4話 藍色の空、夕星の下で
体調の悪さを押し殺し、少年はついに神社へ向かう
(※気持ち悪い表現があります)
「っく……が、ごっぷ…」
家を出た瞬間、俺を待っていたのは強烈な吐き気だった。
炎天下、強烈な夏の日差しを浴びた瞬間に視界がぐにゃりとねじり曲がる。
口の中に広がる酸っぱさが胃がひっくり返るのを伝えてくるが吐いてる場合じゃないとどうにか押しとどめる。酷い体調だ。生まれて初めての酷さだ。
それでもと俺は足元もおぼつかない状況で、壁に手をついて体を支えながら神社を目指した。
不調を前面に押し出している俺を誰かが見れば呼び止めるだろう。けれど人目を避けて神社へたどる道はもう把握済みだ。何百と通い詰めたからこそ周辺の地図は頭の中にある。足を進めれば自然と道をたどれる。
「後は、ぐっ!……身体が持つかどうか……かよ。」
陽炎が立ち上りじりじりと俺を焼き付ける太陽。下から照り返すアスファルトはまるでフライパンの上を歩いているかのような錯覚に陥る。このまま倒れてしまえば死ぬことくらい想像できてしまう。それでも足は止まらない。倒れそうになるたびに壁にもたれ掛かり人の姿が見えれば大丈夫なふりをして歩き続ける。通いなれた道もこの体調の悪さでは長く、長く感じてしまう。
数分も歩けばぐにゃりと曲がる視界に信号機も何色なのかよくわからない。蝉の音も車の音も聞こえない。視界はだいぶ白く埋め尽くされていく。それでも前へ、前へ。倒れるな、巫女さんに会いに行くんだろうと、自分に言い聞かせて歩き続ける。
体調の悪さはピークに達し、胸を押さえつけなければ何かが馳せてしまいそうだ。すれ違う人の顔は真っ暗でよくわからず壁によりかかろうとするも、幻覚でも見ているのか、何度も地面に倒れこんだ。後ろを見れば何かがぴたりとついてきているような錯覚も起こし、右も左もわからない。
それでも立ち上がって歩き出すのは意地だろうか。目は開いているのにこんなにも歪んだ視界では頼りにならない。もう神社までどれくらいかもわからない。たどり着けることができるのかと不安になる。それでも何百回と通い詰めたその体の感覚だけを最後の頼りに歩き続けた。
「……」
何かが聞こえる。
そう感じたのはどれくらい時間をかけたのかわからないが、神社の石段を目の前にした時だった。
聞こえていたのは、ひどく荒れる自分の息だとわかる。
乾いた喉、異常なほどに熱を持った身体を冷やそうと息を吸い込むために空を見上げた。
いつのまにか空は青さをわずかに残し、夕焼け色へと変わっている。とんでもない時間をかけてここに来たことがわかった。
夏風は昼間より色を変えてほんのわずかに温度を下げ。汗を吸い込んだシャツがその風を受けて僅かに体を冷やしたのだろう。ぼんやりとしていた意識を少しだけ呼び起す。
目の前のよく見たその景色に思わず声が漏れる。
「あぁ……」
ついた。
たどり着けた。
石段を前にして出る言葉もない。
体中の水分は出し切ったのかもう汗も出ない。体調の悪さが僅かに良くなるが、まだ神社の前だと自分にい聞かせる。
俺は耳を澄ませば蝉の声は聞こえない。この先にある社その縁側に巫女さんがいる。そんな気がした。
一歩、また一歩、石段を歩む。重たい足を上げ、一段一段ゆっくりと、息を切らし、何度か倒れ、足に血が流れてもやめることはない。
巫女さんに会いたい。
会わせてくれ。
お願いだ。
会いたいんだ。
そして、もうさよならなんて言わないように。
またね、で別れたいんだ。
ただ、それだけでいい。
最後は這うようにしてたどり着いた神社、社は背中から照らす夕日にオレンジに色づいていた。
