第二章 二人目の死亡者
霧島ハルトが死ぬ。
黒板には、そう書かれていた。
本日の死亡者 霧島ハルト。
死亡時刻 23:59。
白いチョークの文字は、昨日と同じだった。少なくとも、俺の記憶の中では同じだった。均一な線。消せそうで消せない、黒板の奥に刻まれたような筆跡。悪意よりも、決定事項に近い冷たさがあった。
違うのは、そこに書かれている名前だけだった。
昨日は、神代ユウ。
今日は、霧島ハルト。
その事実を理解した瞬間、俺の体は勝手に動いていた。
「ハルト、こっち来い」
「は?」
「いいから来い」
俺は隣の席にいたハルトの腕を掴んだ。
力を入れすぎたらしい。ハルトは顔をしかめた。
「痛えって。何だよ急に」
「いいから」
「死亡予定者様が荒れてるぞ」
ハルトは笑った。
その笑い方も、昨日と同じだった。
昨日。
そうだ。俺は昨日、死んだ。
いや、昨日という言い方が正しいのかは分からない。あれは昨日だったのか。それとも、同じ朝がまた始まっただけなのか。けれど俺の胸には、ナイフが刺さった感触が残っていた。白瀬レナの細い腕。耳元の声。これで、また会える。最後に崩れていく教室。
すべてが夢ならよかった。
夢なら、こんなに胸の奥が冷たくなるはずがなかった。
「ユウ?」
ハルトが俺の顔を覗き込む。
「お前、マジで顔色悪いぞ」
「俺は死んだ」
「は?」
「昨日、俺は死んだ。お前たちの目の前で、白瀬に刺された」
教室の空気が止まった。
俺の声は思ったより大きかった。全員がこちらを見ている。黒羽アオイが眉をひそめ、朝倉リンが口元を押さえ、灰原シュウが眼鏡の奥の目を細める。相馬ケイはまだ両腕がある自分の体を見下ろし、意味が分からないという顔をしていた。
当たり前だ。
相馬の腕は昨日、霧に消された。だが今の彼には両腕がある。本人は何も知らない。俺だけが、あの光景を覚えている。
「神代くん」
黒羽が慎重な声で言った。
「落ち着いて。まず、何があったのか順番に話して」
「順番に話してる時間はない」
「時間はある。死亡時刻は二十三時五十九分って書かれてる。今は朝よ」
「そういう問題じゃない」
「じゃあ、どういう問題?」
「これは一回目じゃない」
言った瞬間、自分でもぞっとした。
一回目ではない。
その言葉だけが、やけにはっきり腑に落ちた。
俺が覚えているのは、たぶん一回分だけだ。昨日、自分が死んだ記憶だけ。それなのに、体の奥にはもっと古い疲労が沈んでいる。何度も同じ場所に立たされた人間のような、説明できない倦怠感。
視線が教室の後ろへ向かう。
白瀬レナは、そこに座っていた。
彼女だけが、俺の言葉に驚いていなかった。
それだけで十分だった。
「白瀬」
俺は彼女の席へ歩いた。
何人かが道を開ける。無意識だったのだろう。昨日、俺が死亡予定者として囲まれていた時とは違う。今は、俺の方が危険物を見るような目を向けられていた。
レナは逃げなかった。
机の上に両手を置いたまま、静かに俺を見上げる。
「お前は覚えてるんだな」
「うん」
短い返事だった。
教室に低いざわめきが広がる。
「覚えてるって、何を」
黒羽が訊いた。
「昨日のこと」
レナは答えた。
「昨日って何よ」
「ユウが死んだ日」
リンが息を呑んだ。
ハルトは笑いかけて、途中でやめた。
灰原だけが、少し身を乗り出した。
「仮に神代の話が本当だとして、時間が巻き戻ったということか」
「正確には違う」
レナが言った。
「違う?」
「戻っているのは時間だけじゃない。教室も、校舎も、みんなの体も、記憶も。全部、朝の状態に再配置されている」
「何だそれ」
ハルトが言った。
「ゲームかよ」
「ゲームならよかった」
レナはそう言って、ハルトを見た。
その視線に、俺は胸騒ぎを覚えた。
レナは昨日、俺を見るとき、同じ目をしていた。憐れむような、諦めるような、もう何度も失敗した相手を見る目だった。
「レナ」
俺は低く言った。
「今度は、ハルトを死なせてって言ったな」
「言った」
「どういう意味だ」
「そのままの意味」
「ふざけるな」
「ふざけてない」
