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第四章

「くそっ……海香何処に行きやがったんだ!」

俺は手首を折る勢いで机に叩きつける。

混乱が続く中、海香がいない状況に冷や汗が止まらず取りとめのない気持ちが胸を浸す。

海香が家を出て五時間。携帯に連絡しても繋がらない。『GPS』も示さない。頼みの警察からの連絡も無い。数時間前に俺や華凜、帰宅したせきなと共に海香が移動する可能性がある道、コンビニを探しに行ったが手がかりはなかった。

「ハル、落ち着いてよ! 元は言えばあたしが不用意に買い物にいかせたのがいけないの。全て……あたしが悪いのよ……」

肩を震わして泣く華凜。その肩にせきながタオルをかける。

「……いいや。華凜は悪くない。許可出したのは俺だ……。ちっ、もっと慎重になって対策していれば、こんなことには……」

 そもそも、協力を仰いだのは俺だ。こんな事が起きたのは偶然だ、タイミングが悪いだけだ……。

「リンリン……大丈夫?」

「……ぐすっ……うん……ありがと……んんっ……せきなぁ……」

「だから私は反対だったのよ」

 雪乃がそう呟く。華凜とは対照的に落ち着いて話す素振りはこの状況を見下しているような気がする。なぜ、そこまで冷静にいられる……? 率直な疑問が俺のボルテージを上げる。

「……どういう意味だ」

「ふっ、どういう意味って、そのままの意味よ。海香さんが秘めている可能性について考えたこと有るのかしら」

「……秘めている可能性……だと?」

「ええ、ホームページを拝見しているけど、あの完成度はプロのSEの域を超えているわ。あれを見て、どのソフトを使ったのか、というメールも来ていることはあなたも知っているわね」

「……ああ」

 毎朝確認しているので判っている。雪乃が言う通り、名の知れた企業から『紹介してほしい』という内容が来ていた。どれも断ってきたが。

「つまり、海香さんは将来何億……いえ、国家レベルで貢献する可能性を秘めているのよ。そんな子を野放しにしてみなさいよ。こういう事が起きるのは目に見えていたわ」

「……その言いぶりだと、海香が誘拐されたと断定しているみたいだな」

「ええ、行動範囲が狭い海香さんが五時間も帰らない、GPSの無反応。これだけそろえば誘拐と断定してもいいわ。それに、誘拐する動機について根拠が有るわ」

 雪乃の発言に華凜も顔を上げ、俺達は雪乃を囲む。

「おー、なにこれ?」

「ん?」

 俺は雪乃のノートパソコンを覗く。そこにはとある会社のホームページが映し出されていた。黒に塗りつぶされた背景の上に白字で書かれたページは何とも不気味だ。これと海香がどうつながっているのだろう……。

「株式会社ラティフンディア……あなたなら聞き覚えあるはずよ」

「…………」

「んー、ハルルン? 顔色悪いよ」

「あぁ……ちょっと待ってくれ」

 せきなが心配そうに見つめてくる。

 あぁ……思い出したくも無い……その会社は……俺と海香を《奴隷》として扱った、あいつらの会社だ。表向きは不動産だが、裏では人身売買を行っている最低な奴らの集いだ。

「言いたくないそうなので進めるわ」

「あぁ……頼む」

 ここにはアリスやせきなが居る。この子達にあの時の様子を話した際のショックを想定したら黙っていた方がいい。それに、俺自身の気持ちが整理出来ていない……要らない事まで思い出して発狂したら迷惑が掛かる。

「そう。先日父が不動産会社を買収したことが公になったわ。新聞やニュースで聞いたことがあるはずよ」

「え? でもななみんは《ラティフンディア》なんて会社言って無かったよ」

「そうね。このサイトを見る限り二か月前ほどに改名されているわね。多分、この名前を公にすることを避けたに違いないわ」

「……つまり、この会社が鍵を握るってことか?」

「あくまで仮定よ。不可思議な点は多々有るわ」

「例えば?」

「一つは、なぜこの会社が海香さんを鷺ノ宮グループで匿っていることを知っているか。あなた方のデータは鷺ノ宮の厳重な個人情報管理システムで保護されているわ。それを見るには厳しい審査が必要だわ」

「それは、身内でも見る事が不可能なのか?」

「ええ。個人情報の管理は専門の子会社が厳重に保管している。おじい様でも容易に見る事はできないわ」

「でも、ゆきのんはせきりん達のこと詳しいよね」

 確かに。この前せきなと言い争った時も知っているような感じだったし、無論それぞれ

「ふっ……世の中に絶対なんてこと無いのよ。世界最高峰といわれるシステムにも穴は有るわ」

「へぇーじゃあゆきのんには筒抜けって事だよね……うん」

「心配することは無いわ。私は悪用目的で得ているわけではない……ただの自己防衛よ」

「自己防衛?」

 普段、自らの事を話そうともしない雪乃が珍しい。

「……失敬。余計なことを話しすぎたわね」

 雪乃は息を整えて眼鏡の淵を上げる。

「……あぁ。それで、他にも有るんだろ」

「えぇ。あとはなぜ父がこの会社を買収したのかだわ。財務諸表を見る限りあまり上手くっている感じではないわね。特にここ二、三年は酷いわね。倒産寸前よ」

 そんな会社を買収するなどリスクでしかない。善意で資金提供している場合であってもおかしい。なら、創業数年のベンチャー企業に投資した方が遥かに見返りのあるはず。

「それに、鷺ノ宮グループにはすでに《鷺ノ宮不動産》という傘下の企業が有るわ。所感、ラティフンディアを買収するメリットが、少なくともこちらには無いわ」

「そうだよな」

 それに、不動産業界を調べても将来性があるとは言い切れない。

 単純に土地の価格が落ちたこともあるし、東京都心の大型ビルの完成・稼働による空室率の増加、つまり《2012年問題》により業界全体が不透明な感じにある。東京オリンピックを見据えたとしても、すでに六十パーセントのシェアのある鷺ノ宮不動産で賄いきれると思う。

「んじゃーさ。ラティフンディアを買収した理由って他にあるってことだよなー? ゆきのんはどういう見解なの?」

「ええ、あくまで仮説ということを頭に入れてほしいわ」

「うん」


「これは綿密に計画された事件……そして、裏で手を引いている人がいる。少なくとも、あなたが関わってきた人の中で」


「え?」

 鋭い眼差しが俺に向かれる。矢で射ぬくような口調に喉の奥から奇声が吐き出る。

――裏で手を引いている……? それはどういう……

「あらっ? そんなに顔を真っ青にする必要は無いわ。ただ一社員の妄言と捉えても差し支えないわ」

「……でも、それなり根拠があるんだよな」

「ええ、それなりには」

「ねぇちょっと待って!」

「なんだ、華凜?」

 気持ちが落ち着いたのか黙っていた華凜が割り込む。目元が赤いのは擦った跡だろうか。

「なんか目的違くないかな……あたし達は海香ちゃんを助けたいんだよね?」

 華凜の視線は雪乃に向けられている。

「あら? それはわたしに対する言い掛けかしら?」

「うん、そうだよ。だって雪乃さんは犯人が誰かとか、どういう経緯で、とかばかりで海香ちゃん自身のことなんて度外視しているよ」

「そうかしら。私は海香さんがさらわれた原因をさかのぼることで真実を突き止めようとしているわ。何が不満なのかしら?」

 平然と息を乱すことも無く話す雪乃に対して、華凜は見るからに興奮しきっていた。

「雪乃さん、まるで人を物扱いしているように聞こえる。そんなにあたし達の事嫌いなの?」

「ええ、嫌いよ。特にあなたみたいな偽善者を見ていると腹立だしくて仕方ないわ」

「えっ……?」

 華凜の不満を爆発させるような言動に対して、悩むしぐさも見せず雪乃が切り返す。

 俺だって雪乃が好き好んでここに居るとは考えていない。ただ、こうもはっきり《嫌い》と言われるとショックだ。

「ふっ……その顔、素晴らしいわ。あなた所詮肝心な所から目を逸らしているわ」

「……逸らしている ……っ……どういう事よ……?」

「ふふ、あなたはどうして《Peace alive》に居るのかしら?」

「……それと海香ちゃんがいなくなった件とどう関係するの」

「ふふ……やはり、あなたには本質が見えていないようね」

「本質……?」

「ええ。良いですか――私達は会社に所属している以上利益を求め続ける必要があるわ。その際、会社に居る人間は利益を生み出すための資源……それについて異議は無いかしら」

「うん……あたしだって、判んないなりに勉強したつもり……でも、あたしはハル、せきな、アリス、海香ちゃん……みんなのこと、家族だと思っているよ。勿論、雪乃さんのことも」

「ふっ……それこそ日本式経営の最大の失敗よ。家族主義? ふっ、家族ごっこがしたいなら公園でおままごとでもしていればいいじゃない。家族なんて無利益な存在……この世界に必要ない、無論そのような考えをここでおっしゃってほしく無かったわね」

「…………」

 雪乃の厳しい指摘に唇を噛む華凜。

「ふっ……あなたは会社の重要な資源を他社に渡してしまったのよ。この損失は計り知れないわ。もう、この会社も終わりね」

「……っ……終わりってなによっ!!」

「華凜っ……!」

 華凜は雪乃を食い殺すような目付きで歯軋り。先ほどとは比べ物にならない興奮仕切った口調に危機感を覚えた俺は華凜の脇に腕を入れ動けなくする。

「……っ……ハルっ……離してぇ! 離してよっ……!」

「ちっ……少し冷静になれ、なっ?」

「冷静で居られないわよっ! ハルも聞いてたよね? 侮辱されたんだよっ!?」

「だからって殴っても変わらないだろ!? な?」

 必死に振りほどこうとする華凜に対して更に力を入れる。その姿を軽蔑するように見下ろす雪乃。畜生……どうして。

「あんな人、一度殴られないと判らないんだよっ! どうせ親にも殴られた経験無いでしょ。 だから人の痛みを知ろうともしない。そうでしょ!?!?」

「……ええ、そうね。周りの人間は馬鹿ばかり、怒られるような事無いわ」

「ふんっ! 流石お嬢様ね。あたし達みたいな庶民の考えなんて理解できないでしょうね」

「ええ理解できないわ。なぜあなたはこの会社に固執するのかしら? こんなおじい様の恩恵で潰れずに済んでいる会社を庶民としての生活を捨ててまで所属する意味があるのかしら?」

「それが今関係ある」

「さぁ。僅かながらの好奇心よ」

「なら、今の雪乃さんに答える必要は無い。人を物扱いしている人間が感情論に手を出さないでもらえるかな」

 普段では想像できないスピードで雪乃に牙をむく。

「何が人を物扱いしているよ」

雪乃は前髪を垂らしで肩を震わせる。髪の間から覗く左目は華凜を完全敵と見なしている。

「私だって生まれ変われるならもっと自由に生きたいわよ……こんな堅苦しい言葉使わないで普通に過ごしたいわよ。でも、そうはいかない。私は鷺ノ宮の名前を背負って生きることを強制されている。選択肢は無い。この意味あなたは永遠に理解することは出来ないでしょうね……っ!!」

 常に冷静な雪乃が、感情を]Rき出しにして叫ぶ。ミーティングルームにこだまする声に突き飛ばされそうになる俺。

――そうか、雪乃は苦しかったのか。気づけなかった。

「雪乃……ごめん」

 異様な雰囲気が漂う中、俺は雪乃に頭を下げる。せめてもの謝罪だ。

「……なぜ、あなたが謝るのかしら。あなたには関係無いはずよ」

「いいや、そんな事言わせた俺が悪い……すまん」

「ハル……」

「俺はみんなに何不自由無く過ごしてほしいんだ。そりゃ、言いたく無いことが有ると思うし、言いたくても言えないことだって有る。俺だって同じだ」

 華凜達の視線がこちらに向く。

「でもな……ここに居る限り、不幸になってほしくないんだ。ただの理想かもしれないが、この会社を作った時そう考えたんだ。もう、誰にも苦しい思いを……させたくない」 

 最初は海香を幸せにさせたい、ただその思いで必死に勉強した。少しでも楽にさせたくて、再びこの世界で不幸にならないように。でも、華凜やせきな、アリス、雪乃を仲間に入れたとき、こいつらの事も守りたい気持ちが強くなった。

 そして、海香はここにいない。

このまま警察が見つけるまで黙っているのか? 

いや、そんなことできるわけないっ!

「俺、海香を助けに行く。今すぐに!」

「待ちなさい。数時間後には日が変わるのよ? いくらなんでも無謀だわ」

「じゃあどうすればいい!? このまま黙っていても埒明かないだろ」

「あなたがパンクしてどうするのよ。おじい様にも言われましたよね? 経営者たるもの常に冷静に未来を見据える……お判り?」

 ぎっ、と見つめられる。こんな刺される視線は初めてだ。

「……ちぃ、そうだよな。雪乃に従う」

「ふん、それはそれで困るわ。あなたにはあなたにしか出来ないことがある。それを肩代わりすることは不可能だわ」

 意味ありげな言葉に、俺の脳が熱くなる。

 俺にしかできないこと……雪乃が肩代わりできないこと。

――そんなの、単純じゃないか。俺は《Peace alive》の社長だ、組織は戦略に従う――経営学者《アルフレッド・D・チャンドラーJr》が示した言葉……戦略、そうだ俺は海香を助ける命題の元、動かすんだっ……!

