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転生したの?

第一話


 腕時計の針は、午後十一時を少し回っていた。


 終電まで、あと三十分。


 会社から駅までは、走れば十分。今すぐ席を立てば、まだ間に合う。


 そう考えているのに、身体は椅子に縫いつけられたように重かった。背中は何時間も同じ姿勢で固まり、肩から首にかけて、硬い棒でも差し込まれたように痛んでいる。目の奥は熱を持ち、まばたきをするたび、乾いた瞼がざらついた。


 俺は保存ボタンを押してから、斜め向かいの席を見た。


 課長はスマホをいじっていた。


「あの、修正、終わりました」


「ん」


「共有フォルダに入れてあります」


「あとで見る」


 こちらを見もしない。


 スマホの画面から漏れる青白い光だけが、課長の顔を下から照らしていた。空調の低い唸りと、誰もいないフロアの機械音が、やけに大きく聞こえる。昼間なら気にも留めないプリンターの待機音が、今は耳の奥を細い針で突いてくるようだった。


 俺は膝の上で手を握った。


 指先が冷たい。手のひらには汗が滲んでいるのに、指の関節だけが凍えたように強張っていた。


 帰ります。


 それだけ言えばいい。


 もう退勤時刻から五時間も過ぎている。今日の分は終わらせた。明日だって、朝から来なければならない。


 喉の奥まで言葉がせり上がった。


 けれど、舌が重い。声を出そうとすると、胸の奥がきゅっと縮んだ。


「それで、その……電車が」


「帰るの?」


 ようやく顔を上げた課長が、眉を寄せた。


 その一言だけで、胃の底が冷たく沈んだ。


「これ、明日の朝イチで使うって言ったよな」


「はい。なので、確認だけしていただければ」


「今、別件やってるんだけど。見てわかんない?」


「……すみません」


 口が勝手に謝った。


 自分で言ったはずなのに、他人の声のように聞こえた。情けなくて、耳の奥が熱くなる。


 課長はまたスマホに目を落とす。俺は立ちかけた腰を椅子に戻した。


 椅子の座面が、疲れ切った尻と太腿を押し返す。立ち上がるだけの動作が、今はひどく遠いものに感じられた。


 画面には、今日一日いじり続けた資料が開かれていた。


 朝は青にしろと言われた図を、昼には灰色に直した。夕方、別の上司に地味だと言われて色を足し、九時過ぎには課長から「最初のでいいじゃん」と言われた。


 結局、今朝とほとんど同じものになった。


 それでも、俺の仕事が遅かったことになる。


 液晶画面の白い光が、乾いた目に刺さった。文字の輪郭が二重に滲み、細かい数字が水面の上で揺れているように見える。


 冷めたコーヒーに手を伸ばした。


 紙コップは空だった。


 底に残った黒い液体が、ほんの少しだけ紙の内側を濡らしている。持ち上げると、酸っぱく焦げたような匂いが鼻に残った。


 昼に買ったパンの袋だけが、キーボードの脇に転がっている。


 袋の中には、食べかけのパンが半分残っていた。硬くなった生地から、甘い油の匂いがかすかに漂ってくる。腹は減っているはずなのに、今はそれを口に運ぶ気力すらなかった。


 捨てようとして腰を浮かせると、頭の奥が鈍く痛んだ。


 視界の端に黒い点が散る。


 耳の中で、低い音が鳴った。血液が頭の中を流れる音なのか、空調の音なのか、もう区別がつかなかった。


 寝不足だ。


 昨日は三時間、その前は四時間。帰ってシャワーを浴び、何か腹に入れて横になったら、すぐ朝になる。


 布団に入った記憶はある。けれど、眠った感覚はほとんどなかった。目を閉じたと思った次の瞬間には、スマホのアラームが鳴っていた。


 洗面台の鏡を見るのが嫌になっていた。


 目の下には、擦っても消えない濃い隈が居座っている。頬は痩せ、唇は乾いてひび割れていた。顔色は、照明の下では死人のように白く見えた。


 辞めればいい。


 何度そう思ったかわからない。


 けれど、求人サイトを開く気力も、履歴書を書く気力もなかった。


 スマホを手に取っても、画面を眺めたまま指が止まる。転職という文字を見ただけで、胸の奥に重い疲労が広がった。


 辞めたあと、どうする。


 家賃は。生活費は。次の仕事は。


 考え始めると、頭の中がすぐに白くなった。


「おい」


 呼ばれただけで、肩が跳ねた。


 背中の筋肉が一斉に縮み、首筋に冷たい汗が流れる。


「はい」


「前月の数字も入れといて。比較できたほうがいいだろ」


 俺は画面を見た。


 それを入れるなら、表を組み直さないといけない。


 今の資料に数字を追加するだけでは済まない。列を増やし、幅を調整し、グラフを作り直す必要がある。頭の中で作業量を数えようとしたが、数字が途中でほどけていった。


「……今からですか」


「明日の朝使うんだから、今しかないだろ」


 課長の声が少し低くなった。


 その声を聞いた瞬間、胃がきしんだ。空腹のせいか、恐怖のせいか、自分でもわからない。


「何か問題ある?」


 ある。


 電車もなくなる。腹も減っている。頭が痛い。目を開けているのもしんどい。


 喉は乾き、舌はざらついていた。身体の内側から熱が抜けていくようなのに、額には冷たい汗が浮かんでいる。


 それでも、俺は口を開いた。