「じゃあ説明しろ」
「ハルトは今日、死ななきゃいけない」
教室の温度が一段下がった気がした。
ハルトが乾いた笑いを漏らす。
「俺、本人なんだけど。本人の前でその言い方する?」
「ごめん」
「いや、ごめんで済む話じゃねえだろ」
ハルトはまだ笑おうとしていた。けれど口元がひきつっている。
俺はレナの机に手をついた。
「死ななきゃいけないって何だよ。誰が決めた」
「この世界」
「世界が人の名前を黒板に書くのか」
「そう」
「馬鹿にしてるのか」
「ユウ」
レナは俺の名前を呼んだ。
それだけで、俺の中の怒りが少し揺らぐ。
その揺らぎが腹立たしかった。
「今日は、ハルトを守ろうとしないで」
「するに決まってるだろ」
「守れない」
「昨日、俺を殺したお前が言うのか」
「だから言ってる」
「どういう意味だ」
「ユウは、死なないと戻れない」
灰原が立ち上がった。
「待て。その言い方だと、神代の死がこの現象のトリガーになっているように聞こえる」
「完全には違う。でも、近い」
「じゃあ、今回は霧島が死んだら戻るのか」
レナは首を振った。
「戻らない」
「なぜ」
「ユウじゃないから」
頭の中に、昨日の放送が蘇った。
本日の死亡者、神代ユウ。死亡時刻、二十三時五十九分。執行は、予定通り行われます。
執行。
それは死の予定を成立させるための言葉だった。
「じゃあ、今日はどうなる」
俺は訊いた。
「ハルトが死ぬ。夜が来る。朝になる」
「誰の朝だ」
「みんなの朝」
「俺は覚えてるのか」
「たぶん」
「お前も?」
「うん」
「ハルトは?」
レナは答えなかった。
答えないことで、答えになっていた。
ハルトは自分を指差した。
「ちょっと待て。俺、死んで、次の朝には普通に生きてるけど、何も覚えてないってこと?」
「そう」
「それ、生きてるって言うのか?」
誰も答えられなかった。
ハルトは笑った。
「いや、笑えねえな」
その笑いは本当に笑えていなかった。
黒羽が手を叩いた。
「みんな、聞いて。今は混乱してる場合じゃない。神代くんと白瀬さんの話が本当かどうかは置いておく。少なくとも、黒板の名前が霧島くんなのは事実。外が普通じゃないのも事実。なら、私たちがやることは一つ」
「ハルトを死なせない」
俺が言った。
黒羽はうなずいた。
「そのために、全員で動く」
「無駄だよ」
レナが静かに言った。
黒羽の目が鋭くなる。
「白瀬さん。あなたが何を知っているかは知らない。でも、最初から諦めるなら黙っていて」
「諦めてるわけじゃない」
「じゃあ何」
「諦めないために、死なせなきゃいけない」
黒羽は唇を噛んだ。
「あなたの言っていることは分からない」
「分からない方がいい」
「逃げないで」
「逃げてない」
「逃げてるわ」
黒羽の声が強くなった。
「説明しないで、結論だけ押しつけてる。神代くんに昨日何があったとしても、霧島くんはまだ生きてる。私たちの目の前にいる。だったら守る。それだけよ」
正しい。
黒羽は正しい。
そして昨日も、きっとそうだった。彼女は俺を守ろうとした。バリケードを作り、交代で見張り、二十三時五十九分まで俺を生かそうとした。結果は、失敗だった。
俺はレナに刺されて死んだ。
だが、だから何だ。
失敗したなら、別の方法を試せばいい。
何度でも。
その言葉が頭に浮かんだ瞬間、胸の奥が鋭く痛んだ。
何度でも。
それを自分が以前にも言ったような気がした。
午前中、俺たちは再び校内を調べた。
昨日と同じことを繰り返している。それだけで吐き気がした。職員室には誰もいない。固定電話は無音。放送室の機材は電源が入らない。校庭の先は白い霧。相馬が霧に近づこうとした瞬間、俺は叫んで止めた。
「行くな!」
相馬が苛立った顔で振り返る。
「何だよ」
「腕が消える」
「は?」
「右腕が消える。昨日、お前は霧の中に手を入れて、肘から先を失った」
相馬は俺を睨んだ。
「縁起でもねえこと言うな」
「本当だ」
「証拠は?」
俺は言葉に詰まった。
証拠などない。
