1話
——私が彼女に会ったのは、八歳の頃だった。
「姫様! コルネーリア姫様! どちらにおいでですか!」
花開く城の中庭で、聞き慣れた声が響き渡る。護衛騎士であるフリードリヒのものだ。
……せっかくキレイな花壇のそばで、お気に入りの物語を読んでいたのに。
風に揺れる花の香りに癒されていた私は、すっかり機嫌を損ねてしまった。
押し花のしおりを挟んで、パタンと分厚い表紙を閉じる。
しかし、声の方向には行ってやらない。
どうせまた、つまらない歴史やお作法の勉強をやらされるのだから。
「わたくし、いまは本を読んでいたい気分なのよ」
誰もいない中庭で一人呟きながら、私は声から離れるように駆け出した。
城で働く衛兵や侍女たちとすれ違いながら、私はずんずん人のいない方へ逃げていく。
フリードリヒや家庭教師のお小言を、今はちっとも聞きたくない。
そりゃそうよ。だって、今日は商人が城に来る日だったんだから。
朝からずっとそわそわして、お勉強の時間だってちっとも集中できなかった。家庭教師のキーキーしたお叱りが何度飛んだかわからないくらいよ。
ようやくお昼になって手に入れたのは、繊細なレリーフの入った表紙とマーブル模様の側面が美しい一冊の本。
待ちに待った、新作の恋愛小説だ。
大人たちが商人と難しい話をしている隙に、私は待望の本を片手にこっそり中庭へと抜け出してきた。
だと言うのに……
「しつこいフリードリヒ! 今日くらい放っておいてくれてもいいのに!」
スカートを翻しながら憤慨する私を見て、メイドのくすくすした笑い声が聞こえる。
人のいない方を目指してきたのに、彼女たちに見られてしまった。
もしフリードリヒが彼女たちに私の居場所を問えば、すぐにどこへ行ったかバレてしまいそう……。
本当に……どこか人目につかないところはないかしら?
本を胸に抱きながらうんうんと首を捻るが、生まれてこの方放っておかれたことなど一度もない。
こんなふうに城内を一人で歩くことすら滅多にないのだから。
嫌な事実に気付いてしまった私は、落ち込む気持ちを慌てて振り払い、再び足を踏み出す。暗い顔は王女に相応しくないのだから。
ふん、と鼻を鳴らし、勇ましく顔を上げる。
「……こうなったら、普段行かないような場所に行ってみるしかないわね」
あまりうろちょろするなとお父様に言われたことも忘れて、私は見慣れない大きな建物に向かって駆け出した。
建物の名前は『魔術研究所』——城壁の中にありながら、王族が滅多に訪れることのない、私の新しい遊び場だ。
近づいてみると、思った以上につまらない外観をしていた。
飾らないことが美徳だとでもいうような無機質な壁。装飾がほとんど施されていない扉は固く閉ざされ、来るものを拒むような気配を感じる。
「見張りもいないのね」
お城の中とは大違いだ、と少しがっくりした。城にあるものはどれも煌びやかで、胸をときめかせるものばかりだからだ。
やっぱり物語の中に出てくるような秘密の場所には、ちょっと程遠いな……。
肩を落としながらも扉に手をかけてみるが、鍵がかかっていて中には入れそうもない。こういう時は誰かが鍵をかけ忘れていないと、と思わず唇を尖らせる。
「……って、あら? 窓が開いてるわ」
諦めきれずにキョロキョロと辺りを見渡せば、研究所の窓がほんの少し空いている。誰かが空気の入れ替えをしたまま、閉め忘れてしまったのだろう。思わず心が跳ね上がった。
「っ……これよ! これだわ! これこそ物語の始まりね!」
パタパタと駆け寄り、わずかな隙間に手のひらを差し込んだ。音を立てないように開けた窓の中に本を投げ入れ、次いで体を滑り込ませる。
カタリーナとお母様には絶っ対に見せられない格好で研究所に入り込むと、ようやく一息つけた。
誰もいないしん、とした廊下。そこにポツンと立っていると、なんだか心の中に冷たい風が吹いたような気がする。
つばを飲み込むと、ごくりと音がした。
歩き出すと、コトコトと鳴る自分の足音がいつもより大きく聞こえる。ワクワクとドキドキが半分ずつくらいの気持ちで、両手で抱えた本を強く抱きしめた。
時計の長い針が二つ進むくらいの時間、施設の中を彷徨っていると……
「っ……!」
一つの部屋から小さな物音が聞こえた。
慌てて両手で口を押さえ、壁にぺったりと体をくっつける。
恐る恐る、開けっ放しの入り口から中を覗き見ると————そこには、一人の女の人が立っていた。
研究室の一角で、何か小難しそうな本を読む彼女。
炭のように黒い髪がきっちりとした一本の三つ編みに編まれ、背中に垂れ下がっている。窓から射し入る日差しを受け、長いまつ毛が雪のように白い頬に影を作っていた。
子どもみたいに細くて小さな身体なのに、大人みたいに堂々としている。いくつくらいの人なのかしら、と聞いてはいけない質問が頭に浮かんだ。
「きれい……」
思わず、そんな言葉が出た。
もちろん、お母様だって国を代表するような美人だ。バラ園の似合う、どこにいても人目を引いてしまう美しさがある。
彼女にそんな華やかさはなかった。
だというのに、一輪の百合の花のような彼女から眼が離せない。
私のこぼした声を拾ったのだろう。
吸い込まれそうなほど黒い瞳が、キリッとした表情のままこちらを向いた。
「あら、王女殿下ではありませんか。このような場所でどうされたのですか?」
カタリーナのようにひどく真面目な声色。そんな彼女の声には聞き覚えがあった。
時折、両親と親しげに話している王宮魔術師————アメリア=ヴァイツゼッカーだった。




