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13回目の朝、彼女は俺を殺す  作者: アコンプリスの人


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第二章 二人目の死亡者

 霧島ハルトが死ぬ。

 黒板には、そう書かれていた。

 本日の死亡者 霧島ハルト。

 死亡時刻 23:59。

 白いチョークの文字は、昨日と同じだった。少なくとも、俺の記憶の中では同じだった。均一な線。消せそうで消せない、黒板の奥に刻まれたような筆跡。悪意よりも、決定事項に近い冷たさがあった。

 違うのは、そこに書かれている名前だけだった。

 昨日は、神代ユウ。

 今日は、霧島ハルト。

 その事実を理解した瞬間、俺の体は勝手に動いていた。

「ハルト、こっち来い」

「は?」

「いいから来い」

 俺は隣の席にいたハルトの腕を掴んだ。

 力を入れすぎたらしい。ハルトは顔をしかめた。

「痛えって。何だよ急に」

「いいから」

「死亡予定者様が荒れてるぞ」

 ハルトは笑った。

 その笑い方も、昨日と同じだった。

 昨日。

 そうだ。俺は昨日、死んだ。

 いや、昨日という言い方が正しいのかは分からない。あれは昨日だったのか。それとも、同じ朝がまた始まっただけなのか。けれど俺の胸には、ナイフが刺さった感触が残っていた。白瀬レナの細い腕。耳元の声。これで、また会える。最後に崩れていく教室。

 すべてが夢ならよかった。

 夢なら、こんなに胸の奥が冷たくなるはずがなかった。

「ユウ?」

 ハルトが俺の顔を覗き込む。

「お前、マジで顔色悪いぞ」

「俺は死んだ」

「は?」

「昨日、俺は死んだ。お前たちの目の前で、白瀬に刺された」

 教室の空気が止まった。

 俺の声は思ったより大きかった。全員がこちらを見ている。黒羽アオイが眉をひそめ、朝倉リンが口元を押さえ、灰原シュウが眼鏡の奥の目を細める。相馬ケイはまだ両腕がある自分の体を見下ろし、意味が分からないという顔をしていた。

 当たり前だ。

 相馬の腕は昨日、霧に消された。だが今の彼には両腕がある。本人は何も知らない。俺だけが、あの光景を覚えている。

「神代くん」

 黒羽が慎重な声で言った。

「落ち着いて。まず、何があったのか順番に話して」

「順番に話してる時間はない」

「時間はある。死亡時刻は二十三時五十九分って書かれてる。今は朝よ」

「そういう問題じゃない」

「じゃあ、どういう問題?」

「これは一回目じゃない」

 言った瞬間、自分でもぞっとした。

 一回目ではない。

 その言葉だけが、やけにはっきり腑に落ちた。

 俺が覚えているのは、たぶん一回分だけだ。昨日、自分が死んだ記憶だけ。それなのに、体の奥にはもっと古い疲労が沈んでいる。何度も同じ場所に立たされた人間のような、説明できない倦怠感。

