青灰色の鱗
暦が七月に変わった。
山は、夏に向かって生命の色を濃くしてゆく。
雨上がりの湿った土と青葉の甘い香りの中で、カイルはラタの数歩後ろをゆっくりと歩く。
「これがジロール。これがウバタケ。あ、これは食べたら死ぬやつ」
カイルが食べられるものを選んで摘んでいると、籠を背負ったラタが振り返り、わずかに目を細めた。
「……合ってる。
おまえ、金持ちなのに、そんなにキノコに詳しくなってどうするんだ」
「今まさに役に立ってるじゃん。自分で見分けられるようになると、山が『生活の場所』だって感じがして楽しい」
「ふうん」
素っ気ない相槌にカイルは笑い、深く森の空気を吸い込んだ。
この山に捨てられて飢え乾いていた時の絶望が、もう遠い昔に見た怖い夢のようだった。
このひと月でカイルは多少キノコの見分けもつくようになったし、薬草の仕分けもほぼできるようになった。
内臓は、美味しく焼けたものなら食べられたが、美味しいところだけラタから奪うのも違う気がして、挑戦するのをやめた。
指先には拭いきれない草の渋が残り、衣服は焚き火の匂いが染み付いている。それもいつの間にか日常になっていた。
足はまだ少し痛むが、ラタとの穏やかな生活が楽しい。――これが、ラタに余裕のあるこの季節だけのものなのだと、今は知っているけれど。
ふと先を行くラタの足が止まった。
その背中の強張りにカイルも声を落とす。
「ラタ……?」
「……知らない人間がいる」
低い囁き。
カイルが困惑する間もなく、茂みの向こうからガサガサと不快な音が響いた。
泥に汚れた革鎧を纏ったふたりの中年男たちが姿を現す。
その顔を見た瞬間、カイルの記憶が蘇る。
(――あの時の、連中だ)
町で自分を馬車に押し込み、仲間内で言い争ったあとカイルを山へ捨てた男たち。
「おい、やっぱりいたぞ! あの時のガキだ! 兄貴たちを呼んでこい!」
男がカイルを指差して駆け寄ってくる。
腰のナイフを抜きながら叫ぶ。
「山で死んだって報告しちまったんだ。
今さら生きて戻られちゃ、困るんだよ!」
踵を返そうとしたカイルの右足が縺れる。
飛びかかってきた男がナイフを振り上げ、カイルの喉元へ振り下ろした。
「――がっ!?」
視界の端から、黒い影が男を弾く。
「ラタ!」
ラタは地面を強く蹴り上げ、犯人の肩へ飛び蹴りを叩き込んだ。
男は太い幹に背中を打ちつける。
「この……っ、ガキがぁ!」
ラタは咄嗟に身を躱したが、男が振り下ろしたナイフが麻布の袖を切り裂いた。
はらりと、裂けた布が中空にはためく。
ラタは飛び退いた勢いを乗せて男を斜面へ蹴落とす。
そのまま呆然とするカイルの腕を掴んだ。
「逃げるぞ」
強引に引きずられる。
肩越しに一瞬目をやると、残された男は逃げるカイルと落ちた仲間を見比べてきょろきょろしていた。
木の枝が顔を打つ。
漸く歩けるようになってきた右足に痛みが走る。
背後で怒声が響いたが、ラタは迷いなく獣道を駆け抜けた。
どれほど走っただろうか。
痛む足が限界を訴えたとき、追手の気配はなくなっていた。
膝をついて荒く息をする。
「……ラタ、」
震える声でその名前を呼ぶ。
上げた視線が、どうしてもそこへ縫い付けられる。
カイルを助けるために切り裂かれた麻布の袖――その下にある、人の肌ではない腕に。
薄暗い森の中、微かに漏れる光を弾いて硬質に光る。
小さく重なり合った、青灰色の――
『――鱗持ち。正しき人にはあり得ぬ、呪われた姿。
神に捨てられた穢れた魂。
人の心を持たぬ悪魔に堕ちぬため、神を崇め、善行に励めよ』
その鈍い光は王都で見た教会のステンドグラスを彷彿とさせ、幼い頃に聞かされた司祭の説教が呪文のように頭の奥に響く。
人ならざる者の証。
呪い。
凶兆。
あるいは先祖の罪と呼ばれるもの。
言葉が見つからず、ただその青灰色から目が離せなかった。
カイルは震える喉を押さえつけて声を振り絞る。
「――お前……、」
ラタは裂けた袖を気にすることもなく呼吸を整えている。
浅い息のカイルを見て少し考えるように首を傾げ、それから――いつもの淡々とした口調で、ぺろりと舌を出した。
「ばれたか」
無造作に毛皮のクロークを羽織り直し再び歩き出す。
カイルはどくどくと鳴る心臓をなんとか宥めながら後に続いた。
指先から血の気が引いていく。
くらくらと揺れる頭の中で、過去の自分の傲慢な声が、断罪するように繰り返される。
『――御伽話の、鱗持ちとかじゃあるまいし』
あの時自分は、清廉な聖人のような顔で、何を言っていたのか。
(……だって、そんな、本当に鱗がある人間なんて……)
ラタはカイルを庇った傷さえなかったかのように平然と足を進めている。
「……ラタ」
呼びかけると、ラタは足を止めることもなく、ちらりとこちらを振り向いた。
「心配しなくても、触ってもうつらない」
カイルは拳を握りしめる。
深い青灰色、人の肌とは決定的に違う硬質な光。
だが、逃げる時に掴まれたラタの手は、自分と同じ温度だった。
必死に走る姿も、荒い息遣いも、自分と同じだった。
――どうして、俺を庇ってくれたんだ。
あんなことを言った俺を。
今、何かを言わなければ、取り返しのつかない何かが壊れてしまう。
なのに焼けたような喉が言葉を枯らす。
前を歩いていたラタが足を止め、困ったような顔でカイルに向き直った。
「……黙ってて悪かった」
胸の奥を、ナイフで抉られた気がした。
「違う」
即座に出た言葉が、何を否定しているのか、カイル自身にも分からなかった。
「びっくりした、けど……俺は」
投げつけた言葉を謝らなければと思っても、自分には謝罪を口にする資格すらない気がする。
ラタはしばらく黙ってカイルの言葉を待っていたが、再び前を向いた。
カイルも一歩遅れて、その背中を追う。
――鱗がある人間が怖いのなんて、普通の人間なら、当たり前のことだ。
だが彼はカイルの命を助け、生きるための全てを分け与えてくれたのに。
いつか必ず恩返しをするのだと、決めた相手なのに。
人にあるはずのない青灰色の鱗は、やはり気持ち悪いとしか思えない。
だがそれ以上に、自分がこれほどまでに見窄らしく、醜い人間だったという事実が、つらく、恐ろしかった。





