第三章 死なないための投票
七瀬ミオは、黒板の文字を見つめたまま動かなかった。
本日の死亡者 七瀬ミオ。
死亡時刻 23:59。
教室にいる全員が、その名前を見ていた。誰も声を上げない。もう「悪趣味なドッキリだ」と笑う者はいなかった。笑える段階はとっくに過ぎていた。俺だけが二つの死を覚えている。俺の胸を刺したレナの手。見えない何かに首を吊られたハルトの顔。どちらも、体の内側に棘のように残っている。
だが、それを覚えているのは俺とレナだけだった。
ハルトは隣で息をしている。首には痕ひとつない。昨日、自分が死んだことを知らない。リンが泣きながら治癒を試みたことも、黒羽が扉に体当たりしたことも、灰原が震える手で記録を取っていたことも知らない。
生き返った、という言い方は違う気がした。
生きているハルトと、死んだハルトは、同じ人間なのか。
その問いが頭をよぎり、俺はすぐに打ち消した。そんなことを考え始めたら、足元から崩れる。今、目の前にいるハルトをハルトだと思えなくなったら、この教室で人間でいられなくなる。
「ミオ」
黒羽アオイが声をかけた。
「大丈夫?」
ミオは返事をしない。
彼女は小柄で、いつも少し伏し目がちな少女だった。目が合うと、相手の未来を見てしまうのを恐れているのか、すぐに逸らす癖がある。未来視に近い異能を持つと言われていたが、彼女自身はその言い方を嫌っていた。
見えるのは、幸福な未来ではない。
たいてい、痛みだけだ。
怪我をする瞬間。転ぶ瞬間。息が詰まる瞬間。自分に降りかかる不運を、ほんの少し先に見る。それを予知と呼ぶのは、あまりに残酷だった。
「階段」
ミオが言った。
かすれた声だった。
「私、階段から落ちる」
教室の空気が、さらに冷たくなる。
ハルトが俺の方を見た。
「なあ、ユウ」
「何だ」
「これ、本気でやばいやつだよな」
「今さらか」
「今さらだよ。だって昨日の俺、死んだんだろ」
ハルトは半分冗談めかして言った。だが、目は笑っていなかった。
俺は答えられなかった。
ハルトは俺の沈黙を見て、唇を引き結んだ。
「マジかよ」
「マジだ」
「どう死んだ」
「聞くな」
「聞いた方がいいだろ」
「聞かない方がいい」
ハルトは少しだけ視線を落とした。
「それ、俺が情けなかったってこと?」
「最後までお前だった」
「何だよ、それ」
「冗談言って死んだ」
ハルトは一瞬ぽかんとし、それから小さく笑った。
「じゃあ、俺らしいな」
その笑いが胸に刺さった。
黒羽が教壇に立った。
昨日と同じ姿勢だった。状況を整理し、全員をまとめようとしている。だが、昨日よりも顔が硬い。彼女自身は覚えていなくても、体の奥に疲労が残っているのかもしれない。人は忘れても、世界は何かを残すのだろうか。
「七瀬さんの未来視が正しいなら、今日は階段が危険です」
「階段だけか?」
相馬ケイが腕を組んで言った。昨日は右腕を失わずに済んだ。俺が止めたからだ。もちろん本人はそれを知らない。だが昨日より少し、俺の言葉を疑う目が弱くなっている気がした。
「階段から落ちるって言ったんだろ。なら、一日中階段に近づけなきゃいい」
「それで済めばいいけどね」
灰原シュウが低く言った。
「昨日の霧島の件を、神代の証言に基づくなら、死因は物理的条件を無視して成立した。首吊りの道具がなくても、結果として窒息死した」
「その話、何回聞いても意味分かんねえ」
「俺も意味は分からない。だが観察結果としてはそうなる」
「観察結果って便利な言葉だな」
相馬が吐き捨てる。
灰原は反論しなかった。
「分かっていることだけ確認する。黒板に名前が出た人間は、その日の二十三時五十九分に死ぬ。防ごうとすると、世界そのものが帳尻を合わせる可能性がある。神代だけは、少なくとも一部の記憶を保持している。白瀬も記憶を保持している。死亡者本人は、朝になると記憶を失う。ここまでは仮説だが、状況とは矛盾しない」
