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動き始めた歯車

 魔王になって五日目の朝。


 執務室へ入ったナオトは、机の中央に置かれた一通の報告書へ目を留めた。


 右上には、第一軍団の印がある。


「第一軍団、本日の定時報告です」


 エナが静かに告げる。


 ナオトは椅子へ座る前に、報告書を手に取った。


「……ちゃんと来たな」


 思わず漏れた一言に、エナが小さく首を傾げる。


「定時報告ですので、本来は届くものですが」


「その本来が、できてなかったんだろ」


「……はい」


 エナは短くうなずいた。


 ナオトは報告書へ視線を戻す。


 昨日までと、見た目は大きく変わらない。


 だが、読む順番が変わっていた。


 最初に記されているのは、前回の報告から変わった点。


 続いて、現場がどう判断したか。


 最後に、中央の決定が必要かどうか。


 量は多くない。


 それでも、昨日までの報告書より状況が頭に入りやすかった。


「これ、こっちで変えたのか?」


「いいえ。第一軍団側で変更されたものです」


 ナオトは顔を上げる。


「俺は指示してないぞ」


「承知しております」


「じゃあ、誰が?」


 その時、扉が二度叩かれた。


「第一軍団副官、レイア・カルドです」


「入ってくれ」


 扉が開き、レイアが一礼する。


 軍装には長旅の砂埃が薄く残り、腕には数通の報告書を収めた革筒を抱えていた。


「朝早くに失礼いたします、魔王様」


「ちょうど聞こうとしていたところだ」


 ナオトは手元の報告書を持ち上げる。


「書き方を変えたのはレイアか?」


「提案は私です。許可は軍団長からいただきました」


「昨日の今日で?」


「昨日の件を受けてです」


 その声音は落ち着いていた。


 昨日、第三偵察隊は救出された。


 だから終わりではない。


 なぜ危険な状況になったのか。


 同じことを繰り返さないために、何を変えるべきか。


 レイアの頭は、もう次へ進んでいた。


「第一軍団全部で始めたのか?」


「いいえ。第三偵察中隊のみです」


「一隊だけ?」


「軍団長は、まず試せと」


 レイアは革筒から、もう一通の報告書を取り出した。


「追加した項目は三つです」


 ナオトが目を通す。


 前回との差異。


 現場判断の理由。


 緊急度。


「少ないな」


「増やしすぎれば、書く側も読む側も遅れます」


「……その通りだ」


 昨日までのナオトなら、もっと多くの情報を求めていたかもしれない。


 状況を知りたい。


 判断材料を集めたい。


 分からないことを、少しでも減らしたい。


 だが、現場が報告書を書く時間もまた、任務の時間だ。


「反発は?」


「ございました」


 レイアは即答した。


「項目が増えた、と」


「三つだけでもか」


「一項目増えるだけでも、現場の負担は増えます」


 ナオトはうなずいた。


「だから、三日間だけ試します」


「合わなければ?」


「修正します」


「やめるんじゃなくて?」


「目的は、書式を守ることではありませんので」


 ナオトは思わず笑った。


「ガルザらしいな」


「軍団長は、失敗した時に死ぬ者の顔を知っていますので」


 その一言で、笑みが消える。


 三項目を書くための時間。


 現場にとっては、決して軽くない。


 だからこそ、その手間には意味が必要だった。


「ところで」


 ナオトは報告書の末尾へ目を落とした。


「誤記三件って、誤記まで数えてるのか?」


 レイアは真顔だった。


「昨日は十件でした」


「そこも改善対象なんだな」


「改善しております」


 横からエナが補足する。


「昨日は第五偵察隊が二隊存在しておりました」


「誤記で部隊を増やすな」


「本日は一隊へ戻っております」


「……それは改善だな」


 レイアはわずかに胸を張った。