 視線が教室の後ろへ向かう。

 白瀬レナは、そこに座っていた。

 彼女だけが、俺の言葉に驚いていなかった。

 それだけで十分だった。

「白瀬」

 俺は彼女の席へ歩いた。

 何人かが道を開ける。無意識だったのだろう。昨日、俺が死亡予定者として囲まれていた時とは違う。今は、俺の方が危険物を見るような目を向けられていた。

 レナは逃げなかった。

 机の上に両手を置いたまま、静かに俺を見上げる。

「お前は覚えてるんだな」

「うん」

 短い返事だった。

 教室に低いざわめきが広がる。

「覚えてるって、何を」

 黒羽が訊いた。

「昨日のこと」

 レナは答えた。

「昨日って何よ」

「ユウが死んだ日」

 リンが息を呑んだ。

 ハルトは笑いかけて、途中でやめた。

 灰原だけが、少し身を乗り出した。

「仮に神代の話が本当だとして、時間が巻き戻ったということか」

「正確には違う」

 レナが言った。

「違う?」

「戻っているのは時間だけじゃない。教室も、校舎も、みんなの体も、記憶も。全部、朝の状態に再配置されている」

「何だそれ」

 ハルトが言った。

「ゲームかよ」

「ゲームならよかった」

 レナはそう言って、ハルトを見た。

 その視線に、俺は胸騒ぎを覚えた。

 レナは昨日、俺を見るとき、同じ目をしていた。憐れむような、諦めるような、もう何度も失敗した相手を見る目だった。

「レナ」

 俺は低く言った。

「今度は、ハルトを死なせてって言ったな」

「言った」

「どういう意味だ」

「そのままの意味」

「ふざけるな」

「ふざけてない」

「じゃあ説明しろ」

「ハルトは今日、死ななきゃいけない」

 教室の温度が一段下がった気がした。

 ハルトが乾いた笑いを漏らす。

「俺、本人なんだけど。本人の前でその言い方する?」

「ごめん」

「いや、ごめんで済む話じゃねえだろ」

 ハルトはまだ笑おうとしていた。けれど口元がひきつっている。

 俺はレナの机に手をついた。

「死ななきゃいけないって何だよ。誰が決めた」

「この世界」

「世界が人の名前を黒板に書くのか」

「そう」

「馬鹿にしてるのか」

「ユウ」

 レナは俺の名前を呼んだ。

 それだけで、俺の中の怒りが少し揺らぐ。

 その揺らぎが腹立たしかった。

「今日は、ハルトを守ろうとしないで」

「するに決まってるだろ」

「守れない」

「昨日、俺を殺したお前が言うのか」

「だから言ってる」

「どういう意味だ」

「ユウは、死なないと戻れない」

 灰原が立ち上がった。

「待て。その言い方だと、神代の死がこの現象のトリガーになっているように聞こえる」

「完全には違う。でも、近い」

「じゃあ、今回は霧島が死んだら戻るのか」

 レナは首を振った。

「戻らない」

「なぜ」

「ユウじゃないから」

 頭の中に、昨日の放送が蘇った。

 本日の死亡者、神代ユウ。死亡時刻、二十三時五十九分。執行は、予定通り行われます。

 執行。

 それは死の予定を成立させるための言葉だった。

「じゃあ、今日はどうなる」

 俺は訊いた。

「ハルトが死ぬ。夜が来る。朝になる」

「誰の朝だ」

「みんなの朝」

「俺は覚えてるのか」

「たぶん」

「お前も?」

「うん」

「ハルトは?」

 レナは答えなかった。

 答えないことで、答えになっていた。

 ハルトは自分を指差した。

「ちょっと待て。俺、死んで、次の朝には普通に生きてるけど、何も覚えてないってこと?」

「そう」

「それ、生きてるって言うのか?」

 誰も答えられなかった。

 ハルトは笑った。

「いや、笑えねえな」

 その笑いは本当に笑えていなかった。

 黒羽が手を叩いた。

「みんな、聞いて。今は混乱してる場合じゃない。神代くんと白瀬さんの話が本当かどうかは置いておく。少なくとも、黒板の名前が霧島くんなのは事実。外が普通じゃないのも事実。なら、私たちがやることは一つ」

「ハルトを死なせない」

 俺が言った。

 黒羽はうなずいた。

「そのために、全員で動く」

「無駄だよ」

 レナが静かに言った。

 黒羽の目が鋭くなる。

「白瀬さん。あなたが何を知っているかは知らない。でも、最初から諦めるなら黙っていて」

「諦めてるわけじゃない」

「じゃあ何」

「諦めないために、死なせなきゃいけない」

 黒羽は唇を噛んだ。

「あなたの言っていることは分からない」

「分からない方がいい」

「逃げないで」

「逃げてない」

「逃げてるわ」

 黒羽の声が強くなった。

「説明しないで、結論だけ押しつけてる。神代くんに昨日何があったとしても、霧島くんはまだ生きてる。私たちの目の前にいる。だったら守る。それだけよ」

 正しい。

 黒羽は正しい。

 そして昨日も、きっとそうだった。彼女は俺を守ろうとした。バリケードを作り、交代で見張り、二十三時五十九分まで俺を生かそうとした。結果は、失敗だった。

 俺はレナに刺されて死んだ。

 だが、だから何だ。

 失敗したなら、別の方法を試せばいい。

 何度でも。

 その言葉が頭に浮かんだ瞬間、胸の奥が鋭く痛んだ。

 何度でも。

 それを自分が以前にも言ったような気がした。

 午前中、俺たちは再び校内を調べた。

 昨日と同じことを繰り返している。それだけで吐き気がした。職員室には誰もいない。固定電話は無音。放送室の機材は電源が入らない。校庭の先は白い霧。相馬が霧に近づこうとした瞬間、俺は叫んで止めた。

