普通の予行演習
「先輩。橘先輩」
休み時間。名を呼ばれて顔を上げると、森木が立っていた。この子、ほんと気軽に二年の教室に来るようになったな……。
「どうした? 池田と佐倉なら、いま購買に——」
「いいえ、今日は橘先輩に用があって来たんです」
「あたしに……?」
「先輩、ちょっとついてきてもらえますか?」
そう言って森木は教室の外に向かって歩き出す。なにやらただならぬ雰囲気だ。あたしは首を傾げつつ後を追った。
森木はあたしを連れて廊下の突き当りまで歩くと、おもむろに振り返って言った。
「先輩、聞きましたか?」
「……何を?」
一度周囲を窺ってから、森木が顔を近づけてくる。
「佐倉先輩が、橘先輩に影響されて料理を始めたそうです」
「佐倉が……あ、あたしに、影響されて……?」
「なに幸せそうな顔してるんですか」
「え。あ、いや、つい……」
「『つい』じゃないですよ! しっかりしてください!」
「え、な、なに? ご、ごめんなさい……」
森木はやれやれという風に首を振ると、諭すように言った。
「橘先輩は、いま自分が置かれている状況を正しく理解していますか?」
「じ、状況……? というと……?」
「橘先輩の影響で、佐倉先輩が料理を始めた。……となるといずれ、アレが来ますよ」
「アレ……?」
「そうです、すなわち……『ねね、橘、わたし最近料理始めたんだ。でもなかなか橘みたいにうまくできなくてさ。だから今度、橘の家に料理の勉強しに行ってもいい? いろいろ技術盗ませてよ』が!」
「佐倉と、料理……」
台所に二人、佐倉と並び立つ光景が脳裏に浮かぶ。
「なに溶けかけたアイスクリームみたいな顔してるんですか」
「あ、その、……あはは」
「そんな、水を入れすぎた水風船みたいな顔してる場合じゃないですよ! よく考えてください!」
「あたしはいったいどんな顔をしてたの⁉ なんだか知らないけど、とにかくごめんなさい!」
森木はどこか訝しむように鋭い目をあたしに向ける。
「まだ気づいてないんですか?」
「な、なにを……?」
「さっきわたしが言った佐倉先輩のセリフを、もう一度よく思い出してください」
「……」
「……」
「…………」
——はっ。
「ささ、佐倉が、ううう、うちに来る、だってぇぇぇーーーーッッッ⁉」
「ようやく気が付きましたか」
「どどど、どうしよう、佐倉がうちに……! どうしよう、どうすれば……」
「大丈夫、落ち着いてください、橘先輩」
「引っ越し……いや、なるべく早いほうが……、——夜逃げ?」
「いいから少し冷静になってください。これはあくまでわたしの想像。まだ佐倉先輩が家に来ると決まったわけじゃありません」
「あ……そ、そうか、そうだった……」
「でも佐倉先輩の性格を考えた場合、けっしてあり得なくはないことだとも思います。もしそうなった場合、橘先輩、ちゃんと佐倉先輩の相手ができますか?」
「無理に決まってる……家で二人で料理なんて……。途中で何作ってるかわからなくなりそう……」
「料理だけじゃないですよ。想像してみてください。作り終わったら当然、食べてみようって流れになりますよね? そうしたら食事も一緒にすることになります。さらにその後、せっかく来たんだからと別の遊びもすることになるかもしれません。ゲームをしたり映画を観たり、おたがいのメイク道具で遊んだり……そんなこんなで一日の大半の時間を佐倉先輩と過ごすことにもなりかねませんよ!」
「佐倉と……一日中、一緒……」
「そんな、お雑煮に入れたお餅が思ったより焼け過ぎていて、食べようと思ったらとろとろと垂れ下がっていくときのような——」
「わかった、ごめんて! その『緩みきった顔の比喩表現シリーズ』はもういいから! 頭ではちゃんと危機感をもって受け止めてるから!」
「そうですか」
ふぅ、と森木は小さく吐息をつく。
「……森木。あたしはどうしたらいいかな……?」
「……きた」
「ん? いま何か言った?」
「言ってません」
「え、でもいま小さく、何か……」
「橘先輩、予行演習をしましょう」
「予行演習……?」
「はい。わたしを佐倉先輩に見立てて、佐倉先輩に料理を教える練習をするんです」