昨日の相馬の腕は、今日ここにある。俺の胸の傷もない。レナのナイフも見当たらない。残っているのは記憶だけだ。記憶ほど、他人に見せにくい証拠はない。
「確認してみるか?」
相馬が霧へ向かって一歩踏み出す。
黒羽が彼の腕を掴んだ。
「やめて」
「黒羽まで何だよ」
「危険を冒す必要はない」
「神代の妄想かもしれねえだろ」
「妄想でもいい。何も分からない状況で無駄な危険は避ける」
相馬は舌打ちしたが、引いた。
俺は胸を撫で下ろした。
少なくとも、相馬の腕は守れた。
だが、それで何かが変わったという実感はなかった。
霧は昨日と同じように校庭を包んでいる。小石を投げても音はしない。校門は見えない。レナは少し離れた場所で、その霧を見ていた。彼女はもう何度もこの景色を見ているのだろう。表情に驚きはない。ただ、疲れているように見えた。
俺は彼女に近づいた。
「おい」
レナは振り向かない。
「今日、ハルトはどうやって死ぬ」
「知らない」
「嘘つけ」
「本当に知らない」
「昨日の俺は、お前に殺された」
「うん」
「じゃあ今日は」
「私は殺さない」
「じゃあ誰が殺す」
「誰でもないかもしれない」
「どういう意味だ」
レナは霧を見たまま言った。
「この世界は、死を成立させる。手段は選ばない。人が殺すこともある。事故になることもある。自分で死ぬこともある。病気みたいになることもある。建物が変わることもある。何もしなくても、死ぬ」
「そんなの、防ぎようがないだろ」
「だから言ってる」
「死なせろって?」
「うん」
俺は彼女の肩を掴んで、無理やりこちらを向かせた。
レナの体は軽かった。
「お前、本気で言ってるのか。ハルトは生きてるんだぞ。お前の前で笑ってる。俺の友達なんだ」
「知ってる」
「知ってるなら」
「知ってるから言ってる」
レナの声がわずかに震えた。
「ユウは、まだ一回しか覚えてない。だからそう言える」
「一回しか?」
「うん」
「お前は何回覚えてる」
レナは黙った。
霧が動かない。
風だけが俺たちの制服を揺らしている。
「答えろ」
「数えるのをやめた」
その言葉に、俺は息を呑んだ。
「何を」
「ユウが私を嫌いになった回数」
俺は手を離した。
レナの肩に、俺の指の跡が少し残っていた。
「私に優しくしないで」
レナは言った。
「今はまだ、怒っていて」
「何で」
「その方が、楽だから」
「誰が」
「私が」
俺はそれ以上、何も言えなかった。
昼前、校内放送が鳴った。
昨日と同じノイズ。
ざ、ざざ、という不快な音の後、機械的な声が流れる。
『死亡予定時刻まで、あと十二時間』
教室にいた全員が天井を見上げた。
『本日の死亡者、霧島ハルト。死亡時刻、二十三時五十九分。執行は、予定通り行われます』
放送が切れた。
沈黙。
ハルトが両手を上げた。
「はいはい、俺ね。分かったよ。人気者はつらいな」
「霧島くん」
リンが泣きそうな声を出す。
「冗談言ってる場合じゃないよ」
「泣くなって。俺まだ死んでないし」
「まだって言わないで」
「悪い」
ハルトは頭を掻いた。
明るく振る舞おうとしているのが分かった。
それが余計につらかった。
黒羽は教壇に立ち、作戦を説明した。
「霧島くんを保健室に移す」
「保健室?」
ハルトが聞き返す。
「窓が少なく、出入口が一つ。ベッドもある。救急道具もある。食料と水を運び込めば、夜まで管理しやすい」
灰原がうなずく。
「教室よりはましだな。扉に机を積めば侵入も防げる。窓にはカーテンと机で内側から障害物を作る。床や天井の異常はどうにもならないが、少なくとも人為的な接触は減らせる」
「俺、隔離されるの?」
ハルトが苦笑する。
「守るためよ」
黒羽が言った。
「全員で交代して見張る。白瀬さん」
レナが顔を上げる。
「あなたは、霧島くんに近づかないで」
「分かった」
あまりにも素直な返事だった。
黒羽はかえって警戒したように目を細めた。
「本当に分かってる?」
「うん」
「勝手な行動をしたら、全員で拘束する」
「それでもいい」
その返事に、教室の空気が再び重くなった。
ハルトが俺に小声で言った。
「白瀬さん、何であんなに達観してんの」
