだと思った際、副部長とのやり取りを早々に切り上げた直後に急いで自分の席に戻ろうとした時に、なぜか無言で鬼の形相で追いかけてきたので、自分の席についたものの俺は座らずにもう一周したら、さらについてきたので、なんだかチームの机の周りを二人でぐるぐる速足で回ることとなって最終的に何をやっているのかわからなかったことがある。それだけは地味に面白かった。しかし普段のやり取りは、デフォルトとして苦しい人だ。

「副部長にもし何かされたら俺に言えばいいから。とりあえず、お疲れ様。君も無理せず早く帰れよ」

そう言って部長が席へと戻る。ほんと、きついことだらけな気がしてたけど、時々会ういい人に救われてるなぁ。ぐっと目に力を入れながら、自席へと向かった。

 思い返せば、悩んでから未来に囚われすぎて、見えないことを見ようとしすぎて、何もかもが楽しくなくなってしまった。それは、旅行に行こうと計画してワクワクするのとは真逆で、わからない未来に永遠と不安になって閉じ込められてしまっているようなものだった。現時点では命に別状はないのに、その不安の渦の中にいるものだから暗くて何も見えなくて、何も楽しくなくて、ただ息苦しいだけの日々が続いた。

 でも底無し沼だと思っていたのは実は海で、俺はあの時海の底を触って、そして何かの力を借りて上がってきたのかもしれない。なんとなくそう感じた。ミッションリストという謎の支配下にある現実は一ミリも変わらないのに、それでもこの時の俺は、少し前までの漆黒の世界とはなぜか違う場所にいるようなそんな感覚がしていた。

 仕事も思いのほか早めに片付き、ありがたさを噛み締めて今日の出来事に思いを馳せながら家路についた。そういえば、前に飲み会の時に、何の話からそうなったかは覚えていないが、

「俺が尊敬するのは、吉田昌郎さんだ」

と部長が酔っぱらって言っていたことを思い出した。俺は知らなかったので、

「芸能人ですか?」

と聞いたら、

「知らないの? 原発の英雄だよ」

そう言ったきり、話は別の方向に移って行ってしまった。

 なぜか今、ふとそのことを思い出して気になったので、電車内で吉田さんのことを調べてみた。すると、ある記事が出てきた。吉田さんは、福島の原発の時に上層部と官邸の命令に逆らって、自分の命を犠牲にしてまで日本の人々の命を守ってくださった方だということがわかった。更に、フクシマ69の方々のことも知り、不覚にも静かに電車内でハンカチを出して目を覆うこととなった。本当にありがとうございました……。もう今となっては声で伝えることのできない方々に足りすぎるとも思える言葉だったが、せめて心を込めてそう思った。

 人は、大体同じような形で、違いはあれど人間というカテゴリーに比較的容易に分類できる生き物の体を持っている。けれどその中で何を思って、それをどう使って生きるかは、地面の中に潜るのと、空を飛ぶのとくらい違っているんだろう。基本的には人間と分類できる見た目でも、中に何が広がっているかは、宇宙と同じようでわからないよな。生かすも殺すも自分次第……か。それは、物理的な意味というよりも、もっと魂というか存在そのものに関わる部分な気がした。

 同じ人間なのに、彼らと自分とではこうも違うのかと愕然とする。でもそれは、自分を卑下して否定するものではなくて、人間がその領域まで到達できるということが俺には希望のように感じられた。もし人間が中身の状態で形が変わる生き物だったら、俺は自分では普通と思いながら、現時点では濁った沼にしか生息できない生き物になっているかもしれない。そもそも、実は人を人間と認識するのではなく、それぞれが固有種の生き物くらいの考えでいた方が、もしかしたらお互いを尊重できるのかもしれない。人間だと思うから、犬ならこうでしょ?みたいになんでも決めつけてそれぞれの理想に押し込めたくなるけれど、なぜか形を似た存在に保っておくことができる、中身の全く異なるゆかいな生き物たち、と考えた方が、実は暮らしやすかったりして……。いや、でも不安を感じたり余裕のない状況になったりした時に、本来の生き物の形を露呈してしまう。みたいな世界になったら、人間という形を持っているから隠し通せていた闇属性具合が露呈して、俺の人生終わるのだろうか。そう思って、なかったことにしようとふっと脳の蓋を閉じた。

 今日も俺は地面を這って、不自由で便利な人間という形を享受しながら、家に帰る。でも俺は、人間でいる間に、中身により形が変わっても大丈夫かなんて気にする必要すらない、自分という人間の限界にどうしたら到達できるのかにも興味を覚えた。人がどうだとか環境がどうだとかに関係なく、たとえ自分が吉田さんにまで生きている間で到達しないものであっても、それでも自分が優しさを発することができる人間にこれからなっていきたいと思った。それは砂漠に種を蒔くようなものかもしれないし、人が聞いたら馬鹿げたような話かもしれないけれど、それでももしその花が咲くことがあったら、きっと俺は価値があると思うから。こつこつと、まるで意味がないと笑われるような砂漠を永遠と耕している男のような、たとえそんなんでもいいから、自分が思う良き形の芽を育みたいと感じた。俺の脳内で、なぜかバンプのグングニルが響き渡った。



 お風呂の前を通りかかった時に、珍しく声が聞こえた。もしや、嫁が誰かと電話で話してるのかと思って近寄ると、嫁は歌を歌っていた。よくよく耳を澄ませると、平井堅の曲だった。

「君の好きなとこなら星の数ほどあるのに~一つも言葉にできなくて~」(平井堅「君の好きなとこ」より引用)

というフレーズが聞こえた。いつもふざけている時とは違って透き通る意外な声が、心地よく身体中に響き渡った。そのあまりに透明で澄んだ声に、少しだけ聴き惚れてしまった。そして、もう騙されてもいいかと我に返ったようにふと思った。色んな感情がぐちゃぐちゃに湧き上がってきて、ちょっとだけ泣いた。



 嫁は、今週の土日は一人で実家に帰って行った。それは、俺がいる週末では結婚してから初めてのことだった。土曜日は、嫁を見送ってからスーパーに買い出しに行った。スーパーから帰って、さすがに嫁が家を出てから十分な時間が経っただろうと思い、今日こそは嫁の部屋の机の引き出しの鍵が開いていないか確認しようと、嫁の部屋のドアノブに手をかけた。このところ、嫁がいない時には引き出しの確認が習慣になっていたが、でもふと、無性にココアが飲みたいという欲求に駆られた。勝手に部屋に入る罪悪感もあったので、なんだか気が削がれてしまい、今日はやめておこうと思ってココアを飲みにリビングへと戻った。

 温かいココアを胃に注ぎながら、ぼんやりと考えた。これだけ時間が経っても今のところ命に別状は無い。でも、現実は概ね以前と同じなのに俺は幸せじゃないんだ。朝起きて、お日様が出て、仕事をして、家に帰って、嫁と会って、ご飯を食べて、寝て。今は、平日のご飯は家で食べていないが……。でも、基本的に終わりを告げるその日まで、この現実は昨日だって今日だって、きっと明日だって変わらない。それでも、俺が全力で悩んで不安になって、落ち込み続ける限り、日は昇らない。太陽が昇っても、俺は生きている残りの人生でさえ暗闇の中にいることになる。俺はきっと、どうなってもあの人を好きできることはやめられない。嫁の唯一の強火担になってしまう自信だけはある。それならもういいじゃないか。俺が嫁を好きで居続ける。それでいいではないか。そもそも俺は何が欲しいんだ。命でも嫁でも、失ったら不安なんて考えても、今ろくに会話をできていないのは失ってしまっているのと何が違うんだろうか。あーばかばかしい。俺はアホなのか。もういい。開き直ってやる。むしろ、自分が強火担になってしまうような人と結婚できていることが奇跡だし幸せすぎだろ。

