第二章
「くぅー、ただいま」
「おー。おかえり、おにいちゃん」
辺りが暗闇に包まれた頃、俺と雪乃が会社に戻るとフリフリメイドさんのアリスがお出迎えしてくれた。無垢な笑顔を抱きしめたい気もするが色々と誤解されそうなので我慢する。
「あーハル、雪乃さんおかえりー晩御飯は食べた?」
給湯室からひょっこり顔を出す華凜。いかにも団地妻的な趣は疲れた脳を癒す。
やっぱ、ここが一番落ち着くな。
「いや、食べてない。合わせて二人分頼む」
「あいよー! 今日はお豆腐安かったから麻婆豆腐だぞぉー」
「じゃあ俺はご飯大盛りな。雪乃はどうする?」
雪乃に話を振るが、
「……私は少しでいいわ」
反応は素っ気ない。
いつものことなので目を瞑るが、そろそろ心を開いてくれれば良いのにな。
「雪乃はそんなにいらないだってさ」
「はーい。ほらほら、せきなも手伝ってよ」
「えー、せきりん休憩中だから無理ぃー。これ以上働いたら法に引っかかるぅー」
「……あんたさっきからずっとそうでしょ? もぅ、ハルがいないからって調子にのって」
「はぁー、ちょーしのってないし――あっ、ハルルン、ゆきのんお帰り。お土産は?」
「おぅ、今日はミ●ドのドーナッツを買ってきたぞ」
「おおおぉー! なぁー、ポン●リングある!? あのモチモチした触感サイコーだぜ!」
「多分な。アリスとちゃんと分けろよ」
「おっしゃー! 任せろーい」
俺はドーナッツの入った箱をせきなに渡す。まるでクリスマスにプレゼント買ってきたみたいに騒ぐせきなはアリスと共に給湯室に駆け込む。
――お前ら子供か? いや、実際子供だけど。
「……元気ね。あの子」
「そうだな。雪乃は先に行ってろ。俺は海香の所に顔を出す」
「判ったわ」
雪乃はすたすたと控室へ向かう。
さて、海香の部屋に行く前に話しておくか。
「――華凜」
「んっ? なに」
「後で話すことがあるからみんなをミーティングルームに集めてくれないか」
「うん。別に良いけど何かするの?」
「ちょっとな。それより、海香の飯はどうした」
「あっ、うん。一応部屋の前に置いておいたけどね。海香ちゃんの部屋に行くなら確認しといてくれるかな?」
「そうか。判った」
俺は海香の部屋に向かった。
海香の食事は食べた形跡が無かった。
鼻を刺激する匂いが残るセットを持ち上げ、中へ入る。
「海香……帰ったぞ」
「……にぃに。おかえり。どうだった?」
昨日とは違うTシャツを身に纏う海香。両膝を胸の前に抱えてカチャカチャ打ち込んでいる所を見ると、まだ仕事中らしい。
「んまぁ、ぼちぼちって所だな」
KADOKA●Aさんとの交渉だが、結果から言えば保留だ。活字離れが騒がれる中影響力の強いライトノベルだが、新レーベルの誕生や大手のライトノベル業界への参入等で競争が激しい。そのため、ヒットする作品もあればそれ以上に大ゴケする作品も出てくる。んま、今回は《売り込む》ということが目的じゃなかったから良いとして。そもそも、ライトノベルは持ち込みを受け付けない所が主だし、関係性を持てただけでもプラスになった。それより、気がかりなのはおっちゃんだ。
「……にぃに? 悩みごと?」
「……ふっ。やっぱ判るか」
「……にぃにの事はお見通し……妹に不可能は無い……」
「はは――それより、海香に話したいことがある」
「……何」
俺はおっちゃんに言われた事を話す。帰るまで話すべきか悩んだが棚上げしたら取り返しのつかないことになりかねないので、心を鬼にした。海香はじっと俺の目を見つめながら黙っている。とても神妙で、童謡を読み聞かせているような感じだ。
「――とりあえず、こんな感じだ。俺は海香の意思を尊重したい。嫌なら嫌って言ってもらっても構わない」
「……要件は理解した……にぃにがそう考えるならそれでいい……にぃにに従う」
考える素振りも無かった。まるで、この状況をシミュレーションしていたかのように冷静で、抵抗すると思っていたので変に清々しい。
「それで良いのか?」
「……うん……にぃにが望むならがんばる」
小さく腕を引き締める姿は海香の真意を疑ってしまう。目と目とは向き合っているのに何を訴えているか判らない。
このまま進めていいのか――もし、また海香の身に何かが起きたら……
「……不安?」