「知らない」
「お前、あの人に刺されたんだろ」
「ああ」
「なのに、何でそんな顔して見てんだよ」
「どんな顔だ」
「助けたい顔」
俺は言い返せなかった。
保健室は一階の東側にあった。
ベッドが四つ。薬品棚。流し台。小さな冷蔵庫。窓は二つあるが、内側から机と棚で塞ぐことができた。扉の外には廊下が伸びている。見張りを置けば、誰かが近づいたときすぐ分かる。
俺たちはそこにハルトを入れた。
「なあ、これ、俺が患者みたいじゃない?」
「患者より厳重だ」
灰原が答える。
「窓は開けるな。水はここに置く。食べ物はこれ。トイレは隣だから、その時は必ず二人以上で付き添う」
「小学生かよ」
「死にたくないなら従え」
「急に辛辣」
「俺はお前に死なれると観察対象が減って困る」
「友達として心配しろよ」
ハルトは笑った。
灰原も、ほんの少しだけ口元を緩めた。
そのやり取りを見て、俺は妙に苦しくなった。
この場にいる全員が、ハルトを守ろうとしている。
それなのに、レナだけが最初から結果を知っているような顔をしていた。
ハルトはベッドに腰掛け、俺を見た。
「ユウ」
「何だ」
「もし俺が死んだら、次の朝、俺は覚えてないんだよな」
「たぶん」
「でも、お前は覚えてる」
「ああ」
「じゃあ、俺がめちゃくちゃ情けない死に方しても、黙っててくれ」
「死なせない」
「もしもの話」
「もしもでも言うな」
ハルトは少しだけ真面目な顔になった。
「お前、本当に死んだんだな」
「何で分かる」
「顔が違う。昨日までのお前は、もっとぼんやりしてた。今日は、何かを置いてきた顔してる」
「胸にナイフ置いてきた」
「笑えねえ」
「俺もそう思う」
ハルトは膝に肘をつき、指を組んだ。
「俺さ、正直まだ信じきれてない。黒板も霧もやばいのは分かる。でも、自分が今日死ぬって実感はない」
「実感なんかしなくていい」
「でも、怖くないわけじゃない」
ハルトは笑わなかった。
「変だよな。今まで、異能訓練で何度も危ないことはあった。怪我もした。でも、死亡時刻を指定されると、急に全部が怖い。時計の針が動くだけで、体の中が削られる感じがする」
「見るな」
「見なくても音がする」
保健室の壁時計が、かち、かち、と音を立てていた。
俺は椅子を持ち上げ、壁時計に向かった。
「おい、何してんの」
「うるさいから止める」
「そういう力技、嫌いじゃない」
俺は壁時計を外し、電池を抜いた。
音が消えた。
それだけで、少しだけ部屋がましになった気がした。
十五時を過ぎる頃には、見張りの体制が固まっていた。
保健室の中には俺とハルトとリン。廊下側には黒羽、灰原、相馬。他の生徒たちは食料や水の確保、校内の再確認に回った。レナは教室に残され、黒羽の指示で別の女子生徒が見張っている。
レナを閉じ込めるべきだと相馬は主張した。
黒羽は少し迷ったが、最終的にはそこまでしなかった。理由は簡単だ。レナを拘束することで、世界がどう反応するか分からない。彼女が本当に何かを知っているなら、完全に敵に回すのは危険だった。
俺はそれを聞いて、安堵している自分に気づいた。
刺された相手に対して安堵する。
自分のことながら、理解できなかった。
「神代くん」
リンが小声で呼んだ。
「白瀬さんのこと、信じてるの?」
「信じてない」
「でも、気にしてる」
「それは、あいつが何か知ってるからだ」
「それだけ?」
俺は黙った。
リンは包帯を畳みながら、視線を落とす。
「私、怖いよ。霧島くんが死ぬのも怖いけど、みんなが変わっていくのも怖い。今はまだ協力してる。でも、このまま何日も続いたら、きっと誰かが誰かを責める」
「続かせない」
「どうやって?」
「ハルトを死なせなければ、何か変わる」
言いながら、自分でも根拠が薄いと思った。
リンも、それに気づいていた。
「白瀬さんは、逆のことを言ってる」
「だから何だ」
「どっちを信じればいいのかな」
「俺を信じろ」
即答した。
リンは驚いたように目を上げ、それから少し笑った。
「そう言えるなら、まだ大丈夫だね」
大丈夫ではない。