 そう思ったら、フッと肩の力が抜けたようになって、なんだか色々とどうでもよくなって、無性にお腹が空いた。それで、自分の胃袋は無重力か! って思うほど、とにかく食べ続けた。いや、俺は胃下垂だから、無重力ではないな。というかそもそも、無重力じゃなくないか。俺のお腹はブラックホールか! だ。それそれ。ブラックホールになったくらい、食べて、食べて、食べまくった。そうしていたら、なんだか安心してしまったのか、無性に眠くなった。これじゃ赤ん坊みたいじゃないか。そう思いつつも、やはり重力には逆らえず、そのままベッドで寝てしまった。食べてすぐに寝るのはよくない。わかってる。わかっているけど……。胃が痛くなりにくいらしいと前に会社の人が言っていたのを思い出して、せめてもの抵抗で左向きに寝た。

 夢を見た。夢を見るなんていつぶりだろう。それに、夢なのに夢だと思えないくらい、凄くはっきりした夢だった。それは、俺が生まれる前の夢だった。

「俺も行かせてください」

宇宙の生まれ変わりの場所で、生まれ変わりの権限を持つ人に俺はそう言っている。

「あの人が困った時に、助けたいんです」

「でも君は、あの人が困った時に助けることはできないよ。あの人はそれを、自分でこなさないといけない」

「それでも行かせてください。あの人の隣に、別の人がいるのは嫌なんです」

「でも、他の人と付き合うかもよ?」

「その時は、その人とは別れさせてください」

「え? そうしたら、あの子は辛くなるよ。悲しむよ」

「それでもいいです。その後俺が幸せにしますら」

「普通はそういう時、違うこと言うんだけどな……」

生まれ替わりの権限を持つ人が、独り言のように小さな声でぼそっとそう言って考えるようにしてから、

「君のそういうところ嫌いじゃないよ。よしわかった」

と言ったのが見えた。

 この映像が見えたときに、どうも嫁には宇宙のどこかで助けられたことがあるという感覚も蘇ってきた。ただ、具体的に何を助けてもらったのかはわからなかった。

 起きてから、なぜか未だにはっきり覚えている夢を思い出して、不思議と腑に落ちる感覚があった。だからか。だから俺はあの人をどうしても愛してしまうんだ。もうこれは仕方ない。宇宙にいる生まれる前から、俺は嫁の強火担なのだから。

 ライオンハートがなぜか脳内を流れる。あの一番のサビ、俺が書いてないよな? と錯覚してしまうくらい、ぴったりな歌だと思った。



 昨日は何となく後ろめたさを感じて、最近は日課になっていた嫁不在時の嫁の引き出しチェックはしなかったが、今日はやはり確認したい気分になった。嫁は今日の夕方頃に帰ると言っていたはずだ。そう思い立って嫁の部屋に入ると、机の上に何やら紫のキラキラした分厚いノートが置かれていた。なんだこれ? 前に見たのとは違うぞ。ドキドキと鼓動が早まる音が、耳まで響く。本当は見てはいけないとはわかっているのに、不安を覚えながらも手を伸ばさずにはいられない。

 ひとまず最初のページをめくった。ノートの一ページ目には、意味の分からない言葉が書かれていた。

(見えない存在から言われたことを、「」で書いて、自分が思ったことは()で書く。)

と。その後に、鍵括弧でこうも書かれていた。

「ただし、見えない存在から言われたということは、基本的には人には言わないこと。信じてもらえないから。たとえ何かで説明しなければならないときがあっても、直感でそう思った。と言い換えること」

もう一つの鍵括弧には、こう書かれていた。

「君はすぐに忘れてしまうので、聞いたことの中でも特に行動が必要なことは、ミッションリストという別のノートを作成して記しておくこと」

と。

 一体どういうことだ? 状況が読み込めなさすぎる。見えない存在って何なんだ? そういえば、確かに不思議なところがある嫁だった。あまりまともに取り合ってなかったが、オーラが見えるとか言っていたこともあったな。ダークな場所もあって、そういうところは気持ち悪くなるからいられないとかいう謎発言もしていたような……。嫁の空想が発動したと思って、その時は真面目に受け取っていなかったが……。それに、直感的に、とやたら言うなと思っていたけど、実はなんかそういうのが強い人なのかもな、とこれを読んで思った。この世の中には、俺には見えない霊が見えるという人や、動物と会話できるという人だっているくらいなのだから。

 ……なんだ。ヘナヘナと体の力が抜けた。ミッションノートって、何か悪意のある、誰か生きている人から指示されたものではなかったのか……。まぁ、見えない何かから言われたと嫁は書いていて、それを信じていること自体はだいぶ怖いが。ただ、嫁は何も薬は飲んでいないし、副作用で幻覚作用のあるものは、摂取していないだろう。

 なんだ……。禍々しい渦を生み出したのは自分だったということを、俺は今の今まで気づかずにいた。底なし沼に死を踏み入れてしまったかのように動けども動けどもまた体が一滴一滴と沼に沈んでいくようなそんな日々を、俺は自ら選んでしまっていただけだったのか。この時まで俺は、自分が選んだとは思っていなかった。まるで大鳥に突然加えられて、落とされた先が運悪く沼だった。ずっとそんな心地だった。でもそんな大鳥なんて、この世界には存在しない。恐竜の住む世界にタイムスリップなどしていないのだから。この沼の恐ろしいところは、一刻一刻と沼に沈んでいくかのように見せながら、本当に奪われていたのは思考能力と前向きさだったことだ。しかしそのさなかにいたときの俺は、このことに気づくだけの余裕はなかった。なんということだ……。安心感と拍子抜けと情けなさと、色んな事が混ざり合って言葉にならない。

 一体ここに何が書かれているのだろうか。その先がとにかく気になってサッと目を通していると、

「ピーくんと結婚しなさい」

というワードが、鍵括弧付きでやたらたくさん出てきたので、ホラーかと思った。しかもやはりミッションリストに書かれていたのと同様に、それが俺と小学校以来久々に会うこととなる二年くらい前からだ。ここにも最初と思しきその文章が書かれていた後に、ミッションノートのようなコメントがあったが、若干異なっていた。

(え? 私恋愛対象として全く見たことがないんだけど? 全く考えたことなかったわ。将来結婚しようねとかあるあるな話も無く、むしろ喧嘩した記憶しかないな。)

との記載があったので、ちょっとだけ落ち込んだ。これを読んで、若干心臓は抉られつつも、不思議とホラー感は消えることとなった。

 続きをさっと読み進めていたのだが、そこで俺は見てしまったのだ……。俺が見た夢と同じ内容が書かれているページを……。ハッと息をのんでびびってしまい、少しの間動けなくなってしまった。言葉自体も同じだった。愕然として言葉が出なかった。その終わりの鍵括弧の後にはこう書かれていた。