「雪乃。お前はどれくらい協力できる」

「そうね。引き続き情報収集を進めるわ」

「そうか――華凜!」

「はっ、はい!」

「明日出発する。準備しろ」

「りょっ、了解。今すぐ支度するね」

 華凜は親指を立てて足早に出ていく。

「ハルルン……せきりんも付いて行って良い? せきりん、黙ってるのいやだよ」

「……気持ちは判る……でも……」

 迷う。せきなはまだ中学生だし、これからどんな危険が待っているかも想定つかない中連れて行くかは気が引ける。

「なぁー、頼むよハルルン……迷惑かけないからさ……」

「そんな、駄々をこねられてもな……」

「いいじゃない。連れて行きなさいよ」

「ふぇっ?」

 雪乃がさらっとせきなに加勢する。

「あなたの能力は最前線でこそ役に立つと思うわ。それに、あなたがここに居てもうるさくて集中できないわ」

 八割方後者だと思うが、こいつも適当に言っている訳じゃなさそうだし。

「判った。お前も連れて行く」

「うよっしゃー! ありがとう、ハルルン、ゆきのん♪」

「ただし、俺のいうことは絶対だ。逃げろって言ったら俺を見捨てても逃げろ」

「うん……判った。ハルルンに従う」

「よしっ、なら華凜の支度を手伝ってこい」

「レンジャーーー!」

 せきなは自衛隊のごとく叫ぶと、華凜が言った方向へ走った。

「ねぇねぇ、アリスは?」

「あぁ、アリスは雪乃と残れ。流石に連れてけない」

「ぶぅー、どうしても?」

「そうだ。これだけはどれだけお願いされても変えるつもりは無い」

 顔を膨らませている姿を見る限り、本気で助けにいきたい、という気持ちが痛いほど伝わってくるが、ここは心を鬼にする。アリスは幼すぎる。

「わかった。アリス、おにいちゃん、まってる!」

「おぅ、それがお兄ちゃんにとって最大の貢献だぞ」

「……そんなこと言ってないで作戦会議を……」

 その時。


――ポロポロポロポロ…………ポロポロポロポロ…………

 ミーティングルームに着信音が鳴り響く。

 俺は血気を変えた思いで受話器を毟り取る。

……海香っ……海香……!

「……はぁ……はぁ、もしもしっ!?」

 短距離にも息が切れる。見つかったのか? 

 期待が不安を上回る――早く、早く話せよ!?!?


『……ヒサシブリダネ。ハルカゼクン』


「誰だ……お前」

 まるで元●●がメディアで身元を隠す時に使う機械音が流れる。

 ヒサシブリ、の出だし。それに俺の名前を知っている。

『……ダレダトハヒドイナ……ワタシダヨ、ハルカゼクン』

「だから、誰なんだよぉ!? 海香はそこにいるのか!?!?」

『……フ、オオヨソケントウガツイテルダロ。マアイイ。ウミカハブジダ、アンシンシロ』

「お前の言葉に安心できるかっ! 今すぐ海香を返せっ!」

「待ちなさい。感情的になったら駄目よ」

「え?」

 俺は雪乃に肩を撫でられる……すると、不思議に気持ちが落ち着いてくる。

――くっ……何度もすまんな。

『……アタマガマワッテナイヨウダネ。ジカンモナイ、ヨウケンヲツタエル。ウミカハワレワレノ《ロウゴク》ニイル。キゲンハミッカゴノショウゴ。スギタラナニガオコルカ、キミナラワカッテイルダロウ』

「……ちっ……」

 肉奴隷か、ちくしょう……そんなことさせるかよ!

『……ケントウヲイノル』

 ガチャ……ツー……ツー……

 意図的に切られた。

「……あなたの口調から判断するに、私の仮説は限りなく真実に近いわね」

「そうみたいだ」

 間違いない、海香を誘拐したのは俺の叔父……《南 義信》。旧ラティフンディア社長だ。

 海香に消えない傷をつけたあいつが……また……畜生……。

「そう落ち込むこと無いわ。準備が済むまでに作戦を練りましょう。大まかなプランニングは完成しつつある。あとはあなたの知恵が必要だわ」

「……くっ……判った」

「ふっ……それでこそあなたよ」

 俺は雪乃と話し合いを始めた。



「おっはよーう、ハルルン……ってうわっ、目にくま●ン出来てるけど大丈夫?」

「あぁ……ちょっと、寝てなくてな」

 海香が居なくなって初めての朝を迎える。黒とオレンジのウインドブレーカーに学校指定の若草色のジャージを着て、やっほー、な感じで来るせきな。登山が決まったのは昨日だし、本格的な服装は用意できなかったのだろう。

俺は遅くまで雪乃と打ち合わせしていたことも関係して寝ていない、いや、寝れなかった。最愛の妹が誘拐された今、グースカ寝られる訳無い。

「おはよう、ハル。そんなで大丈夫なの? 結構距離あるんでしょ?」

「華凜……そうだな、うん」

 対して、いかにも登山上級者ぽいジャケットに、ピンクのロングパンツ。せきなより一回り大きいリュックサックを背負う。まるで数日前から準備万端のような雰囲気は切羽詰まっている状況の中、こいつになら任せられる、という安心感が芽生える。

「ほらっ、シャキッとしなさいよね。エナジードリンク買ってくる?」

「いや、行く途中で買うよ。それより……飯」

「はいはい作ってきてありますよー。それで……雪乃さんは?」

「あぁ、遅かったから海香の部屋に寝かしてある」

「へぇー、お泊りか……へぇー……」

「その細い目やめろ。念のため言っておくが、あくまで話し合っていただけだ」

「もぅ、判ってますよ。とりあえず着替えてきたら? ちょっと汗臭いよ」

 そういや、昨日から着替えて無いな。俺自身、臭いって感じはしないが、女子組には伝わるらしい。

「……ちっ……判ったよ。ついでに二人を起こしてくるよ」

「了解。でも無防備だからって雪乃さんの身体、お触りしちゃ駄目だぞー」

「触る訳ないだろ。朝から発情しているのか?」

「ふふ、女の子はいつでも発情期だよ♪」

「はいはい、それはご苦労様。んじゃ、後はよろしく」

「……何か普通にスル―されたのは気に障るけど了解――せきなっーお皿準備してー!」

「アイアイサー!」

 華凜の掛け声にせきながハッキリとした声で返す。軍人魂でも宿ったのだろか。

 俺は部屋に戻って着替える。山の中を歩くので重ね着がしたすい組み合わせでチョイスする。着替えた俺は必要最低限な物を選別したリュックサックを持ち廊下に出る。

「おっ、アリス、雪乃……おはよう」

 偶然、部屋から出てきた二人と会う。雪乃は私服に着替えていて、アリスはパジャマのままだ。

「おー、おはよう……おにいちゃん」

「あぁ、おはよう。ぐっすり寝れたか?」

「うーん、おっしこ……」

「あぁ、そっか、悪いな」

 アリスは目を擦りながらトイレへ向かう。あの様子だとあまり寝れなかったみたいだ。

「――それで雪乃。状況は」

「ふっ、特に変化は無いわ。それよりあなたこそ躍起にならないことね」

「あぁ、判っている」

 俺と雪乃はミーティングルームに戻るとテーブルには旨そうなサンドイッチが並んでいた。旅立ちの日に最適なメニューの前に疲れ果てた身体をプレスするような空腹感が増す。

「あっ、雪乃さんおはよう」

「…………」

 無視かよ。んま、昨日の今日だし作戦に影響でなければいいが……

「雪乃……流石に無視は無いだろ」

「あなたには関係ないことでしょ? それより早く頂かないのかしら?」

「あっ……そうだな」

 俺は両手を合わせて『いただきます』をすると、せきなやアリスも真似する。雪乃はタブレット端末を片手で弄りながら、ミックスサンドを口にしている。なんともビジネスマンらしい朝だ。

「はーい、たーんとお食べ♪ 今日は長丁場だからね」

 雪乃の冷たい対応を気にしていない様子で振る舞っている華凜も席に座る。

「むしゃむしゃ……んなぁー、ゆきのん?」

「なにかしら?」

「具体的にせきりんはどうすればいいの? そこんところ詳しく」

「ええ、そうね。地図開いてもよろしいかしら?」

「ちょっと待って。今どかすから」

 華凜がせっせと身を乗り出してランチボックスを端に寄せる。すると、書店で売ってそうな地形図が広げられた。そこには、昨晩丸付けた旧ラティフンディアの位置と線引きしたルートが書いてある。

「うわぁー、超山じゃん。せきりん達ここに行くの?」

「ええ。具体的には北緯35度28分28.5秒。東経139度9分46.8秒付近よ」

「……いきなり緯度経度で言っても判らないだろ。それにこれはあくまで仮定だ。実際はもっとふもとにあるはずだ」

「そうね。これだと《丹沢山》の山頂を指すわ。あなたが言う通りならもう少し広い土地が必要だわ」

「えーと。つまり、ハル達もまだ正確な場所が判らないってこと?」

「あぁ。何せ海香と尋ねた時も記憶便りだったし、逃げた時は必死すぎて道なんて覚えていないからな」

 ただ、おっちゃんと出会った場所だけは残っていた。その記憶を頼りに雪乃がおっちゃんの行動記録と地図を統合したところ何か所かに絞れた。それから航空写真とイメージが合うかを確かめ、この×印を導いたということだ。つまり、ここに海香が居るかは行ってみないと判らない。

「ふーん。でも、タイムリミットは明日でしょ? ならそこに行くしかないよね」

「ああ。最初の方はコース通りに歩くから問題無いと思う。流石に奴らも一般人を巻き込んだりしないだろう」

 相手は企業だ。社会性も重要視される組織においてメディア沙汰になることは避けてくるだろう。

「そうだと信じたいけどね。それより連絡手段とかどうするの? 山の中だと携帯も微妙だし、そもそも二日充電が持つかも判らないよね」

「ああ、その点なら心配するな、これを用意してある……」

 俺はテーブル下からボストンバックを出し中身を並べる。

「――えーと。もしかして、トランシーバー?」

「んま、大雑把に言えばな。雪乃から借りた」

「えっ!? 雪乃さんっ!?!?」

「正確にはグループ会社のサンプルよ。至急届けてもらったわ」

 至急って……あれから何時間も空いていないのだが……。

「うわぉーすげー、ちょーかっちょいいじゃん」

「って、勝手にいじらないの! それで、これで連絡取るってこと?」

「ええ、そうよ。鷺ノ宮独自の人工衛星による電子やり取りをしているわ。だから、チャンネルを合わせれば世界中どこでも会話出来るわ。充電も二日は持つわ」

「鷺ノ宮って、人工衛星も打ち上げているかよ」

 改めてスケールのでかさに感銘する。

 そして、俺達は雪乃の指導で取り付ける。このイヤホンの上にあるボタンを押したら相手の戦闘力とか計れそうだが、実際は通信するときに使うボタンらしい。チャンネルは本体で変更でき、今は共通チャンネルに設定する。

『あー、あー……どう? 聞こえてる?』

『……うんっ! 大丈夫び!』

 華凜とせきなが確認し合う言葉が耳元から聞こえる。ただ、機械を通しているため普段の声とは異なっている。

「これ実践だと誰が誰だか混乱しそうだな」

「そうね。節目でテストを行う必要がありそうね」

 雪乃はなにやらタブレットにメモしているようだ。

「ねぇーねぇー。アリスのは?」

「アリスは後で雪乃に付けてもらえ。アリスも仲間だからな」

「おー。なかまなかま♪」

 アリスが顔をほんわかさせて喜んでいる。やっぱこういう好奇心は大事にしたい。

「うーん。とりあえず今必要なことは言った。後は移動中に随時説明する」

「了解。一秒でも惜しいもんね。さっさと食べよ」

「おいっしゃー! せきりんフルチャージするぜいっ」

「おう! 食べろたべろ」

 行動組の俺達はサンドイッチで腹を満たした後身支度して荷物を背負う。

「じゃあ、行ってくる。アリスのことは任せたぞ」

「ええ。判ったわ」

「おにいちゃん。きをつけてね」

「あぁ、アリスも良い子にしてろよ」

「うん。いいこいいこしてるね」

「雪乃さん。お鍋に作り置きのシチューあるかお腹が空いたら食べてね」

「そう」

「んじゃー早くいこぜっ、ハルルン、リンリン!」

 せきながせっせと扉を開ける。こいつを見ていると観光と勘違いしてしまいそうだ。

「ちょっ、せきな!? 勝手な行動しない約束でしょ!?!?」

「……本当に緊張感が無いわね」

「多分これから厳しい道のりになる。今くらいは雰囲気を味わっても良いだろうよ」

「ふっ……そうね。今回のプランについては移動中に伝えるわ。電源は常に入れておいて下さい」

「了解――んじゃ、華凜、せきな行くぞ」

「おっー! せきりん二等兵、必ず生きて帰ってきます」

「おー、がんばれ、がんばれー」

「もぅ……とりあえず、行ってきます」

「ええ」

「んじゃーな」

 俺達は閉め慣れた扉を後にした。




「ぷふぁー! ちっかれたーーー」

 会社の最寄り駅から電車とバスを乗り継ぐこと約二時間。俺達は神奈川県清川村の《三叉路》バス停に降り立った。辺りは想像より森林は少なくまだ住宅が立ち並んでいる感じだ。心なしかひんやりとした空気が身体に伝わり、まるで異境に来たような感覚に気が引き締まる。