けれど、俺がそう言わなければ、誰がハルトを生かそうとするのか。
夕方、最初の異変が起きた。
保健室の窓を塞いでいた机の一つが、突然倒れた。
大きな音がして、全員が身構える。
窓ガラスにひびが入っていた。
外から何かがぶつかったように見えた。だが、窓の外は霧に包まれている。校舎の外壁に面しているはずの場所が、白い闇になっていた。
「離れろ」
俺はハルトをベッドから引きずり下ろした。
次の瞬間、窓ガラスが内側へ弾けた。
破片がベッドの上に散る。
もしハルトが座ったままだったら、顔に刺さっていたかもしれない。
廊下から黒羽たちが飛び込んでくる。
「何があったの」
「窓が割れた」
灰原が破片を調べる。
「外からの衝撃に見える。でも、飛来物がない」
「見えないだけじゃないの」
リンが言う。
「違う。物体が衝突した痕跡がない。ガラスだけが割れるように、結果だけが発生している」
「結果だけ?」
「霧島を傷つける結果だけが、理由を後から作ってるみたいだ」
その言葉に、全員が黙った。
理由を後から作る。
レナの言っていたことと同じだった。
この世界は、死を成立させる。
手段は選ばない。
俺は歯を食いしばった。
「窓から離す。廊下側の準備室に移そう」
保健室には、薬品や備品をしまう小さな準備室があった。窓はない。扉は一つ。人一人が横になれるほどのスペースしかないが、外からの干渉は減らせる。
ハルトはその狭い部屋に入った。
「棺桶みたいだな」
「言うな」
「悪い」
ハルトは素直に謝った。
準備室の扉を開けたまま、俺は入口に座った。中にはハルト。外には俺。さらに廊下には黒羽たち。三重の見張りだ。
これで死ぬなら、もう物理法則を疑うしかない。
いや、すでに疑っている。
二十時。
放送が鳴った。
『死亡予定時刻まで、あと三時間五十九分』
ハルトは準備室の中で両膝を抱えていた。
「なあ、ユウ」
「何だ」
「俺が寝たら起こして」
「寝られるのか」
「寝られないけど、目を閉じたら変なこと考えそうで」
「じゃあ話してろ」
「話題ある?」
「お前の黒歴史」
「死ぬ前に掘り返すな」
「死なないんだろ」
「そうだった」
ハルトは笑った。
その笑いが、さっきより弱くなっている。
二十一時。
『死亡予定時刻まで、あと二時間五十九分』
準備室の蛍光灯が点滅し始めた。
灰原がブレーカーを確認したが異常はなかった。電球を替えようとしたが、脚立に上がった瞬間、床がわずかに沈むような感覚があり、作業を中止した。
俺たちは照明を諦め、懐中電灯を使った。
二十二時。
『死亡予定時刻まで、あと一時間五十九分』
ハルトの呼吸が荒くなってきた。
「大丈夫か」
「大丈夫じゃねえけど、大丈夫って言う場面だろ」
「無理するな」
「じゃあ無理」
ハルトは苦笑した。
「俺、何で死ぬんだろうな」
「死なない」
「分かってる。でも考える」
「考えるな」
「無理だろ。死亡時刻までカウントダウンされてるんだぞ」
俺は何も言えなかった。
ハルトは天井を見た。
「首吊りとか嫌だな」
その言葉に、俺は反射的に顔を上げた。
「何でそれを言った」
「え?」
「何で首吊りって言った」
「いや、何となく。密室で死ぬなら、その辺かなって」
胸の奥がざわめいた。
俺は知らないはずだった。
まだ、ハルトがどう死ぬのかは知らない。プロットのようなものは、俺の頭の中にない。だが、首吊りという言葉を聞いた瞬間、ひどく嫌な確信が生まれた。
「準備室の中に紐になるものはあるか」
俺は扉を開け、懐中電灯を向けた。
「何だよ急に」
「答えろ」
「ないと思うけど」
俺は中を確認した。
棚。薬品箱。古いカーテン。包帯。延長コード。掃除用のロープ。細長いものは意外に多い。
「全部出す」
「え、今?」
「今すぐ」
俺たちは準備室から、紐状のものをすべて出した。包帯、コード、ロープ、カーテン。棚の中身まで廊下に広げ、ハルトの手が届く場所には何も残さなかった。
黒羽が息を切らしながら言った。
「これで少しは安全なはず」
「少しじゃ困る」
相馬が苛立ったように壁を殴る。