「行くな!」

 相馬が苛立った顔で振り返る。

「何だよ」

「腕が消える」

「は?」

「右腕が消える。昨日、お前は霧の中に手を入れて、肘から先を失った」

 相馬は俺を睨んだ。

「縁起でもねえこと言うな」

「本当だ」

「証拠は?」

 俺は言葉に詰まった。

 証拠などない。

 昨日の相馬の腕は、今日ここにある。俺の胸の傷もない。レナのナイフも見当たらない。残っているのは記憶だけだ。記憶ほど、他人に見せにくい証拠はない。

「確認してみるか?」

 相馬が霧へ向かって一歩踏み出す。

 黒羽が彼の腕を掴んだ。

「やめて」

「黒羽まで何だよ」

「危険を冒す必要はない」

「神代の妄想かもしれねえだろ」

「妄想でもいい。何も分からない状況で無駄な危険は避ける」

 相馬は舌打ちしたが、引いた。

 俺は胸を撫で下ろした。

 少なくとも、相馬の腕は守れた。

 だが、それで何かが変わったという実感はなかった。

 霧は昨日と同じように校庭を包んでいる。小石を投げても音はしない。校門は見えない。レナは少し離れた場所で、その霧を見ていた。彼女はもう何度もこの景色を見ているのだろう。表情に驚きはない。ただ、疲れているように見えた。

 俺は彼女に近づいた。

「おい」

 レナは振り向かない。

「今日、ハルトはどうやって死ぬ」

「知らない」

「嘘つけ」

「本当に知らない」

「昨日の俺は、お前に殺された」

「うん」

「じゃあ今日は」

「私は殺さない」

「じゃあ誰が殺す」

「誰でもないかもしれない」

「どういう意味だ」

 レナは霧を見たまま言った。

「この世界は、死を成立させる。手段は選ばない。人が殺すこともある。事故になることもある。自分で死ぬこともある。病気みたいになることもある。建物が変わることもある。何もしなくても、死ぬ」

「そんなの、防ぎようがないだろ」

「だから言ってる」

「死なせろって?」

「うん」

 俺は彼女の肩を掴んで、無理やりこちらを向かせた。

 レナの体は軽かった。

「お前、本気で言ってるのか。ハルトは生きてるんだぞ。お前の前で笑ってる。俺の友達なんだ」

「知ってる」

「知ってるなら」

「知ってるから言ってる」

 レナの声がわずかに震えた。

「ユウは、まだ一回しか覚えてない。だからそう言える」

「一回しか?」

「うん」

「お前は何回覚えてる」

 レナは黙った。

 霧が動かない。

 風だけが俺たちの制服を揺らしている。

「答えろ」

「数えるのをやめた」

 その言葉に、俺は息を呑んだ。

「何を」

「ユウが私を嫌いになった回数」

 俺は手を離した。

 レナの肩に、俺の指の跡が少し残っていた。

「私に優しくしないで」

 レナは言った。

「今はまだ、怒っていて」

「何で」

「その方が、楽だから」

「誰が」

「私が」

 俺はそれ以上、何も言えなかった。

 昼前、校内放送が鳴った。

 昨日と同じノイズ。

 ざ、ざざ、という不快な音の後、機械的な声が流れる。

『死亡予定時刻まで、あと十二時間』

 教室にいた全員が天井を見上げた。

『本日の死亡者、霧島ハルト。死亡時刻、二十三時五十九分。執行は、予定通り行われます』

 放送が切れた。

 沈黙。

 ハルトが両手を上げた。

「はいはい、俺ね。分かったよ。人気者はつらいな」

「霧島くん」

 リンが泣きそうな声を出す。

「冗談言ってる場合じゃないよ」

「泣くなって。俺まだ死んでないし」

「まだって言わないで」

「悪い」

 ハルトは頭を掻いた。

 明るく振る舞おうとしているのが分かった。

 それが余計につらかった。

 黒羽は教壇に立ち、作戦を説明した。

「霧島くんを保健室に移す」

「保健室?」

 ハルトが聞き返す。

「窓が少なく、出入口が一つ。ベッドもある。救急道具もある。食料と水を運び込めば、夜まで管理しやすい」

 灰原がうなずく。

「教室よりはましだな。扉に机を積めば侵入も防げる。窓にはカーテンと机で内側から障害物を作る。床や天井の異常はどうにもならないが、少なくとも人為的な接触は減らせる」

「俺、隔離されるの?」

 ハルトが苦笑する。

「守るためよ」

 黒羽が言った。

「全員で交代して見張る。白瀬さん」

 レナが顔を上げる。

「あなたは、霧島くんに近づかないで」

「分かった」

 あまりにも素直な返事だった。

 黒羽はかえって警戒したように目を細めた。

「本当に分かってる?」

「うん」

「勝手な行動をしたら、全員で拘束する」

「それでもいい」

 その返事に、教室の空気が再び重くなった。

 ハルトが俺に小声で言った。

「白瀬さん、何であんなに達観してんの」

「知らない」

「お前、あの人に刺されたんだろ」

「ああ」

「なのに、何でそんな顔して見てんだよ」

「どんな顔だ」

「助けたい顔」

 俺は言い返せなかった。

 保健室は一階の東側にあった。

 ベッドが四つ。薬品棚。流し台。小さな冷蔵庫。窓は二つあるが、内側から机と棚で塞ぐことができた。扉の外には廊下が伸びている。見張りを置けば、誰かが近づいたときすぐ分かる。