「うーーーーん! 座っているだけでもくるねぇー。うぅー腰痛いぃ……」

「ん……? そろそろグルコサミンの力が必要じゃないか」

「そうだよね、最近どうも腰が痛くてぇー、って! そこまで重症ちゃうわ!」

 グルコサミン=お年寄り、という固定概念に縛られる華凜を尻目に俺達が乗っていたバスが消えていく。そして、同乗していたリア充ぽいグル―プが出発する中、俺はイヤホンのスイッチを入れる。

『…………着いたのかしら?』

 数秒のインターバルが終わると透き通った雪乃の声が聞こえた。二人も頷いているので聞こえているようだ。

「あぁ、今バスを降りた所だ。それに、そっちからも判るだろ?」

『……GPSが正確に機能しているか確かめたかったのよ……とりあえず、異常はないわね』

「そうか。そっちの様子はどうだ」

『……相変わらずグレーゾーンを潰す作業に追われているわ』

「まだ、海香の居場所が特定していないんだな」

 畜生……俺の記憶がもっと根拠が有れば良かったが。必死に思い出そうとしてもストッパーが掛かって具現化できない。

『……そうね。とりあえず本日はプラン通りに進むことをお勧めするわ』

「判った」

『……登山道から外れる辺りでまた連絡するわ。三浦さんも前川さんも大丈夫かしら』

「んー、はいっ、ちょっとゆきのんに提案!」

『……何かしら』

「そのさー、一々《さん》付けするの辞めようぜ。ほらっ、もしも戦闘になった時に聞き取り辛くなる可能性もあんじゃん。なら、コードネームみたいので呼び合おうぜ」

 せきなが意気揚々と雪乃に意見する。確かに、無線越しだと百パーセント伝わると限らないし、いざという時に呼称で混乱したらバカバカしい。

「良いんじゃないか? 例えばどんなのだ」

「ビッチ、ボッチ、淫……」

「それは色々と駄目だ」

「えー何でさ。リンリンが《ビッチ》でゆきのんが《ボッチ》で……」

「こらっ、誰が《ビッチ》じゃ! せめて、お・か・あ・さ・んにしなさい!!」

 それなら良いのかよ。

「えー、リンリンあそこの穴とか開通してそうだしぃー」

「開通しとらんわっ! あっ、でも開通式はハルの太くて長いのがいいなぁー♪」

「変なカミングアウトするな。とにかくそれは却下だ」

『…………』

 たく、本来の目的を忘れていないだろうな……こいつら。

「ちっ……面倒くさいから名前でいいだろ――ほらっ、進むぞ」

「あっ! 待ってよ、ハルルンー」

 俺は道なりに進む。せきなや華凜がピーコラ言っているが無視だ。一秒でも早く海香を助けたい。

「あーもぉー、ハルそんなに怒らないでよ……せきなだって……」

「……別に怒ってねーよ。それより登山道に入るからしっかりついてこいよ」

「うん……了解」

 すたすた付いてくる二人の先頭に立って道を進める。

 道路を左折すると橋の手前に登山口が見えた。もう少し大きく作られているのかと想像したが人が二人位入れるかどうかの狭い入口だった。数十メートルほど進んだ所で雪乃から渡された登山者カードを入れる。華凜が言うに、これが登山者のマナーらしい。

「あと、この時期ヤマビルが凄いからこれもね」

「ん? 何それ」

 華凜がプッシュするような容器を取り出すとせきなは『なんだそれ?』とでも言いたそうな感じで首を傾げる。

「ヤマビル忌避スプレー、だよ。これを靴とかにかけないと血吸われるぞー」

「げっ!? そんな吸血鬼みたいなのがいるの!?!?」

「そうだよ。んまぁー、これかけたら百パーセント安全、って訳じゃないけどね。頭からとりゃーーって降ってくることも有名だよ」

「えっ!? うそっ、それホント? リンリン……」

 せきなが目をうるうるさせている。そりゃ、いきなり血吸われるとか言われたらビビるだろうよ。

「あたしの実体験って訳じゃないけどね――ほら、足だして」

「うぅ……うん」

 せきなは華凜に足を出して、靴、靴下を念入りにスプレーする。これでも持つのは二時間程度らしいので、その度に必要になりそうだ。

「――ほらっ、首元も」

「……っん? 冷たいよ……」

「我慢して――よしっ、また時間経ったらかけてあげるね」

「うっ……うん」

「そしたら次はハルね。ほらっ、足出して」

「いやっ、俺は自分で……」

「ハルも初心者でしょ? 洩れがあったら嫌だから任せて」

 渋々足を出すと極め細やかに散布される。首元も多少の刺激を感じるが大丈夫そうだ。華凜もシュッシュしてスプレーをリュックにしまう。

「ふぅ……後は準備運動と歩き方の指導でしょ。隊列編成も確認取りたいしー……」

「ぶぅーぶぅー。そんなのメンドウだしさっさと行こうぜ」

「ま・ち・な・さ・いっ!」

「うぎゃ!?」

 華凜はせきなのリックサックを掴み引き戻す。

「いい? 山登りには危険が付き物なの。もし変な歩き方して怪我でもしたらどうするの」

「うぅ……それはヤダ」

「そうでしょ? ハルも。あたしが山登りの基本を教えてあげるから学習して」

「おぉ……おう」

 俺は華凜の足元を見下ろす。さっきまで開通とか言っていた奴とはまるで違うな。

「まず、歩くときは姿勢を少し前かがみにして足元を見ること。足の置く場所を素早く知ることが大切よ」

「……うーん。こう?」

 せきなは背筋を少し前に倒す。

「……ちょっと下げすぎかな」

「うぐっ……」

 華凜がせきなの肩を掴んで微調整する。何ていうか、プロのインストラクターって感じだ。周りの登山者の人も関心の目で見つめている所からも雰囲気が伝わってくる。

「ほらっハルも」

「おう」

 俺も見よう見真似で姿勢を作る。元々猫背気味なので前屈み姿勢に抵抗は無い。

「――うん。ハルは問題無さそうね。この姿勢を基本に、時々進む方向を確認すること」

 華凜は大きく頷く。生き生きとした笑顔は出発前の焦燥感とは少し違うようだ。

「それで歩き方だけど、こうやって足の裏全体で地面を踏むことね」

 華凜は足を小さく上げて地面に付ける。

「なるほどな。せきなはどうだ?」

「きっしっし……偉大なるせきりん様に不可能など……」

「ちょっ、せきな!? 爪先から入っているよ!」

「ひぃー! ごめんなさい……」

「もぅ、ちゃんとしないと家に帰ってもらうからね」

 鬼教官《華凜》の調教はせきなの悲鳴と共に進み、準備を整えた俺達は先へ歩んだ。



 丹沢山へ続く道は想像より平坦だった。その道を華凜、せきな、俺の順で歩き続ける。華凜が言うに、順番を守って歩くことでペースが調整できるらしい。確かに、俺が先頭だったら海香を助けるために速くなりそうだし、山奉行の華凜を先頭にした方が良いだろう。そして、所々に有る分岐点で雪乃と通信して確認。先を急ぐ。途中、ベンチで華凜が作ってきたおにぎりを食べる。流石、華凜……俺の好きな鮭をチョイスしてくれていた。

「――ねぇ、ハル?」

比較的広い道になり、華凜がすっと俺と並行する。

「……っち……海香……海香……」

「もうそんな神経質になると簡単に体力奪われちゃうよ?」

「くっ……そんなの、海香が苦しんでいる事を想像したら屁でもねぇーよ」

「はぁー、そうでないと徹夜同然でここまで来られないよね」

「……っ……うっせ――そういや、何で山登りに詳しいんだ?」

 華凜に山登り何て趣味無かった気がするし。

「うーん……実はお父さんがね。昔結構連れてきてくれたんだよね」

 悩んだ様子の華凜がそう口にする。お父さん……でも、確か。

「それって……」

「もしかしてあれを気にしてる? 別に気にしなくていいよ。もぅみんな知っていることだし、ハルにはあの時話したよね」

 と何事も無いような笑みで傾斜を踏み歩く。

――華凜の父親は現在、殺人で現在刑務所に入っている。華凜の母親を殺した罪で。

 俺がこの事実を知ったのは華凜と初めて会った日だ。あの日、おっちゃんの友人のパーティーに参加していた俺は、飢えた猛獣のごとく現れた華凜に飯を食わせ、話を訊いた。

「……父親とは会ったのか」

「ううん。何度か求められているけど会ってない。だって、あの時のお父さんと今はまるで別人……そんな気がするの」

 ボリュームを下げた声は戸惑いと現実が複雑に絡み合っているようだった。無理も無い。俺だって海香が殺されでもしたら平然としてられない。それなのに、華凜は平然さを保とうとしている。それは俺達に迷惑をかけたくないのか、それとも……

「……そうだよな。俺だって両親に狂わされた身だ。そう簡単に和解しろなんて言わない」

「ふふっ、ハルらしい答えだね」

 華凜が微笑むとそっと前を向く。

「そういえば、ハルってその……小さい時の事って覚えていたりする?」

「えっ? いきなり何だよ」

「ははは……一応確認みたいな感じかな? 別に強制しないよ? YesかNoか半分か」

「いかにも小学生的な要求だな」

 小さい時って言われてもな…………学校に通っていた覚えはあるが、それ以外はな。そう言えば、幼馴染に自棄に懐かれていた記憶はあるが……どんな奴だったけなぁ……。

「例えばこんなぁ…………」




「うわっ、ハルルン、ハルルン! あの道めっちゃ怪しくないっ!?」



 急にせきながグイグイ引っ張ってくる。せきなが示す先には普通に歩いていると判り辛い細道が下へ続いていた。これを道と称して良いのか疑問だ。

『……っ……聞こえるかしら』

「ん? 雪乃か?」

 せきなと怪しい道を見下ろしていると耳元から透き通った声が聞こえた。

「おぅ! ゆきのん。何か怪しい道が有るんだけどさ!」

『……良く気が付いたわね』

「でしょでしょ!? せきりん今日もぜっこーちょーだぜっ!」

 見栄を張りたい年頃なのだろうか。他の登山者に脇目も逸らさず両手を腰に付ける姿は勇ましさと幼さがドーンと出ていている感じだ。いや……うちのせきながすみません。

『……話を続けるわ。その道は以前鷺ノ宮が運営していた山小屋に続くわ』

「以前ってことは今は使われていないってことか」

『……ええ。そこに看板が有るわよね』

「あぁ……」

 立ち入り禁止……ってな。

 えっ? 俺らここに入るのですか?