「仮説じゃなくて、現実だ」
俺は言った。
灰原は俺を見る。
「なら、その現実に基づいて動くしかない」
黒羽がうなずいた。
「今日の方針は単純。七瀬さんを階段に近づけない。できるだけ一階で待機する。階段の封鎖。窓、廊下、危険物の除去。神代くんと白瀬さんには、昨日までの記憶があるなら協力してもらう」
彼女の視線がレナへ向かう。
白瀬レナは教室の後ろの席に座っていた。昨日の終わりと同じように、静かだった。黒板にミオの名前が書かれた瞬間も、彼女の表情は大きく変わらなかった。
その静けさが、今は教室中の神経を逆撫でしていた。
「白瀬さん」
黒羽が呼ぶ。
「七瀬さんを救う方法を知っている?」
「知らない」
「本当に?」
「知っていたら、とっくに試してる」
「試したことがあるの」
レナは少しだけ間を置いた。
「たぶん」
「たぶん?」
「全部は覚えていない」
俺は眉をひそめた。
昨日、レナは何度も何度も知っていると言った。俺が壊れる朝も、ハルトが死ぬ夜も、黒羽が自分を責めることも全部知っていると。なのに今は、全部を覚えていないと言う。
「お前、記憶があるんじゃなかったのか」
俺は訊いた。
「ある。でも完全じゃない」
「どういうことだ」
「同じ朝は、同じじゃない。少しずつ変わる。ミオが死ぬ日は、何度もあった。でも、毎回同じ死に方じゃなかった」
ミオの肩が震えた。
「私、何回も死んだの?」
レナはミオを見た。
その目には、初めて明確な痛みがあった。
「ごめん」
「謝らないで」
ミオの声は小さかったが、はっきりしていた。
「謝られたら、本当に死んだみたいになる」
レナは口を閉じた。
黒羽が全員を見回した。
「行動しましょう。考えるのは動きながらでいい。霧島くんの時は、準備室に閉じ込めたことで逆に危険が増えた可能性がある。だから今回は、閉じ込めるのではなく、広い場所で見守る。体育館は霧で確認できない。食堂は一階で広い。七瀬さんをそこに移動させます」
「階段はどうする」
相馬が訊く。
「全て封鎖する。机、棚、ロッカー、使えるものは全部使って」
「この校舎、階段いくつあると思ってんだよ」
「東階段、西階段、中央階段、非常階段。使える人員で分担する」
「エレベーターは?」
リンが言った。
「電源が信用できない。閉じ込められたら危険」
灰原が即答した。
「それ以前に、エレベーターが階段の代わりとして機能するなら、世界がどう解釈するか分からない」
「世界が解釈って、何か嫌な言い方」
ハルトが言う。
「俺も嫌だ」
灰原は眼鏡を押し上げた。
「だが、そうとしか言えない。死亡予定が手段ではなく結果を指定しているなら、俺たちが防いでいるのは死因ではなく、死の成立経路だ」
「もっと簡単に」
「死ぬ結果が先にあって、理由が後から生える」
「最悪じゃねえか」
「最悪だ」
誰も笑わなかった。
俺たちは動き始めた。
まず、ミオを食堂へ移動させることになった。教室は二階にある。食堂は一階。階段を下りなければならない。その時点で矛盾している。階段から落ちる未来を見ているミオを、階段を使って安全な一階へ移す。まるで、火事から逃げるために炎の中を通るようなものだった。
黒羽は考えた末、階段ではなく非常用スロープを使うことを提案した。校舎の東側には、車椅子や搬入用の緩やかなスロープがある。階段ではない。段差もない。
「未来視が言葉通りなら、これで避けられる」
黒羽は言った。
「言葉通りならな」
相馬がぼやく。
俺はミオの横を歩いた。
彼女は両手で自分の腕を抱え、震えていた。
「七瀬」
俺は声をかけた。
「何か見えたら言え」
「うん」
「怖いなら目を閉じててもいい」
