第3話「最初の“死”の影」
朝の教室は、いつもどおりうるさい。
机を引く音。椅子の脚が床を擦る音。誰かがスマホを落として「うわ最悪」と言う声。窓の外では、広告ホログラムが切り替わるたびに光が揺れる。
その全部が、俺には少しだけ既視感として引っかかっていた。
昨日からずっと、世界の表面が薄い膜みたいにずれてる気がする。
ズレてるくせに、誰も気にしてない。
「なあ天城、見た?」
真鍋ハルが俺の机に肘をついて、画面を突き出してきた。
「朝っぱらから何だよ。飯の話なら帰れ」
「飯じゃない。ほらこれ」
端末の通知画面に、見慣れない送信元が並んでいた。
差出人不明。
件名、なし。
本文は短い。短いくせに、妙に目に残る。
NE MESIS
間の空白が気持ち悪い。わざとだろう。
その下に、薄い灰色の文字。
ミレニアの歪みは限界に近い。
英雄候補は、早く目を覚ませ。
「……何これ」
「知らねえ。全校に飛ばしたっぽい」
真鍋が笑う。朝からテンションが高いのは、こいつの通常運転だ。
「なろうのタイトルじゃね?」
誰かが言って、周りが小さく笑う。
「NE MESISって、ネメシス? 厨二臭」
「英語っぽく書けば何でも怖いと思ってるタイプ」
「英雄候補って何だよ、俺らのこと? 笑える」
男子高校生のノリで、勝手に軽くしていく。
俺も最初は同じだった。
どうせ誰かの悪ふざけだ。外部メールを弾けない学園のセキュリティが終わってるだけ。あるいは、近所の炎上系が仕掛けた宣伝。
そう思えば済む。
なのに、画面の「英雄候補」という文字が、喉の奥に引っかかった。
知らない言葉じゃない。
けど、俺の人生で呼ばれる理由はない。
俺は目立ちたくない。目立つと面倒だから。
そういう人間に「英雄」なんて単語は似合わない。
「天城も来た?」
霧島クロノが、いつの間にか横に立っていた。メガネの奥の目が、淡々と俺の画面を見ている。
「来た。お前も?」
「来た。全員だよ。たぶん」
クロノは端末を操作して、送信元のログを追うふりだけした。
「追えない。上手く隠してる。か、学園が隠してる」
「どっちだよ」
「どっちでも嫌だろ」
それはそう。
真鍋が肩をすくめる。
「でもさ、こういうのって大体、何も起きないじゃん」
「そういうこと言う奴が、一番最初に巻き込まれるんだよ」
クロノが言うと、真鍋が指をさして笑う。
「お前、それっぽいこと言うの得意だよな。時間の名前のくせに」
「名前で遊ぶな」
軽口が飛ぶ。空気はいつもどおりだ。
その中で、ひとつだけ違う点があった。
窓際の席。
神代レナが、画面を見たまま動いていない。
昨日から、あいつは必要なことしか喋らない。喋らないというより、喋ると何かが漏れるのを怖がってるみたいな感じだ。
今のレナは、笑っていない。
周囲が茶化せば茶化すほど、その静けさが浮く。
俺は無意識に視線を向けた。
レナの瑠璃色の目が、画面を貫いている。金の輪が光を拾う。まるで、そこに書かれている単語だけじゃなく、裏側にある何かを見ようとしているみたいに。
俺と目が合った。
レナの指が一瞬だけ止まる。
次の瞬間、端末の画面が暗くなった。閉じた。早い。誤魔化す速度が、慣れている。
「何だよ」
俺が小さく言うと、レナは視線を逸らさずに返した。
「何でもありません」
声はいつもどおり淡い。
でも、言葉の端が硬い。
俺の喉が乾く。
昨日、屋上で聞いた一言が頭の中で浮かぶ。