「何なんだよ、これ。俺たち、何と戦ってんだよ」
「分からない」
灰原が言う。
「だが、分からない相手ほど、観察するしかない」
「観察してる間に死んだらどうすんだ」
「だから死なせない」
「簡単に言うな!」
相馬の声が廊下に響いた。
彼は自分の両手を見つめていた。昨日の記憶はない。それでも、霧に近づいたとき俺が止めたことが引っかかっているのだろう。自分にも何かが起きる可能性を、体のどこかで感じ始めている。
二十三時。
『死亡予定時刻まで、あと五十九分』
時間が形を持ち始めた。
五十九分。
長いようで短い。
一秒ごとに、死が近づいてくる。
俺は準備室の入口に座り込み、ハルトを見ていた。彼は床に座り、壁にもたれている。手足は自由だが、周囲には何もない。自殺の道具になるものは取り除いた。扉は開いている。俺の視界から外れる場所はない。
これで首吊りなどできるはずがない。
二十三時三十分。
ハルトが言った。
「水、飲みたい」
俺はペットボトルの蓋を開け、渡した。
「変なもの入ってないよな」
「俺が飲む」
俺は先に一口飲んだ。
異常はない。
ハルトは受け取り、少しだけ飲んだ。
「ありがと」
「礼は明日の朝に言え」
「覚えてないんだろ」
「じゃあ今言うな」
「理不尽」
二十三時四十分。
準備室の壁に、薄い染みが現れた。
最初は湿気かと思った。だがそれは、ゆっくり形を変えていく。黒い線が縦に伸び、横に広がる。まるで文字のようだった。
灰原が懐中電灯を向けた。
「何だ」
黒い線は、やがてはっきりした文字になった。
霧島ハルト。
死亡時刻 23:59。
準備室の壁に、黒板と同じ文字が浮かんでいた。
「やめろよ」
ハルトが呟いた。
「そこまで追ってくるなよ」
俺は壁をこすった。
消えない。
爪を立てても、布で拭いても、文字は壁の内側から浮かび上がっているようだった。
二十三時五十分。
保健室の外で、誰かの足音がした。
廊下の見張りが身構える。
「誰」
黒羽が声を出す。
返事はない。
足音はゆっくり近づいてくる。
こつ。
こつ。
こつ。
俺は準備室の入口から離れられなかった。ハルトから目を離すのが怖い。
灰原が廊下を覗いた。
「誰もいない」
「音は?」
「続いてる」
足音は保健室の前まで来た。
そこで止まった。
扉のすぐ向こうに、見えない誰かが立っている。
そんな錯覚があった。
次の瞬間、保健室の扉が閉まった。
廊下と部屋を隔てる扉ではない。
俺の目の前、準備室の扉が、内側から勢いよく閉まった。
「ハルト!」
俺は扉に飛びついた。
開かない。
さっきまで何の問題もなかった扉が、壁と一体化したように動かない。
「ハルト、返事しろ!」
中から声がする。
「ユウ! 開けろ!」
「待ってろ!」
黒羽と相馬が加わり、扉を引く。動かない。灰原が蝶番を確認するが、金属部分が消えていた。扉は扉ではなく、壁の一部になっていた。
「ふざけんな!」
相馬が蹴る。
びくともしない。
中でハルトが扉を叩いている。
どん、どん、という音。
その音が、徐々に弱くなる。
「ハルト!」
「ユウ」
扉の向こうから、ハルトの声が聞こえた。
不思議なくらい近かった。
「俺、何もしてない」
「分かってる」
「本当だ。俺、何も」
「分かってるから、黙るな。喋ってろ」
「息が」
ハルトの声が途切れる。
「息が、変だ」
「ハルト!」
「首……」
背筋が凍った。
「何もないはずだろ」
俺は叫んだ。
「紐は全部出した。何もないはずだろ!」
灰原が顔を青くした。
「結果だけが発生している」
「黙れ!」
俺は扉を殴った。
拳が痛む。皮が裂ける。血が滲む。それでも扉は壊れない。
黒羽が叫ぶ。
「離れて! 私が壊す!」
彼女が身体強化を使い、全力で扉に体当たりした。
鈍い音。
扉にひびが入った。
「もう一回!」
相馬も加わる。
二人が何度も扉にぶつかる。灰原が消火器を持ってきて、取っ手のあった部分に叩きつける。俺も殴る。リンが泣きながらハルトの名前を呼ぶ。
中からの音は、もう聞こえなかった。
二十三時五十八分。
扉に大きな亀裂が入った。