(2019年までは元彼と別れるなっていうのも前に聞いてたんだよね。その時はなんでだろうと思ってたけど、まぁ言われたからそのとおりにした方がいいだろうなと思って、そうしてた。その人と付き合ってる間も、何人かに言い寄られることはあったけど、もしあの時点で元彼と別れて他の人と付き合ってたら、結婚しちゃってた可能性高かったよな。実際、その中の一人と仕事で後々会った時には、その人は結婚してたし。

 そういえば、前に付き合っていた人と別れた後で、別の知り合いに言い寄られた時も、体調悪すぎて田舎に引っ越さないと呼吸器が持たなくて、それどころじゃなかったもんな。というかピーくんの怨念のせいで長らく結婚できなかったのか? ってか、最後一回仙人みたいな生活を挟むことになったのはピーくんのせいか? いや、さすがにあれは私の体調のせいだな。

 でもこの映像を見て、まぁ、私はあんまりゼロから妄想できるタイプではない上に、自分だったら全く言わないなって内容だったんだよね。だから若干信憑性あるような……。もし本当なら、なんでこれだけピーくんと結婚すると言われていたのか、わかる気がした。というか、え? こんな理由で、なかなか過酷な地球に降り立つと決めちゃってよかったの? と、なんか若干の申し訳なさがある。責任感が重い気はするけど、どことなくその重さを嬉しいかもと思ってしまう自分もいる……。というか、そもそも全くピーくんに恋愛感情なかったんだが。なんだこの矛盾。)

 ここまで読み終えた俺は、マジか……と思った。色々と知らない事実が書き連ねられている。若干の嫉妬なのか安心なのか、複雑な気持ちが体を巡る。

 続けてパラパラと見ていると(パラパラを踊りながらではない)、

「1000年の時を超えて会いに来ているから、マジで旦那は大事にしろ」

とも書かれていた。誰だか知らないが、いいこと言うじゃないか。そうだそうだ! もっと言ってやれ! この文言を切り取ってハイライトを塗って、壁に貼りたいくらいである。これこそミッションノートに書き記す必要がある言葉なのでは? と思いつつ、同時に1000年もの時を超えて追いかけているとか、自分のしつこさにちょっと引いたので、文言を壁に貼るのは無しにした。それにしても、運良く結婚出来て、あの人ですって指をさされて通報されるパターンじゃない人生で良かった。

 何一つ誰かのせいじゃなかった。いや、もしかしたら元はと言えば、一番最初の俺の動機が原点と言えてしまうのかもしれない。でもあの原点がなければ、このドアの中に生み出された世界はなかったのだ。

 俺はただミッションリストを見つけて、自ら暗闇に足を踏み入れてしまっただけだったのだ。なぜあの時に本人に聞かなかったのだろう。いや、あの状態では、聞くことなど到底できる気持ちではなかった。でもこんな暗闇に入っても、どれほど不安に飲まれても、それでも俺はこのドアに帰らない選択肢を取れなかった。それはただの帰巣本能なのかもしれないし、そこだけは何がどうぐちゃぐちゃになっても、なぜか譲れないところだったのかもしれない。バカだなぁーー、俺。乾いた声で笑う。でも、俺にとっての意味を、心の奥深くの燈を、弱めたとて自ら吹き消してしまうことをしなくてよかった。それはできないことなのかもしれないし、できることなのかもしれないけれど、どんな状況になっても、なぜか譲れないことを譲らなくてよかった。誰にも譲らなくてよかった……。そして同時に、大きな申し訳なさもこみ上げてきた。

 それにしても、俺が夢を見た後に、俺が見た夢と同じ内容を嫁がこのノートに書き込むことはあり得ない。俺は家にチェーンロックをかけていて、妻は土曜日から家に帰ってはいないのだから。少なくとも土曜日に俺がスーパーに買い出しに行ってからは、明らかに帰っていない。

 怖々と、でも俄然興味が湧いて、人の日記風の何かをさらに読み進めた。



 最初の方はまだ付き合っていた頃の話だ。あ、これは俺も覚えているぞ。

(今日テレビで怖い話がやってた。超能力者と呼ばれる人が湖からどこに死体が埋まっているかを探し出したという実話が出てたんだけど、それでそのやり方を教えてたんだよね。その方法が、ばーっと湖のオーラを見て言って、オーラがおかしいところに死体はあるって言ってて。それを聞いて、なにそれ? そんなの誰だってできるじゃん。そんなんでお金を貰えるなんてずるいって思った。こっちは、日々命をゴリゴリ削られながら社畜をしているのに……。そう考えていたら、)

「そんな発言をするな。あなたの能力はあまり人に知られてもいけない」

(と後ろの人に戒められた。あいあいさーー。)

 これ、嫁が犯罪に手を染めるきっかけ的な何かではなかったのか……。

 あ、これも覚えている。というかむしろ忘れられない。

(今日は付き合った記念日を、すっかり忘れていた。著しく記憶力が悪いことはどうやら言い訳にならない世界らしく、何とも難しいものだということが身に染みた一日だった。タイムスリップとかできたら楽勝なのに。その能力の取得方法をむしろ知りたい。ピーくんは最初はがっかりしていたけど、その後は呆れたように笑っていたから、結果オーライだろうか。)

 いや、全然結果オーライじゃないよ。色んな意味で不安にさせておいて、ちゃんと反省してほしいものだよ。ていうかこれ、普通に記念日を忘れているだけのパターンだったのか……。



 永遠に時間がかかりそうなので、俺に関係のありそうなところと、気になったとこだけをピックアップして読み進めていくことにした。



 (妹に見えない存在から聞こえた話をしたら、イマジナリーフレンドがいるんだねと可哀想なものを見るような目で言われた。不満である。

 やっぱり、本人も色々見えるひまりちゃんにだけ話すように気をつけよう。)

 ていうかひまりさん、まさかの嫁と同類……w



 (時々トラウマのようにフラッシュバックしてくる過去の恋愛が、またしても蘇ってきた。私は今まで特に好きな人とは付き合ったことはなくて、好きな人とは別に付き合いたいと思ったこともなく、逆に顔だけはタイプの人に言い寄られて付き合ったものの、結果サイコパスチックなお方で長々と付き合いつつも別れるということはあった。なぜサイコパスチックだと感じたかと言うと、目の前に困った人がいてもその人は助けることはなく、時には困っている人をむしろ嘲笑っていたからである。それに、時々不必要なところで人を見下した言動もする人だった。それはその人がそうされたことがあるからなのか、それともそうされたことがないからなのか、なぜそういう性格であったのかは私にはわからない。ずっと小骨が喉に突っかかるような違和感を抱えながら、それでも私のような人にも優しく接し付き合ってくれるのだからと自分に言い聞かせていた。でも最後の別れの時に、その人は思いもよらない言葉を言い放った。自分は自分にメリットがある人にしか優しくしないし、優しくすればそれがメリットとして返ってくるから優しくするのだと。なるほど。これがずっと感じていた違和感だったのだなと腑に落ちた。身近にはいないタイプだったから少し驚いた。色んな人の悪口を言う人間は、私の悪口もどこかで言っているという、あの現象に近い物であり、その人の誰かに対する態度は、いつだって最終的には身近なところに現れてくるものなんだな、と感じた。まぁ私も荒れる時期はあって、総合的にその人よりいい人かなんてわからないのだから、別に人のことは言えないんだけどね。