蝉の声も暑さも忘れてたどり着いた。まだ胸から飛び出そうな衝動は続いている。
朦朧とする意識の中、必死に体を立たせ、重たい足を引きずりながら探した。ぐにゃりと曲がった視界で探した。探して、探して、太陽が街並みの向こうに見えるころ、膝をついて、俺の足は止まった。
「あ、あぁ……くそぉ、こ、今度こそ、って、お、思って……」
巫女さんは……いなかった。
もう、帰る力も残っていない。荒い息を整える余裕すらない。胸にある熱さはひどくなっていくばかり。頭の中をずっと回し続けているような気持ち悪さ、ぐにゃぐにゃと歪んでいる視界。心配するだろうなぁ。何も言わずに出てきちゃったもんなぁ。怒られるかなぁ。怒られるだろうなぁ。もう、それでもいい。
巫女さんがいたはずの縁側に座り込むと、社の壁に背を預ける。もう動けない。
ぜーぜーと音が聞こえる息を聞きながら悔しさにまみれ、歯を食いしばったあと脱力する。
たった二回。ほんのわずかな時間。それだけでどうしてこうも会いたいだなんて思うのだろう。こんなにも会いたいだなんて、会いたい人が居るだなんて初めての事だ。でも、それはおかしなことじゃ、ない。
「……そっか、俺――――」
鳴く蝉の声は、いつの間にか悲しげな音色になっている。
オレンジが強くなっていく空に、諦めたくないとつぶやく。
最後の一回と思ったけど、この気持ちは抑えられない。何度だって来てやると強く思う。
「なら、帰らなくちゃな。また来る、……為に」
もう少し休めば意識もはっきりするだろう。もう少しすれば胸の熱も収まるだろう。
もうちょっと体調がよくなったら……そう思い目を閉じる。
体中が疲れ果て、目も耳も辛い。ぼんやりした視界じゃ帰るのはきついだろう。音が不確かな聴力じゃ危険だろう。
そう、危険……と考えた俺の頭の中に一つの言葉が浮かんだ。
「へん、しつしゃ?」
目を閉じていた俺は一気に血の気が冷めていくのを感じた。
ぼんやりしていたけど、外へ出るのは危険だって言っていた。なんで忘れていたのか。どうして忘れていたのか。頭の中で危険信号がぐるぐると回り、まだ落ち着いていない息を無理やり整える。
体は動くか、走れなくてもいい普通の速度が出なくてもいいから歩けるか?
ここはひと気がすくな―――
『あはぁ、いたいた。君ぃ、何を、して、いるの、か、ね?』
耳元でささやかれたようなぞわりとする声に俺の体は硬直した。
突然の声、太陽をさえぎるような場所に立って、神社の鳥居の向こうから男が話しかけてきていたのだ。
黒い風貌、服を着ているようだけど何を着ているのか全く分からない。かろうじて大人の男の声と真っ黒なシルクハットだけがわかる。
いや、もう一つわかることがある。
自分の息が荒くなることがわかる。胸の熱さがさらにひどくなって、縁側から転げ落ちる。体が動かない、その男を見るだけで体が硬直する。異常な寒気、気持ち悪い、あれは気持ち悪い。そう、だからわかる。あれは、街に出ているという変質者。
『だ、だいじょうぶか、ねぇ?ほら、もう、夕方、だ、よ?』
とぎれとぎれに聞こえてくる声が頭の中に叩きつけられる。ノイズ交じりで、聞くに堪えない。けれど耳をふさごうにも、腕の一つも動かない。俺は地面に縫い付けられたように動かなくて、目が、その男から離れない。
「う、うぅ……」
『ほぉら、おや、が、しんぱい、してる、だろう?』
「く、くるな」
『なぁぁんでぇえええええ!?』
視界一杯に男の顔が映った。鳥居の外から一歩も動かない男は俺の瞬き一つで、一瞬で、その顔を、その体を俺の真正面に移動させていた。そしてゆっくりとシルクハットが持ち上げられる。
「あ、あぁ……ぁ」