「……」
「……そりゃ、わたしは佐倉先輩みたく可愛くないし、美人でもありませんよ。背も低いし、おもしろいことだって言えないし——」
「い、いやいや、どうした、急に何が始まったんだよ?」
「だって橘先輩、黙ってるから……」
「ただ驚いてただけだよ。……何言ってんだろこの子、とは少し思ったけど……」
「仮にですよ、先輩」
森木がずいと顔を近づけてくる。
「さっき話した想像の続きで、一緒に遊んでいるうちに夜になり、もし仮に次の日学校が休みだった場合、佐倉先輩はもしかしたらこんなことを言ってくるかもしれませんよ。——『ねぇ橘、今日泊まっていってもいいかな?』と」
「と、泊ま——⁉ え、えええと、じじ、じゃあ、ベッド、使っていいよ! ああああたしは、近くの公園で寝るから!」
「落ち着いてください、先輩。わたしです、森木です。あと公園で寝るのはやめてください」
「——はっ。動転して、つい……」
「いいですか、先輩。これが現実です。家で一緒に遊ぶとなれば、予測し得ない数々の出来事が起こるもの……。そして残念ながらいまの橘先輩では、そのほとんどにうまく対応することができないでしょう」
「……たしかに、恥ずかしながらそのとおりだ」
「いまのだって、きっと実際に佐倉先輩が聞いたらこう言って驚きますよ。『なんで野宿ッ⁉』と」
「あぁ……言いそう」
「だから、わたしを相手に練習しておくべきなんです。いざ本当にそんなことが起こったときに、慌てずに、冷静に対処することができるようになるために」
「……」
たしかに、森木の言うことも一理あるのかもしれない。もし本当に佐倉が家に来たとして、そんなおかしな反応ばかり繰り返していては、さすがに嫌われてしまうのでは……。そうならないための予行演習、か……。
——ん? あれ、でも……
「なぁ、そもそも森木はどうして佐倉のことで、そんなにあたしに協力してくれようとするんだ? たしか森木も、佐倉のことが好きだったはずだよな?」
「——え? とー、それはですね……あ、そうだ……わたし、かの先輩一筋でいくことにしたんですよ。だから佐倉先輩は、橘先輩にお譲りしようと思って」
「……そうなのか。ところでいま途中、『あ、そうだ』って言わなかった?」
「言ってません」
「え、いやでも、確かに——」
「橘先輩。わたしは、同じ『女子を好きになってしまった女子』として、先輩のことを応援したいんです。佐倉先輩が料理を教わりに橘先輩の家に来るかもしれない。これは見方によってはチャンスです。それを機に一気に佐倉先輩との距離を縮めるため、いまのうちにわたしとしっかり練習しておきましょう!」
「そ、そう……だね。……わかった。じゃあ、お願いするよ」
「はい、まかせてください!」
うちで集まる日取りを決めて、森木と別れた。
廊下を去っていく橘先輩を見送る。
ふぅ、最後ちょっと危なかったな。そうだった、橘先輩からはそういう風に思われてるんだった。
まぁでも、結果的にうまいこと丸め込めた。わたしを佐倉先輩に見立てての予行演習……先輩のおもしろ可愛い反応を、さぞやたくさん見られるにちがいない。
いや、これはけっして、単にそんな私利私欲を満たしたいがためだけのイベントというわけじゃない。二人の関係性が今後より発展していくために必要な通過儀礼でもあるのだ。橘先輩の恋路を応援しつつ、同時におもしろも摂取できる。これぞ一石二鳥。なんて素晴らしい思い付き。
スマホにメモした日時を確認し、くすりと笑みが洩れる。
当日はよろしくお願いしますね、橘先輩——♡
そして当日。昨夜掃除した自分の部屋を見渡し、ふと思う。
あたし、なにやってるんだろう————。
森木を佐倉に見立てて、本人が家に来たときの予行演習……? 冷静に考えたら意味がわからない。なんだそれ、ギャグ漫画かよ。
……けどまぁ、一応あたしから頼んだ形だし、あとから「やっぱやめたい」とは言い出せない。そうして結局、今日になってしまった。そもそも家に学校の友だちを呼ぶのなんて初めてだし、勝手がよくわからない。とりあえず来たらお茶を出せばいいのか……?