 この別れは必然であり、そしてめでたいことでありながら、この関係が当時存在したのはある種私のせいもあったのかもしれない。出会った時の私は、気持ち的に堕ちに堕ちていたのだから。結局その人とは自分から付き合いたかったわけでもないし、ましてやその人と結婚をしたかったわけでもなくて、むしろ、彼氏がいるというステータス、結婚というステータス、それだけが欲しかった。おいっとツッコミたいけど、本当にそうなんだよね。なんだ、あの時の謎の渇望感。でもその事実に、仕事が忙しすぎて気づかなかった。てへぺろ。色んなことが混ざり合ってぐちゃぐちゃな偶像作品が作られ、そして結果ぺいっと廃棄された。

 まぁ、別にこの経験が悪いとは思ってはいないんだけどね。だってモネのように黒が無くて、綺麗な風の吹く絵しか知らなかったら、他の絵でちょっと出てきた黒を嫌に気になって、ストレスを感じるかもしれないから。黒の時代の絵を見たことで、美しい絵の眩しさが見えるじゃん。それに自分はどんな絵が好きなのかもわかってくるし。だからといって、もう黒の時代はこりごりだけどね。

 話が逸れちゃったけど、正直もはや結婚は半ばあきらめていたんだよね。でも、単純作業をして何も考えていなかった時に、「ピーくんと結婚するよ」という想定外の人のことを突然見えない存在から言われる事態がこの間発生して、かなり驚いた。色々と消化できないから、一旦放置しよう。)

 嫁、ストレスを感じる内容だからか、怒りモードだからなのか、普段の嫁とは違う文学的というかなんというか、異常な書きっぷりで、なんか文章が謎にかかっている。ていうか、嫁の元カレの話とかマジで聞きたくない。さっさと読み飛ばそう。



 (母に、これ食べる? って言われて、どうしようかな~と悩んでいた。

「気持ちとしては食べたいけど体がなんていうかな? 体と頭で違うことがあるんだよね」

って言ったら、それ、あれっぽいと言われた。

「ほらあれ、矢沢永吉がさ、『俺はいいけど、yazawaはなんていうかな?』っていうあれ」

そのフレーズがやたら気に入ってしまった。今度何かに使おう。)

 なんか関係がないのに、ふと目に留まって読んでしまった。



 これは久々に会ったときの話だな。

(散々結婚するように言われていた中で、小学校の同窓会のお知らせが来たので行ってみることにした。なぜか早々に転向したのに、今までも何度かハガキが届いてきていたんだよね。今までは出席していなかったし、片道何時間もかかるけど、頑張って行くことにするわ。わざわざピーくんと結婚するって見えない存在が何度もしつこく言ってきているのは、言わないとそれが実現しないからあえて言ってきている可能性もあるもんね。)



 (今日は同窓会で、大きくなったピーくんを見た。見た目がドストライクというわけではなかったけれど、目を見たら、他の人には感じたことのない、言いようのない絶大な安心感に包まれた。この人はどんな私でも受け入れてくれるのではないか。ごく普通の話しかしていないのに、なぜかそんな感覚が心に浮かんだ。そして誰にでも態度を変えずに目を見て話しているのにも、好感を持った。

 人間を破り捨てて、ようやく誰かの前で自分を完全に露わにできる始まりが、もしかしたらこれから始まるのかもしれない。なぜかそんな予感がする。私視点ではチャンチャン! という音楽が流れそうなところだが、果たしてこれは世間的には良いことなのだろうか、それとも……。(ここでゴジラのテーマソング。))

 普段は言わない俺の良いところが書いてあったので、嬉しくて何回か読み返した。でも一度脳内に流してしまったら消えなくなったゴジラのBGMが、ちょっとだけうるさかった。



 (母の日の話題がなぜか今日職場で出て、ふと考えてしまった。知り合いのお母さん達が、本人達もすごくいい人達で、子ども達もすごくいい子達でなんだけど、時々お母さんがぐわーって感情的になってそのまま子どもにぶつけて怒っている、みたいなシーンを見ると、ふと不思議な感覚になる。そういえば、私は自分の母が、私や家族に怒りの感情をそのままドッジボールのようにぶつけるようなシーンを、多分人生で見かけたことがないなぁ、と思った。ピンチの時に、母がパニックになってわーどうしようとか言ってる時はあるけど。だからと言って、普段から怒る気力もないくらい暗いというわけでもなくて、良いところを見るのが得意で、聞き上手で暖かく、いつも後ろを、時に前も守ってくれているようなそんな存在な気がする。

「みちは学校で出てっちゃってすぐに忘れちゃうかもしれないけど、家にいる私はずっと引きずるんだよ」

高校生だった頃の朝、おそらく私が何か母に八つ当たりをして怒ってから学校に行き、学校から帰ってきた時にそう言われたことがあったような……。そんなことを思い出した。そもそも何を言ったのかすら覚えてないけど。でも母は、怒っても誰かに自分の感情をそのままぶつける人ではないから、きっとグッと内から出さずに、自分で受け止めて苦しんで消化(昇華? )してきてくれたんだろうなと思った。母は、私の祖父である自分の父が倒れた時ですら、私の父である自分の夫に負担をかけるような相談もそんなにしていなかった気もする。全部自分でしょい込んで、一人で大変な行動までしていた気がする。それは、家族でありながら、一人で孤独に乗り越えなければならない壁を持っている。母にはそんな負担をかけさせてしまっていたんだろうなと、大人になった今思った。

 そんな母だからこそ、私は家でのびのびと自由に生きさせてもらえたのかもしれない。色んな幸せの形があって、そのそれぞれが素晴らしいと思いつつ、母が私にそう接してくれたことは私にとってはとても幸せなことだと思った。いつか私もそうなれるのだろうか。)

 人の人生を、カーテンの隙間からのぞき込んでいるような気持ちになり、さっと読み進める。俺の知らない、人間のような嫁が出てくることがなんだか不思議だ。



「人生をミスるのは、人生をミスったと認識した時だけである」

なんか格言っぽいのが書かれている。その後で、嫁がこう書いていた。

(言われたことが何になったんだ? とすぐにはわからなかったことが、この間ようやく読み解けた。A地点からC地点に行きたいけど、AからCの直行だと私には心理的も含めて無理がある時に、別の経由地Bをするように提示されることがあった。でもBをしなさいと突然言われても、一体それは何になるのかわからない挙句、素直に従った後で、それ自体は価値の無いものだったことが何度かあった。その時に、Bに価値がなかったじゃん! 良くなかったじゃん! 嘘じゃん! と初めは思った。しかし実際は、A地点からC地点に行くためにB地点を経由しないと行くべきC地点に行けないため、Bを促されていた。そして、C地点に辿り着いた時にようやくB地点の必要性を理解できた、ということが何度もあった。