「雪乃さん大丈夫なの? こういう所って道が落石とか有って危険じゃない?」

『……可能性はゼロではないわ……ただ、山頂にある山小屋は無理だったのよ』

「あぁ……あそこ、いつも予約でいっぱいだからね。シーズンだし厳しいよね」

『……鷺ノ宮でもそこまで横暴なことは出来ないわ』

「その割にはこんな気味悪い道を開拓しているよね……」

 華凜と雪乃がやり取りしながら俺達は一般登山者が入れない道を進む。長い間整備されていないような坂道に背筋が引き締まる。

『……とりあえず行きなさい。その……はっ、春風には渡してあるわよね……』

「あぁ。今手元にあるが」

『……そう。そこに赤い印があるわよね……そこから先が立ち入り禁止エリアよ』

「判った。それにしても、雪乃が名前で呼ぶとか変だな」

『……変ってなによ!? あなたが言ったのでしょ』

「ちょ、そんな怒ることないだろ。正直嬉しかったし」

『……よっ、余計なこと言う暇があるなら進みなさい。少なくとも、日没までには辿り着きなさい』

「判ったよ。華凜、せきな、行くぞ」

「うおっしゃい! 皆の衆ついてきなされ!」

「あんたはあたしの後ろよっ!」

「うぎゃっ!? もう、イチイチ引っ張らないで、ビックリすんじゃん……」

 キーキーした声に喝が入る中、華凜を先頭に細い道へ入る。

 待っていろ……海香。




 立ち入り禁止エリアは過酷を極めた。

 足元は悪く、経験者の華凜でさえ足を躓く環境に悪戦苦闘。そして、等高線が狭くなっている方へ向かうよう線引きされた地図にはヤマヒルが付き、その度に小分けされたスプレーで処理しながら森を抜ける。すると、先ほどまで目に掛からなかった岩が目立つ所に出た。

「ふーん……ここはガレ場って感じだね」

「ガレ場?」

「こう岩が重なっている場所のことよ。足を置きやすい所を探して前に進む感じがポイントよ」

「そうか」

 俺は足にフィットしそうな岩を探り探りで前に進む。ん……結構ぐらぐらするな。

「ハルルンだいじょうび?」

 とケンケンパのごとく先へ進んでいるせきなは振り向く。元々運動神経が良いこともあって余裕そうだ。

「あぁ……心配には及ばない」

 とは言ったものの、膝の辺りに違和感が残る。日頃の運動不足が災いしたのか、それとも海香が傍に居ないからか。

「ハル? 本当に大丈夫なの? 少し休む?」

 いかにも俺に休ませようと誘う口調の華凜。でも、ここで弱音を吐いたら海香から遠くなる。一秒でも早く助けないといけない……身も心も穢される前に。

「……ちっ……俺を見くびるなよ」

「別に見くびっていないけどさ。無理して身体壊したら元も子もないよ」

「……俺が大丈夫って言ったら大丈夫だ。それに、もうすぐ目的地に着く。休むならそこでする」

 言葉を吐き捨てると、華凜は嫌疑な目付きで俺の身体を隈なく確認しだす。

「うーん。脹脛ふくらはぎは異常無さそうだし……本当にもうすぐなの? あたしにはそうは思えないけど」

 じっ、と見つめられる。まるで、獲物を狙うひょうのように威圧する眼差しは『冗談じゃないよね』と念を押しているように感じる。心配してくれるのは嬉しい、だが、俺が足を引っ張る訳にはいかない。

「この地図だとあと数百メートルで目的地だ。それくらい突っ走っていける」

「そう? なら止めないけど。無理そうならあたしが肩貸すよ?」

「今はいい……本当にヤバくなったら言うよ」

「ふーん。じゃあ遠慮無く言ってね。今ならもれなくおっぱい一揉みサービスしちゃうよ」

「そんなこと言っているとマジで揉むぞ」

華凜の肉食系発言にわざと乗ってみる。山奥に来ているせいか、何だか開放的な感じになる。

「へぇー、満更でもないんだぁー、へぇー」

「そんな変態を見るような目で見るな。華凜の方がよっぽどだろ」

「えっ? あたしは普通だよ。ねぇー、せきなぁー」

「へっ?」

 華凜の『判っているわよね』という口調にせきなが振り返る。いまいち状況が理解できていない表情だ。……巻き込んですまんな。

「あー……うん。リンリンは少しおませな所あるけど、普通。普通……だよね?」

「そこで尋ねるなよ」

「えー、だってリンリンって普段家庭的で家事することが生きがいな団地妻って感じだけど、例えば二、三日帰ってこない夫に対して『あたしの身体に飽きちゃったの!?』とか言って帰宅早々夫のあそこにおっぱい押し付けそうじゃん? それを普通って言うのはどうかなぁ……と」

「随分具体的なことを言うわね。せきなはあたしを怒らせたいのかな?」

「そっ、そんなこと無いよ……うん、絶対、命かける」

「ほんとにー? むぅー、帰ったら覚悟しなさいよね」

「うぅ……はいぃ……」

 この二人の様子を見ると上下関係が判りやすいな。

「華凜が変態かどうかは置いておくとして。とにかく、先を急ぐぞ」

「……あたしにとっては結構重要問題なんだけど」 

 華凜の自演乙な言葉を右から左へ流した俺は、岩のラビリンスの先へ踏み歩いた。



「ふぅ……疲れたわ」

 春風との無線が切れた後、雪乃は椅子に寄り掛かり天井を見上げていた。春風のことを名前で呼び『嬉しかった』と言われたことが気になっていた。

(嬉しいって……別に私は社長に言われたからそう言っただけだわ)

 理路整然と生きてきた雪乃は『嬉しい』の一言で熱くなった身体に喝を入れ、ノートパソコンとタブレット端末で状況を確認する。

(ふっ、大丈夫そうね――後は……)

春風達が順調に目的地向かっていることに安堵した雪乃はキーボードに手を添える。滑らかなブラインドタッチは海香の引けを取らず正確で、より詳細なデータを収集する。

 特に春風の証言と取締役クラスのスケジュールを照合させることに重点を置いた。誰かが裏を引いている、という仮説が真なら、頻繁的にその場所に行っているはず。そう思った雪乃は鷺ノ宮のセキュリティーシステムと戦いながら証明しようとしていた。

(……やはり、外部からのアクセスだとリスクが高いわね)

 一旦家に戻ることも考えたが、春風に近い雪乃は警戒される可能性から、《Peace alive》で奮闘している。

(……このグレーゾーンが立証できれば……多分)

 雪乃は誰が手を引いているかを数人まで絞っていた。ただ、肝心の場所は地域が絞れただけで正確な情報は集まっていなかった。

「ねぇーねぇー、ゆきの?」

「…………」

 お腹を空かしたアリスは雪乃のブラウスを引っ張るが、集中している雪乃は反応無し。

「ねぇーねぇー、ゆきの」

「……何かしら」

 何度か引っ張られた事で反応した雪乃はアリスを見下ろす。

「おなかすいた。シチュー、あたためて?」

「……そう言えば、もうお昼過ぎね」

 雪乃はさっと立ち上がる。アリスは雪乃の後ろに付いて行く。給湯室の大なべには華凜が作り置きしたシチューと手書きのメモが置いてある。

(……ふっ。余計なお世話よ)

 シチューの温め方、パンや皿の位置などが事細かく書いてあった。雪乃は食べる分だけ小鍋に移し火にかける。

「付け合せはパンでいいかしら」

「うん、いいよ。おさら、じゅんびする?」

「じゃあお願いするわ」

「おー。がってんしょうち」

 アリスはニコニコスマイルを見せると台所下の戸棚から皿を取り出し雪乃が受け取る。普段は華凜が料理するので、雪乃は給湯室になにがあるかなど知らない。

(ふっ……言い過ぎたかしら)

 雪乃は華凜と言い争った事を思い出す。巨大グループの令嬢として生まれた雪乃は何をするにも《鷺ノ宮》を背負わされていた。英才教育によって《鷺ノ宮》の後継者として教育され、組織のトップに立つため勉強漬けの毎日だった。同年代の人と友達になれず、グループにとって利益になる関係しか許可されなかった。それに比べ、華凜は誰からも愛され、何事も苦労しない様子で取り組んでいる姿が許せなかった。

「……ふっ……まるで嫉妬だわ」

「しっと?」

「ふっ……あなたには少し早い話だわ」

「おー。おとな」

 アリスは手に持った皿を雪乃に手渡す。受け取った雪乃は小さなスペースに並べると鍋蓋がコトコト揺れる。雪乃がおたまでかき回すとふわっとミルキィーな香りが二人の食欲をそそる。そして、シチューを皿に注ぐと片方をアリスに渡す。

「熱いから気を付けなさいね」

「おー。きをつけます」

 ガス栓を閉めると、二人はミーティングルームに戻る。雪乃はパンに浸す前にシチューをそっと食べる。

(……あのような言い争いをしたばかりなのに、この味……)

 雪乃はいつもと変わらない味に心が締め付けられるような思いに浸っていた華凜のプライドを傷つけるような言葉を散々言い、はっきりと嫌いって言ったのにこのクオリティ……何故……、疑問が駆け巡る。

(もし、逆の立場だったら……こんなに上手に作れるはずがないわ)

 今まで雪乃が関わってきた人は雪乃の本性を見た瞬間天地をひっくり返す勢いで軽蔑する態度に様変わりしてきた。他人は信用できない。その考えの基行動をしてきた雪乃は華凜の非論理的な対応が信じられなかった。

「ゆきの、おこってる?」

「別に……怒っている訳ではないわ」

「おー? でも、おかお、ぷんぷんだよ?」

「そっ……そうかしら」

 アリスの純粋な言葉に雪乃はたじたじだ。

(そういえば、この子の事は何も知らないわね)

 《Peace alive》の人間はデータベースで事前情報を得ていたが、アリスの事だけは一致しなかったのだ。どこから来たのか、両親はどういう人か……そして、なぜ一人で《Peace alive》に来られたのか。訊きたいことは多いが小学生相手に深く訊くことが、少なくとも今の雪乃には出来ない。

「ねぇー、ゆきの? そっちいっちゃだめ?」

「えっ?」

 突然の申し出に奇声が出る。基本《Peace alive》の人間と絡むことが少ない雪乃にとって、どう応対すればいいのか判らなかった。

「ゆきの?」

「……えっ……ええ。いいわよ」

 ぎこちない返事にアリスが頷く。雪乃はとりあえず情報機器を中心の方へ押し、アリスの食事が置けるスペースを作り、シチューとパンを載せた皿を置く。

「――おー。がめんがいっぱい、おめめチカチカ。なにしてるの?」

「色々と調べているのよ」

「おー。さすが」

「それより、早く食べないと冷めるわよ」

 アリスからの質問に少し面倒だと思った雪乃が話をすり替えると、アリスは黙々とシチューを頬張る。雪乃はその姿を観察しつつ手を進める。

 一通り食べ終わると雪乃はアリスの皿も持って給湯室に向かうと、後ろをアリスが付けてくる。雪乃は来なくてもいい、と感じつつも指摘しないで皿を洗う。

(……くっ……結構難しいわね)

皿洗いなど数える程しかしていない雪乃は、度も皿を落としてしまう。その度にアリスが心配そうに声をかけるが、プライドが高い雪乃は平然さを保つ。

皿を洗い終えると再びパソコンの前に戻る。

「……なぜ、私の上に?」

「おー。なんとなく」

 アリスは当たり前のように雪乃の太腿の上に座る。

「……作業がやり辛いのだけど」

「ぶぅー。すこしだけ、ねぇ? だめ?」

「うぅ……」

 アリスの無垢な笑顔に言葉が出ない雪乃。子供の扱いに慣れていない雪乃は対抗することが出来ず、アリスを包み込むような感じでキーボードを打つ。

「ゆきの、ふとももちょっとかたい、でもいい」

「……っ……そう」

 喜んで良いのか微妙な評価にむっとなるが、コメントしないでメールフォルダを開く。

(…………? 何かしら)

 受信フォルダには差出人不明のメールが届いていた。普段であれば見ないで消去しているが、事態が事態。雪乃はメールをダブルクリックした。

(…………添付ファイル?)

 空白の本文の下には添付ファイルが存在していた。近年のコンピューターウイルス事情からダウンロードするべきで無いと思いながらも、雪乃の直感がデスクトップにアイコンを表示させていた。

(……っ! これ……もしかして)

 内容を確認した雪乃に緊張が走る。証明するために雪乃が仮説したパターンと比較。

(……ふっ……間違えないわ)

 何かを確信した雪乃は証明するため、データベースの最深部へ侵入した。




「……ねぇー。これ本当に山小屋なの?」

 ガレ場の道を歩くこと数十分。俺達は地図に示された場所に到着すると華凜が言葉を漏らす。

「小屋というか……ログハウスって感じだな」

 丸太を組み合わせたような作りは異様な存在感があり、洗濯物が干せそうなミニテラスは何年も使われていないことが嘘のように思える。

「うほぉー。すげー! せきりん達ここに泊まるの?」

「あぁ……そうみたいだ」

 周りに小屋らしき物が無いので合っているだろう。

 俺は足元を確かめるように玄関に立ち、雪乃から貰った合鍵を探す。鍵は二つありどちらも形状が異なり、合いそうな方を差し込む。

「……っ……入った」

 ガチャ……とレトロ感溢れる音を確認し手前に引く。ギギギ……と軋む扉の先はワンルームが広がっていた。

「へぇー。思っていたより片付いているね。広さも申し分ないし」

「そうだな。一晩過ごすだけなら丁度いいな」

 家具が無い分とても広く感じる。

玄関で靴を脱ぎ歩き確かめると抜けそうな箇所は有るが、短期間なら問題なさそうだ。

「なぁー、スイッチあるけど電気点かないよ?」

「ブレーカーが落ちているんだろ」

 見渡すと奥の方に見覚えのある白い箱がある。あれがブレーカーだろう。俺は近づいて箱をあける。摘まみを上にあげると蛍光灯の光が空間を照らした。

「うぉー、点いた」

「そこまで驚くことないだろ……」

 んま、こんな山奥で電気に困らないのは衝撃だろうが。

 俺は耳元のスイッチを入れる。もう手慣れたものだ。

「雪乃。着いたぞ」

 短いフレーズで雪乃の応答を待つ。最先端の技術でも自然の力に勝てないのか、ふもとで通信した時よりインターバルが長い。

『……そうみたいね』

「ああ。電気はついたんだが、道具とかは何処にあるんだ」

『……裏に倉庫が有るはずよ。鍵はあなたに渡したはずよ』

「二つ有ったやつか――華凜。ちょっと見てきてくれないか?」

「うん。判った。せきなも手伝って」

「アイアイサー!」

『……やけに騒がしいわね。あの子、本当に判っているのかしら』

「騒ぎたい年頃なんだろ。それより、情報は集まったか」

『……ええ。詰められるとこまで集まったわ。後で言うわ』

「判った。ありがとな」

『……お礼なら、海香さんが見つかってからにしなさい。そう言えば、途中で妨害行為などに遭わなかったかしら?』

「そうだな……これと言って無いな。気味が悪い位順調だ」

 正直、相手のから何かしらあっても不思議じゃないと思いつつ進んできたが、せきながヒルに血吸われてピーピー言っていた事しか思いつかないし、何も無いことが不気味だ。

『……気を付けなさい。これから正念場よ』

 雪乃の忠告に頷いて、俺は一旦通信を切った。



 夕食は倉庫に有った保存食と華凜が途中で摘んできた山菜の炒め物を味わった。塩分補給用に持ってきた塩と和えただけなのに『旨い』っと素直な感想がこぼれる。流石は華凜だ。せきなも納得な感じの笑みを浮かべていて、華凜様さまって感じだ。