ぐしゃりとつぶされていたその顔、どろりとした粘液の様なものを顔中に張り付かせ、本来あるべき目の場所には真っ黒な空洞と、目の変わりに入れられている暴れ狂う蛆の集団。にたりと笑う歯は欠け落ちているものの、鋭さがあり、そこから嗅覚がマヒするほどの強い鉄の臭いがした。
こみ上げてくる吐き気、だが動かない体は吐しゃすら許してくれない。
『ほぉら、ひとりでいちゃぁ、だめ、だ、ろう?』
「ひ、ひ、一人じゃ」
逃げようにも足どころか体も動かない。逃げられない距離に気持ちの悪い顔が広がるけれど、なぜか目線が、逸らせない。歯はかちかちと打ち鳴らし、逃げろ逃げろと心の中で強く思うも、逃げられない。
『だれ、か、いるのお、かい?』
「い、い、いる」
『今、いる、の?』
「え、あ、それはだな」
答えろ俺。
必死に答えろ。
誰かがいると嘘をつけ、それで逃げてくれ。
頼む、俺はまだ死にたくない。
『今、その、ひと、は、いる、の?』
「今はちょっとどっかに!すぐ来る!」
『今、その、ひと、は、いる、の?』
「だからすぐ戻って」
『今、その、ひと、は、いる、の?』
「おい、き、聞けよ……俺は!」
『今、その、ひと、は、い、い、い、いいいいいい』
「っ!?」
『君はひとり。ひとり。ひとり。ひとり。ひとり。ひとり。ひとり。ひとり。ひとり。ひとり。ひとり。ひとり。ひとり。ひとり。ひとり。ひとり。ひとり。ひとり。ひとり。ひとり。ひとり。ひとり。ひとり。ひとり。ひとり。ひとり。ひとり。ひとり。ひとり。ひとり。ひとり。ひとり。ひとり。ひとり。ひとり』
狂ったように言葉を繰り返す。
いや、狂っている。
まともに会話なんかできるはずがない。
誰かがいるという嘘も、まったく関係ない。
こいつは、最初から俺が一人であることを知っているし、もし誰かがいたところで、襲っていただろう。誰かに咎められることも気にするまともな思考を持ち合わせちゃいない。それは絶望だった。悲鳴の一つすら上げられないほどの絶望。体も動かず、声すら上げられず、餌食になるだけの俺にできることは何もない。
男はまるで笑っているようにも思える言葉を一通り繰り返した後、ねちゃりという音を出して口を開いた。真っ暗な空洞。喉の奥は見えない。頬を裂きながら大口をさらに広げると、そこから肉を生のままこねて細長くしたようなものが無数に現れた。
叫ぶ声も出なかった。恐怖で固まった体は男の両腕で持ち上げられ、裂けた口から這い出る触手が俺の首をゆっくりと締め始める。ぬちゃりぬちゃりと音を立てて這い回るそれに気持ち悪さが膨れ上がるが、意識は飛んでくれない。
『あぁ、あぁ、ひさしいなぁ。みんな、、きを、つけて、るし。人、タべるの、ひさしいなぁ』
食われる。こんな人でもない何かに俺は食われる。
文字通り口の中に引きずり込まれ、その鋭い歯で肉をえぐり、骨をかみ砕き、咀嚼され食いつくされる。
ぎちぎちと首を絞められ、指一つ動けない俺は、ここで――――
「ぅぁ……」
息苦しさにわずかに意識が飛んだ瞬間、手からビー玉が零れ落ちて地面を軽く叩く。
その音は失いかけた俺の意識を呼び戻し、動かなかったはずの体に抵抗の力を与えるのには十分だった。
転がるビー玉が離れていく様を見た瞬間、全力で手を伸ばす。
それはただのビー玉じゃない。
巫女さんと俺をつないでいるたった一つの物。かけがえのない物。
失いたくない。巫女さんいたっていう唯一の証だから。
自分の事すら完全に忘れ俺は地面に転がるビー玉に手を伸ばす。
もがく、もがけ、手を伸ばし、力を入れろ、まだ届かない。どうして届かない。
邪魔をしている奴がいる、誰だ、そうだ!この黒い男が邪魔をする!