 それはまるで、ソリティアの二色使ったスパイダーのゲームみたいだけれど、それよりも運ゲーでない感じのものである。上で組み立ててくれて、言われたことを素直にやっていくと、自然と結果大枠が見えてくるという感じだろうか。私は駒なのである。駒で結構コケコッコー。いや、ふざけてるけど感謝しています。

「アーー感謝してーーますーーハイ!ハイ!」(モーニング娘。「ハッピーサマーウェディング」より引用)。

いや、全くふざけていません。私の人生を進めるために、人材? を割いていただいて感謝してますよ、そりゃもう。)

 またかかっているのか、文章がおかしい。というか、感謝しているのか怪しすぎる……。そして、見えない存在なのだとしたら、この嫁の態度も筒抜けなのでは……。地味に反撃とかされていたらウケるな。そしてまたしても意味わからないが、嫁がコナそくんなどを重要視する背景に、この読み解きスキルアップでも狙っているのだろうか……。



 読み進めていると、結婚した時期からはミッションが完了したからなのか、聞こえたことがめっきり減ったようで、ほぼ丸括弧だらけの日記帳になっているように見えた。



 さらに読み進めていると、

(今日はぶどうがやってきた。)

と書かれていた。どんだけぶどうが好きなんだよ。というか、やってきたじゃないよ。俺が買ってきたんだよ。そうツッコみながら読み進める。

(ぶどうを食べると、体の中がギュインとなってなんか上がるので、とても美味しかった。)

上がるのと美味しいとは関係ないだろ。ていうかギュインってなんだよ。

(これで心が1綺麗になった。)

1って何の単位なの?てか1はどのくらい綺麗になるレベルなの?

(今日はぐっすり寝られそうだ。)

心の綺麗さと睡眠って関係ないよね? てか、心綺麗になってんの? ほんとに? 

(ちなみに、野菜だとレンコンもぶどうと同じで、食べると心がギュインッとなってエネルギーが上がるから好き。今度注文しよう。)

うちはネットスーパーを使っていない。さては嫁、俺を通販だと思い始めているな……。



 (今日は掃除をしていたら、ピーくんの机に、困り猫の絵が描いてあるのを見つけた。何かこれに意味はあるのだろうか。ダイイングメッセージ的な何かなのだろうか。)

勝手に俺を殺すな……。思わず途中でツッコミを入れてしまう。

(今の問題の原因を聞いても教えてくれなかったけど、その答えを全てこの絵に託したのだろうか……。困り猫……困り猫……。うーん。なんだろ? 困っていますってのを表現しているとしたらストレートすぎるし、この猫を描いた猫の部分に、実はポイントがあるのだろうか……。猫……、猫……。そう思いながら再び掃除を続けていると、妹が誕生日にくれた、バンプの猫のヘアピンが目に入った。もしや、困り猫を描いていながら、困り猫自体に意味は無いのでは? 困ったときは猫を見なさいってことかな? この困り猫は、普通なら付けていない縞々のマフラーを付けている。つまり、この猫はバンプを意味しているのでは? つまり、困ったときはバンプを見なさいってこと? バンプで猫と言ったら、Kとかかな? それとも、Kが入っているTHE LIVING DEADのアルバム自体を指しているのかな? アルバムの中の曲を指しているの? それともアルバム名? アルバム名なら、お前はもう死んでいる、的な感じ? え? どゆこと? 俺は実はゾンビでした、的な暗号なのだろうか。あーーほんと読み解くの難しすぎる……。)

 嫁よ、それは無理な推理だ。そして、そりゃーー難しいだろう。だって何の意味もなく描いただけなのだから。ってか、俺が実はゾンビってなんだよ。



 (今日は、ふざけようとしてピーくんに酷いことを言ってしまった。気持ちが落ちている人に、死んだ魚の目にそっくりと言ってしまうとか、ほんと私は何を言ってしまったんだ……。人といると、どうも頭が回らなくて、考えなしに言葉を出してしまう癖があるよなぁ。その後で、それを悟られないように急いで魚を捌いたけど、ほんと言葉には気をつけないと。)

 魚事件の背景はこれだったのか……。超紛らわしかったやつ……。深い意味は無かったんだな。



「今話していい? 君がどれだけ足掻いたところで、君が変わって欲しいという気持ちで旦那のために何かをしたことで、旦那に伝わることも、それにより旦那が変わることもない」

そう書かれていて、結構凄いこと言ってくるんだなと思ったが、

(別に伝わらなくてもいいよ。変わるか変わらないかなんて、試してみなきゃわからないじゃん。)

と見えない人に、俺が読んだ箇所で初めて嫁が抗議していた……。



 (このところずっとピーくんがおかしい。元気がなくて心配だから、ネットで調べてみた。そうしたら、栄養不足で元気が無い人もいる、と書かれている記事があった。仕方ない。ここは私の力の見せ所だ。そう思って、ジゴクッキングを頑張ることにした。できるだけ体に良さそうなものを、たくさん出すことに決めた。このところトライしているけど、結果はなぜか思わしくない。というよりむしろ悪化していそう。栄養素の問題じゃないのかな。)

 俺を出荷するために、たくさん食べさせていたわけではなかったのか……。そう言われてみれば、確かにどれも体に良さそうなメニューだったかもしれない。そんなことなど全く想像もせずに、疑ってしまった……。すまん……。



 (今日はピーくんの好きなガトーショコラを買ってみた。ピーくんはなぜか、私に半分くれた。縦に割るか横に割るかでやたら迷っていた。こんなこだわりが強かったっけ? それにしても、自分が落ち込んでいる時でも私に分けようとしてくれるなんて優しいなぁ。しかも緑茶まで入れてくれたし、ハッピー。)

 嫁が、普段の悪魔感ではなく妖精感がありすぎて、言葉にならない。



 (ピーくんは未だに元気がない。昨日はたまたま歩いていた時に、お花屋さんの前を通りかかったらバラの花が目についたので、買って帰った。真っ赤なバラだったからタキシード仮面を思い出して、なんだか懐かしくて温かい気持ちになった。ピーくんが帰宅後に気になったのか、花に触れていた。植物は人を癒してくれるらしいから癒されるといいなと思っていたら、今朝ごみ箱に捨てられているのを発見して、ガーンとなった。でもよくよく見たら、花びらがすべて茶色く枯れていたので、ピーくんの魔力、恐るべしと思った。

 そういえば昔、私が激務で体調も悪くて心も荒んでいた時に、道端で桜の木を見かけて、花びらを触った瞬間、その私が触れた一つの花びらだけが、シュワっと一瞬で茶色くなって縮れて枯れたことを思い出した。植物は優しいから、弱っている人にエネルギーをあげて枯れてしまうって言われているけど、あれは本当な気がする。まぁ、バラさんは可哀想だけど、ピーくんがこれで元気になったならそれでよしとしよう。)

 毒を仕込むためのバラじゃなかったのか……。



 (ピーくんは元気が無いけど優しい。昨日私がご飯を食べていた時に、気持ち悪くて戻してしまっていたら、気を遣って平日の朝食も夕食も作らなくていいよと言ってくれた。それなら、私が食べられそうなものだけ食べられるから、ほんと助かる。しかも週末も作ってくれるか、買ってくるかで、作らなくていいようにしてくれるって。てんごくっきんぐというか、クッキングいらない状態にしてくれて、まじ仏。優しさに感謝。)