「それで明日の作戦だよね」

 ジャケットを脱いでポロシャツ姿の華凜が呟く。

「あぁ……これからそのことについて話し合う。全員スイッチを入れてくれ」

「らじゃー!」

 ほぼ同じタイミングで雪乃にアクセスする。

『……おー。おにいちゃん。げんき?』

「その声はアリスか?」

 雪乃が出ると思っていたらアリスの儚げな声が流れる。アリスにもイヤホンは付けているので、不思議ではないが。

『……うん、アリスだよ。ゆきのはおと……』

『……っ! ……遅くなったわ』

 アリスの言葉を遮るように乱入してきた雪乃。アリスの言葉から察するにあれをしていたんだろう。本人に問うことはしないが……多分、殺される。

「あっ……こっちは全員そろった。それでどうなった」

『……ええ。海香さんの居場所を突き止めたわ。地図情報を送るわ。端末を見て頂戴』

「端末? あぁ、本体のことか」

 ポケットからトランシーバーの本体を出すと、右上の方にある受信マークが点滅している。マークをタッチするとある一点を示した地図が表示された。

「ねぇー。とりあえずハルの地図と照らし合わせてみようよ」

「そうだな」

 華凜の一言で紙媒体の地図を広げ、雪乃からの情報を参考に印をつける。

「……ここからだと。北西の峰を越えた辺りか……どうしてここだと思ったんだ」

 数時間前まで無だった情報が短時間でここまで正確になるのは疑問だ。

『……メールが来たのよ。多分、あなたの親戚さんから』

「はぁ? どういうことだ」

 不意に出てきた親戚というワードに困惑する。なぜ、雪乃に直接? どうやって?

『……差出人不明のメール。だから単なる仮説よ』

「ねぇー? そんな差出人不明なメールをそう簡単に信用していいの?」

 御もっともだ。仮に俺達に情報提供するためのメールだとしても、罠の可能性は否めない。特に、華凜は神経質になっている気がする。山の恐ろしさを知っているのと、責任感がそうさせているのだろう。

「それについては華凜に合意だ。でも、雪乃にも根拠が有るんだろ?」

『……ええ。送られてきた地図と私が独自で調べた候補地と合致していたのよ。タイムリミットが近い今、リスク犯してでも行くべきだわ』

「でも、それでも情報源は二つでしょ? タイムリミットも確かに重要だけど、行動組の意見としてはもっと信頼が置ける所から確実な情報が欲しいかな」

 華凜はあくまで慎重な姿勢を貫くつもりらしい。

『……こちらでも善処しているわ。ただ、相手の顔が見えない今。得られる情報は制限されるわ』

「だよな。ネット上に広がっているデータだと限界ある、その中でも良くやったよ」

『……っ! こっ……この程度でお礼を言われる筋合い無いわ』

 少し籠った声が耳元に流れる。咽たのだろうか。

「それでハルルン? このルートに決定するの?」

 せきなは地図に線引きしたルートを示しながら首を傾げる。

「……そうだな。明日はこのルートで……」

「ちょっ……ちょっとハル!? 少し安直すぎないかな? もう少し現場を見て、それでから行動した方が良いよ、絶対」

 意思決定を実行しようとすると、華凜が掻き消すように叱咤が入る。

「華凜が慎重になるのも判る。でも、目的地までの地形とここまで来たペースで考えると、この峰を越えるのに少なくとも二時間は掛かる。それでから現場を調べて向かうのは時間が掛かりすぎる。それに、これが正しければ峰を越えれば相手のエリアだ。そこで単独行動を取る方が危険だ」

 いつか、雪乃が『この世界に絶対はない』と言っていたように、百パーセント勝てる戦略など無い。感情と大自然が交錯したフィールドにおいての最善策……現状、雪乃の意見が近い、直感だ。

「うーん……確かに単独行動が危険なのは判るよ。GPSが機能しない可能性も否めないし……でも、データだけで決めちゃうのはちょっとね。ほらっ、よく現場を見ないで新商品作って大ゴケする話とか聞くよね?」

「あぁ……そうだな」

 日本の企業で陥りやすいマーケティングの失敗について言いたいのだろう。例えば、平均年収八百万のプロジェクトチームが、平均年収四百万の顧客に売り込む商品を作る際に『これは絶対売れる』と会議室の中だけで意見が一致して商品化。結局売りたい人の要求と合わなくて売れない、という感じだ。……おっちゃんからマーケティングを学んだ際に言われたことだが。

「だから、ここから真っ直ぐ行かないで、例えば……」

 華凜はここと目的地が結ばれた線の中心辺りを指でぐるぐる示す。

「……そう、この辺りで一旦状況を整理して修正することが必要だと思うの」

「うーん……でもそんな都合良く場所があるか? 山頂付近が平坦とは限らないし」

『……それくらいの場所なら、こちらで指示できるわ』

「まぁーせきりんはぶっ通し大歓迎だけど、ハルルンはねぇー」

「……うっせい。余計なお世話だ」

「いいえ、せきなの言う通りだよ。万全じゃないハルの事を考えても中間地点の設定は必要だね。休憩場所をあらかじめ設定していたほうがペース配分しやすいし」

『……そう。なら検索してみるわ』

「んっ……何か気を遣わせたな」

「良いのイイの。肉体的にも精神的にも、一番疲れているのはハルだからね」

「俺なんて大したこと無い。それより、大まかなプランは出来たし、後は……」

「ハル。腕出して」

「はぁ? ちょっ……何だよ」

「い・い・か・ら!」

 俺の返事を待たず、華凜が俺の手首をぎゅっと掴む。急なことで華凜の心地よい肉質への免疫作りが間に合わず、ほんのり身体が火照る。

「…………っ…………」

「……何をしている」

「しっ! ……少し静かにして」

 いきなり掴まれて静かにしろとか無理だろ。華凜は目を瞑ると骨の間に指を入れるように力が強くなっていく。しばらくすると、華凜の目が開く。

「……やっぱり……脈、荒れてる」 

 確かな温もりが離れて行くと、華凜が呟く。

「だから何だよ……俺は至って健康だ」

「そういう根拠の無い自信が災いを呼ぶんだよ? もう今日は寝た方が良いよ。後のことはあたしらでやるから、ねっ?」

「でも……まだ……」

 作戦をより深める必要がある今、俺だけ休む訳にはいかない。

「明日は本番だよ? どうせ寝てないんだから今の内寝た方がいいよ」

 必要に寝かせようと仕向けてくる華凜に対して押される俺。まだ雪乃と話し合いことも有るし、話し合いを深め数パーセントでも成功確率を上げたい気持ちが抵抗する。大丈夫と言いたい気持ちの反面、身体のピークを警告するようなダルさが全身を蝕む。

「……ちっ……」

「もう、お母さんに無理やり寝かされる子供みたいな顔しないの。布団……は無いけど、倉庫にスリーピングバックが有ったから使ってはよ寝なさい。それとも……あたしの膝枕がいい?」

「生憎、俺は包まれる方が安心するタイプだからな……でも、すまんな」

「もぅーハルルンは心配性だなぁー。ここは世界が誇るスーパー美少女せきりんが居るんだから百万馬力だよ!」

「正直、せきなが一番心配なんだが」

「なんだとぉー! そんな事言ってるとスーパーせきりんの必殺技見せてあげないぞ」

「はいはい――華凜、後は頼む。何か有ったら遠慮無く起こしてくれ」

「うんっ、判った。おやすみ、ハル」

「あぁ……おやすみ」

「おやすー、ハルルン♪」

 華凜の温かい目とせきなの『夜はまだまだこれからだじぇー』とでも言いたそうな顔を後にし、端の方にスリーピングバックを展開する。疲れが溜まっていたのか、バックに包まれるとあっという間に眠り世界に入ってしまった。

 海香……明日、必ず助けるからな。




『……ちょっといいかしら』

「えっ、雪乃さん?」

 華凜は突然流れた雪乃の事に驚きつつも耳に手を当てる。明日の作戦会議が決着しせきなが寝静まったころ、いざ華凜もスリーピングバックに包まり寝ようとしたその時だった。

『……心配いらないわ。この声は他の人には聞こえないわ』

「そこはあまり気にしていないけど、何か用があるんでしょ?」

 なぜ、雪乃さんがあたしに? と疑問の渦が駆け巡る華凜。普段一対一で話すことなど稀で、しかも先日喧嘩したばかりの二人の間に伝わる緊張感は不安と謎がひしめく。

『……その……美味しかったわ、シチュー』

「えっ!? シチューって作り置いたのだよね?」

 拍子抜けの言葉に驚愕する華凜は質問を重ねる。

『……ええ。そうよ。私……少しあなたの事、勘違いしていたわ』

「勘違い? ちょっと話が見えないだけど……」

『……深く考える必要は無いわ。ただ……私は……その』

「んん?」

 雪乃は素直に謝ろうと思うが言葉に出ない。ビジネスの中では考えるより先に謝罪する雪乃だが、華凜に対してはもどかしい気持ちが先行していた。

『……その……ご……ごめんなさい』

「え? 何のこと?」

『……だから……その……この前の事。流石に言い過ぎたわ』

「…………」

 華凜は雪乃の素直な言葉にぐっと胸が引きしまる。プライドが高い雪乃が自分から謝罪。それが意味することを悟り言葉が詰まる。

『……あなたのシチュー……普段と変わらない……とても温かかったわ』

「うん。そう言ってもらえるなら、作ったかいがあるよ。でも、そんなこと帰ってからでも良かったのに、雪乃さんの事だからちゃんとした理由があるんだよね?」

『……ええ。私……少しあなたの事、誤解していたわ』

「誤解?」

 優しく、まるで赤ん坊をあやしているような口調は、雪乃の中の緊張が解ける。なぜ、華凜が《Peace alive》のお母さん、と呼ばれるのか、その意味を再認識した雪乃は言葉を紡ぐ。

『……その……私……あなたのような年が近い人と関わらなかったから……』

「ふふっ……そんな固くならなくて大丈夫だよ。ハルみたいにからかったりしないから遠慮しないで。ちゃんと、聴いてあげるから、ねぇ?」

『……っ! でも……その……』

「もうっ! 雪乃さんらしくないよ。でも、あたしも少し雪乃さんとお話ししたかったからお互い様だよ」

『……そう言っていただけると……その……助かるわ』

「ふふ。じゃあ雪乃さんがあたしに訊きたい事を何となくで返事するとね……気にしいないって言ったら嘘になるかな。あの時、ハルが遮って無かったらあたしが雪乃さんを罵倒していたかもしれない。不完全燃焼って感じかな」

『……なら……良いわよ。私のこと……罵っても』

「ううん。そんな事、言わないよ。だって、私は雪乃さんの本心を聴けて初めて気が付いたんだもん。ほらっ、あたしって結構自意識過剰な所あるじゃん? だから、雪乃さんが裏であんな事思っていたなんて想像もしていなかった。だからあたしの責任」

 華凜は社員=家族だと思って接してきた。無愛想な雪乃もきっと心の中では良く思っている。そのような考えが崩された反面、お母さんを名乗るなら雪乃を放っておいてはいけない、と考え始めていた。もう、一人じゃない……そのようなメッセージを雪乃に届けるために。

『……でも……あなたが気負いする必要は無い……私は隠していた……自己責任よ』

「もぅー、あたしは雪乃さんより年上よ? 年下のした事は年上の責任。だから、雪乃さんにそんな思いをさせてしまったのはあたしの責任だよ。少しハルの言葉借りちゃった♪」

『……ふふ……強いのね……あなた』

「ううん。あたしは雪乃さんの方が強いって思うこと多いよ? 《Peace alive》が上手くやりくり出来ているのは雪乃さんのお蔭だと思うし、お偉いさんとも平然と会話しているし。尊敬しているよ?」