俺は男をにらみつけると、思いっきり右足を振り上げた。
「……ぁまだ」
『な、に、言って』
「邪魔だって言ってんだろうがあっ!」
全力で叫び男の顔に思いっきり右足を叩き込んだ。
ぐちゃりと何かがつぶれる音、はじけるように飛び出す蛆の集団、気持ち悪さは全く変わっていない。だが、その衝撃は僅かに首を絞めていた触手をわずかに緩ませた。
絶対に巫女さんとのとのつながりを失いたくないその気持ち。無我夢中で首に巻きついている触手を自分の首をひっかきながら引きはがす。
ずきりと走る首元の痛み、今は意識をはっきりさせるのには丁度良かった。
触手から解放された俺の身体は右肩から地面に落ちる。転がるビー玉は少し離れた場所で止まっていた。すかさず飛びつこうと右腕を伸ばそうとした瞬間に走る激痛。上がらない右腕。
落ちた時に痛めた肩が上がらない!?なんでこんな時に!
僅かに朦朧とし始める意識で左腕を伸ばしながらビー玉に飛びつこうと力を込める。
『だ、めぇ。にが、さ、ない』
前へ飛んだその勢いは空中で殺される。地面に叩きつけられる衝撃と同時に感じたのは右足に巻き付く何かの感触。そんなのは構わない!左腕を伸ばす。あと少し、届け、届けっ!
「くそ……くそぉおおっ!」
叫んだ。力の限り伸ばした左腕、その左手がビー玉に届く僅か前に引き戻された。
遠くなるその距離、目の前にあるのに届かない。
いたはずなのにいなくなってしまった巫女さんを想う感情がこみ上げてくる。
動かない右腕、左腕一本では男から逃れるための力は足りず、ずる、ずる、とゆっくり引き戻され、男の口へと自分の体が向かっていくのがわかる。
こんなところで終われない。
巫女さんと会いたい。
もう一度、もう一度だけでいい。
諦めきれない。
左手は地面を掴む、力が足りない。
『えはぁ、あ、と、すこ、し』
動かなくなった右腕を無理やり動かして地面を掻く、まだ引きずられる。
激痛が右肩から意識を奪いに来るが意地だけで耐える。
「ふんぐぁあああああっ!あああああああっ!」
顔を地面につけて、歯で地面を掻きあがく
泣き、鼻水を流しながら、地面に顔をつけてあがいた。
できる限りの抵抗が叶うことはなく、引きずられていた俺の足が僅かに持ち上がる感触を知る。足のその先にあるのは、男の、口。
足をばたつかせ、俺は視界の先に小さく転がるビー玉を、涙で滲んだ視界に捉えた。
ビー玉の虹色が、完全に消えたように見えた。
「巫女、さん」
それは俺が手を伸ばしたのと同時だった。
視界が一瞬、真っ白に塗りつぶされ、俺を引きずる力が無くなる。
そして同時に後ろから聞くに堪えない男の叫び声が聞こえた。
『ぎゃぁああああ!!』
何が起こったのかはわからない。
後ろを振り向くと、男は俺を食べようとせず、叫び声をあげながらもだえ苦しんでいる。その体からは真っ黒な煙をぶすぶすと上げ、まるで何かに焼かれたような状態にもだえ苦しんでいた。
後ずさるように俺は男から距離を取った。
逃げる俺に手を伸ばす男、そこにまた視界を真っ白に塗りつぶす。
何かが強く一瞬だけ光る。
まぶしさに眩みながら目を開けると、俺に延ばされていた男の手が消えて黒い煙を上げていた。
この光は、どこから?