また、死んでほしくないから。
その言い方は、冗談の範囲を超えていた。
レナは何かを知っている。
知りすぎている。
ホームルームのチャイムが鳴って、担任が教室に入ってきた。
「全員、端末の通知は見たか。今朝の不審メールについてだが――」
担任の声は、あくまで事務的だった。
「外部からの悪質なメッセージだ。返信するな。リンクは踏むな。あと、無駄に拡散するな。以上」
黒板に何かを書き足すでもなく、さらっと流す。
まるで、よくあることみたいに。
俺はその「慣れ」が気になった。
授業が始まって、俺の頭は半分だけしか教科書に乗っていなかった。端末の画面に一度閉じ込めたはずの文字が、まだ目の裏に残っている。
NE MESIS
英雄候補は、早く目を覚ませ。
昼休み、廊下に出ると、校内オンライン掲示板にも通知が出ていた。
外部からの悪質なメールについて注意。
不審な文面・リンクは開かないこと。
そこには「ネメシス」という単語はなかった。
伏せている。
わざと。
掲示板の文章は丁寧なのに、どこか雑だった。「はいはい、またね」みたいな温度がある。
職員室前を通りかかった時、ドアの向こうから声が漏れた。
「またか」
「今回は少しパターンが違うな」
「……前回のときよりログの乱れが――」
「おい、生徒の前だ」
会話はそこで切れた。誰かがドアの方を見たのかもしれない。
俺は足を止めずに通り過ぎた。
盗み聞きする趣味はない。
ないはずなのに、胸の奥に小さな石が落ちたみたいに重くなる。
またか。
前回。
ログの乱れ。
昨日、測定装置がノイズを出したのを思い出す。画面が砂嵐みたいに白くなった一瞬。
あれも、ログの乱れなのか。
俺は考えたくないのに、考えてしまう。
放課後、真鍋とクロノに引っ張られて、街へ出た。
「ゲーセン行こうぜ。天城、昨日から暗い」
「暗いのが標準だよ」
「標準を明るくしろ」
無茶を言う。
商業区は夜が早い。夕方でもネオンが光り始める。人が多い。笑い声が多い。俺たちみたいな学生が、そこらじゅうにいる。
ゲームセンターの入口で、真鍋がいきなり叫んだ。
「今日こそ勝つ!」
「昨日負けたのはお前の反射神経が終わってるからだ」
「終わってねえよ! 始まってすらないだけだ!」
「それ終わってるよりひどい」
クロノが淡々と刺して、真鍋が「お前も敵か」と騒ぐ。
くだらない。
くだらないのに、少しだけ楽になる。
俺はいつも、こういう日常に逃げたい。
逃げたいのに、逃がしてくれない。
ゲームの勝敗が決まって、真鍋が負けを認めないままコンビニに寄った。
俺は冷たいペットボトルを買って、手のひらに当てた。結露が指に張りつく。冷たさが現実を押し戻してくれる。
店を出て、歩き出す。
その時、妙な感覚が来た。
この角。
この看板。
このネオンの点滅の仕方。
俺は、ついさっきもここを通った気がする。
気がする、じゃない。
通った。
確実に。
同じ順番で。
右の路地から、猫が顔を出す。
あくびをする。
その向こうで、自販機がガコンと鳴る。
誰かが缶を落とした音だ。
街頭の広告が切り替わって、同じ曲のサビが流れる。
その順番まで、さっきと同じだ。
俺は足を止めた。
喉が乾いた。
「どうした?」
真鍋が振り返る。
「いや……」
言えない。
言ったところで「疲れてんじゃね?」で終わる。
実際、そうかもしれない。
でも、疲れで世界の順番が一致するか?