「あぁ……正直。ただ、おっちゃんの期待に答えないといけない、と思う俺も居るんだ。おっちゃんが居なきゃ今の俺達は無い。だから少しずつ恩を返さないといけないと思うんだ」
多分、おっちゃんは海香を自立させたいと考えている。海香の能力は戦力になるし今後事業を拡大するためには表舞台に出す必要もある。数年後のビジョンを想定するなら良いに決まっている。
「……にぃに……おいで」
「え?」
俺は海香の細い二の腕に包まれる。
耳元に当たる突起は確かな弾力が有り胸元を熱くさせる。
トクン……トクン……、と規則正しく伝わる鼓動に全身の力が抜けていく。
なんだろう……物凄く懐かしい。
「……にぃに……大丈夫だから……安心して」
「……っ……海香……お前……」
「……海香はここにいる……ずっと……にぃにと一緒」
きゅっ……、と力が強くなる。
滑らかな手つきが後頭部を撫でまわす感覚が安らぎの世界へ誘う。
――あっ……俺は海香の為なら頑張れる。
ずっと、海香が俺に執着していると考えていた。でも、逆に俺が海香に執着していたのだと思う。
これからやることは海香の自立じゃなくて――俺が海香から自立することだ。
海香の部屋を出た俺は華凜達が集まるミーティングルームに顔を出す。
時刻は二十時を過ぎていた。華凜はお茶をそれぞれのテーブルに並べ、雪乃やせきなは書類を読み進めている。アリスは学校から出た宿題なのか、鉛筆を握って計算していた。
俺は一声をかけて席に座る。アリスと華凜の表情差が目に入る中、話を進める。
「――というわけで。みんなにも協力してほしい」
概要を話し終わると華凜と目が合う。
――何だよ……そんなにおかしい事か?
「それで。海香ちゃんが納得したの」
「ああ」
「そう。それならあたしは協力するよ。ビジネスの観点は置いておいても、やっぱみんな一緒がいいからね」
「華凜……」
んま、華凜は賛同してくれると思っていた。おっちゃんより先に問題点を指摘してた経緯からも、この件で一番の協力者になってもらいたいと考えている。ただ、せきなは余り乗り気ではない表情で見つめてくる。
「なぁー、ハルルン。要は海香ちゃんと一緒に食事をすればいいんだろー?」
「最終的にな」
せきなが人をあだ名で呼ばないとは珍しい。んま、海香とせきなが顔を合わせた回数なんて片手で数えられそうだし仕方がないだろう。
「んーならハルルンが連れてくれば解決だと思うなー。そんなまどろっこしい事しないでさ『一緒に食べようぜ!』的な感じで」
言葉を崩して話すせきな。
「……確かにせきなが言う事は単純明快な手段だ。ただ、おっちゃんが言う自立と意味が違う気がする。仮に華凜達と和気藹々になったとしても結果的には会社に籠ることに繋がりかねない。だから、最初から領域を狭めるより、可能な限り広げてから好きな所に行かせた方が海香の為だと思う」
「うーん。ハルルンが言ってることも一理あるけどー、ほんとに上手くいくの、それ?」
「なんだ。せきなは不満なのか?」
「不満というか、セキリンは海香ちゃんのことよくわかんねぇーし」
「そうだよな」
「おー? ごらんしん?」
「うーん、リスリスはどう思う?」
「どう、って?」
「リスリスには難しいか。うーん、例えばリスリスのクラスに何か事情があって来られない子が居るとすんじゃん。リスリスはその子を助けたい?」
「たすけたい!」
「リスリスならそう答えるよな。ゆきのんはどうよ?」
「……なぜ私に」
「いや、その辺りは経験してそーだなーと」
「んなぁI そっ、そんなことないわよ」
雪乃の声が裏返る。音域が跳ね上がる奇声に華凜も目が点って感じだ。
「……ゆっ、雪乃さん?」
「ごほん……失礼。大丈夫だわ」
「もう、ごめんね。せきなが遠慮無いばかりで――ほらっ、せきなも謝りなさい!」
「えー、別に悪いことしてないしー」
「い・い・か・らっ!」
「いてっ……髪を掴むことないじゃん。強引すぎると男がよってこないぞい」
「あなたの減らず口も矯正する必要があるかしら……?」
「むぎゅぎゅっ……! がおいごあいあおえふぁじょふぁ!」
せきなの口をもぎゅっと締め付ける華凜。その間ペコペコしている姿は母と子みたいで微笑ましくも感じる。雪乃は不機嫌Maxな感じだが。