「閉じても見える」
その返事に、俺は言葉を失った。
ミオは少しだけ笑った。
「神代くんは、優しいね」
「そんなことない」
「あるよ。怖いとき、怖いって言わせてくれる」
「言った方がいい」
「神代くんは?」
「何が」
「怖いって言ってる?」
俺は答えられなかった。
怖い。
当たり前だ。
俺は一度死んだ。胸を刺され、世界が崩れるのを見た。ハルトの死を抱えたまま朝に戻った。今日、ミオが死ぬかもしれない。いや、黒板は死ぬと言っている。
怖くないはずがなかった。
だが、俺が怖いと言ったところで何が変わるのか。
「ユウは、怖いって言わないよ」
背後からレナの声がした。
俺は振り向いた。
彼女も列に加わっていた。黒羽が見張り役を二人つけている。レナを単独行動させないためだろう。
「お前が言うな」
「言うよ」
「俺の何を知ってる」
「怖いときほど、怒る」
レナは平坦に言った。
「助けたい人がいると、自分のことを後回しにする」
「知ったように」
「知ってる」
その短い言葉に、喉が詰まった。
まただ。
レナは俺の知らない俺を知っている。俺の記憶の外にあるはずの時間を、彼女だけが持っている。それが腹立たしく、同時に恐ろしい。
ミオが小さく言った。
「白瀬さん」
「何」
「私は、今日死ぬの?」
レナはすぐには答えなかった。
ミオは続けた。
「死なないようにするって、みんな言ってくれてる。でも、白瀬さんは違う顔をしてる」
「どんな顔?」
「もう、お墓の前にいるみたいな顔」
レナの表情がわずかに崩れた。
「ごめん」
「謝らないでって言った」
「うん」
「私、死にたくない」
「うん」
「でも、私が死なないと、みんな死ぬの?」
その問いに、廊下を歩いていた全員の足が止まりかけた。
レナは黙った。
俺は彼女を睨む。
「答えるな」
レナが俺を見る。
「答えたら、お前を許さない」
「ユウ」
「今ここでミオにそんなことを背負わせるな」
ミオは俺の制服の袖を掴んだ。
「知りたい」
「七瀬」
「知らない方が怖い」
俺は言葉を失った。
レナはしばらくミオを見つめ、それから静かに言った。
「分からない」
「分からない?」
「ミオが死ななかった時に、何が起きるかは一定じゃない。全員が死んだこともある。校舎が崩れたこともある。ユウが先に死んだこともある」
全員の呼吸が止まった。
俺はレナに詰め寄りかけた。
だがミオの手が袖を掴んでいたので、動けなかった。
「じゃあ」
ミオの声が震える。
「私が死んだ方がいいの?」
「違う」
レナは即答した。
その強さに、ミオが驚いたように顔を上げる。
「誰かが死んだ方がいいなんて、言わない」
「でも」
「ただ、死が決まっている日がある。私は、それをどう扱えば少しでも先へ進めるかを考えているだけ」
「先ってどこ」
「終わり」
「終わりは、助かるってこと?」
レナは答えなかった。
その沈黙が、答えだった。
食堂に着くまで、誰もほとんど喋らなかった。
非常用スロープは無事に通過できた。ミオは落ちなかった。途中で床が歪むことも、天井が崩れることもなかった。食堂は広く、窓が大きい。外は霧に覆われているが、椅子や机を中央へ集めれば、壁や窓から十分に距離を取れる。
黒羽は手早く指示を出した。
「七瀬さんは中央の椅子。周囲に人を置く。窓際には近づかない。厨房の刃物類はすべて回収。コード類も片づける。二階以上に上がる必要はない。階段は全て封鎖」
「トイレは?」
リンが訊く。
「一階の多目的トイレを使う。付き添いは二人以上。階段付近を通らないルートを確認」
黒羽の指示は的確だった。
昨日もそうだった。彼女は恐怖の中でも、やるべきことを見つける。だからみんな従う。だが俺は知っている。昨日、彼女の指示はハルトを救えなかった。その事実を彼女本人は知らない。知らないまま、また誰かを救おうとしている。
