鹿の解体
ラタは解体した鹿を何回かに分けて作業場に運ぶと言うので、カイルはひとりでゆっくりと小屋に戻った。
久しぶりに長時間動いたカイルはぐったりと寝台に倒れ込む。
疲労困憊とはこのことだ。
(だいぶ体力が落ちちゃってるな……)
少しだけ休むつもりで目を閉じる。
扉を叩く音にばっと身体を起こした時には、部屋は薄暗くなっていた。
慌てて扉を開ける。
「ラタ、ごめん。俺、寝ちゃって――おぁあ!?」
暗がりの中で、血塗れのラタが内臓を盛った金盥を抱えて立っていた。
「暖炉の前に置いといて」
そう言って盥を差し出してくる。その盥にも、赤い斑点が飛んでいる。
ごくりと生唾を飲み込む。
両手で抱えるほどの盥に山盛りになった、ぬらつく柔らかそうな塊。
生臭さに背筋が冷たくなっていく。
手が、どうしても、それを受け取ろうとしない。
「……う……」
分かった、という言葉が声にならない。
しばらく盥を差し出していたラタは、カイルは受け取らないと判断して、それを地面に置いた。
手のひらの血を上着で拭って、着替えを引っ掴んで出ていく。
扉が閉まり、ラタの軽い足音が遠ざかる。
カイルは後退り、寝台に座り込んだ。
しばらくして、着替えを済ませたラタが戻ってきたときには、カイルは寝台の上で膝を抱えて小さくなっていた。
ラタは濡れた髪を拭きながら厚みのある石を暖炉に放り込む。
「おまえ、臓物怖いの、忘れてた。大丈夫か」
「……」
心底情けなくて返事もできない。
ラタが作業場で血塗れになって解体をしている間、ぐうぐうと居眠りをしていたうえでの、この為体。
内臓は傷みが早いらしく明日には捨てる。
ラタは明日までずっと内臓だけ食べるらしい。
「……ちなみに、内臓って、美味しいの?」
「ちゃんと血抜きできて、いい感じに焼けたら、美味い」
「今日のは?」
「たぶん、ちょっと困るくらいまずい」
「……困るくらい不味いかぁ……」
挑戦してみるべきでは、と囁く心の天使があっさりと顔を引っ込める。
ラタの「困るくらい不味い」が、カイルに飲み込めるとは思えない。
しっかり石が焼けると、ラタはその上に内臓と肉を並べた。
「金持ちは、長いこと臓物食べなくても倒れないのか?
今度、うまいのが焼けたら、少し食べてみるか?」
煙突に吸われ損ねた血の焼ける臭いが寝台まで届き、吐き気を催す。
カイルは身体を低くして防衛した。
「……ごめん」
「なにが。おまえのおかげで、たくさん肉がとれた」
その言葉は慰めなどではなく、きっとラタにとっては本心なのだろう。
「……俺のおかげじゃないよ。
鹿に縄をかけたのも、引っ張り上げたのも、ラタじゃないか」
「鹿が軽くなったの、あれ、どういうこと?」
「縄を長く引いただろ。重さを長さに分散させたんだ」
ラタは口をへの字にして、黒い目を何度か瞬き、難しそうな顔で黙り込んだ。
口を尖らせたまま黙々と野草を刻む。
カイルの言葉に納得がいかない様子だ。
「今度、ゆっくり説明するよ」
ふと壁に立てかけてある黒い石板に目が留まる。
毎日ラタと文字を綴っている、カイルにとっては思い入れのある石板。
カイルとは何もかも違うこの少年と、共有できるものも確かにあるのだと思える時間。
もしかしたら、これからはこの黒い石に、文字だけでなく数式も書かれていくのかもしれない。
「……ラタが、この石板で肉を焼かないでくれて嬉しいよ」
冗談めかして言いながらカイルは指先で石板を撫でた。
ラタが心外そうに眉を寄せる。
「そんなこと、するわけないだろ」
「だよな、ごめん」
「こっちの石の方が、旨く焼ける」
「だよな、ごめん、お前は凄腕料理人だもんな」
鹿は素材が歩いているようなもので、捨てるところがないらしい。
内臓は食べきらなければいけないが、肉は保存食にできる。
冬毛が抜けた皮は扱いやすいし、角も骨も素材になる。
筋も糸になるし、内臓周りからは脂が、蹄からは膠がとれる。
「良い脂がとれたら、軟膏でも作るか」
「なんこう?」
「知らない? 薬草を溶かした塗り薬。保存できるし、使いたい時にすぐ使えるし、効果も逃げない」
「……魔法?」
理解を諦めた顔に、カイルは笑う。
「魔法じゃないよ。ちゃんと、面倒な手順がある」
グランフォードの城では、母が祖母の秘伝のレシピで作っており、よくカイルにも手伝わせてくれた。
そして家族が怪我をすると、不思議な香りのそれを優しく塗ってくれたものだ。
じきにまた、ひとりでこの山で生きるラタを思って、カイルは目を細める。
「――面倒だけど、できれば、作って持ってて欲しいな。
ラタが怪我した時に傷を守ってくれるものだ。
今回は俺が作るし、作り方も書いておくから」
山の生活は厳しい。
医師などいないこの場所では傷の対処は命に関わる。
カイルは、この厳しい場所で生きる恩人が元気で生きていけるよう、祈るしかできない自分がもどかしかった。