 俺たちはそこにハルトを入れた。

「なあ、これ、俺が患者みたいじゃない?」

「患者より厳重だ」

 灰原が答える。

「窓は開けるな。水はここに置く。食べ物はこれ。トイレは隣だから、その時は必ず二人以上で付き添う」

「小学生かよ」

「死にたくないなら従え」

「急に辛辣」

「俺はお前に死なれると観察対象が減って困る」

「友達として心配しろよ」

 ハルトは笑った。

 灰原も、ほんの少しだけ口元を緩めた。

 そのやり取りを見て、俺は妙に苦しくなった。

 この場にいる全員が、ハルトを守ろうとしている。

 それなのに、レナだけが最初から結果を知っているような顔をしていた。

 ハルトはベッドに腰掛け、俺を見た。

「ユウ」

「何だ」

「もし俺が死んだら、次の朝、俺は覚えてないんだよな」

「たぶん」

「でも、お前は覚えてる」

「ああ」

「じゃあ、俺がめちゃくちゃ情けない死に方しても、黙っててくれ」

「死なせない」

「もしもの話」

「もしもでも言うな」

 ハルトは少しだけ真面目な顔になった。

「お前、本当に死んだんだな」

「何で分かる」

「顔が違う。昨日までのお前は、もっとぼんやりしてた。今日は、何かを置いてきた顔してる」

「胸にナイフ置いてきた」

「笑えねえ」

「俺もそう思う」

 ハルトは膝に肘をつき、指を組んだ。

「俺さ、正直まだ信じきれてない。黒板も霧もやばいのは分かる。でも、自分が今日死ぬって実感はない」

「実感なんかしなくていい」

「でも、怖くないわけじゃない」

 ハルトは笑わなかった。

「変だよな。今まで、異能訓練で何度も危ないことはあった。怪我もした。でも、死亡時刻を指定されると、急に全部が怖い。時計の針が動くだけで、体の中が削られる感じがする」

「見るな」

「見なくても音がする」

 保健室の壁時計が、かち、かち、と音を立てていた。

 俺は椅子を持ち上げ、壁時計に向かった。

「おい、何してんの」

「うるさいから止める」

「そういう力技、嫌いじゃない」

 俺は壁時計を外し、電池を抜いた。

 音が消えた。

 それだけで、少しだけ部屋がましになった気がした。

 十五時を過ぎる頃には、見張りの体制が固まっていた。

 保健室の中には俺とハルトとリン。廊下側には黒羽、灰原、相馬。他の生徒たちは食料や水の確保、校内の再確認に回った。レナは教室に残され、黒羽の指示で別の女子生徒が見張っている。

 レナを閉じ込めるべきだと相馬は主張した。

 黒羽は少し迷ったが、最終的にはそこまでしなかった。理由は簡単だ。レナを拘束することで、世界がどう反応するか分からない。彼女が本当に何かを知っているなら、完全に敵に回すのは危険だった。