 俺は読んでいて、罪悪感を覚えた。優しいんじゃない。違う……、違うんだ……。



 (今日はピーくんがお風呂に入っていた時に、ドーンとすごい音がした。びっくりして二階の窓からお風呂のある窓のあたりを見ようとしたけれど、よく見えなかった。しかも一回だけではなくて何度も大きな音がした。でも、最後の音の後に、チュンチュンみたいな、何か鳥のような声が聞こえたので、鳥がぶつかっていたのかもしれないし、もしくは鳥を追いかけてきた何かの動物がぶつかってきた音だったのかもしれない。真っ暗になった場所で外から見える明かりがうちのお風呂くらいだったからだろうか。ビビったけど、特に何もなさそうだったので寝ることにした。)

 これ嫁関係なかったのか……。



 (今日、ピーくんの車の窓ガラスが、突然割れたらしい。怖すぎる。けがはなくて良かったけど、何があったんだろう。ネットで調べてみたけど、窓ガラスが割れる原因はよくわからなかった。それにしても、けがが無くて本当に良かった。なんか異常だし、交通安全祈願にでも行ってこようかな。)

 これも本当にただの偶然だったのか……。経年劣化だったのか……?



 (私が堕ちていた時は、どんな感じだったのだろうか。昔のことを思い返してみる。でもいくら思い返しても、昔の堕ちている時の私を、客観的に見ることができない。あの時の私は、普通よりも何倍も強い重力を持って、周りの人まで一緒に引きずり込むかのような、何にもならない禍々しさを携えていたのだろうか。もがいてももがいてもなすすべのなかった死んだ魚の目をしたあの頃の私に、寄り添って支えてくれる母がいなければ、私は今頃とっくに無残にも陸に打ち上げられて、呼吸する術もなく干物になっていただろう。まぁ、色々とあったことで、自分がその立場だったらどう感じるのか、と人に対して時々は考えられるようになれたから、私がその地点の先を生きていく上では大事なことだったと、今となっては思うけれど。

 今の私にできることは、なんなんだろう。逃げないことだけだろうか。何かできなくても、引きずり込まれそうになっても、ピーくんも、自分が持てる太陽も、どちらも見続ける。それでいいのだろうか。とにかく深海に、のうのうと潜んでいる場合じゃない。荒波の上を爆速で爆笑しながら飛んでいけるような、そんな浮力が欲しい。恋せよ乙女。あ、違った。なんて言うんだっけこういうの? 少年よ、大志を抱け、か。そっとイヤホンで、風になりたいを流す。

「大きな帆を立てて あなたの手を引いて 荒れ狂う波にもまれ 今すぐ風になりたい」(THE BOOM「風になりたい(Samba, Novo)」より引用)

大丈夫。きっと大丈夫。)

 辛いなら、面白いことでもすればいいじゃない、的な、パンがなければケーキを食べればいいじゃない風のメンタルの持ち主だと思っていたので、嫁の人生に辛いことがあったなんてことを俺は今まで聞いたことも考えたこともなかったし、思い浮かべようとしてもうまく思い浮かべることすらできなかった。でもなぜか切ない気持ちになった。そしてあの夢は、この部分でも正しいのかもしれないとも感じた。



 (ピーくんの暗くなっている原因が会社でもなんでもなくて、実は私のことが嫌になって、いかに穏便に別れるか悩んでいるからだったらどうしよう……。

 でも、ピーくんは生まれる前から私を助けたくて来たって言ってたじゃん。

 でもあれは私が見ただけだし、私の妄想だったら?

 でもあの言い回しは、私ならしないよ。

 でも何となく、そう言いたいときもあるかもしれないじゃん。

 もしそうなら、どうしよう……。

 それにしても、生まれ変わってまで追いかけてくるような助けって、私どんなことしたんだろう。そもそも私、人助けとかするかな? あ、でもそう言えば、昔、木星みたいなオレンジっぽい横に波線が入っている星の、グランドキャニオンみたいな茶色い場所で、無数の棒のように縦に細長い石が沢山くっついてできたように見える細長い塔のような中にいた過去世が見えたことがあった。この過去世が見えた時に、「もう嫌だ。みんな死んでしまった」と訳もわからず泣きじゃくってしまった。よくよく見てみると、人体実験もあったみたいで、私自身ここで死を迎えていた。頭だけクラゲのようで目が一つ真ん中にあって、二足歩行の透明っぽい生き物なのかロボットなのかも見えたが、おそらくこの存在は敵だったのだろうと思われた。他に見えた、頭が鷹の二足歩行の存在は、敵か味方かわからなかった。そんな過去世だ。こういう過去世を過ごしたことがあるという意味では、困っている人を助けた、と言うことがあっても不思議ではない気もした。

 助けた内容が気になっていたら、ぼんやりと本当かどうかわからない内容が出てきた。瓦礫っぽいところに少女がいて、その子をその人生では男である自分が助けていた。助けて終わりのつもりだったのだが、引き取り手がいなくて、結果的に自分が育てることになった。おそらくこの時は、おにいさんか、おじさんかそのくらいの歳だと思う。少なくとも働いているくらいの年代だと思う。それから、指一本触れないような優しさで、大事に大事に育てて、その子が結婚して家を出ていくのを見送る、そんな映像だった。確かに自分が少女の立場だったら、これは私でも強火担になるかもしれない、とも感じた映像だった。でも同時に、私はこんなことをできるような、できた人間ではないよなと思っていたが、そういえば覚えている更に別の過去世を思い出した。それは、ヨーロッパの貴族の娘で、凄く若くして家同士の結婚で嫁がされたけど、ほんと何も知らないような年齢で旦那となった相手に望まないことをされて、嫌で嫌でしょうがなかった、という過去世だ。今考えると、仕事をしなくて生きられるなんて今に比べたらラッキーなのではという思いも一瞬湧いた。でもその時の悲痛さが心に刺さって、やっぱり自由もある今の方がいいのだろうなと思い直した。でもその時に、100%良くないことだけの人生なんてありえないのではないかとも思った。ただ、人は時折心が凄く動いたことに対して、虫眼鏡で焦点を当てて見続けてしまう、そんな気質があるのかもしれない。それを虫眼鏡で焦点を当てて照らし続けた結果、黒く燃え盛ることを選ぶのか、虫眼鏡の使用をやめるのを選ぶのかは、その人次第なんだろうね。

 話を戻して、そういう意味では男性で少女を助けた過去世の自分が、若くして何もわからないまま嫁がされて辛かった過去世を覚えていた、もしくは覚えていなくても強い感情が残ったままだったら、少女を大事に育てた可能性も無きにしも非ずか。

 ちなみにヨーロッパで、小学校低学年くらいの金髪の少年で、窓のない屋根裏部屋みたいなところで、魔女みたいな鼻をした病気のおばあさんの手を握って、何もできないことに悲しみで打ちひしがれている。薬を買いたいけどお金が無くて買えない。という自分の過去世も見たことがある。さらに、ヨーロッパで機械いじりと犬が好きで、人嫌いな偏屈爺さんだったこともある。その時は死に際に、もっと人を愛せればよかったと後悔しながら一人で死んでいっていたな。三つドングリをくっつけたような、結局ドングリみたいな見た目の、食い意地の張った宇宙人だったこともあるし。ていうか、宇宙でも食い意地を張っているとか……wコジコジみたいな性格の宇宙人だったこともあるし。ほんと人生色々だなと思う。