 どうやら冗談ではないらしい。


 ナオトは苦笑する。


「三件まで減ったなら成果だ」


「ありがとうございます」


 その返事だけ、少し柔らかかった。


「軍団長が、魔王様との通信を希望されています」


「ガルザが?」


「通信室の準備は整っております」


 昨日の件だろうか。


 ナオトは立ち上がった。


「行こう」


     ◇


 通信室中央の黒い石盤が、赤く輝く。


 魔石へ魔力が流れ込むと、炎のような揺らぎが立ち上がった。


 その向こうに、巨大な角を持つ男が映る。


 第一軍団長、ガルザ。


『遅い』


 開口一番、それだった。


「呼ばれてから、すぐ来たぞ」


『俺が話したいと思ってからは遅い』


「知らないよ」


 後ろでレイアが小さく咳払いをする。


 エナは何事もなかったような顔をしていた。


『昨日の件だ』


 ガルザは腕を組んだ。


『第三偵察隊は全員戻った』


 ナオトは静かに息を吐く。


「そうか」


『負傷者は二名。どちらも軽傷だ』


「よかった」


『よくはない』


 低い声が返る。


『敵の動きを読み違えた。報告が半刻遅ければ、救援隊まで囲まれていた』


「……ああ」


 全員が助かった。


 だからこそ、終わった話にはできない。


 ガルザも同じことを考えている。


『昨日は悪くなかった』


 予想外の言葉だった。


 ナオトは黙って続きを待つ。


『だから、今日も試す』


「報告のことか?」


『それもだ』


 ガルザは腕を組み直す。


『中央へ判断を渡すことも試す』


 その一言の方が重かった。


 第一軍団は、自分たちだけで判断してきた軍団だ。


 そのやり方を、少しだけ変える。


 報告書の書き方を変えるより、はるかに難しい。


『勘違いするな』


 ガルザが釘を刺す。


『次も任せるとは言っていない』


「十分だ」


 ナオトは笑って答えた。


「一回うまくいっただけで、信用されたなんて思ってない」


『そうか』


「俺も、昨日の判断が本当に正しかったのか考えてる」


『結果は出た』


「結果が良かったことと、判断の過程が正しかったことは別だろ」


 ガルザの眉がわずかに動く。


 そして、小さく息を漏らした。


『言うようになったな、新入り』


「魔王歴五日だからな」


『まだ五日か』


「俺が一番そう思ってる」


 通信越しに、短い笑いが漏れた。


『三日試す』


「ああ」


『使えるなら広げる。使えなければ直す』


「その方がいい」


『お前の許可は聞いていない』


「今まで何を話してたんだ」


『報告だ』


 石盤の光が、ゆっくり弱まっていく。


『次も外すな、魔王』


 それだけ言い残し、ガルザの姿は炎の向こうへ消えた。


 石盤の光が消える。


 静かになった通信室で、ナオトはしばらくその場に立っていた。


「信用されたのでしょうか」


 エナが尋ねた。


「いや」


 ナオトは首を振る。


「もう一度、様子を見てもらえる。それだけだよ」


 それで十分だった。


     ◇


 執務室へ戻ると、ミレイアはすでに机いっぱいへ報告書を並べていた。


 第一軍団、補給部、財務部、情報部。


 それぞれ、まるで別の組織が作った報告書のようだった。


「壮観だな」


「読む側からすると悪夢です」


 ミレイアは淡々と言った。


「同じことを知りたいはずなのに、書く順番も、言葉も、細かさも違います」


 ナオトは一冊ずつ見比べる。


 第一軍団は現場の変化から始まる。


 補給部は物資の数量が最初。


 財務部は支出が延々と続く。


 情報部は重要度順に並んでいるらしいが、その基準は外からでは分からない。


「確かに読みにくい」


「ですが」


 ミレイアは第一軍団の報告書を手に取った。


「だからといって、すべてを同じ形にするのも違います」


「どういうことだ?」


「補給部は在庫が最優先です。財務部は金額です。情報部は機密度です。同じ順番では、かえって使いにくくなります」