 俺はそれを聞いて、安堵している自分に気づいた。

 刺された相手に対して安堵する。

 自分のことながら、理解できなかった。

「神代くん」

 リンが小声で呼んだ。

「白瀬さんのこと、信じてるの?」

「信じてない」

「でも、気にしてる」

「それは、あいつが何か知ってるからだ」

「それだけ?」

 俺は黙った。

 リンは包帯を畳みながら、視線を落とす。

「私、怖いよ。霧島くんが死ぬのも怖いけど、みんなが変わっていくのも怖い。今はまだ協力してる。でも、このまま何日も続いたら、きっと誰かが誰かを責める」

「続かせない」

「どうやって?」

「ハルトを死なせなければ、何か変わる」

 言いながら、自分でも根拠が薄いと思った。

 リンも、それに気づいていた。

「白瀬さんは、逆のことを言ってる」

「だから何だ」

「どっちを信じればいいのかな」

「俺を信じろ」

 即答した。

 リンは驚いたように目を上げ、それから少し笑った。

「そう言えるなら、まだ大丈夫だね」

 大丈夫ではない。

 けれど、俺がそう言わなければ、誰がハルトを生かそうとするのか。

 夕方、最初の異変が起きた。

 保健室の窓を塞いでいた机の一つが、突然倒れた。

 大きな音がして、全員が身構える。

 窓ガラスにひびが入っていた。

 外から何かがぶつかったように見えた。だが、窓の外は霧に包まれている。校舎の外壁に面しているはずの場所が、白い闇になっていた。

「離れろ」

 俺はハルトをベッドから引きずり下ろした。

 次の瞬間、窓ガラスが内側へ弾けた。

 破片がベッドの上に散る。

 もしハルトが座ったままだったら、顔に刺さっていたかもしれない。

 廊下から黒羽たちが飛び込んでくる。

「何があったの」

「窓が割れた」

 灰原が破片を調べる。

「外からの衝撃に見える。でも、飛来物がない」

「見えないだけじゃないの」

 リンが言う。

「違う。物体が衝突した痕跡がない。ガラスだけが割れるように、結果だけが発生している」

「結果だけ?」

「霧島を傷つける結果だけが、理由を後から作ってるみたいだ」

 その言葉に、全員が黙った。

 理由を後から作る。

 レナの言っていたことと同じだった。

 この世界は、死を成立させる。

 手段は選ばない。

 俺は歯を食いしばった。

「窓から離す。廊下側の準備室に移そう」

 保健室には、薬品や備品をしまう小さな準備室があった。窓はない。扉は一つ。人一人が横になれるほどのスペースしかないが、外からの干渉は減らせる。

 ハルトはその狭い部屋に入った。

「棺桶みたいだな」

「言うな」

「悪い」

 ハルトは素直に謝った。

 準備室の扉を開けたまま、俺は入口に座った。中にはハルト。外には俺。さらに廊下には黒羽たち。三重の見張りだ。

 これで死ぬなら、もう物理法則を疑うしかない。

 いや、すでに疑っている。

 二十時。

 放送が鳴った。

『死亡予定時刻まで、あと三時間五十九分』

 ハルトは準備室の中で両膝を抱えていた。

「なあ、ユウ」

「何だ」

「俺が寝たら起こして」

「寝られるのか」

「寝られないけど、目を閉じたら変なこと考えそうで」

「じゃあ話してろ」

「話題ある?」

「お前の黒歴史」

「死ぬ前に掘り返すな」

「死なないんだろ」

「そうだった」

 ハルトは笑った。

 その笑いが、さっきより弱くなっている。

 二十一時。

『死亡予定時刻まで、あと二時間五十九分』

 準備室の蛍光灯が点滅し始めた。

 灰原がブレーカーを確認したが異常はなかった。電球を替えようとしたが、脚立に上がった瞬間、床がわずかに沈むような感覚があり、作業を中止した。

 俺たちは照明を諦め、懐中電灯を使った。

 二十二時。

『死亡予定時刻まで、あと一時間五十九分』

 ハルトの呼吸が荒くなってきた。

「大丈夫か」

「大丈夫じゃねえけど、大丈夫って言う場面だろ」

「無理するな」

「じゃあ無理」

 ハルトは苦笑した。

「俺、何で死ぬんだろうな」

「死なない」

「分かってる。でも考える」

「考えるな」

「無理だろ。死亡時刻までカウントダウンされてるんだぞ」

 俺は何も言えなかった。

 ハルトは天井を見た。

「首吊りとか嫌だな」

 その言葉に、俺は反射的に顔を上げた。

「何でそれを言った」

「え?」

「何で首吊りって言った」

「いや、何となく。密室で死ぬなら、その辺かなって」

 胸の奥がざわめいた。

 俺は知らないはずだった。

 まだ、ハルトがどう死ぬのかは知らない。プロットのようなものは、俺の頭の中にない。だが、首吊りという言葉を聞いた瞬間、ひどく嫌な確信が生まれた。

「準備室の中に紐になるものはあるか」

 俺は扉を開け、懐中電灯を向けた。

「何だよ急に」

「答えろ」

「ないと思うけど」

 俺は中を確認した。

 棚。薬品箱。古いカーテン。包帯。延長コード。掃除用のロープ。細長いものは意外に多い。

「全部出す」

「え、今?」

「今すぐ」

 俺たちは準備室から、紐状のものをすべて出した。包帯、コード、ロープ、カーテン。棚の中身まで廊下に広げ、ハルトの手が届く場所には何も残さなかった。

 黒羽が息を切らしながら言った。

「これで少しは安全なはず」

「少しじゃ困る」

 相馬が苛立ったように壁を殴る。

「何なんだよ、これ。俺たち、何と戦ってんだよ」

「分からない」

 灰原が言う。

「だが、分からない相手ほど、観察するしかない」

「観察してる間に死んだらどうすんだ」

「だから死なせない」

「簡単に言うな!」

 相馬の声が廊下に響いた。

 彼は自分の両手を見つめていた。昨日の記憶はない。それでも、霧に近づいたとき俺が止めたことが引っかかっているのだろう。自分にも何かが起きる可能性を、体のどこかで感じ始めている。

