01 追放され還らずの谷に
還らずの谷――。
王国の地図にも詳しい記載が存在しないその場所は、一度足を踏み入れれば二度と戻れないと言われる危険地帯だった。
谷の外側を覆う“迷いの森”では方角が狂い、同じ場所を何度も歩かされるうえ、森に棲みつく魔物たちも凶暴で、熟練の冒険者ですら消息を絶つことが珍しくない。
そのさらに奥に存在する還らずの谷には、災害級と呼ばれるヘルウルフの群れまで生息していると言われ、人々は恐怖を込めてその名を口にしていた。
そんな場所を、一人の青年が歩いていた。
黒髪黒目の青年――ユウは、背負っていた荷物を持ち直しながら、霧の立ち込める森をゆっくり進んでいく。
装備は簡素。
腰に短剣こそあるものの、立派な鎧も高価な武器も持っていない。
どう見ても危険地帯へ挑む冒険者には見えなかった。
「……追放、か」
ぽつりと漏れた声が、霧の中へ静かに溶けていく。
数日前まで、ユウは冒険者パーティーへ所属していた。
だが、結果は追放。
理由は単純だった。
“役に立たないから”。
ユウが持つスキル【水質変化】は、水を整えることしかできない。
水温を変える。
水質を安定させる。
流れを調整する。
それだけの能力だった。
当然、戦闘には向かない。
魔物を倒す火力もなければ、前線へ立てる身体能力もない。
最初の頃は雑用係として必要とされていた。
飲み水の管理。
野営地の整備。
水場の浄化。
だが依頼が高難度になるほど、求められるのは“戦える力”になる。
そして最後には、静かに告げられた。
『お前は悪くない。だが、この先へ連れて行けば死ぬ』
それは突き放すようでいて、どこか苦しそうな言葉だった。
ユウも分かっていた。
自分が前線向きではないことくらい。
だから怒りより先に、疲労が来た。
役立たずと言われ続け、必要ないと思われながら、それでも居場所へしがみつこうとしていた自分自身へ。
だからユウは、自分から離れた。
そして辿り着いたのが、この還らずの谷だった。
危険なのは知っている。
だが、人が来ない場所なら静かに暮らせるかもしれない。
そんな半分投げやりな理由だった。
霧の深い森を進みながら、ユウはふと立ち止まる。
微かに聞こえた。
水音だった。
「……川?」
耳を澄ませる。
さらさらと流れる静かな音。
ユウは導かれるように木々の間を進み、その先で小さく目を見開いた。
そこにあったのは、岩場から白い湯気を立ち上らせる温泉だった。
澄み切った湯。
静かな水音。
柔らかく流れる湯気。
周囲には古びた建物の跡まで残っている。
いつしか迷いの森を抜けていた。
迷わなかった。
魔物にも出くわさなかった。
運がよかったのだろうか。
「……温泉?」
思わず呟く。
人が住んでいた痕跡は古い。
だが完全に崩れてはいなかった。
柱はまだ生きているし、屋根も一部なら使えそうだ。
ユウはゆっくり温泉へ近づき、そっと湯へ手を浸した。
その瞬間。
「……あ」
小さく声が漏れる。
温かい。
だが、それだけじゃない。
水の流れが妙に整っていた。
まるで最初から“最適な状態”を保ち続けているような感覚。
ユウは驚いた表情のまま、しばらく湯へ触れ続ける。
自分のスキルだから分かる。
この温泉は普通じゃない。
湯そのものへ、微かに魔力が溶け込んでいる。
しかも驚くほど安定していた。
「……気持ちいいな」
自然に言葉が漏れた。
張り詰めていた身体から、少しずつ力が抜けていく。
頭の奥に溜まっていた重さまで、静かにほどけていくようだった。
ユウはしばらく無言で温泉を見つめる。
聞こえるのは水音だけ。
誰もいない。
争いもない。
不思議なくらい静かだった。
だったら。
「……ここで暮らすか」
その言葉は驚くほど自然に口から出た。
役立たずと言われたスキルでも、この温泉なら使えるかもしれない。
湯を整える。
水路を直す。
流れを調整する。
そういう静かな仕事なら、自分にもできる気がした。
ユウは壊れかけた建物を見上げる。
まずは修理。
それから水路確認。
やることは多い。
だが、不思議と嫌じゃなかった。
むしろ少しだけ、心が軽かった。
谷の奥では風が木々を揺らしている。
まだユウは知らない。
この温泉が、人間だけではなく、魔物すら引き寄せる特別な場所だということを。
そして。
この静かな出会いが、“やわらぎの湯”の始まりになることも。