息荒く、周囲を見渡すその瞬間にもう一度強く光る。
『あぁああああ!!あぁああああ!!おのれぇ!おのれええええ!!!』
光の発光はまだ続く。俺にとってはまぶしいだけのそれは男にとってはまるで酸を浴びせられたようなものなのか、強く発光するたびに苦しみの度合いは増えていた。
呆然とそれを見る俺の目の前で、ついには立てなくなった男はその場で崩れた。いや、男の両足がボロボロと崩れて消えていた。
男の体から苦しみから逃げるように湧き出す蛆が光が発行するたびに蒸発していく。
『お、のれ!』
「っ!」
『おのれぇ、えええええ!』
苦しみに動けなくなった男は、この世の物とは思えない強い憎悪の感情を叫び、空洞の目を俺に向けた。いや、よく見ればその視線の先が俺でないことがわかる。憎む声がかかる先も俺じゃない。
『し、し、し、しん、こう、なき、なき、なき、なき、神、神、神、に、な、なななななぜ、ぜぜぜ、い、いいいいい、ぬ、が』
男の体が崩れていく。
何度も強く降り注ぐ光についに地に伏せた。
壊れた機械のように言葉を出し、強い憎悪の視線を――――俺の後ろに向けながら
だからこそわかる。
蝉の声が聞こえなくなる感覚。
ざわめく夏風に揺れる葉音。
もう間違いなんかじゃない。
「……犬っぽいけど、犬じゃねぇよ」
男が犬と呼ぶそれは、俺の後ろにいた。
男が向けるその声も、視線も、力なく。恐怖はなくなっていた。
涙と鼻水、それに地面の土に顔を擦ったおかげで垂れ流す血に交じった顔を後ろへと向ける。ぼやけているはずの視界にビー玉を掲げる人の姿が見える。
あぁ、会いたくてしょうがなかった、その人が居る。
「―――なぁ、巫女さん」
かすれ、疲れ切った俺の言葉に言葉が返ってくる。
ずっと、ずっと、この一瞬を待っていたんだ。
「うん」
巫女さんは優しい笑みを俺に向けるとその手に拾っていたビー玉をかざす。
ビー玉はあの時もらった奇麗な虹色を取り戻し、そこから何度も強く光を放つ。
悪い奴をやっつける、良い奴。お守り。
見る見るうちに男は煙になって消えていく。
影も、闇も、まとめて吹き飛ばすようなまるで太陽のように感じる光だった。
そして言葉すら発することもできなくなった男は、強い光の中、何一つ残すことなく消えた。そこに存在していなかったかのように。
黒い煙も最後には光に書き消えたように見えた。
そして、あの静寂の神社が戻っていた。
「終わった……」
信じられないような出来事に遭遇したはずだけど、頭はまともに働いてくれない。男に襲われ食われそうになったという事実は体にある傷を見れば明らかだというのに、どこか現実感を失っている。
でも、それもどうでもよかった。
俺にとって大事なことは、何一つ変わっていない。
巫女さんが、いる。
ただ、それだけがあればよかった。
「巫女さ―――」
肩で息をする俺は、巫女さんを見ようとして振り向いた。
言葉を出し切る前に、俺の体は巫女さんの体に抱きしめられていた。
「もう、会えないはずだったんだけど、ね」
巫女さんと触れてやっと実感する。ここに巫女さんがいることに。
巫女服の感触、顔に触れる白い髪、巫女さんの顔。少し悲しげではあるけどあの時と全く変わらないその声がここにあった。
いろいろ流しすぎて体中の水分なんてもうないはずだけど、こみ上げてくるものにまた視界がにじんでくる。もう我慢なんてできるはずがない。
会いたかった、会いたかったんだ、ずっと。
「えと、あ、そうだ!き、傷っ」
俺が泣きだしそうな顔になったからだろうか、巫女さんは俺から体を離すと服の裾で顔の泥や血をぬぐってくれる。
わたわたと焦りながら自分の巫女服に泥や血が付くのも気にすることはない。