 二十三時。

『死亡予定時刻まで、あと五十九分』

 時間が形を持ち始めた。

 五十九分。

 長いようで短い。

 一秒ごとに、死が近づいてくる。

 俺は準備室の入口に座り込み、ハルトを見ていた。彼は床に座り、壁にもたれている。手足は自由だが、周囲には何もない。自殺の道具になるものは取り除いた。扉は開いている。俺の視界から外れる場所はない。

 これで首吊りなどできるはずがない。

 二十三時三十分。

 ハルトが言った。

「水、飲みたい」

 俺はペットボトルの蓋を開け、渡した。

「変なもの入ってないよな」

「俺が飲む」

 俺は先に一口飲んだ。

 異常はない。

 ハルトは受け取り、少しだけ飲んだ。

「ありがと」

「礼は明日の朝に言え」

「覚えてないんだろ」

「じゃあ今言うな」

「理不尽」

 二十三時四十分。

 準備室の壁に、薄い染みが現れた。

 最初は湿気かと思った。だがそれは、ゆっくり形を変えていく。黒い線が縦に伸び、横に広がる。まるで文字のようだった。

 灰原が懐中電灯を向けた。

「何だ」

 黒い線は、やがてはっきりした文字になった。

 霧島ハルト。

 死亡時刻 23:59。

 準備室の壁に、黒板と同じ文字が浮かんでいた。

「やめろよ」

 ハルトが呟いた。

「そこまで追ってくるなよ」

 俺は壁をこすった。

 消えない。

 爪を立てても、布で拭いても、文字は壁の内側から浮かび上がっているようだった。

 二十三時五十分。

 保健室の外で、誰かの足音がした。

 廊下の見張りが身構える。

「誰」

 黒羽が声を出す。

 返事はない。

 足音はゆっくり近づいてくる。

 こつ。

 こつ。

 こつ。

 俺は準備室の入口から離れられなかった。ハルトから目を離すのが怖い。

 灰原が廊下を覗いた。

「誰もいない」

「音は?」

「続いてる」

 足音は保健室の前まで来た。

 そこで止まった。

 扉のすぐ向こうに、見えない誰かが立っている。

 そんな錯覚があった。

 次の瞬間、保健室の扉が閉まった。

 廊下と部屋を隔てる扉ではない。

 俺の目の前、準備室の扉が、内側から勢いよく閉まった。

「ハルト!」

 俺は扉に飛びついた。

 開かない。

 さっきまで何の問題もなかった扉が、壁と一体化したように動かない。

「ハルト、返事しろ!」

 中から声がする。

「ユウ! 開けろ!」

「待ってろ!」

 黒羽と相馬が加わり、扉を引く。動かない。灰原が蝶番を確認するが、金属部分が消えていた。扉は扉ではなく、壁の一部になっていた。

「ふざけんな!」

 相馬が蹴る。

 びくともしない。

 中でハルトが扉を叩いている。

 どん、どん、という音。

 その音が、徐々に弱くなる。

「ハルト!」

「ユウ」

 扉の向こうから、ハルトの声が聞こえた。

 不思議なくらい近かった。

「俺、何もしてない」

「分かってる」

「本当だ。俺、何も」

「分かってるから、黙るな。喋ってろ」

「息が」

 ハルトの声が途切れる。

「息が、変だ」

「ハルト!」

「首……」

 背筋が凍った。

「何もないはずだろ」

 俺は叫んだ。

「紐は全部出した。何もないはずだろ!」

 灰原が顔を青くした。

「結果だけが発生している」

「黙れ!」

 俺は扉を殴った。

 拳が痛む。皮が裂ける。血が滲む。それでも扉は壊れない。

 黒羽が叫ぶ。

「離れて! 私が壊す!」

 彼女が身体強化を使い、全力で扉に体当たりした。

 鈍い音。

 扉にひびが入った。

「もう一回!」

 相馬も加わる。