その姿を見るのが、つらかった。
昼近く、校内放送が鳴った。
『死亡予定時刻まで、あと十二時間』
食堂の天井スピーカーから、昨日と同じ機械音が流れる。
『本日の死亡者、七瀬ミオ。死亡時刻、二十三時五十九分。執行は、予定通り行われます』
ミオは両耳を塞いだ。
リンが彼女の肩を抱く。
「大丈夫。大丈夫だから」
根拠はない。
それでもリンはそう言った。
人は、根拠がなくても誰かを安心させようとする。それが嘘だとしても、言わなければ壊れてしまう場面がある。
相馬たちは階段の封鎖に向かった。
俺も加わるつもりだったが、黒羽に止められた。
「神代くんは七瀬さんの近くにいて」
「どうして」
「あなたは記憶がある。異変に気づける可能性が高い」
「白瀬は?」
「彼女にもいてもらう」
黒羽はレナを見た。
「ただし、七瀬さんに不用意なことを言わないで」
「分かった」
レナは素直に答える。
黒羽は納得していない顔だったが、それ以上は言わなかった。
食堂中央に集められた机の一つに、ミオは座っていた。リンが隣にいる。俺は向かいに座り、レナは少し離れた席に座った。ハルトはその中間に立っている。彼はなぜか、ミオを笑わせようとしていた。
「七瀬さん、好きな食べ物ある?」
「え?」
「いや、こういう時こそ食の話だろ。俺、死ぬかと思った時にクリームパン食ったらしいし」
俺は睨んだ。
「それを今言うな」
「いや、覚えてないけどさ。俺がそういう場面で食うなら、たぶんクリームパンだろ?」
「当たってるのがむかつく」
ミオが少しだけ笑った。
ハルトはその笑いを見て、ほっとしたような顔をした。
「ほら、笑った。死神も笑顔には弱いかもしれない」
「死神って言わないで」
「悪い」
ハルトは素直に謝る。
ミオは首を振った。
「ううん。ありがとう」
そのやり取りを、レナが静かに見ていた。
俺は思わず言った。
「何でそんな顔する」
「どんな顔?」
「また失うものを見てる顔」
レナは少し目を伏せた。
「そう見える?」
「見える」
「じゃあ、そうなんだと思う」
「諦めるな」
「諦めてない」
「同じだ」
「違う」
レナは俺を見る。
「諦めるっていうのは、何も覚えないことだよ」
その言葉の意味は、すぐには分からなかった。
だが、妙に胸に残った。
午後になると、階段封鎖の報告が入った。
東階段、西階段、中央階段、非常階段。すべて机やロッカー、掃除用具入れで塞がれたという。念のため、階段へ続く廊下にもバリケードを作った。誰かがうっかり近づかないよう、見張りも置いた。
ミオは一度も階段を使っていない。
このまま夜まで食堂にいる。
それだけなら、死にようがないはずだった。
だが、俺はその言葉をもう信じられなかった。
死にようがない。
昨日、ハルトにもそう思った。紐を取り除き、狭い準備室に入れ、見張っていた。それでも彼は死んだ。首に紐もないのに、見えない何かで吊られたように。
世界は、理由を後から作る。
それなら、階段を封鎖したところで、階段がこちらへ来る可能性すらある。
その馬鹿げた考えが、まったく馬鹿げていない気がした。
十五時過ぎ、灰原が食堂に戻ってきた。
顔色が悪い。
「神代、黒羽」
「どうした」
黒羽が振り向く。
「校舎の平面図を見ていた。職員室にあったやつだ」
「それが?」
「一階の構造が変わっている」
食堂の空気が止まる。
灰原は端末の画面を机に置いた。そこには校舎の平面図を撮影した画像が表示されている。
「本来、この食堂の南側には中庭がある。西側には購買。北側は廊下。東側は厨房」
「それは知ってる」
「だが今、食堂の南側の扉を開けると、中央階段前の廊下に出る」
「何言ってんだ」
相馬が険しい顔で言う。