「――それで、雪乃はどう思う」
「私? 別に好きにしたら良いと思うわ」
「そうか? 何か言いたそうにしているが、遠慮しなくていいんだぞ」
「ふっ、別に遠慮何てしてないわ。ただ私はおじい様の言いつけでここに居るだけ。あなたの家族問題に対して口を挟む気は無いわ」
雪乃はお茶で口を潤す。
「うわ、ゆきのん冷てーな。それでも人間?」
華凜の拘束を解いたせきなが軽蔑するような口振りで雪乃に問いかける。一瞬目光らせた雪乃はせきなを睨み付ける。
「……ふっ。あなたに言われたく無いわね。大体、あなたはもう少し考えて物を言うべきだわ。そんなだからあなたは……」
「雪乃。そこまでだ」
俺は雪乃の言葉を遮る。
直感だが、こいつはせきなの過去を暴露しようとしている。鷺ノ宮のデーターベースなら一人を丸裸にすることなど容易だ。鷺ノ宮グループが成功している要因には一般企業では敵わない量の情報、つまり《ビックデータ》が堆積していることにある。多分、雪乃の頭には俺達のデータが詰まっているに違いない。
「ハルルン……」
呆然と俺を見つめるせきな。
先ほどまでのせきなとは百八十度違う姿で、ただ俺の名前を呼んでいた。
――あぁ……大丈夫。心配するな。
「雪乃……流石に言いすぎだ」
「ふっ、あなたも除け者にするのね」
「そういう訳じゃない。誰だって触れてほしく無いことだって有るだろ」
――《Peace alive》の暗黙了解。お互いの過去には触れない。
守られてきた聖域に踏み込もうとした瞬間、俺はとっさに止めた。
「ふふっ、その偽善もいつまで続くかしら」
雪乃は資料を片付け、立ち上がる。
「そろそろ失礼するわ」
「おいっ! ちょっと待てよ! 話はまだ……」
「私は今回のことについて指針を示したわ――それではまた、ご機嫌よう」
雪乃は軽く会釈して立ち去って行く。余所余所しい口調は更に棘を増し、明日ここに来るかどうかも心配だ。
「ぶー、何だよ。ゆきのんはズルいよ」
「ほらほらせきなも落ち着いて、ね? 今日、一緒のお布団で寝る?」
「……別にそんな子供じゃないもん。それよりハルルン」
「ん? 何だ」
「その……ありがとね。正直頭どっかいってた」
「せきなはいつも頭いってるだろ」
「むむぅー、言ったなハルルン! そんな事言っていると協力してあげないぞー」
「その件については協力してくれると助かる」
「うー、ほんとハルルンってどこからどこまでが本気か判らないからムカつく!」
ぽんぽこたぬきさんのように顔を膨らますせきなを見ていると、普段の調子が戻ってきたらしい。
「んー、じゃああたしも家に帰るね」
華凜は手を後ろに回してエプロンを脱ぐ。胸元が浮き出たワイシャツ姿の華凜は壁に除けていた鞄の持ち手を腕に入れ、雪乃のたべのこしを持つ。
「それで、いつから始めるつもり?」
「うーん。平日はごたごたしそうだし、今週末辺りだな」
「週末かぁ……ちょっと生徒会の予定で厳しいかも」
「そんな無理して空ける必要は無いぞ。別に急ぐ必要も無いしな」
「はは、了解。気にしてくれてありがとね♪」
「やっぱ忙しいのか?」
「うーん、まぁね。体育祭が来月でしょ? 先輩から色々聞かないといけないこともあるし、学校側に申請する書類関係のこともあるから。やること目白押しって感じだよ」
「そりゃ、ご苦労様だな。休みたい時には休んでいいんだぞ」
「でもそしたら給料減っちゃうでしょ? それにあたし、仕事が大変って思ったことが無いんだよね。むしろ、楽しい!」
微笑む華凜は本当に楽しそうだ。正直華凜には事あることに任せていて後ろめたかったが、その言葉が訊けて良かった。
「こりゃ余計なお世話って感じだったな」
「もー心配症だなぁー。もっと頼っていいんだよ、ハルは」
そう言い捨てた華凜はせきなの元へ行く。せきなはキャビネットから持ち出しファイルへ原稿を移し鞄の中に入れていた。
「ほんじゃーハルルンまたなー!」
「おう!」
「あっ! もしご飯足りないなら冷凍庫に有るからチンして食べてね」
「了解」
俺は手を振って二人を見送る。
「さて、少し掃除するか。アリスも手伝ってくれ」
「おー、まかされました」
予想以上に荒れたミーティングルームを手直し明日に備える。
海香自立トレーニングのスタートは先行きが怪しかった。