『……そんな事……教育されれば誰でも可能だわ』

「ううん。きっとあたしが雪乃さんと同じ教育を受けても無理だよ。経緯は雪乃さんにとって認めたくないかもしれないけど、きっとそれも個性だよ。誰にも真似できない」

『……っ…!?』

 雪乃は初めて自分の存在を認めてくれた言葉に息がつまる。自分は言われたことを何でもやるロボット……代わりなどいくらでもいる。そのような思いで自分の心を満足させ、欲を決して出さなかった。春風に意見したのは源一郎が雪乃に与えた役目から、感情ではない。でも、今雪乃が華凜に話しているのは本心。不器用な雪乃を華凜は認めた。その事実が嬉しいと感じていた。

「勿論、雪乃さんがあたしには成れないよ、断言する」

『……べっ……別に、私はあなたに成りたいなんて……』

 そう華凜に誤魔化す雪乃。もしも、華凜みたいに振る舞えたらどれだけ楽しい人生が送れたのか、と考える内に華凜を特別視していた。

(きっと楽しい、少なくとも今の私よりかは……)

 しかし、現実は天と地ほどの差が有ると感じていた。幼い頃から召使が常駐し、家事などの雑務に手を出す事はしなかった。一度、父に黙ってお菓子を作ったことは有ったが『そんなことをして大事な身体を傷つけたらどうする!?』と本気で怒られて以降、挑戦することは無くなった。

「ふふっ、私は雪乃さんに成りたいって思っていた時期が有ったよ。だって、雪乃さんは定められた道を歩けば富と名誉を手に入れることが出来る。少し言葉を悪くすれば、人生考えなくても良い立場ってどれだけ楽かなぁー、何てね♪」

『……そんな。あなたが考えているほど楽ではないわ』

「判っているよ、現実はそうじゃないんでしょ? 雪乃さんを見ていると何か『無理して大人ぶっているなぁー』って感じるよ。だから……この前あたしにキレたこと、結構嬉しかったりするんだ、本心で」

『……っ……!』

 華凜の諭すような声は雪乃の中で忘れかけていた感情が息を吹き返す。なぜ、今まで見て見ぬふりをしていたのか、どうしてもっと早く華凜を頼らなかったのか。無数の後悔が胸を突く。

「だから、あたしも答えてあげる。何で《Peace alive》に居るか」

『……ええ。聴かせてもらえないかしら?』

 雪乃はぐっ呼吸を整える。華凜も深く深呼吸して電波の先の雪乃を心の目で感じる。

「雪乃さんはあたしのお父さんの事は知っているよね?」

『……ええ。でも、あなたの叔父は鷺ノ宮銀行の取締役。そちらの養子になる選択肢も有ったはずよ』

「ふふ、そこまで知っているとはね」

 華凜は予想通りの展開を鼻で笑う。三浦家は代々『男は出世、女は家事』という教えの元社会に影響をもたらしてきた一族だ。華凜の父も鷺ノ宮グループの傘下『三浦銀行』の取締役としての地位が有った。父は優秀で幼い頃から頭角を示し歴代最年少で代表取締役に就任した。逆に叔父は落ちこぼれのレッテルを貼られ父と対比されてきた。しかし、近年の不況で業績が悪化し、ストレスが溜まった父は女に酒に、挙句の果ては華凜の母に暴力を振るった。そして、最後は無残な結末だった。父は地位剥奪、一家とは絶縁関係になり刑務所で罪を償っている。

「あたしと叔父さんはね……仲が悪かったの。厳密に言えばお父さんの出世に気にくわなかったことからくる逆恨みかな? 結構酷い事とか言われたなぁー……『お前の顔何て見たくない!』とか子供にそれ言う? て感じだよね」

 いかにも笑い話のように話す華凜。雪乃は笑いに便乗すること無くただイヤホンを抑える。

「……でもね。流石にあの現場に立ち会った時は連絡したよ。気が動転していたのも有るし、叔父さん以外に頼れそうな人が居なかったからね……確か……駅前の公衆電話だったかな。そしたらあの人何て言ったと思う?」

『…………』

「……いい気味だ、ただそれだけを残して切られたのよ。もう悔しさと怒りが爆発しちゃってね。無我夢中で走った。何日も路上で寝泊まりして、なけなしのお金を切り崩してね。そんな生活も限界に来て、気がついたら庭に侵入していてハルに捕まったって感じだよ」

 華凜の蔑んだ口調はまるで過去の自分を他人のように扱っているようだった。雪乃はどう返事すればこの場で正しい対応なのか困惑する。普段であれば、すっ、とシナリオが出てくるのに何故? 困惑に満ちた疑問が雪乃を縛り付ける。

『……そう……想像以上だったわ』

 挙句の果てに出た言葉は豊富なボキャブラリーを持ちながら上手く表現することができなかった。

「……ふふっ。別に無理しなくていいよ。あたし的には結構すっきりしていてね、今は今で、新しい人生を楽しんでいるよ。こう雪乃さん達と一つの目標に向かって行動している。たとえ裏に何か考えあっても、あたしは受け止める。だって、悩みが無い人間何てこの世界にはいない――そんな気がするの」

 華凜の哲学じみた言葉は雪乃の胸中をえぐる。

(どうして、三浦さんの言葉がこんなに私の心を支配するの?)

 父の綺麗ごとには全くときめかなかった雪乃。

(……えっ……涙……)

 気が付くと、声にならない涙がつーと頬を伝っていた。

(そうだわ……私はきっと……)

 雪乃は気づかれないように『ありがとう』と囁く。

「どういたしまして……で良いのかな? 結局自己満足みたいな感じだからねぇー。それより、明日は作戦、成功させようね!」

 明るくサバサバとした声に頷く雪乃。

『……そうね。期待しているわ……その……華凜』

「ふふ……やっとあたしのこと名前で呼んでくれたね、雪乃♪」

 雪乃のぎこちない言葉を包み込むような雰囲気は電波を伝って雪乃の元へ、静かに切った後、雪乃はそっとハンカチで涙を拭く。

(……もう私は迷わない)

 雪乃は再びパソコンを開いた。掛け替えのない仲間を助けるために。




「ハルっ……! ねぇー、早く起きてっ! 大変なの!!」

「んっ……! 何だよ……朝くらい落ち着いてだな……」

「この状況で落ち着いてられないわよ、無いのよっ!?」

 身体を左右に揺らされながら目を覚ますと、酷く青ざめた華凜の表情が目に入る。着ているポロシャツは昨日のままだし、清潔感を気にする華凜らしくないと思いつつも、重い身体を起こす。

「ん……何が無いんだよ。替えの服忘れたのか?」

「服程度で済んでいたらハルを起こさないよ。無いの。全部!」

「全部……トランシーバーならここに…………ん?」

 俺は枕元に置いてあるはずのトランシーバーを手探りするがかすりもしない。

「……もしかしなくても、もしかするか?」

「ちょっと日本語的におかしいかもだけど……うん。リュックもトランシーバーも全部。全部無くなっているのよ!?」

「んんっ……! だから揺らすなよ。こういう時こそ冷静にな……」

「冷静でいられないわよっ! だって、リュックの中には……中には……っ!!」

 ブンブン俺を振り回す華凜。俺を揺らしても何も出てこないのにな……。

「……っ……落ち着け、なぁ?」

「うぅ……ハルだって汗臭いあたしなんて嫌いだよね、軽蔑するよね?」

「軽蔑しねぇーよ。そもそも臭わないし大丈夫だ。それより、せきなの方はどうだ?」

「せきなも駄目。全部盗まれている。うー……これだと雪乃と連絡取れないし……昨日の地図も無いからどの道進めば良いか判らないよ……」

「だよな……それにしても、お前、雪乃のこと名前で呼ぶことにしたんだな」

「昨晩色々あってね……ちょっと改めてみたんだ」

「そうか」

 俺が寝ている間にそんなことが有ったとわな。この前の事で結構心配していたので素直に良かったと思う。

「……ふわぁ……おはよう……ハルルン……」

「おはよう。せきな」

 騒ぎに目を覚ましたのか、目を擦りながら俺の元に来るせきな。表情から察するにまだこの事態に気づいていないらしい。

「あっ、せきな! 何か身体に違和感とかない?」

「……違和感……トイレ、どこ?」

 股をもじもじさせるせきな。んま……生理現象なのでしょうがないだろう。

「トイレなら外だよ。昨日もしたでしょ?」

「……あぁ……うん……いってきー……」

 何とも緊張感無くふらふら揺れるせきな。

「――あれっ!? 無い……パンツも、ブラも、パンティーもなぁーーい!!」

 しばらくして我に返ったのか、華凜同様に騒ぎ出す。パンツもパンティーも同じだと思うがどうでもいい。とりあえず、現状をどうにかしなければならない、

 まず、今の俺達は一文無し。身に着けている服とポケットに入れていた《ヤマビル忌避スプレー》のみ。室内に荒らされていた形跡も無く、ただ有ったものがそこに無いって感じだ。

「事態は深刻だな……」

「そうだよね。あたしはハンカチとティッシュが無事だったけど……せきなは?」

「うーん……リンリンと同じ。だってリンリンが必要に言うからさ」

 せきなが顔を膨らませて俺のスリーピングバックの上に胡坐をかく。まぁ、元気そうなので一安心だ。

「こういう時に役立つでしょ? なら文句言わないの」

「そうだけどさ……」

「とりあえず、二人が無事で良かった。大丈夫、俺達なら何とか出来る」

 これはきっと試練だ。それに打開策は頭の中に描きつつある。

「んーハルがそう言うってことは策が有るんだよね?」

「あぁ……これにはせきなの協力が必要だ」

「おぉー! せきりん、ハルルンの為なら一肌でも二肌でも脱いでやるぜぇー」

「いやっ、脱ぐ必要性は無い。せきななら覚えているだろ? 昨日の地図」

 瞬間記憶能力。せきなにしかできない超人的な能力。見た物は一字一句間違えることなく脳に記憶されているに違いない。その証拠にせきなは頷いている。雪乃、どうやらジャストミートみたいだな。

「でも、どうみんなに伝えればいい? リンリン筆記用具持ってる?」

「残念だけど、全部リュックの中、ハルは?」

「右に同じだ。んま、脳内にイメージが有るなら大丈夫だろ」

「でもでも! 地図だけ判っていても方角までは判らないよ……うぅ……」

 しょんぼりするせきな。確かに、地図が有ったとしても方角が判らなければ意味が無い。「でも、地図上の方角は判るでしょ?」

「うん。昨日ゆきのんが言っていたのはここから北西方向の峰を越えた先だよ」

「そこは覚えている。でも北西ってどっちだ」

 山小屋の周りは山ばっかだし、土地勘も無いので全く判らない。

「うーん……流石に北西までは正確に示せないけど、北なら方法が有るよ」

「本当か!?」

「うん。結構うろ覚えだけど、ちょっと外に来て」

 俺とせきなは華凜の後ろに付いて行く。

 外は清々しいほど晴れていた。ひんやりとした空気は眠気を掻き消し、奏でる野鳥の鳴き声はそっと心を落ち着かせる。

「ねぇーせきな? 腕時計付けていたよね? ほらっ、あたしがプレゼントしたの」

「えーと……これ?」

 せきなは左肘を曲げてアピールする。付けていることを忘れていたようなアホ面と華凜の真面目とのマイッチングさが滲み出る。寝るときも時計を外して無いとか凄く大切にしているんだな。

「ちょっと借りてもいいかな?」

「うん……はい」

 腕時計を受け取ると華凜はキョロキョロする。

「えーと……太陽はあっちかなぁー」

 華凜は落ちていた小枝をせきなから借りた時計の真ん中に立てる。

「何をしている?」

「あっ、アナログ時計と影で方角を知る方法だよ。こんな風に立てて、短針と影を合わせて……そして、十二時と短針の間が北だよ!」

 ドヤ顔に値する雑学を披露した華凜は明後日の方向を指差す。峠も確認できるし大方間違って無さそうだ。

「他にもインディアン・サークル法とかも有るけど時間かかるからね。とりあえず、ご飯食べたら向かおう。確か非常食が有ったよね?」

 華凜はそそくさ倉庫に向かうとご飯や乾パンを手にして俺達に配給する。一定の腹の虫を抑えた俺達は倉庫から懐中電灯と余りの軽食をポケットに入れ峰に向かう。



 昨日休んだおかげか、身体は軽く確実に前に進んでいた。要所でせきなの脳内マップと照らし合わせ、少しでも可能性の有る方角へ歩き進める。急な坂道も華凜から教わった方法で膝に負担無く頂に到着する。