「中庭のはずだろ」
「そのはずだ」
「見間違いじゃないの」
リンが不安げに訊く。
「俺もそう思って確認した。南側の扉の先に中央階段がある。しかも、封鎖したはずのバリケードがない」
黒羽が立ち上がった。
「確認する」
「七瀬さんは動かさない」
俺は即座に言った。
「分かってる」
黒羽、灰原、相馬、俺、ハルトの五人で南側の扉へ向かった。
食堂の南側には、本来なら外へ出るための扉がある。ガラス戸の向こうには中庭が見えるはずだった。だが、その扉のガラスは白く曇っていた。霧ではない。曇りガラスの向こうに、校舎内の蛍光灯の光が滲んでいる。
黒羽がゆっくり扉を開ける。
その先には、廊下があった。
そして、廊下の向こうに階段があった。
中央階段。
二階へ続く階段が、食堂のすぐ隣に現れていた。
「嘘だろ」
ハルトが呟く。
相馬が扉の外へ一歩踏み出そうとした。
「待て」
俺は止める。
「この扉は閉める。机で塞ぐ」
「塞いでも、また変わるかもしれない」
灰原が言う。
「それでも塞ぐ」
俺は言った。
「階段が来るなら、全部塞ぐしかない」
「階段が来るって表現、最悪だな」
ハルトが言った。
誰も笑わなかった。
俺たちは南側の扉を閉め、机を積み上げた。食堂にあった長机を三つ、横倒しにして押しつける。椅子を隙間に詰める。相馬が身体強化で大型の棚まで運んできた。
だが、作業を終えた直後、リンの悲鳴が聞こえた。
「ミオちゃん!」
俺たちは振り返った。
ミオが立っていた。
食堂中央の椅子から、いつの間にか数メートル離れている。本人も気づいていないようだった。目が焦点を失い、ふらふらと歩いている。
向かう先は、北側の廊下。
そこに、さっきまでなかった扉があった。
扉の小窓から、階段の踊り場が見える。
「七瀬!」
俺は走った。
黒羽も動く。
ミオは夢遊病者のように歩いていた。リンが抱き止めようとするが、弾かれた。強い力ではない。けれど、ミオの体の周囲に薄い膜のようなものがあり、触れようとすると手が滑る。
「何これ」
リンが泣きそうな声を出す。
俺はミオの前に回り込んだ。
「七瀬、止まれ!」
ミオの目が、少しだけ俺を見た。
「階段」
「行くな」
「落ちる」
「落ちさせない」
「違う」
ミオの唇が震えた。
「もう、落ちてる」
その瞬間、床が消えた。
いや、正確には食堂の床ではなかった。俺とミオの間に、突然、階段の段差が現れた。さっきまで平らだった床が、数段分だけ下へ折れ曲がった。空間の一部だけが、階段として書き換えられたようだった。
ミオの足が宙を踏む。
俺は手を伸ばした。
指先が彼女の袖を掴む。
しかし、掴んだはずの布が、手の中からするりと抜けた。
ミオの体が傾く。
世界がゆっくりになった。
彼女の髪が浮く。目が見開かれる。口が「ごめん」と動いたように見えた。
俺は階段へ飛び込んだ。
だが、黒羽が俺の腰を掴んだ。
「行っちゃだめ!」
「離せ!」
「あなたまで落ちる!」
「ミオが!」
ミオの体は階段を転がった。
一段。
二段。
三段。
音がした。
軽い体が硬い角にぶつかる音。
人間が壊れていく音。
階段は、たった十段ほどだった。
だが、ミオが最後の段に落ちたとき、彼女の首は不自然な角度に曲がっていた。
食堂に、誰かの悲鳴が響いた。
リンが駆け寄ろうとする。
その瞬間、階段が消えた。
さっきまであった段差は、平らな床に戻っていた。
ミオだけが、床の上に倒れている。
まるで最初からそこで転んだだけのように。
「ミオちゃん!」
リンが膝をつき、治癒の光を出す。
光はミオの首元を包む。だが、昨日のハルトと同じだった。光は彼女の体の表面を滑り、内部へ入っていかない。
「お願い、お願い」
リンの声が壊れていく。
「今度は、お願いだから」
ミオは動かなかった。
時計を見る。