黒羽が最後の一撃を加える。
扉が内側へ倒れた。
準備室の中に、ハルトがいた。
彼は宙に浮いていた。
首に紐はない。
天井から吊るされているわけでもない。
ただ、見えない何かに首を絞められているように、体が床から少し浮き、両手が喉元を掻いていた。
俺は飛び込んだ。
ハルトの体を抱え、床へ引きずり下ろそうとする。
重い。
異様に重い。
人間一人の重さではない。世界そのものが、彼を上へ引っ張っているようだった。
「ハルト!」
彼の目が俺を見る。
血走っている。
唇が紫色になっている。
それでも、彼は何かを言おうとしていた。
俺は耳を近づけた。
「……わら、え」
「何?」
「笑え、ねえな」
それが最後だった。
時計の針が二十三時五十九分を指した。
ハルトの体から、力が抜けた。
同時に、見えない力も消えた。
彼の体が俺の腕の中に落ちる。
重かった。
今度は、人間の重さだった。
「リン!」
俺は叫んだ。
リンが駆け寄り、ハルトの首に手を当てる。治癒の光が彼女の掌から滲む。淡い緑色の光がハルトの喉元を包む。
「お願い、戻って」
リンが泣きながら言う。
「戻って、戻ってよ」
だが、ハルトは動かなかった。
呼吸はない。
脈もない。
灰原が膝をつき、呆然と呟いた。
「道具なしの縊死……いや、縊死という結果だけが成立した」
「黙れって言っただろ」
俺は言った。
自分の声ではないようだった。
ハルトの顔は、最後に少し笑っているように見えた。
笑えねえな。
そう言って死んだ。
馬鹿だ。
こんな時まで、冗談みたいなことを言いやがって。
俺はハルトの肩を揺さぶった。
「起きろ」
返事はない。
「おい、ハルト」
返事はない。
「朝になったら忘れるんだろ。だったら今くらい起きろよ」
返事はなかった。
廊下の向こうで、誰かが立っている気配がした。
俺は顔を上げた。
白瀬レナが、保健室の入口に立っていた。
誰も彼女を呼んでいない。
見張りをどう抜けたのかも分からない。
彼女はハルトの死体を見て、目を伏せた。
「だから言ったのに」
その言葉が、俺の中の何かを切った。
俺は立ち上がり、レナに詰め寄った。
黒羽が止めようとしたが、間に合わなかった。
俺はレナの胸倉を掴み、壁に押しつけた。
「お前がやったのか」
「違う」
「じゃあ何でここにいる」
「終わったから」
「終わった?」
俺は手に力を込めた。
「ハルトが死んだんだぞ」
「知ってる」
「知ってるじゃねえよ」
「知ってるの」
レナの声が初めて強くなった。
「何度も、何度も、何度も、知ってるの。ハルトが死ぬところも、ユウが泣くところも、黒羽さんが自分を責めるところも、リンさんが治せなくて壊れそうになるところも、全部」
俺の手が止まった。
レナは逃げなかった。
俺に掴まれたまま、まっすぐこちらを見る。
「ユウはまだ、二回目の朝を覚えただけ。だから怒れる。だから救えると思える。だから私を責められる」
「何が悪い」
「悪くない」
「じゃあ」
「でも、続ければ分かる」
レナの目に、涙はなかった。
涙すら枯れた人間の目だった。
「誰も救えない朝がある。何をしても同じ場所に戻る夜がある。誰か一人を生かすために、他の誰かがもっと酷く死ぬ日がある。それでもユウは、諦めない。諦めないから、壊れる」
「俺が壊れるから、ハルトを死なせろっていうのか」
「違う」
「じゃあ何だ」
「全部を終わらせるため」
「ハルトの死が?」
「順番が必要なの」
「順番?」
レナは唇を閉じた。
言ってはいけないことを言いかけたようだった。
俺はさらに問い詰めようとした。
そのとき、保健室のスピーカーから放送が流れた。
『本日の死亡は、予定通り執行されました』
全員が凍りつく。
『次回死亡者は、朝に掲示されます』
ざ、というノイズ。
放送は切れた。
次回。
その言葉が、俺たちの上に落ちた。
これで終わりではない。
明日もある。
明日の朝、また黒板に名前が出る。
誰かが死ぬ。
そしてたぶん、ハルトは何も覚えていない。
俺だけが、彼の死に顔を覚えている。
俺だけが、彼の最後の冗談を覚えている。