 二人が何度も扉にぶつかる。灰原が消火器を持ってきて、取っ手のあった部分に叩きつける。俺も殴る。リンが泣きながらハルトの名前を呼ぶ。

 中からの音は、もう聞こえなかった。

 二十三時五十八分。

 扉に大きな亀裂が入った。

 黒羽が最後の一撃を加える。

 扉が内側へ倒れた。

 準備室の中に、ハルトがいた。

 彼は宙に浮いていた。

 首に紐はない。

 天井から吊るされているわけでもない。

 ただ、見えない何かに首を絞められているように、体が床から少し浮き、両手が喉元を掻いていた。

 俺は飛び込んだ。

 ハルトの体を抱え、床へ引きずり下ろそうとする。

 重い。

 異様に重い。

 人間一人の重さではない。世界そのものが、彼を上へ引っ張っているようだった。

「ハルト!」

 彼の目が俺を見る。

 血走っている。

 唇が紫色になっている。

 それでも、彼は何かを言おうとしていた。

 俺は耳を近づけた。

「……わら、え」

「何?」

「笑え、ねえな」

 それが最後だった。

 時計の針が二十三時五十九分を指した。

 ハルトの体から、力が抜けた。

 同時に、見えない力も消えた。

 彼の体が俺の腕の中に落ちる。

 重かった。

 今度は、人間の重さだった。

「リン!」

 俺は叫んだ。

 リンが駆け寄り、ハルトの首に手を当てる。治癒の光が彼女の掌から滲む。淡い緑色の光がハルトの喉元を包む。

「お願い、戻って」

 リンが泣きながら言う。

「戻って、戻ってよ」

 だが、ハルトは動かなかった。

 呼吸はない。

 脈もない。

 灰原が膝をつき、呆然と呟いた。

「道具なしの縊死……いや、縊死という結果だけが成立した」

「黙れって言っただろ」

 俺は言った。

 自分の声ではないようだった。

 ハルトの顔は、最後に少し笑っているように見えた。

 笑えねえな。

 そう言って死んだ。

 馬鹿だ。

 こんな時まで、冗談みたいなことを言いやがって。

 俺はハルトの肩を揺さぶった。

「起きろ」

 返事はない。

「おい、ハルト」

 返事はない。

「朝になったら忘れるんだろ。だったら今くらい起きろよ」

 返事はなかった。

 廊下の向こうで、誰かが立っている気配がした。

 俺は顔を上げた。

 白瀬レナが、保健室の入口に立っていた。

 誰も彼女を呼んでいない。

 見張りをどう抜けたのかも分からない。

 彼女はハルトの死体を見て、目を伏せた。

「だから言ったのに」

 その言葉が、俺の中の何かを切った。

 俺は立ち上がり、レナに詰め寄った。

 黒羽が止めようとしたが、間に合わなかった。

 俺はレナの胸倉を掴み、壁に押しつけた。

「お前がやったのか」

「違う」

「じゃあ何でここにいる」

「終わったから」

「終わった?」

 俺は手に力を込めた。

「ハルトが死んだんだぞ」

「知ってる」

「知ってるじゃねえよ」

「知ってるの」

 レナの声が初めて強くなった。

「何度も、何度も、何度も、知ってるの。ハルトが死ぬところも、ユウが泣くところも、黒羽さんが自分を責めるところも、リンさんが治せなくて壊れそうになるところも、全部」

 俺の手が止まった。

 レナは逃げなかった。

 俺に掴まれたまま、まっすぐこちらを見る。

「ユウはまだ、二回目の朝を覚えただけ。だから怒れる。だから救えると思える。だから私を責められる」

「何が悪い」

「悪くない」

「じゃあ」

「でも、続ければ分かる」

 レナの目に、涙はなかった。

 涙すら枯れた人間の目だった。

「誰も救えない朝がある。何をしても同じ場所に戻る夜がある。誰か一人を生かすために、他の誰かがもっと酷く死ぬ日がある。それでもユウは、諦めない。諦めないから、壊れる」