二十三時五十九分。
俺は息を呑んだ。
「そんな」
まだ夕方のはずだった。
いや、さっきまで十五時過ぎだった。南側の扉を塞いだばかりだった。なのに、食堂の壁時計は二十三時五十九分を指している。
灰原が自分の端末を見る。
「おかしい」
彼の声は震えていた。
「端末も二十三時五十九分になってる」
「時間が飛んだのか」
ハルトが言う。
「分からない。いや、違う。俺たちの主観時間は飛んでない。だが、時刻表示だけが死亡時刻に合わせられた」
機械音が鳴った。
『本日の死亡は、予定通り執行されました』
天井のスピーカーから、冷たい声が降ってくる。
『次回死亡者は、朝に掲示されます』
放送が切れた。
リンの泣き声だけが残った。
黒羽は膝をついて、床を拳で叩いた。
「何で」
低い声だった。
「階段は封鎖した。階段には近づけなかった。食堂にいた。全員で見ていた。なのに、何で」
誰も答えなかった。
答えられる者がいるとすれば、レナだけだった。
俺は彼女を探した。
レナは食堂の隅に立っていた。
ミオの死体を見ていた。
その顔には、また同じ諦めがあった。
俺は彼女へ向かった。
ハルトが止めようとしたが、俺は振り払った。
「お前」
声が震える。
「これも知ってたのか」
「階段が来ることは、知らなかった」
「じゃあ何を知ってた」
「ミオが死ぬこと」
「それだけ言えば済むと思ってるのか」
「済まない」
「だったら」
「でも、変えられなかった」
レナの声はか細かった。
「また」
また。
その言葉が俺の怒りをさらに煽った。
「またって言うな」
「ごめん」
「謝るな」
「ごめん」
「謝るなって言ってるだろ!」
俺の声が食堂に響いた。
レナは目を伏せる。
その仕草が、さらに腹立たしかった。
俺は彼女を責めたかった。責めて、怒鳴って、問い詰めて、知っていることを全部吐かせたかった。だが、その一方で、彼女もまたミオの死を何度も見てきたのだと理解してしまう自分がいた。
それが許せなかった。
レナを許せないのではない。
レナを理解しかけている自分を許せなかった。
相馬が突然、声を上げた。
「もう無理だろ」
全員が彼を見る。
相馬は顔を歪めていた。
「守るとか、助けるとか、無理なんだよ。名前が出た奴は死ぬ。どうやっても死ぬ。だったらさ」
「何を言うつもり」
黒羽が低く言った。
相馬は黒羽を見る。
「黒板の名前が絶対なら、そいつをどうするか決めるしかないだろ」
「どうするかって何」
「放っておくのか、閉じ込めるのか、早めに殺すのか」
空気が凍った。
リンが顔を上げる。
「何言ってるの」
「現実の話だ」
「ミオちゃんが死んだばかりなのに」
「だからだろ!」
相馬が叫んだ。
「見ただろ。どれだけ守っても意味がない。むしろ下手に守るから、変な死に方になる。ハルトもそうだったんだろ? 昨日の俺たちは知らないけど、神代は見たんだろ」
俺は答えなかった。
相馬は続ける。
「だったら、名前が出た奴をどう扱うか、最初に決めるべきだ」
「扱うって言い方やめろ」
ハルトが言った。
「人間だぞ」
「人間だから言ってんだよ! 苦しんで死ぬより、楽にした方がいい場合だってあるだろ」
「お前、それ本気で言ってんのか」
「本気だ」
相馬の目は血走っていた。
「それに、黒板の名前と違う奴が死んだらどうなるか、誰も知らない」
灰原が顔を上げた。
「相馬」
「実験する価値はある」
「やめろ」
俺は言った。
「それ以上言うな」
「何でだよ。分からないことを試さないと、何も変わらないんだろ」
「人を殺して試すのか」
「じゃあ毎日一人ずつ死ぬのを見てるのか」
「そういう話じゃない」
「そういう話だろ!」
相馬の声は叫びに近かった。