「……いえ。やります」


 課長が満足そうに鼻を鳴らす。


 自分の声が、ひどく情けなかった。


 腕時計を見る。


 十一時十二分。


 秒針が、一定の間隔で文字盤を刻んでいる。


 今から表を直していたら、もう終電には間に合わない。


 そんなことを考えながら、マウスを握り直した。


 指先に力を込めたつもりだった。


 けれど、マウスはほとんど動かなかった。


 カーソルが、うまく動かない。


 画面上の矢印が、意図とは違う方向へ滑っていく。クリックしようとしても、指が一拍遅れて動いた。


 指に力が入っていなかった。


 あれ、と思ったときには、時計の文字盤がぼやけていた。


 数字の輪郭が滲み、針が何本にも分かれて見える。


 机の縁に手を伸ばす。


 届いたかどうかもわからない。


 手のひらが机に触れた。冷たい感触があった。だが、そこから先の感覚が急速に遠のいていく。


 視界が、すっと暗くなった。


 音も消えた。


 課長の声も、空調の唸りも、パソコンのファンの音も、厚い水の底へ沈んだように遠ざかっていく。


 最後に頭に浮かんだのは、まだ保存していない、ということだった。


     *


 寒い。


 それから、眩しい。


 身体の表面を冷たい空気が撫でている。けれど、背中には何かが触れていた。粗い布地が肌に食い込み、動くたびにざらざらと擦れる。


 息を吸う。


 空気が冷たく、喉の奥を細く刺した。


 何かに包まれている。


 俺は身じろぎしようとした。


 動かない。


 いや、動いてはいる。


 だが、腕も脚も、自分が思った方向には動かなかった。身体の中にあるはずの筋肉が、命令を理解していない。力を入れたつもりなのに、手足が勝手に震え、布の中でばたつくだけだった。


「……あ、ぁ」


 声までおかしい。


 喉を使っている感覚はあるのに、言葉にならない。舌がうまく動かず、口の中には妙な甘さと乾きが残っていた。


 どうしたんだ、俺。


 会社で倒れて、それから……病院か?


 救急車に乗せられたのか。頭を打ったのか。麻酔でもかけられているのか。


 目を開けようとする。


 まぶたが重い。まるで濡れた布を何枚も重ねて貼りつけられているようだった。


 それでも、どうにか隙間を開ける。


 見えるものは何もかもぼやけていた。


 白い天井はない。


 蛍光灯の光もない。


 代わりに、黄色く揺れる光が視界の端で滲んでいた。煙のような匂いが鼻に入り、喉がひりつく。


 すぐ近くに、誰かの顔がある。


 女の人だった。


 額に濡れた髪が張りついている。頬には汗が浮かび、荒い息を吐きながら、俺を見下ろしていた。


 その顔は疲れ切っていた。


 けれど、目だけは強く俺を見つめている。


「……泣いた」


 掠れた声だった。


「ねえ、泣いたよ」


 声が耳に届くたび、鼓膜の奥が震えた。


 俺は何が起きているのかわからず、その顔を見返した。


 女の人の息が、頬に温かく触れる。汗と、煙と、土のような匂いが混じっていた。


 そのとき、顔の前を何かが横切った。


 小さな手。


 赤くて、皺が寄っていて、爪が薄い。


 女の人の手かと思った。


 違った。


 視線を動かそうとしたが、首がうまく動かない。目だけで追うと、その手は俺の胸元から伸びていた。


 指を動かそうとした瞬間、その小さな手が震えた。


 五本の指が、意思とは関係なく開いて、また閉じる。


 布の中で腕を引くと、手も一緒に引っ込んだ。


 もう一度、動かす。


 ぎこちなく曲がった腕が、また顔の前に出てきた。


 指が五本。


 手首には、何もない。


 さっきまで見ていた腕時計も、キーボードに擦れていた袖口もなかった。


 なんだ、これ。


 なんで、こんなに小さい。


 胸の奥が急に冷えた。


 心臓が早鐘のように打ち始める。けれど、身体はその恐怖に追いつかない。逃げようとしても、腕は震えるだけで、脚は布の中でもつれるだけだった。


「あっ、あぁ……!」


 声を出したつもりだった。


 出てきたのは、赤ん坊の泣き声だった。


 高く、細く、耳障りな声が、自分の喉から飛び出してくる。


 止めようとしても止まらない。


 息を吸うたびに胸が大きく上下し、肺の奥がひりつく。喉が締まり、涙が勝手に目尻から流れた。泣いているつもりなどないのに、顔が歪み、声が何度も漏れる。


 女の人が俺を抱き寄せた。


 身体が持ち上がる。


 首がぐらりと傾き、視界が大きく揺れた。胃の中まで浮き上がるような感覚に襲われ、俺はさらに声を上げた。


 大きな手のひらが、首の後ろを支える。


 指が背中に触れた。温かい。けれど、その手は細く、骨ばっていた。抱きしめる腕も、力を入れすぎれば折れてしまいそうなほど頼りない。


 それでも、俺を落とさないように、必死に支えている。


 聞きたいことは山ほどある。


 ここはどこだ。


 俺はどうなった。


 なぜ身体がこんなに小さい。


 会社は。課長は。保存していない資料は。


 問いかけようとして口を開く。


 けれど、俺の口から出てくるのは、弱々しい泣き声だけだった。

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