「間違いない……あそこだ」

 頂上から見下ろす先には森林が伐採され広く陣取られた屋敷が存在していた。せきなに確認取ると大きく頷く。

「後は……ここを下りればゴールだ」

「やったね、ハルっ! ついにあたし達来たんだよ」

 華凜の歓声に合致するように右腕を握りしめる。

 海香……助けに来たぞ。これで……やっと……



「ハルルン! 後ろっ!」



 せきなのキーンとした声が響き渡る。指差す先には迷彩服の人間が複数。

「えっ!? ちょっ……」

「いいから俺の後ろに入れっ!!」

 突然の出来事に困惑する華凜を背中へ、前に出ているせきなを引きずり戻す。

「……ちっ……いつの間に……」

 真下の景色に気が取られていたか。気配の《気》の字も感じ無かったぞ。

「やぁーやぁー、忙しい所申し訳無いねぇー、キーヒッヒ」

 ガザッ……と音を立てながら近づく影に息を呑む。手に持っているのはまさか……。

「……っ……拳銃か」

「えーー!? どうするの、ハル!?!?」

「ちっ、どうするって逃げるしかないだろ」

 銃の対処法が判らない今、とにかく逃げるしかない。でも、なぜ今さら姿を現す? 陣地に入ったからか? それとも別に意味が有るのか。

「キーヒッヒ! いいねぇーその目付き。最高だぜぇ……」

 集団の中から抜け出す一人の影。いかにも気が狂った口調で迫る男が銃口を向けて近づく。こいつはやばい……腕に力が入る。

「……何の用だ」

「何の用だとは酷いな……ぼくちんはクライアントに雇われている身でねぇ。おーーーと、これは極秘事項だったな、キーヒッヒ」

 クライアント? となるとこいつらを問いたざしても有益な情報は手に入らなそうだ。

「……それで……俺達を殺す気か」

「キーヒッヒ。生憎ぼくちんはじっくりいたぶる主義でねぇー。特にパイオツが大きい女を虐めるのはだぁーーーい好きなんだよねぇー」

 ただの巨乳好きだろ。こいつ。趣向だだ洩れの言葉に華凜は更に身を寄せる。

「……心配するな。お前らは俺が守る」

「ハル……ありがと」

 相手に気が付かれないようにボリュームを下げた口調を華凜に向けると、心なしか華凜が掴む手が強くなる。いつも大人みたいに振る舞う華凜がこう頼ってくると守ってやりたい気持ちが強くなる。

「おやおや? よく見ると、左の子結構タイプだねぇー。もしぼくちんの要求に答えてくれたら、命だけは残してあげてもいいぜぇー、命だけはね、キーヒッヒ!」

 高笑いする男がより近づく。せきなや華凜が必要以上に押し戻してくる……どうやら、これ以上は下がれない。ちっ……どうすればいい。どうすればこの場を切り抜けられる。脳よ、さっさと決断しやがれ……しやがれっ!!

 必要以上に脳を刺激すると、ふとアイディアが浮かぶ……とは言っても打開策とは言い難い。でも……やるしかないだろ。

「……せきな。この山肌を下りるルートは有るか」

 奴らに気が付かれないようにぼそっ、と言う。

「うん。大丈夫……せきりんに任せて」

 銃口がこちらに向く。奴らは本気に違いない。一歩でも動けば殺される。

 標準はどこだ……目か首か足か……!? 

 目測十メートル……もう後は無い。何か目くらましになるものが有れば……せめて刺激が強い……刺激が強い? まて、確かポケットには……

 敵に気づかれないようにポケット探る……よしっ、一か八かやるしかなさそうだ。

「……ちっ……行くぞ」

「えっ!? ちょっ」 

「キャハー、逃げやがってぜ。追うぞテメーラ!!」

「させねぇーよっ!」

「なぁ……!? 目が……目ぐぁーーーーーーーーーーーーーーーーー!!!!」

 ヤマビル忌避スプレーのキャップを外し男の顔面へ。ストレートに命中し男は目元に目を擦る。今がチャンスだ。俺は二人の腕を引っ張り森へ。乾いた音から遠ざかる。目を丸くする華凜をペースに追い込みつつ、せきなが示す先へ向かう。

「……ちっ……追いかけてくるかぁ……」

 鳴り止まない銃声。標準が有ってきたのか、目先の葉が撃ち落されタイムリミットを直感、持てる力を全て足に集中させる。急いでせきなに蛇行走行を指示する。

「はぁ……はぁっ……ハルルン……もうやばいって」

 せきなの表情にも疲れが見えている。相手も強靭な身体で攻めてくる。万事休すか。

「……っ!? あれは……」

 ふと、遠くに人が乗れそうな《ゴンドラ》が見える。ロープはふもとの方に伸びている。……っ……これは使えそうだ。

「せきなっ! 左だ! あれに乗り込めっ!」

「アイアイサー!」

 せきなは《ゴンドラ》に乗り込む。

「ちょっ……あれに乗るの!?!?」

「あぁ……あれならいける」

「……っ!? 無理無理、絶対無理だよ。落ちちゃうよぉー」

 首をブンブン振る華凜。確かに無謀だ。どこに着くかも判らない。

「大丈夫、俺が腕掴んでやるから、な?」

「無理ヤダ不可能だよ。死ぬーーーー」

「ここに居る方が死ぬぞ!?」

「だって、こんな所で落ちたら体重がぁ……」

「……ちっ……」

 いつまでも渋る華凜の太腿に手を入れ胸の中へ。俗に言う、お姫様抱っこだ。

「ちょっ、何するのよっ! 離しなさい……!」

「我慢しろっ――せきな」

「よっしゃー。いくぜぇー」

 俺の合図に滑車が前へ。


「ぎゃーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー!! おーーーちーーーーるぅーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー」


 華凜が絶叫する中青空へ。ブフォー……と空気の層を突き進む俺達のゴンドラはジェットコースターのごとくスピードを上げる。追手も諦めたのか、銃声は聞こえ無い。

「うぉー、すげー。ハルルン♪ 見て!」

 せきなが見つめる先には青く聳える富士の山が顔を覗かしていた。山頂付近には雪が残り、群青の山肌はすっと心を落ち着かせる。あぁ……こんな景色……海香と見たかったな。

「ハルルン……せきりん、好きかも」

「あぁ……俺も好きだ」

「おぉー? それはもしかしてせきりんに対する告白ですかい?」

「ちげーよ。ただこの景色に感動しただけだ」

「ぶぅー。ハルルンはもう少しせきりんに優しくするべきだと思います!」

「なら、それ相応の行動をしてくれ」

 と冗談を交えながらどんどん下蹲うずくまる華凜の手を握る。

「そーいえば。せきりん達はどこに向かってるの?」

「………………さぁ」

 綱の行先など全く検討しないで乗り込んだからな。

「……それって……まずくない?」

「心なしか目的地にどんどん近づいている気がするしな」

「やっだなぁーハルルン。それじゃーまるで相手の罠にまんまと引っかかったみたいじゃないかぁ」

 にゃはは、と笑うせきな。まさかとは思いたいが……

「あぁ……このまま突っ込むぞ」

「うほっ、マジでそれ言っちゃいますか!」

「大マジだ」

「ぎゃーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーしーーーーーーーにーーーーーーーたーーーーーーーーーーーーくーーーーーーーーーーーなーーーーーーーーーーーーーーーーいーーーーーーーーーーーーーーーーー」

 華凜の絶叫が留まる事を知らない中、止める術をもっていない俺らは逆らうこともできない。大きなループを描いて敷地に侵入した俺達は地下トンネルへ……緩やかな登り坂に減速を始める滑車。止まれ……止まれ……

「……っ……光が……。身を隠せ」

「……んぐ、了解」

「ちょっ、せきな! お尻、お尻が……」

「いいから引込めろ!」

「きゃっ!? ハルっ!?!?」

 華凜の尻を力ずくで押し込める。帰ったら何回でも土下座するから許してくれ。これも全て命を守るためだ…………。

 ガガガガガ……、と滑車が回転する音が次第に弱まる。

空気圧と共にぱっと明るくなる……助かったのか? 

滑車の音が鳴りやみ身体に掛かっていた《G》に解放され、そっと顔出す。

敵は……敵はどこだぁ……!?!?



「……やっほー……にぃに。お疲れ様」



「……海香?」


 そこには探し求めていた我がリトルプリンセス『南 海香』 が手を振っていた。



「海香っ……海香……!」

 頭が真っ白になった。

 居なくなった時とは違う服を着て手を振る海香。本当に海香か? と問う脳内オーケストラはジンジン身体の熱を上げ、居ても立ってもいられない両膝は敵を警戒することなど忘れていた。

「海香っ……海香ぁーーーー!」

「……にぃに」

 バサッ……、無我夢中に抱き合う。この暖かさ、この安らぎ……あぁ……俺の海香だ。

「ごめんな……俺が不甲斐ないばかりに、辛い思いをさせて」

「……ううん。にぃには悪くない。信じてた」

 そっと俺の気持ちをなぞる声は心のダムを決壊させる。五感を刺激する海香の存在に留まることを知らない身体はこれでもかと抱きしめる。

「……にぃに……少し、痛いかも」

「あぁ、悪いな……うぅ……」

「……にぃに……甘えん坊さん?」

「もう甘えん坊でも何でもいい! もう少しこのまま……」

「……あのー。あたしらの事忘れてないかな?」

 俺がすりすりしていると、ジト目の二人が近づいてくる。

「ごっ、ごほん。別に忘れてなんかいないぞ? ちょっと妹成分が不足していてなぁ……ほらっ、テレビ番組でラーメン特集していると無性に食べたくなるだろ?」

「……海香はにぃにのラーメン……つるつる……しこしこ……」

「もぅ、二人で何馬鹿なこと言っているのよ」

「ふ・ふ・ふ。これはリンリンも負けてられないですなぁー」

「そうよね。海香ちゃんがラーメンならあたしはつけ麺だよねー、モチモチの太麺を秘伝のお汁につけてぇー……って、何言わせるのよ!?!?」

「うぎゃふー。せきりんはそこまで求めないよー」

 と頭をぐりぐりする華凜。海香を無事保護することが出来て緊張感が無くなってきたのだろう。

「ごほんぅ……で、海香ちゃんは保護したとして、どうやって外に出るの」

 息を整えた華凜。確かにそこが重要だよな。あの《ゴンドラ》は使え無さそうだし、そもそも俺達がどの辺りに居るかすら検討がつかない。見渡すだけでも扉が複数有るし、仮にここが《旧ラティフンディア》なら記憶にあるはず。しかし、俺の脳内メーカーは海香が九割しめていて、地図みたいなのは浮かばない。

「……大丈夫……心配しないで。もうすぐだから」

「えっ!? もうすぐって……」

「ハルルン! 何か足音がしない!?」

 せきなが裾を引っ張るとホールに乱立した足音が近づいてくる。クっ……敵かぁ!? 虫唾が走る背中。華凜やせきながそっと後ろに隠れる中、海香は表情を変えずに佇む。

「……っ……海香!!」

「……大丈夫……信じて」

「でも……」

「海香ちゃんっ! 早く逃げて……!」

 華凜の説得にも首を振る。海香の腕を引っ張りまわしても連れて行くべきか、否か。様々な可能性を模索する中、左奥の扉のドアノブが回る。心音と震えがリンクする中徐々に扉が開く。くっ……どうすればいい……。



「ふぉーふぉふぉ。なんじゃ? もう着きおったのかい」



 開門した直後、聞き覚えのある皺声が反響する。

「………………おっちゃん!? 佳代子さん!?!?」

「ええ。ご無沙汰しております。春風様」

 佳代子さんはぺこり、とお辞儀する。

 えっ!? その……いまいち状況が呑み込めないのですが……はぁ?

 佳代子さんが居るってことはあの長い髭は間違えなくおっちゃん……だよな?

「いやっ、でも、なんで?」

「それを訊きたいのはあたし達の方よ。だって、海香ちゃんはハルの叔父さんにさらわれたって」

 華凜の言葉にせきなが頷く。

「はて? 何の事じゃい?」

「とっ……とぼけるなよ! 俺は海香のこと心配で心配で心が壊れそうだったんだぞ!?」

 海香がいない三日間、俺はどんだけ神経をすり減らして頑張ってきたと思っているんだ。

「まぁまぁ、静まりなされ。これについてはちょいとばか、説明が必要そうじゃな」

「説明?」

「そうじゃ。今回の事件はわしが計画したのじゃよ」

「ということは……犯人は?」

「わしじゃ。でも安心せい。海香ちゃんに危害は加えておらん」

「ちょっ……ちょっと待て! じゃあ事務所に電話かけたのとか、荷物が無くなったのとかも。全部おっちゃんが?」

「そうじゃ。実行したのはわしが雇った者じゃ。ちょいとばか知り合いの劇団員さんに協力をしてもらったのじゃ」

「はぁ? じゃあ、あのとち狂った迷彩服集団も?」

「そうじゃ。流石のわしでも自衛隊を動かす権力はないからのー」



「じゃあ……南 義信……あいつはどこだ?」




 この事件の核心を突く。あの夜掛かってきた電話、声は細工されていたが、旧ラティフンディアの人間しか知るはずも無いワード《牢獄》が入っていた。おっちゃんに対して、その言葉を使った覚えは無い……これが全て作り物ならなぜ知っている。

「南 義信? はて、誰じゃったかのー?」

「とぼけるなよ! あの電話には《牢獄》というフレーズが入っていた。それは旧ラティフンディアの人間しか知らないワードだ。少なくとも、おっちゃんの身内に居るはずだ」

 もし南 義信が関係者なら信用問題に発展する。今までおっちゃんの事を信頼してきた。それが揺らいでいる。

「ふぉふぉふぉ、すまんのー。確かに、義信は関係者じゃ。ただし今はおらん。義信は自首したのじゃ」

「自首? ……どういうことだ」

「結論から言えば、わしが追い詰めたのじゃ。お主を助けてからわしは義信の行方を追っていたのじゃ。海香ちゃんに酷いことをして、放っておけなくてのー、やっとの思いで見つけたのじゃ」