「今日、七瀬が死んだ。明日は誰だ。俺か? 黒羽か? リンか? ハルトか? お前か? 白瀬か? 名前が出た奴を守れないなら、他の全員をどう守るか考えなきゃいけないだろ」
黒羽が立ち上がった。
「多数決で誰かを殺す、なんて話なら認めない」
「多数決なんて言ってない」
「同じよ」
「違う。俺は、ルールを調べるべきだって言ってる」
「そのために誰かを殺すの?」
「誰かが死ななきゃ分からないなら」
「相馬くん!」
黒羽の声が鋭く飛んだ。
相馬は口を閉じた。
だが、その言葉はもう食堂に残ってしまった。
誰かが死ななきゃ分からない。
その考えは、確かにひどい。
だが、完全に間違っていると言い切るには、俺たちはあまりに追い詰められていた。
黒板の名前は避けられない。
ならば、黒板の名前以外の死はどう扱われるのか。
世界はどう反応するのか。
もし、黒板に書かれた者より先に別の誰かが死んだら、予定は上書きされるのか。それとも二人死ぬのか。全員死ぬのか。朝は来るのか。誰が記憶するのか。
知る方法は、一つしかない。
それに気づいた瞬間、吐き気がした。
灰原が静かに言った。
「相馬の発言は倫理的には論外だ。だが、論理的には完全に無視できない」
「灰原くんまで」
リンが震える声を出す。
「俺は殺せと言ってるんじゃない。むしろ逆だ。そういう考えが出た時点で、俺たちは危険な段階に入っている。だから明文化する必要がある」
「何を」
黒羽が訊く。
「投票禁止。私刑禁止。死亡予定者の隔離方法。危険行為の制限。誰か一人の判断で動かないためのルール」
「ルールを作るのか」
ハルトが呟く。
「この状況で、俺たちが人間でいるためには必要だ」
人間でいるため。
その言葉は、食堂に重く落ちた。
俺はミオの死体を見た。
まだ床に横たわっている。リンがそばに座り、手を握っている。ミオの顔は、最期の恐怖が少し残っていた。けれど、どこかほっとしているようにも見えた。
もう未来を見なくていい。
そんな顔に見えてしまう自分が嫌だった。
「朝は来るのか」
ハルトがぽつりと言った。
誰も答えなかった。
俺はレナを見た。
「来るんだな」
レナは小さくうなずいた。
「たぶん」
「たぶんじゃない」
「来る」
「ミオは戻るのか」
「戻る」
「覚えてるのか」
「覚えてない」
俺は奥歯を噛んだ。
また一人、俺の中だけで死ぬ。
レナの中にも残る。
他の全員は忘れる。
忘れられるなら、それは救いなのか。記憶に残される方が罰なのか。
答えは出なかった。
夜は、長かった。
食堂でルールを作ることになった。紙に書き出し、全員で確認する。誰も一人にならない。黒板の死亡者を殺さない。死亡者本人の意思を確認する。危険物は管理する。階段、霧、窓、閉所を避ける。白瀬レナから情報を聞き出すが、暴力は禁止する。
最後の項目で、相馬が舌打ちした。
「暴力禁止って、白瀬を守るためかよ」
「全員を守るためよ」
黒羽が言った。
「誰かを殴ることを許したら、止まらなくなる」
「綺麗事だな」
「綺麗事を捨てたら終わりよ」
黒羽は疲れた顔で言った。
「私たちはもう、外の世界と切り離されてる。だからこそ、ここで自分たちまで壊れたら、本当に終わる」
相馬は黙った。
灰原が紙を折り、食堂の壁に貼った。
仮のルール。
それはあまりにも頼りない壁だった。だが、ないよりはましだった。
深夜、俺は食堂の隅でレナと向かい合っていた。
周囲には人がいる。二人きりではない。だが、誰もこちらの会話に入ってこない。みんな疲れ切っていた。
「聞く」
俺は言った。
「答えられる範囲で」
「それを決めるのはお前じゃない」
「でも、言えないことがある」
「なぜ」
「言うと、ユウが早く思い出す」
「思い出したら何が悪い」
「壊れる」
「またそれか」
「うん」
「俺が壊れるのと、みんなが死ぬのと、どっちがましなんだ」