——と、考えていたら家のチャイムが鳴った。玄関に行き、扉を開ける。
「よ、橘ぁー」
「……」
「……」
「……」
「どうせわたしは可愛くないしスタイルも悪いし、佐倉先輩とは似ても似つかないし——」
「ち、違う違う。いきなり始まったから驚いただけだって。森木——いや、佐倉……か? いらっしゃい、入って」
「お邪魔しま……うぁっ、と」
「おい、大丈夫か? ——ん? なんだ、その底の厚い靴は?」
「目線の高さを、少しでも本人に近づけようと……」
「引き換えに歩き方が本人から遠くかけ離れるだろ、それじゃ……。ひょっとしてお前、今日そのせいでちょっと来るのが遅かったのか?」
「そうです……ふふ、でもこの程度の苦労、リアリティを高めるためなら、どうってこと……」
靴を脱いだ森木が板の間に上がる。いつもと変わらない位置に森木の頭があった。
「くっ……しまった……!」
その場に膝を突いた森木が、ドンッ、と拳で床を叩く。
「い、いやいや、大丈夫だから。目線の高さの違いなんて、そんな気にならないから……」
「おのれ、日本家屋め……」
「文化に八つ当たりするな。……いや、平気だって。いまの状態でも充分、佐倉っぽいよ。その髪型だって、わざわざ佐倉に似せてきてくれたんだろ?」
「……はい。わたし、ちゃんと佐倉先輩に見えますか?」
「……あ、あぁ」
正直、見えない。でもハッキリそう言ってしまっては森木がかわいそうだ。心の目で見よう、心の目……。
……あ。なんかちょっと、佐倉の顔に見えてきた……。
「……佐倉」
「うん。なに、橘?」
「えと、その……今日、何作る? ……てか、何食べたい?」
「橘が食べたいよ」
「言わねーよッ‼」
「な、なんですか急に、そんな大声出して。びっくりした……」
「びっくりしたのはこっちだ! せっかくちょっと佐倉に見えてきてたのに……。もうちょっと本人が言いそうな発言をしてくれよ」
「いやいや、言い得るでしょう。佐倉先輩ですよ? こういったボケの一つや二つ、小気味よく入れてきますよ」
「う……そう言われると、たしかに……」
「そうでしょう? 佐倉先輩がどの角度からボケてきても、冷静にツッコめるように。それを鍛えるための訓練でもあるんですから。しっかりしてください」
「……はい、すいません……」
「というわけで、じゃあいまから橘先輩の部屋に行きましょう」
「なんでッ⁉」
「だから先輩、考えてください。佐倉先輩のことです。あらかじめ決められたスケジュールどおりに動いてくれると思いますか? 初めて来た友だちの家。佐倉先輩ならきっとまずは部屋を見たくなって、真っ先に向かおうとしますよ。『まずはお部屋拝見ターイム!』とか言って」
……言うかも。言う……かな? 「さあさあ、行きましょう」と森木に急かされるまま、自分の部屋に案内する。
「おぉ、ここが橘先輩のお部屋ですか。きれいにされてますねぇ」
ドアを開けると、森木はすたすたと部屋の中に入っていく。
「あれ? 壁に佐倉先輩の大量の隠し撮り写真が貼られていない……。これは……?」
「『これは……?』じゃないよ。お前はあたしを何だと思ってるんだ。そんなもん貼ってるわけないだろ」
「データ派……ってことですか?」
「隠し撮りをしてないってことだよ! あたしを変態扱いするなッ!」
「……まぁ、そういうことにしておきましょう。さ、じゃあここからあらためて、佐倉先輩モードです」
「なんでまだちょっと疑ってるんだ……。はいはい、えーと……じゃあ佐倉、ここ座って。いまお茶淹れてくるから」
「えー、いいよお茶なんてー」
「いや、でも、一応礼儀として……」
「わたしジュース派だからさー」
「え、あぁ、そういうこと……。たしかに、ちょっと言いそうだな……。ジュースね、わかった、ちょっと待ってて」
台所に行き、オレンジジュースを注いだグラスを持って戻ってくる。——と、
「——あ! おいコラ森木、なに見てんだよ!」
森木がテーブルの上に卒業アルバムを広げていた。