クロノが俺の顔を見て、眉をわずかに動かした。
「また?」
小さな声だった。
俺は返せなかった。
クロノはそれ以上何も言わない。言わないくせに、俺が何を感じたかだけはわかっているみたいな顔をする。
最悪だ。
コンビニの袋が手に食い込む。
俺は歩き出した。動かないと、ここで何かが崩れる気がした。
商業区の外れで真鍋と別れ、クロノとも別れた。
「気をつけてね、英雄候補」
クロノが冗談みたいに言う。
「その呼び方やめろ」
「やめない。だって刺さってるでしょ」
刺さってる。
確かに。
俺は返事をせず、背を向けた。
住宅街に抜ける細い路地に入る。
街の明かりが途切れて、空気が少し冷える。遠くのネオンの残光だけが、壁に薄く滲む。
その路地の奥に、影があった。
黒いローブ。
白い仮面。
街灯の光に、仮面の輪郭だけが浮かぶ。口も鼻もない、滑らかな白。中央に刻まれた紋章だけがやけに目立つ。
見覚えがある。
朝のメールのアイコンと同じ形。
ネメシス。
俺の足が勝手に一歩前に出た。
「おい」
声が出た瞬間、影がわずかに動いた。
逃げるのか。
俺は走り出そうとした。
その瞬間、視界が砂嵐になった。
世界が一度、画面に変わる。ノイズが走る。耳鳴りがして、足裏の感覚が薄くなる。
ほんの一瞬。
目を瞬いた。
次の瞬間には、路地の奥に何もいなかった。
風だけが吹いて、ローブの裾も仮面の白も、全部消えている。
残っているのは、心臓の音と、さっき見た紋章の残像だけだ。
俺は息を吐いた。
吐いたつもりが、うまく吐けない。胸が硬い。
追うべきなのか。
追ったら面倒なのか。
いや、面倒とか言ってる場合じゃない。
それでも、足は動かなかった。
俺は自分の手を見た。指先が微かに震えている。冷えたわけじゃない。身体が、何かを覚えて反応している。
俺は舌で唇を湿らせた。
さっきのノイズ。
昨日、街で見たノイズ。
測定装置のノイズ。
全部が、一本の線で繋がり始めている。
家に帰る道がやけに長く感じた。
玄関の鍵を回す指が滑る。息が浅い。肩が凝っている。背中の皮膚がずっと張りつめたままだ。
部屋に入って明かりをつけると、いつもの生活がそこにあった。
冷蔵庫の唸り。テーブルの傷。床に落ちた自分の靴下。
それが少しだけ安心になる。
なのに、頭の中は落ち着かない。
俺は端末を開き、朝のメールをもう一度見ようとして、画面を止めた。
見たところで、何が変わる。
ただ、文字が刺さるだけだ。
それでも指が勝手に動く。
NE MESIS。
英雄候補は、早く目を覚ませ。
俺は笑えなかった。
笑えないのに、どこかで「これ、知ってる」と思っている。
知らないはずなのに。
その夜、レナは自室で端末の画面を見ていた。
学園の観測ログ。通常の生徒には触れない領域。
画面の数字が歪んでいる。整然としているはずの並びが、途中で欠けている。空白がある。穴が空いている。
その穴の形が、嫌に見覚えがあった。
レナの指が止まる。
「限界が早すぎる」
独り言は小さい。誰に聞かせるでもない。
画面の端に、新しいデータがポップアップした。
差出人不明。
件名に、短い日本語。
世界記録者へ
レナは眉を動かさない。動かせない。感情を出すと、全部が崩れる気がしている。
指先が、わずかに震える。
その震えを画面の明かりが照らす。
レナはゆっくり画面を閉じた。
「冗談ではありません」
言い切ってから、息を吐く。
吐いた息は白くならない。部屋は暖かい。
それでも、胸の奥が冷たい。
レナは目を閉じる。
次に来るものを、もう知っている。
知っているからこそ、止められないことも知っている。
それでも、止めるしかない。
レナは小さく、名前を呼んだ。
ユウ。
届かない距離でも。
届かなくても。
――また、同じ明日が来る前に。