レナは俺を見た。
長い沈黙。
そして、静かに言った。
「私は、ユウが壊れる方が怖い」
その言葉に、怒るべきだった。
みんなの命より俺一人が大事なのかと責めるべきだった。
けれど、何も言えなかった。
レナの声が、あまりにも本気だったからだ。
「お前は、俺の何なんだ」
俺は訊いた。
レナは答えない。
「恋人だったのか」
彼女の指が、わずかに動いた。
「違う」
「じゃあ友達か」
「違う」
「敵か」
「それが一番近い」
「敵なら、何で俺をそんな目で見る」
「どんな目?」
「俺が死ぬたびに、自分も死んでるみたいな目」
レナは息を止めた。
そして、かすかに笑った。
「やっぱり、ユウはひどい」
「何が」
「忘れても、そういうところだけ残る」
「答えになってない」
「答えられない」
「いつか答えるのか」
「ユウが、私をちゃんと嫌いになったら」
「もう嫌いだ」
「まだ足りない」
俺は彼女を睨んだ。
レナは目を逸らさなかった。
その強さが、今は憎かった。
明け方に近づくにつれ、食堂の壁が薄く白み始めた。
霧ではない。
光でもない。
世界そのものが、朝に塗り替えられていくようだった。
ミオの体は、いつの間にか床から消えていた。
誰もそれを見ていなかった。目を離したほんの数秒で、彼女の存在だけが取り払われたように消えていた。
リンが泣き崩れた。
だが、その涙もたぶん、朝になれば消える。
俺は消えない。
レナも消えない。
「ユウ」
レナが言った。
「朝が来る」
「知ってる」
「たぶん、ミオは覚えてない」
「知ってる」
「でも、あなたは覚えてる」
「それも知ってる」
「怒っていいよ」
俺は彼女を見た。
「許してほしいのか」
「違う」
「じゃあ何だ」
「怒っている間は、まだ前に進める」
その言葉を聞いた瞬間、視界が白くなった。
机も椅子も、食堂の壁も、貼られた仮のルールも、泣いているリンも、眠りかけたハルトも、腕を組む黒羽も、端末を握る灰原も、すべてが白くほどけていく。
最後に見えたのは、レナの顔だった。
彼女はまた、泣きそうな顔をしていた。
目を覚ますと、額が机に触れていた。
頬に木目の跡がついている。
教室には、朝の光が差し込んでいた。
俺はゆっくり顔を上げた。
胸が重い。
喉の奥に、叫び損ねた言葉が詰まっている。
「おい、ユウ」
ハルトが隣から声をかける。
「どうした。また顔やばいぞ」
俺は彼を見た。
生きている。
首に痕はない。
続いてミオを見た。
彼女も生きている。
自分が階段から落ちて死んだことを知らない顔で、黒板を見ている。
俺も黒板を見た。
そこには、白い文字が書かれていた。
本日の死亡者 白瀬レナ
死亡時刻 23:59
教室がざわめく。
相馬が立ち上がった。
「白瀬?」
黒羽が息を呑む。
リンが口元を押さえる。
灰原が眼鏡を押し上げる。
ハルトが俺を見る。
「なあ、ユウ。これって」
俺は答えなかった。
教室の一番後ろで、白瀬レナが黒板を見ていた。
初めてだった。
彼女の顔から、色が消えている。
昨日まで、誰の名前が書かれても、彼女はどこか諦めた目をしていた。俺が死ぬ日も、ハルトが死ぬ日も、ミオが死ぬ日も。だが、自分の名前を見た今、彼女は明らかに動揺していた。
その表情を見て、俺は理解した。
これは、彼女にとっても予定外なのだ。
相馬が低く笑った。
「ちょうどいいじゃねえか」
黒羽が振り向く。
「相馬くん」
「みんな思ってるだろ」
相馬はレナを指差した。
「こいつが死ねば、終わるんじゃないのか」
誰も、すぐには否定できなかった。
俺は立ち上がった。
レナは俺を見た。
その目には、恐怖よりも別の感情があった。
懇願に近い。
けれど、助けてほしいという目ではなかった。
殺してほしい。
そう言っているように見えた。