「ちょっと待て。じゃあ……南 義信とおっちゃんの関係は……」

 おっちゃんの目が曇る。こんなに口ごもる姿を見たこと無い。



「……わしの教え子じゃ。今のお主と同じじゃ」



 刹那、俺が思い描いていたおっちゃんが黒く染まる。

 俺に向けてくれた笑顔。義務教育もまともに受けていない俺に経営学を教えてくれたこと。そして……《Peace alive》に融資してくれたこと。これまでの三年間培ってきたこと。全てがあいつと繋がっていた。

 おっちゃんは俺と南 義信との関係を知っていた。

海香を《肉奴隷》にしたあいつの中には、おっちゃんの教えが有った。

そうか……どうして俺がこんな年で社長に成れたのか。本当の意味が判った気がする。

「……ずっと。騙していたのか」

「騙しておらん。いずれは言うつもりじゃった」

「もしかして。あの日、あそこに居たのは」

 三年前。おっちゃんに助けられた日。あんな田舎に大企業の会長が居た理由。

「……義信と飲んでおったのじゃい。凄い嵐があったじゃろ? その影響で山崩れが起きてのぉー、佳代子の車が予定通りに来なかったじゃ……」

「それで。飲食店を探している内……俺達を見つけた」

「そうじゃ。誤解するで無い。わしも知らなかったのじゃい。義信がそのような惨いことをやっていたことなんぞ」

「……じゃあ。最初は俺達が繋がりあることを知らなかった……ってことか」

「そうじゃ。お主から話を訊き、義信が裏で企んでいることを知ったのじゃ。ワシは義信の先生として、責任を感じたのじゃ」

「だから……俺や海香に、あんな熱心に……」

「せめてもの罪滅ぼしじゃ……」

「おっちゃん!?」

 おっちゃんは短い言葉の後、ゆっくりと地面の上に正座し頭を下げる。




「――済まなかった……わしがお主らの人生を狂わせた張本人じゃ……」




 あの鷺ノ宮グループの会長が……俺に土下座。プライドが高い経営者にとってどれだけ価値のある行為なのか、俺は理解していた。

「……にぃに」

 不安な趣で見つめる海香。あぁ……判っている。

 俺はおっちゃんの元に歩みよる。あぁ……何て勇ましい姿だ。

「顔を上げてください」

 おっちゃんの頭がゆっくり上がる。俺の気持ちは決まっている。

「……正直、おっちゃんがあいつの関係者だと知って驚きました。でも、俺はおっちゃんと出会ってこの世界で生きることの素晴らしさを知りました。前までは、海香だけが覚えていてくれれば死んでもいい、仲間なんていらない……そんな風に思っていました。でも、おっちゃんから教えてもらった経営学は楽しかったし、華凜や雪乃、せきな、アリスが仲間になって、こいつらの為に生きてみよう、って本気思ったんだ。確かに、周りから痛い目で見られることもあった。でも、こいつらの為だと思うと不思議と頑張れた。そんな《人間》として生きる機会を与えてくれたのは間違いなくおっちゃんだ」

 もし、おっちゃん以外の人間に拾われていたら、どうなっていただろうか。 

そう考えると恐ろしい。

「海香のこともずっと気にかけてくれた。上手く社会に溶け込めなかった海香に学習の機会を与えてくれて、笑う回数も次第に増えていった。だから……ありがとな。そして、これかもよろしくお願いします」

 俺は頭を下げる。

「……源一郎……海香からも……よろしくお願いします」

 つられて頭を下げる海香。誠意の籠った言葉には何かを決意したような雰囲気が伝わってくる。そうか……海香も成長しているんだな。もう、俺が過保護になる必要は無さそうだ。悲しい気もするが、それが《人間》として生きる、って事なのかもしれない。

「……そうかい。成長したな、お主ら」

「ええ。そこで提案だが……その、俺達への融資……止めてほしい」

「えっ!?」

 俺の言葉に反応する華凜。いきなりだもんな。

「ちょっ、ハル!? そんな大事なこと……」

「よかろう。お主の言う通り、止めよう」

「えっ? 源一郎さんも簡単に」

「訳があるのじゃろ。そうじゃろ?」

「あぁ。俺はおっちゃんから自立したい。確かに、経営状況はお世辞でも良いとは言えない。鷺ノ宮の肩書でビジネスが動いていることも否めない。だが、俺は《家族》と一緒ならこの世界を生きていける気がするんだ。だから、おっちゃんには俺達の生き末を見守っててほしい。ふっ……こんなこと言って、雪乃に怒られそうだけどな」

 滅茶苦茶な論理だと理解している。経済人が喉から手が出るほど欲しがっている《鷺ノ宮》を手放す。それが意味することは雪乃が一番判っているだろう、

「はぁー……もう好きにしなさいよね。あたしはずっとハルに付いて行くよ」

 溜息混じりの口調で同意する華凜。いつも引っ張り回して悪いな。

「せきりんも付いてくぜぇー! バリバリジャンジャン働くじぇー!」

 親指を立ててドヤ顔のせきな。

「……海香はにぃにの物……にぃにに従います」

 少々誤解を生みそうな言葉と共に肩を寄せる海香。

「ふぉふぉふぉ。どうやら真の意図に気がついたようじゃな」

「真の意図?」

「そうじゃ。わしはお主らに《家族》の大切さを知ってほしかったのじゃ。確かに血のつながりは無いかもしれん。お主のように辛い思いをした人もいるじゃろ。じゃが。会社は一人で回せん。社員をコストとして考えている会社に未来はないのじゃ。お主は大黒柱として、お嬢ちゃん達に飯を食わせてやらんといけんのじゃ。その《覚悟》がお主には有りそうじゃな」

 おっちゃんは頷きながら淡々と語る。

 そうか……俺はどこかで遠慮していたのかもしれない。お互いの過去に触れない、という雰囲気を作り、雪乃の孤立、海香の引きこもりを招いた。

「あぁ……そうだよな」

 俺はおっちゃんに背を向ける。華凜、せきな、海香を視界に入れる。三人の視線は俺に向いている。何だか……少しこそばゆい。

「俺からもよろしくな。華凜、せきな、海香」

「りょーかい♪ 雪乃やアリスちゃんにも言ってあげるんだよ」

「しょうがないなー。ハルルンをせきりん無しでは生きていけない身体にしてあげるぜ!」

「……にぃにの正妹せいまいは海香……少しは遠慮してほしい」

「なんだとー! たとえ《しーちゃん》の言葉でも聞き捨てならないぞ!」

「おっ、海香のあだ名か?」

「流石ハルルン♪ えーと《うみうみ》もいいかなぁー、って思ったけど、何かワンパンターンじゃね? な感じで《しーちゃん》にしてみました」

 海と英語の《sea》をかけたのだろう。

「……おー……しーちゃん……気に入った」

「にゃはは、流石せきりん様だろ?」

「……でも……せきなは年下……海香……お姉ちゃん」

「これは一本取られたな」

「なぬおー!」

「はいはいはい! お話は後にして帰るわよ。雪乃やアリスちゃんも待っていることだし」

 華凜がパンパンパン、と手を叩いてせきなの勢いを止める。

「そうだな――おっちゃん」

「ふぉふぉふぉ。外に待機しておる。佳代子、案内を」

「畏まりました――春風様、こちらへ」

 俺達は佳代子さんの指示で外に向かう。

「おっちゃん、物は相談何だが、いいか?」

「はて? 融資の話ならついたじゃろ?」

「そうじゃねーよ。その……」

 俺はおっちゃんに要件を伝える。これから生まれ変わる《Peace alive》の為に必要なことだ。一瞬拒否られる可能性も考えたが、おっちゃんはすぐに頷いてくれた。

「……きっとその方が良いじゃろ。頑張るのじゃぞ」

「ありがとう。大切にするよ」

「ハルぅー、早くしないと置いて行くわよー」

「あぁ、今いく」

 俺は手を振る華凜達の元へ走った。



『……はぁーーーーーーーーー!?!? あなたばっかじゃないのーーーー?』

 おっちゃんの自家用ヘリコプターに乗り込み、返してもらったトランシーバーで雪乃に事の次第を説明すると、壮大な罵倒が返ってきた。

 んまぁ……しょうがないか。黒幕がおっちゃんで、鷺ノ宮からの援助を切るとか説明されてもな。逆の立場ならトランシーバーを叩きつけるレベルだ。

「まぁ、落ち着け。なぁ?」

『……落ち着いていられないわよっ!? 今すぐおじい様に融資を再開するよう申し出なさい』

「もう決めたことだ。変更する気は無い」

 俺の言葉に華凜、せきな、海香が頷く。

『……華凜。何で止めなかったのよ』

「あたしはちゃんと言ったよ! でも、ハルの意思は固そうだし。別に良いかなー、って思ってね。ハルを信じることにした」

『……あなたも絵空事を……はぁ……頭が痛いわ』

「そう落ち込むなよ、ゆきのん♪」

『……おー。ゆきの、なでなで』

『……きゃっ!? やっ……やめなさいよ』

「何かそっちは楽しそうだな」

『……っ……楽しくなんか……』

『……おー。アリスはたのしいよ?』

『……きゃっ! そこはぁ……』

『……おー。ゆきのもぽよんぽよん。でもかりんにはまける』

「何というか……お幸せにな」

『……っ……勝手に決めつけないでよっ!』

「ふふっ、相当雪乃のことが気に入ったようね。アリスは」

 雪乃がアリスとじゃれている声に華凜が口元で笑う。

「なぁー、ハルルン? さっき《げんいちろー》と話してたよな?」

「そう言えば! 何か真剣な感じだったけど、どうなの?」

 せきなの問に華凜が便乗する。外の景色を眺めていた海香も俺の方を向く。みんな気になっているようだ。

「あぁ……実は《雪乃》の事でな」

『……私?』

「そうだ。一応雪乃は勉強のためだろ? でも、鷺ノ宮から外れるってことは、会社としては縁が切れるってことだろ。そしたら、雪乃を匿えなくなるよな」

『……そうね』

 雪乃は将来の《鷺ノ宮グループ》を受け継ぐ身。常識的に考えて、雪乃を鷺ノ宮グループ以外に所属させることのメリットがおっちゃん側には無い。つまり、雪乃は本社に帰らなければならない。

「えー!? そしたら雪乃と離ればなれになるの!?!? せっかく仲良くなったのに……」

「そうしょげるな。そうならない為におっちゃんと交渉したんだ。雪乃を《Peace alive》に残してくれ、てな」

「おぉー。流石ハルルン♪ 判っているじゃん」

 せきなが『このっ、このー』な感じで肘をぶつけてくる。

「……っ……力入れんなよ。ただ、俺は雪乃の意思を尊重したい。雪乃は《Peace alive》に必要な人間だ。仕事が出来るとかじゃない……《鷺ノ宮 雪乃》として必要なんだ。それだけは言っておく」

『………………』

「雪乃……」

 静寂が支配する。

プロペラの音だけが鼓膜を震わせ、ボタンを押す手が強くなる。

『……あなたがそこまで言うなら……その……良いわよ』

「おぉーーー! 本当か?」

 俺が歓声をあげると、華凜、せきな、海香はハイタッチを交わす。

『……こっ……こんな時に嘘はつかないわよ』

「うぅー。雪乃のこと信じていたよ。今日は雪乃が好きなメニュー作ってあげるね♪」

『……良いわよ……華凜の料理なら、何でも』

 談笑に包まれる中、俺達の載せたヘリコプターは大和市上空へ。

 これで、新生《Peace alive》の準備は整った。

 もう、怖い物は何もない。

「……にぃに……広いね」

「そうだな」

 振動でさわさわ揺れる青髪に見とれつつも、海香が見る先に視点を合わせる。

 密集する住宅街はこの地域の盛んさが読み取れる。こんなに人が住んでいたのか、この土地に来て数年足らずだが、非日常的な景色に心がざわめく。

「……ねぇ? 《Peace alive》……どこ?」

「多分……あの辺だな。コンビニ見えるだろ?」

「……うん……間違いない」

 頷く海香の表情は好奇心旺盛な子供みたいだ。

 そんな海香の麗しき青髪をそっと撫でる。

「なぁ……海香は今、幸せか?」

 俺が呟くと外を眺めていた海香と対峙する。

 じっと俺を見つめる姿に《拒絶》というワードは無い。



「……うん! にぃにがいて……みんながいて……海香は幸せです」



 満面の笑みに俺は初めて海香の前で《号泣》した。

 今まで頑張ってきたことが報われた気がして、胸の内から込み上げる。

 そうだ……俺はその言葉が訊きたかった。

「……お疲れ様……ありがとう……にぃに……んん……」

 俺はヘリコプターが着陸するまで、海香の儚げな身体に包まれ、ぼろくそに泣きながら海香の唇にキスをした。 

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