「森木じゃないです! わたしは佐倉澪、人の卒業アルバムを許可もなく勝手に見る女」
「いや、いくら佐倉でも、そこはさすがに許可を——」
……いや、どうだろう。何が正解かわからなくなってきた。
「まあまあ。どっちみち、もう見ちゃってるんだし。いまさら止めたってもう手遅れだよ。一緒に見よう」
「いや、一緒にって……それが恥ずかしいんだよ……」
「あ! ここ、橘写ってる! ……ふふ、この橘、なんかちょっと幼くて可愛いねー」
「……そりゃまぁ、幼いだろ。中学生なんだから」
「可愛いねぇー」
「わかったわかった。もういいよ、ありがとな」
「可愛いねッ‼」
「なんでキレてんのッ⁉」
「だって! わたしこと佐倉先輩に『可愛い』って言われてるんですよ⁉ もっと照れたりどぎまぎしたりしてください!」
「あぁ、そういう……」
「そしてあたふたするあまり、持ってきたオレンジジュースをうっかりこぼしちゃったりしてください!」
「いや、さすがにそこまではしない……と思うよ。……まぁ、そうだったな。いまお前は佐倉だったな」
「そうです。再開しますよ」
と森木はクラスの個人写真のページを開く。
「あはは。橘ぁ、せっかくの個人写真なんだから、もっと笑おうよ」
「……それでも精一杯笑ってるんだよ」
「ねね、橘はさ、この中に誰か好きな人とかいたの?」
「え——い、いや、好きとか……そういうのは、べつに……」
「えぇー、ほんとにぃー? ……あ、この子とかは?」
「いや、だから……」
「違う? んー、じゃあ……この子とか」
「……」
「あー待って待って、わかった! こっちの——」
「なんで全員、女子なんだよ‼」
「……え? だって橘先輩、女好きじゃないですか」
「……言い方! 違う、あたしは女子が、とかじゃなく、ただ佐倉が、その……す、好きなんだよ!」
「あぁ、そうだったんですか」
「だいたい、仮にそうだったとして、佐倉がそのことを知るはずないだろ! お前はもっと佐倉としての自覚をもて!」
「あ、たしかに。……えへへ、すいません」
……ん? いやいや、あたしは何に怒ってるんだ? もう自分でもよくわからなくなってきた。やっぱりもう、こんな意味のない茶番はやめてもらおう……。
「そういえばさー、橘の下の名前、樹絵瑠っていうんだよね」
森木が個人写真の下に書かれた名前を指さしながら言う。懲りずにまだ佐倉を演じるつもりらしい。
「なぁ森木、悪いけど……」
「あのさ、わたし橘のこと、下の名前で呼んでもいいかな?」
「……え? それは……」
「——あ、そっか。そういえば橘、自分の名前あんまり好きじゃないんだっけ。前に言われたの忘れてたよ。ごめんごめん、忘れて」
前に、初めて四人で一緒に昼食を食べたとき、自分はたしかにそんな発言をした。あれはただ、佐倉に下の名前で呼ばれるのが恥ずかしくて、そういうことにして誤魔化しただけだったんだけど……。まぁ、言わなくていいか。いまさら説明するのも面倒だし。
「でも、わたしは好きだけどな。樹絵瑠って名前」
「……え?」
「特に頭の『樹』っていう字が。優しくて、でもちゃんと芯が通ってる感じ。橘にぴったりだよ」
「……」
「きっとさ、ご両親には生まれてきた橘が宝石みたいにキラキラ輝いて見えたんじゃないかな。すごく、素敵な名前だと思う」
「……あ、ありがと、も——佐倉……」
「さ、じゃあお腹も空いてきたことだし、そろそろお料理教室始めよっか」
立ち上がり、歩き出した森木の後について部屋を出る。
「ご指導よろしくお願いします、橘先生!」
「包丁をこっちに向けるな。……じゃあまず、そっちで野菜切って」
そうして、森木演じる佐倉との「お料理教室」が始まった。メニューはカレー。家で遊んだとき、佐倉がカレーを作ったという話を池田から聞いたからだそうだ。
森木の手つきは滑らかとは言い難かった。たしか前に、普段料理は全くしないと言っていた気がする。ただ、そのわりには構えや包丁の入れ方が妙にしっかりしている。おそらく、「最近料理を始めた佐倉」という設定に合わせてわざわざ練習してきたのだろう。真面目というか、なんというか……。