 ナオトは腕を組んだ。


 昨日までの自分なら、同じ様式を作ろうとしていただろう。


 読む側の都合だけを考えれば、その方が楽だ。


 しかし、それでは現場の仕事まで変えてしまう。


「……揃えるべきなのは、書き方じゃないのか」


 誰に言うでもなくつぶやく。


 ミレイアは答えず、続きを待った。


 ナオトは机の報告書をもう一度見渡す。


 どの部署も、一番伝えたいことは違う。


 違っていて当然だ。


「揃えるべきなのは、報告する目的だ」


 その言葉に、ミレイアが小さくうなずく。


「はい。その方が現場も混乱しません」


 ナオトは机の上へ一枚の羊皮紙を置いた。


「じゃあ、形は各部署に任せる」


「はい」


「ただし、三つだけ共通にしよう」


 ミレイアが羽根ペンを構える。


「一つ目。前回から何が変わったか」


「はい」


「二つ目。その変化を現場がどう見ているか」


「はい」


「三つ目。中央の判断が必要かどうか」


「以上ですか?」


「以上」


 ミレイアは少しだけ驚いた顔をした。


「思ったより少ないですね」


「増やしたくなったら負けだ」


 ナオトは苦笑する。


「昨日、レイアにも教えられた」


 現場の時間は限られている。


 報告書を書くために戦っているわけじゃない。


 必要な情報だけが、速く届けばいい。


「まずは三部署だけ試そう」


「どちらを選びますか?」


「補給部と財務部。それから情報部」


 軍団ごとに広げるより、性格の違う部署で試した方が問題が見えやすい。


 失敗するなら、早い方がいい。


「承知しました」


 ミレイアはすぐに書き始める。


 その横で、エナが何やら木箱を運び込んできた。


「それは?」


「届いた報告書の置き場所を作りました」


 机の横へ三つ並ぶ箱。


 正面には、丁寧な字で札が付いている。


 **判断**


 **確認**


 **記録**


 ナオトは思わず笑った。


「早いな」


「昨日、探す時間が長かったので」


 少し照れたように視線を逸らす。


「判断が必要なものは、こちらへ」


 最初の箱を指す。


「すぐ確認するものはこちら」


 二つ目。


「あとで残すものはこちらです」


 三つ目。


「分かりやすい」


「……ありがとうございます」


 昨日なら、届いた順に積み重ねていただろう。


 今日は違う。


 誰かに言われたからではなく、自分で考えて作った仕組みだった。


 ナオトは箱を見つめ、小さくうなずく。


「これも試そう」


「はい」


 エナの返事は、昨日より少しだけ自信に満ちていた。


     ◇


 午後になると、執務室へ届く報告書が目に見えて増え始めた。


 第一軍団の新しい報告書が広まったわけではない。


 それでも昨日の一件を聞いた各部署が、中央へ情報を送ろうとし始めたのだ。


 軍務局からは城内警備の配置変更。


 補給部からは北倉庫の備蓄状況。


 財務局からは今月中に支払い期限を迎える契約一覧。


 どれも完璧ではない。


 判断してほしいことが書かれていない報告書。


 数字だけが並び、基準が分からない報告書。


 それでも、昨日まで届かなかったものが届き始めている。


 それだけで十分な変化だった。


「北倉庫の備蓄、残り十日分ってあるけど」


 ナオトが報告書を持ち上げる。


「誰の十日分だ?」


 エナが目を通し、小さく首を振った。


「記載がありません」


「確認を頼む」


「承知しました」


 エナは報告書へ小さく印を付けると、「確認」と書かれた木箱へ入れた。


 判断。


 確認。


 記録。


 三つの木箱は、昼過ぎにはすっかり仕事の流れへ溶け込んでいた。


「便利だな」


 ナオトが言うと、エナは木箱へ目を向けた。


「混ざらなくなりました」


「作って正解だったな」


 エナは答えず、次の報告書を手に取る。