俺はレナから手を離した。
彼女は少し咳き込み、乱れた襟を直す。
「言え」
俺は言った。
「何を?」
「次に誰が死ぬ」
「まだ分からない」
「嘘だ」
「本当に分からない。この朝ごとに、少しずつ変わる」
「じゃあ、何なら分かる」
レナはハルトの死体を見た。
そして、俺を見た。
「ユウは、また私を嫌いになる」
「もう嫌いだ」
「うん」
レナはわずかに目を伏せた。
「それでいい」
俺は彼女を殴りそうになった。
だが、殴らなかった。
殴れば、何かが終わってしまう気がした。いや、終わらないからこそ怖かったのかもしれない。何をしても明日が来る。死んだ人間も戻る。傷も消える。罪だけが記憶の中に残る。
そんな世界で、人を傷つけることに意味はあるのか。
意味がないからこそ、取り返しがつかないのではないか。
ハルトの体は、保健室のベッドに寝かされた。
リンは何度も治癒を試みた。だが、何も変わらなかった。黒羽は壁際に立ち、自分の拳を見つめていた。扉をもっと早く壊せていれば。準備室に入れるべきではなかった。見張り方を間違えた。彼女の顔には、そう書かれていた。
灰原は記録を取っていた。
手が震えていた。
相馬は廊下で壁を蹴っていた。
俺は、ハルトの横に座っていた。
死んだ人間の顔は、眠っているようだとよく言う。
嘘だと思った。
眠っている人間には、戻ってくる気配がある。呼べば目を開けるかもしれないという可能性がある。死んだ人間には、それがない。そこに体があっても、どこにもつながっていない。切断された電話線のように、呼びかけだけが虚しく残る。
「ハルト」
俺は小さく呼んだ。
もちろん返事はない。
白瀬レナは保健室の入口に立っていた。
俺は彼女を見ないようにした。
見れば、また怒りが湧く。怒りだけならいい。問題は、その奥に別の感情が混ざっていることだった。
彼女を責めたい。
彼女に説明させたい。
彼女を憎みたい。
それなのに、彼女が一人で立っている姿を見ると、胸の奥がひどく痛んだ。
まるで、俺は以前にも彼女を一人にしたことがある。
そう感じた。
夜は続いた。
誰も眠らなかった。
ハルトの死亡時刻を過ぎても、朝はすぐには来なかった。時計は進んだ。零時。一時。二時。死者の横で時間だけが律儀に流れる。
俺は、夜明けが怖かった。
ハルトが死んだまま朝を迎えるのか。
それとも、すべてが戻るのか。
どちらが恐ろしいのか、自分でも分からなかった。
白み始めた窓の外は、相変わらず霧に覆われていた。
俺はいつの間にか、椅子に座ったまま意識を失っていたらしい。
目を覚ますと、額が机に触れていた。
頬に木目の跡がついている。
教室だった。
朝の光が床に落ちている。
俺は跳ね起きた。
胸を押さえる。
傷はない。
腕を見る。
血もついていない。
保健室ではない。準備室でもない。俺は自分の席に座っている。周囲には十二人のクラスメイト。
「おい、ユウ。どうした」
隣から声がした。
ハルトだった。
生きていた。
彼は昨日と同じ顔で、俺を見ていた。首に痕はない。唇も紫ではない。いつもの軽い笑みを浮かべている。
「お前、顔やべえぞ」
俺は彼の肩を掴んだ。
「痛えって」
ハルトが顔をしかめる。
「お前」
「何」
「覚えてないのか」
「何を」
俺は手を離した。
覚えていない。
分かっていたことなのに、その事実が胸に沈んだ。
ハルトは生きている。
だが、昨日のハルトは死んだ。
俺の中だけで。
「黒板」
誰かが言った。
教室の視線が前へ向く。
俺も黒板を見た。
そこには、また白い文字が書かれていた。
本日の死亡者 七瀬ミオ
死亡時刻 23:59
教室がざわめいた。
七瀬ミオが、自分の名前を見つめていた。
彼女の顔から、血の気が引いていく。
その小さな唇が、かすかに動いた。
「階段」
俺は彼女を見た。
ミオの目は、まだ起きていない未来を見ていた。
「私、落ちる」
教室の一番後ろで、白瀬レナが俺を見ていた。
俺は彼女を睨んだ。
レナは何も言わなかった。
ただ、ほんの少しだけ、悲しそうに目を伏せた。