「なぁ、森木」
「先輩! 何度言ったらわかるんですか! いまわたしは佐倉——」
「今日、ありがとな」
「え?」
「その、髪型とか靴とかさ、……他にもいろいろ、今日のために考えたり準備してきてくれて……ありがとう」
「い、いや、わたしは、べつに——つッ!」
「——! 森木、大丈夫かっ⁉」
誤って手を切ってしまったらしい。口で、指の傷口から直接、血を吸い出す。
「——あ、の……っ、せ、先輩……?」
「じっとしてて」
含んだ血を、ぺっ、とシンクに吐き出す。キッチンペーパーで森木の指を包み、強く圧迫した。
「少しの間、こうして押さえておいて」
「は……はい……」
——と、そのとき、家のドアが開く音がした。「ただいまー」と声がして、母がキッチンに入ってくる。
「おかえり。どうしたの、今日仕事遅かったんじゃ……?」
「うん、その予定だったんだけど、意外と早く片付いてね。……あら?」
母の視線が森木に注がれる。
「は、初めまして! 橘先輩の後輩の、森木と申します!」
手を腿にピタッと当てた、直角に近いお辞儀。——と、その指先から、ぽたり、と赤い雫が落ちる。
「じ……樹絵瑠……、あなた、その後輩の子に、何を……」
「ち、違うわッ‼ こいつが包丁で指切ったから、応急手当してやってたんだよ‼」
その後、母を交えて三人で完成したカレーを食べた。
森木を途中まで送り帰ってくると、母が洗い物をしていた。
「あれ。いいよ、あたしやるから。疲れてるでしょ」
「いいの。今日は早く終わったし、洗い物くらいやらせて」
「……あぁ、そう」
「森木さん、いい子ね」
「……うん、まぁ、そうだね」
「最初会ったときは、あんたがあの子にどんなひどいことをしたのかとびっくりしちゃったけど」
「自分の娘を信じろよ……」
「大事にしなさいね」
「……え? ——って、えっ⁉ な、なんで泣いてんの⁉」
「だって……あんたが家に友だち連れてくるのなんて、初めてだから……」
「だ、だからって、泣くこと……」
「これからも仲良くなさいね。せっかくできたお友だちなんだから」
「……包丁をこっちに向けるな」
ベッドの上にうつ伏せに倒れ込み、はぁーとため息が洩れる。
あーあ……結局、全然うまくやれなかったな……。あんまり佐倉先輩っぽくできなかったし、橘先輩のおもしろ可愛い反応を引き出してやるはずが、逆にこっちが一瞬ドキッとさせられちゃうし……。
はぁ……良い計画だと思ったんだけどな。先輩たちと交流する中で、わたし自身にもおもしろ発想力が芽生えてきたのかも、なんてちょっと浮かれていたけど……結局、ただの勘違いだったみたいだ。やっぱりわたしはつまらない人間。橘先輩にも無駄な時間を過ごさせちゃったな……。明日、学校で謝ろう……。
と、三度目のため息が口から出そうになったところで、スマホが鳴った。橘先輩からの着信。通話ボタンをタップする。
「すみませんでした……」
「なんでいきなり謝罪……? その、ちゃんと帰れたか気になってさ……」
「はい、大丈夫です。ありがとうございます。そしてすいません……」
「だから何に謝ってるんだ、お前は……? あたしが覚えてるかぎり、あたしに対して何も悪いことはしてないぞ、その……千智は」
「……千智?」
「あ、あたしのこと、下の名前で呼ぶって言ったろ? だからあたしも、そう呼ぶ」
「……」
「……」
「はい、……樹絵瑠先輩!」
小さく鼻を鳴らすような音が聞こえて、先輩は言った。
「また、遊びに来いよ」
「いいんですか?」
「うん。でも次は、もっと歩きやすい靴で来て。送るとき、一緒に歩いてていつ転ぶかとハラハラするから」
わかりました、と笑うと、受話口の向こうからも柔らかな笑い声が響く。何かを優しくほどいてくれるような笑い声だった。
「——あ。じゃあ次は、佐倉先輩本人も一緒に——」
「それはまだ早い」