 その手つきは、朝より迷いが少なくなっていた。


     ◇


 夕暮れ。


 窓の外が赤く染まり始めても、執務室では報告書をめくる音が続いていた。


 机の上には、朝よりずっと多くの報告書が積まれている。


「これくらい、以前は毎日届いていたのか?」


 ナオトが尋ねる。


 エナは手を止めた。


「……もっと多い日もございました」


「じゃあ、元に戻っただけか」


「いいえ」


 短く否定する。


「朝から、このように届くのは久しぶりです」


 ナオトはエナを見る。


「セルガンがいなくなってからか」


「はい」


 静かな返事だった。


「皆、セルガン様を待っておりました」


「戻れば判断してもらえる、と」


「はい」


 エナは報告書をそっと整える。


「急を要するもの以外は、各部署で保管されていました」


「中央へ送っても、判断する人がいなかったから」


 エナはうなずいた。


 誰も怠けていたわけではない。


 それぞれが、自分の持ち場を守っていた。


 ただ、最後に決める者だけがいなかった。


「セルガン様は」


 エナが静かに続ける。


「ご自身でお決めになる方でした」


「俺には無理だな」


 ナオトが苦笑すると、エナは少しだけ目を伏せた。


「……はい」


 否定はしなかった。


 それでも責める響きはない。


 その沈黙が、昨日までとは少し違っていた。


 ナオトは机の脇に並ぶ木箱を見る。


 報告書を分けたのはエナだ。


 第一軍団は、自分たちで報告のやり方を変えた。


 どちらも、命令されたからではない。


「俺一人じゃ、全部は決められない」


 ナオトは木箱へ視線を向けたまま言う。


「でも、俺が決めなくても動くことはあるんだな」


 エナも木箱を見る。


「……そうかもしれません」


 少し考えてから返ってきた答えだった。


 ナオトは笑う。


「その方が助かる」


 エナも、ごくわずかに口元を緩めた。


     ◇


 その時、扉が慌ただしく叩かれた。


「失礼いたします!」


 軍務局の若い職員が息を切らして飛び込んでくる。


「第二軍団から返書が届きました!」


「やっと来たか」


 ナオトは返書を受け取る。


 封を解き、ゆっくりと開いた。


 一枚だけだった。


 中央に、二行。


> お話ししたいことがおありでしたら、お越しください。

> 書面には残しません。


 ナオトは返書を見つめる。


「これだけか?」


「はい」


「面会日時は?」


「ございません」


「場所は?」


「第二軍団領内、とだけです」


 余白ばかりが目につく。


 必要なことしか書かれていない。


「伝令は?」


「第二軍団の使い魔です」


「使い魔?」


「蜘蛛でございます」


「……大きさは?」


 職員が両手を広げる。


「受付担当が一名、気絶いたしました」


「それは災難だったな」


 職員は真面目にうなずいた。


 どうやら笑い話ではないらしい。


 ナオトは返書をエナへ渡す。


「ネフィラって、どんな人なんだ?」


 エナは返書へ目を落とした。


「必要な相手にしか、必要な情報をお渡しになりません」


「慎重なんだな」


「……はい」


 少し間を置いて続ける。


「書面へ残さないのも、その方のお考えです」


 ナオトは返書を受け取る。


 短い二行。


 だが、その裏には相手の考え方がにじんでいた。


「向こうのやり方を見に行こう」


「第二軍団領へ、ですか」


「ああ」


 書面に残さない理由。


 それは、会って確かめるしかない。


 エナが静かに一礼する。


「出発の準備をいたします」


 ナオトは返書を机の上へ置いた。


 墨で書かれた二行は、それ以上何も語らない。


 だからこそ、会いに行く価値がある。


 次の目的地は、第二軍団領だった。


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