「俺が壊れるから、ハルトを死なせろっていうのか」

「違う」

「じゃあ何だ」

「全部を終わらせるため」

「ハルトの死が?」

「順番が必要なの」

「順番?」

 レナは唇を閉じた。

 言ってはいけないことを言いかけたようだった。

 俺はさらに問い詰めようとした。

 そのとき、保健室のスピーカーから放送が流れた。

『本日の死亡は、予定通り執行されました』

 全員が凍りつく。

『次回死亡者は、朝に掲示されます』

 ざ、というノイズ。

 放送は切れた。

 次回。

 その言葉が、俺たちの上に落ちた。

 これで終わりではない。

 明日もある。

 明日の朝、また黒板に名前が出る。

 誰かが死ぬ。

 そしてたぶん、ハルトは何も覚えていない。

 俺だけが、彼の死に顔を覚えている。

 俺だけが、彼の最後の冗談を覚えている。

 俺はレナから手を離した。

 彼女は少し咳き込み、乱れた襟を直す。

「言え」

 俺は言った。

「何を?」

「次に誰が死ぬ」

「まだ分からない」

「嘘だ」

「本当に分からない。この朝ごとに、少しずつ変わる」

「じゃあ、何なら分かる」

 レナはハルトの死体を見た。

 そして、俺を見た。

「ユウは、また私を嫌いになる」

「もう嫌いだ」

「うん」

 レナはわずかに目を伏せた。

「それでいい」

 俺は彼女を殴りそうになった。

 だが、殴らなかった。

 殴れば、何かが終わってしまう気がした。いや、終わらないからこそ怖かったのかもしれない。何をしても明日が来る。死んだ人間も戻る。傷も消える。罪だけが記憶の中に残る。

 そんな世界で、人を傷つけることに意味はあるのか。

 意味がないからこそ、取り返しがつかないのではないか。

 ハルトの体は、保健室のベッドに寝かされた。

 リンは何度も治癒を試みた。だが、何も変わらなかった。黒羽は壁際に立ち、自分の拳を見つめていた。扉をもっと早く壊せていれば。準備室に入れるべきではなかった。見張り方を間違えた。彼女の顔には、そう書かれていた。

 灰原は記録を取っていた。

 手が震えていた。

 相馬は廊下で壁を蹴っていた。

 俺は、ハルトの横に座っていた。

 死んだ人間の顔は、眠っているようだとよく言う。

 嘘だと思った。

 眠っている人間には、戻ってくる気配がある。呼べば目を開けるかもしれないという可能性がある。死んだ人間には、それがない。そこに体があっても、どこにもつながっていない。切断された電話線のように、呼びかけだけが虚しく残る。

「ハルト」

 俺は小さく呼んだ。

 もちろん返事はない。

 白瀬レナは保健室の入口に立っていた。

 俺は彼女を見ないようにした。

 見れば、また怒りが湧く。怒りだけならいい。問題は、その奥に別の感情が混ざっていることだった。

 彼女を責めたい。

 彼女に説明させたい。

 彼女を憎みたい。

 それなのに、彼女が一人で立っている姿を見ると、胸の奥がひどく痛んだ。

 まるで、俺は以前にも彼女を一人にしたことがある。

 そう感じた。

 夜は続いた。

 誰も眠らなかった。

 ハルトの死亡時刻を過ぎても、朝はすぐには来なかった。時計は進んだ。零時。一時。二時。死者の横で時間だけが律儀に流れる。

 俺は、夜明けが怖かった。

 ハルトが死んだまま朝を迎えるのか。

 それとも、すべてが戻るのか。

 どちらが恐ろしいのか、自分でも分からなかった。

 白み始めた窓の外は、相変わらず霧に覆われていた。

 俺はいつの間にか、椅子に座ったまま意識を失っていたらしい。

 目を覚ますと、額が机に触れていた。

 頬に木目の跡がついている。

 教室だった。

 朝の光が床に落ちている。

 俺は跳ね起きた。

 胸を押さえる。

 傷はない。

 腕を見る。

 血もついていない。

 保健室ではない。準備室でもない。俺は自分の席に座っている。周囲には十二人のクラスメイト。

「おい、ユウ。どうした」

 隣から声がした。

 ハルトだった。

 生きていた。

 彼は昨日と同じ顔で、俺を見ていた。首に痕はない。唇も紫ではない。いつもの軽い笑みを浮かべている。

「お前、顔やべえぞ」

 俺は彼の肩を掴んだ。

「痛えって」

 ハルトが顔をしかめる。

「お前」

「何」

「覚えてないのか」

「何を」

 俺は手を離した。

 覚えていない。

 分かっていたことなのに、その事実が胸に沈んだ。

 ハルトは生きている。

 だが、昨日のハルトは死んだ。

 俺の中だけで。

「黒板」

 誰かが言った。

 教室の視線が前へ向く。

 俺も黒板を見た。

 そこには、また白い文字が書かれていた。

 本日の死亡者 七瀬ミオ

 死亡時刻 23:59

 教室がざわめいた。

 七瀬ミオが、自分の名前を見つめていた。

 彼女の顔から、血の気が引いていく。

 その小さな唇が、かすかに動いた。

「階段」

 俺は彼女を見た。

 ミオの目は、まだ起きていない未来を見ていた。

「私、落ちる」

 教室の一番後ろで、白瀬レナが俺を見ていた。

 俺は彼女を睨んだ。

 レナは何も言わなかった。

 ただ、ほんの少しだけ、悲しそうに目を伏せた。



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