 色んな過去が編まれて今があるんだろうなと思うと、とても不思議な感じがする。結局いつだって、今、自分がどう生きるかで、何が編まれていくかが決まるんだよね。

 変な人だと思われたくないから基本は人には話さないけど、もしかしたらみんな変な人と思われたくないから隠して生きていて、私サイドなのかな。オセロは果たしてひっくり返るのだろうか。)

 はい。ちょっと何を言っているのか、わからない。オセロってなんだよ。俺は嫁サイドでは決してない。これがいわゆる輪廻というものなのだろうか。そう思いつつ、本当かよくわからないぶっ飛び話でありつつ、人の過去かもしれないものを勝手に見るのはなんだか気が引けた。色々と内容が複雑な上に、自分が救われた少女なのかも思い出せなかった。でも、嫁と俺が同じ夢を見たという事実によって、嫁の話す内容が完全な空想だと片づけられるものなのかもわからなくなり、そのことが俺の脳内を混乱させた。考えてもわからないことだし、とりあえず読み進めよう。



 (職場で、自分の言動とは全く関係の無いことで、理不尽な嫌がらせを受けた。でも、そんなの今までの人生で起きてきたことに比べたら、可愛いもんよ。所詮、人を傷つける言動をする人間は、幸せでない人間だと相場は決まっているのだから。辛いことをあまり受けてこなかったから人の辛さを想像できない人、自分がされて嫌なことを人にしても気にしない人、人から嫌なことをされた時にそれを別の誰かに八つ当たりする人、もしくは辛いことを受け止めて感じることをしてこなかったから辛いことがどういうことかを理解できずに平気で人が辛いことをしてしまう人かもしれないけど。いやーー、自分で言ってて私にも普通に当てはまりそうで、耳が痛いわ。まぁいずれにしろ、なんだかんだで幸せな状態の人間とは言い難いだろうから、その沼に足を攫われるより、ちょっとくよくよしてもちゃんと起き上がって、楽しんで幸せに生きていきますよ。よっろ。

 それに、自分がしたことって100%自分に返ってくると思うんだよね。私を含めてですが……。そして今のこれが、まさにその結果かもしれんが……。現世でじゃなくて来世かもだけど。そのままの形というより、その時どういう気持ちで対応していたかが、返る内容になる気もするけど。実際、私に以前酷いことを言ってきた人たちは、その後の人生がなかなか大変なことになっていたし。もちろん私の念とかじゃなくてね。とはいえ、良くないことをしたからといって、その誰かが苦しんでいいってのもなんか違う気もするな。ん~むずい。嫌なことする人にも、いいところとか何気に可愛いところとかあったりするし……。

 っていうか、ひたむきに何かに取り組んでいて、私は悪口を言ってない中で悪口を言われるとか、アニメの主人公感あるじゃん! なにこれ。ワックワック。それに、カフカが変身したときだって、よだかだって、みんな、心があの崖の上に上る人はきっと超えている孤独と暗闇の静けさなんじゃないかな。普段から視覚に頼りすぎない私には、きっと聴覚と嗅覚で道がわかるだろうから、ただ黙って進むか。

 追加で、今私が生き残れているということは、この世界にそれだけの優しさが散りばめられていたということでもあるから、こんなことではクヨクヨしないわ。さーーて、明日は天使のぶどうでも食べますかーー。なんにも怖くないわ〜。あーー、とりあえずサンボマスターの、できっこないをやらなくちゃ、を聴こう。一人でライブ行くくらい好きだったんだよね~。うん、うん。これ元気出る。)

 あの崖のあのってどのだよ。っていうか、え? 嫁嫌がらせを受けてたの? 全然知らなかったわ……。実は、職場の冷蔵庫に入っていた誰かのおやつを、嫁が勝手に食べたとかが発端とかになってないといいのだが……。それにしても、そんな余裕はなかったけど、もっと話せる環境とか、俺も考えるべきだった……。悪いことをしてしまったな……。



 (昨日は落ち込んでいたけど、今日は職場に天使が舞い降りた。会社の人が、いちごを丸々一パックも私だけにくれたので、誰かにもらったのか聞いてみたら、わざわざ買ってきてくれたことが判明した。さらっと、なにげなく入手したいちごを渡したかった風に来てくれて、昨日のことは気にすることないよ。何か困ったことがあったらいつでも言って、とその女性の先輩は言ってくれた。私は昔から、天使はいちごミルクの香りと勝手に思っていたけど、天使がイチゴを持ってきてくれるパターンもあるんだなと思った。ちょっと涙腺が危なかった。

 私には気を使わなくていいよともその先輩は言ってくれた。私は無意識に人に気を使いすぎて、時々御用聞きのねずみ小僧みたいになって、振り回されている時があるな。と自分でふと思ったので、もう少しゴーイングマイウェーをしようと思う。

 そういえば、前に有名な神社のある山に引きこもっていた時に、車が無くて、月に一回の粗大ごみの日には、手で押していく台車にごみを乗せて、上り坂をえいさほいさと頑張って登っていた時のことを思い出した。その日は、引っ越し前の最後のごみ捨ての日だった。台車を押して登っていると、一度下って通り過ぎたはずのケートラがなぜか後ろからまた戻ってきて、私の真横に止まったかと思ったら、運転席から奥様が下りてきた。雨の中大変だね。私が持って行ってあげるから。と言ってくださって、断捨離後の大量のごみをひょいひょいと荷台に積んで、全て乗せて持って行ってくださったことがあったなぁ。どんな人かもわからない、見ず知らずの得体のしれない私に話しかけるのはためらわれただろうに。今日は雨か……とその日の朝はがっかりしていたのに、まさかのかっこいい天使が舞い降りて、助けてもらえるなんて……。この時もずっと帰り道、涙腺を止めるのに必死だったことを思い出した。人ってすごいよな。そういうものにわたしはなりたい。

 えー、美しき宮沢賢治の場合は、理想的な人物像を自身で作り上げているところが特徴的ですが、みっちーの場合は、実際遭遇したような人物になりたいと言っている箇所が、特に異なります。ここテストに出ます。

 そうだ! 次から、会社の先輩を呼ぶときに、名前の前にエンジェルってつけよう。)

 何のテストだよ。ていうか、御用聞きのねずみ小僧ってなんだよ。そう思って、嫁が両手を地面と平行に平らにしてすり合わせながら、げへへへと怪しい笑みを浮かべているの思い浮かべた。嫁が人に気を使っているのは想像できないが、気を使っていることを悟られている時点で、何か気を遣う努力の方向が間違っている可能性も否めない。いずれにせよ、状況が良くなったようでひとまずよかった。それにしても、これ以上のゴーイングマイウェーは怖すぎる。っていうか、名前の前にエンジェルってつけるとか、なんか芸人ぽいからやめてあげて。その後に、さらにもう少し書かれていた。

「私が風穴を開ける存在になることに、この時はつゆも気づいていないのである」

(って聞こえたけど、風穴を開けるってなんだろう。つゆってなんだろう。それにしても、今日はいつもよりご飯が美味しかった。いっぱい食べられた。)