不思議なことに拭われた所から痛みがすっと引いていく。
だからこそ、自分の心の痛みがあらわになっていく。
ぼろ、ぼろと、涙があふれてくる。
「まだ痛いとこある?」
「ね、ねぇよ」
「でも、泣いて」
「そ、そ……そうじゃねぇよぉ」
巫女さんの服で拭われた場所の傷は、何事もなかったように無くなっていた。
顔の痛みも、首の痛みも、右肩の痛みも、いつのまにかはがれた爪も戻っている。
でも、涙は止まらなくて、その様子に巫女さんはまだどこか怪我があるんじゃないかと探すんだけど、痛くて泣いてるわけじゃない。
「えと、えーっと」
「巫女さん……巫女さん」
「うん、うん。どこか痛いとこあった?ある?」
「……さ、探した」
「え?」
「探したっ」
感情が抑えられない。
目の前にいる困り顔の巫女さんがどんどん滲んでいく。
巫女さんは、俺が泣いていることに困っているのに、涙は止まらない。
強い気持ちが、あふれてくる。
「あ、あぁーー……えぇと」
「探したって言ってんだろっ馬鹿あ!」
巫女さんがびくっと驚く。
でもそれがどれだけのものだったか。
もう、我慢なんてできなかった。
心の中にあった感情を、頭の中にあった想いを我慢なんてできるはずがなかった。
「ご、ごめん」
「ごめんじゃねえーよ!」
「え、えっと、その」
「ごめんじゃねーんだから!俺どれだけ探したと思ってんだよ!何年探したと思ってんだよ!二年だぞ二年!夏になっては来て、夏でもいないから秋でも冬でも春だって来てそれでもいなくて、俺探したんだぞ!!毎日ここ来てんだぞ!なんでお前いないんだよ!なんでだよ!俺馬鹿じゃん!すげぇ馬鹿みたいじゃん!」
「…えぇと、それは」
「しかも現れたと思ったらなんなんだよ!!わけわかんねぇーよ!意味わかんねーよ!!なんで俺襲われなきゃなんないんだよ!どういうことだよ!巫女さんに会いに来ただけなのになんでこうなるんだよ!わんかねーよ!巫女さんも探せよ!!俺も探したんだからっ、お前も探せよ!かたっぽだけじゃ会えないじゃん!探したって会えないじゃん!俺だけ、会ってうれしいとか、馬鹿みたいじゃん!馬鹿みたいじゃんかあ!うっ、うっ、うぇっ、うわぁぁぁああ!わああああああ!」
戸惑う巫女さんなんか知らず堰を切って出た言葉は止まらなかった。
二年の間、毎日神社に通い詰め巫女さんに会いたくて仕方がなかった。
最初は、"またね"と言って別れたいため。
もう二度と会えないだなんてことをしたくないため。
もう二度と会えない人が居るのだと知って、それが悲しくて嫌だった。
神社に通うたびに、巫女さんに会いたい気持ちが大きくなる。
その姿が、その声が、その笑顔がもう一度見たいから。
気持ちを大きくしすぎたその感情は全部そのまま言葉になって押し寄せる。
一度大きく振れた感情を押し込めることはもうできない。
ぼろぼろと涙まで流しながら、怒って、泣き、そして嬉しさを巫女さんに向けていた。
街並みの向こうに夏の夕日が沈んでいく。
巫女さんは泣き喚く俺をただやさしく撫でてくれていた。
「探してくれて……ありがとう」
長い時間をかけて俺と巫女さんはようやくの再開を果たした。
それは俺の一方的でわがままな再会だったののかもしれない。
それでも願いが叶い、再会することができた。
そして再会してしまったからこそ、俺と巫女さんが歩む道はここから大きく変わっていく。
それに気が付くのはもう少しだけ先の話。
今はただ会えたことに俺は泣く。
空の色が藍色に替わり、夕星が見え始めるまで巫女さんの腕の中で。
お読みくださりありがとうございます。
次回は来週の火曜の14時です(複数話を投稿いたします)