 嫁よ、どうか会社は破壊しないでくれよ……。



 (ピー君のことで、何ができるのか、どうしたらいいのか、もう私にはわからなくなってしまって、そして私は途方に暮れた。ふと母が、何をどうしたらいいかわからなくて途方に暮れる時は、頭の中で「そして僕は途方に暮れる」という曲が流れると教えてくれたことがあった。そんなことを思い出しながら、部屋の中を意味もなく歩いていた。そうしたら、なんとなくパッとレムリアンシードのイメージが浮かんで、それを持った方がいい気がした。それで、窓辺の天然石エリアから取ってきて握りながら、推しのサイキックブロガーさんが勧めていた四十ヘルツのガンマ波の音を流した。手の中の水晶からは、これでもかというくらい透明で、澄んでいて軽くて、ちょっと沖縄風味と言うか、そんなエネルギーが手に伝わってくる。

 ふと、水晶が喋った。

「私はあなたを助けるために来たのです」

多分五年くらい前に買って、あまり私に触れられることもなく無視され、時々埃まみれになっては気まぐれに洗われて放置されていた。きっと世間一般で言えばこれが大事にしないということだと思うのだけれど、そんな水晶が音程のない声で、相変わらず美しいエネルギーでそう言った。私ばかり助けてもらうのも悪いなと思ったので、

「私はあなたのために何ができる?」

と聞いてみたら、

「笑って」

とだけ言われた。ふと、道化師のソネットが頭に流れた。)

 さすがにこれも何を言っているかわからない。そう思って、俺はふっとノートから目線を上げる。でも、途方に暮れて困っていたことだけはわかった。とりあえず「そして僕は途方に暮れる」という曲を知らなかったので聞いてみたが、別れの曲だったので、いやいやと頭を左右に振ってから道化師のソネットを聞いた。

 ふと、さだまさしの、好きなことをして映画を作って、二十八億円もの借金を背負ってからの弾丸ライブ人生に思いを馳せた。きっとその借金を負った時には、いろいろな選択肢が頭をよぎったのではないだろうか。そして、きっと彼だからこそ長年の年月をかけて完済できたのだろうとも思いつつ、それでもどん底を知ってもなお湧き出るあの明るさに、人間とはそんな状況になったときに、あんなふうに生きられるものなのだろうかと俺は不思議な感覚を覚えた。実は人間から、取ることができる選択肢が蜘蛛の巣状にあらゆる方面に伸びている、そんな可能性を考えてみた。きっとその糸は、交差点が現実として現れるイベント発生ポイントで、そこに至るまでのただまっすぐの線は、その人の思いの方向性で、どのルートを歩くのかが決まるのではないか。俺はきっと今、さだまさし方面にはいない。でも円形なのだから、きっと自分次第でそのルートにたどり着くことだってできるだろう。とりあえず、この車はおかしな方面に爆走している気がするので、インターをひとまず降りて……。そんなことを考えながら、いつの間にかベランダの縦幅いっぱいに広がっていた蜘蛛の巣が、小雨で丸い水滴をふんだんに付けて、いつしか出てきた太陽に照らされ、たくさんの宝石が連なったネックレスのように白くキラキラと光る様をぼんやりと見つめた。



 (私は、正直ピーくんがどんなんでもいいから、ただ幸せでいてくれたらそれだけでいいんだけどな。でも、そんなこと言う機会もないし、そんなことを急に言っても、いつもふざけてるから信じてもらえなくて、何か裏があるのでは? 大事な何かを食べた? とか疑われそうだしなぁ。それに、苦しんでいる人に幸せでいて欲しいって言うのは、頑張れないほど疲れ切っていて休みが必要な人に、頑張れと言うことと同じになってしまうんだろうか……。同じ言葉でも受け取る人の気持ち次第で意味なんて変わりまくるものだから、ほんと難しすぎる……。今はただ深海魚のように、じっと身を潜めてようかな。)

 嫁よ……本当にごめん。



 一番最後はいつ書いたものなのだろうと最後に書かれたページを探すと、日記の最後の日付は今週の木曜日になっていた。そこには、まさかのこう記されていた。

「土日は実家に一人で帰りなさい。その時に必ずこのノートを自分の机の上に置いて行きなさい。日曜日は夕方頃に帰ってきなさい。帰ってきたら、お腹の子のことを話しなさい」

一瞬ポカンとしてしまった。これはどういうことだ?

 その下には、括弧書きでこのように書かれていた。

(え? このノートを机の上に置いていくとかどゆこと? なんか風水的に、この日にキラキラしたものをこの位置の机に置くと幸運が訪れます的な話なのかな? とはいえ、いつも言われていることを無視すると良くないことが起きるし、従っておくか。それにしても、この私の恥を詰め込んだようなノートを机の上に置いていくリスク、半端なくない? でも、逆らって良いことなんて今までなかったから、従っておくか。

 最近はピーくんがずっと落ち込んでいるようで心配だったし、話しかけても話したがらないから、とにかくそっとしておいて見守ってる方がいいかなと思っていたけど、この紫キラキラパワー? でピーくんも元気になるといいな。

 この子に関しても、話していい許可が出たし、話せるのが嬉しい。この子も喜ぶかな? ピーくんと、また一緒に笑って話がしたいな。)

そう記されていて、俺は愕然とした。ごめん、ごめん……。言葉にならない思いが混ざり合って、俺はそう言い続けた。嫁の発想に侵食されきたのか、「アイノカタチ」の曲が心のなかでわんわんと鳴り響いて、俺は立っていることができなくなって、床に崩れ落ちた。



 

 お楽しみいただけただろうか。それともふざけんな、と本を床に叩きつけて、ガシガシと足で踏みたい気分だろうか。この物語の本当に面白いところは、嫁が見えたことに関してはほとんどフィクションではないところにあるのかもしれない。

 さて、次はあなたの人生の推理を、私にも聞かせてはくれないか。



Q. おわんさんに質問です。どうして顔出しをしないのでしょうか。


A. とある作家さんが、自分がその作家であることを家族に明かしていなくて、死ぬ間際に、実は俺は〇〇なんだ。と作家の名前を奥さんに明かして亡くなる。という話を知って、なんて粋なんだ! 私もこれがやりたい! って思ったんですよ。

それで、私が死ぬ間際に、

「今まで本当にありがとう。今から大事なことを言うからね。私は実はおわんなんだ。(グヘッ)」

そう私が告げて、

「え? 今の聞いた? 人間って直前までは意識がハッキリしていても、死ぬ瞬間はボケちゃうものなんだね。まさか、自分が物のお椀だと思い込むなんて……。最後まで食い意地を張りすぎだよね」

「そういうところ、らしいよね」

とか言われながら、

「違う違う そうじゃっっ そうじゃな~い~」(鈴木雅之「違う、そうじゃない」より引用)

と誰にも聞こえない中で必死に(わたしはもう死んでいるけど)歌いながら、天に召されるのが夢だからです。



 主人公に起きることが、スピッツかと思いきやバンプだった、みたいなね。そんな小説を最後まで読んでいただきありがとうございました! 読んでいただいた方が、幸せな日々を送られることを心より願っています!


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