《ろく》
どのくらい眠っただろう。玄関を開けた直後から記憶がない。目覚めた私は、自分がベッドにいることを知った。周りは薄明るい。廊下からお母さんの炊事の音が聞こえる。いったい今は夜なのか朝なのか、それすら分からない。
立ち上がろうとしてベッドから転げ落ち、私は大きな音をたてて床に尻餅をついた。
すぐに、パタパタとスリッパの音が近づいてきて、ドアが開き、お母さんが心配そうに入ってきた。
「やっと起きたのね、今の音大丈
夫?、怪我はない?」
私はベッドにしがみついてヨロヨロと立ち上がり、お母さんと一緒にリビングまで行って、ダイニングテーブルに腰掛け、時計を見た。
時間は19時。数時間は眠ったようだ。いまは頭もスッキリしている。
「あなたが寝てる間大変だったのよ、テレビ付けてみて」
夜のニュースをやっている。すぐに目に飛び込んできたのはいつも通っているスクールゾーンの惨状だった。
「あんまり酷いから、昼にやってたのも録画しといたわ、見てみたら?」そう言えば頭の隅でサイレンやら叫び声やらが鳴っていたような気がする。こんな大事だったのか?
母に促され録画を再生してみた。こ、これは……
大惨事……
「ノン子が帰ってくるちょっと前まで酷い状態だったみたいよ、よく無事にあそこを通って帰って来られたわね、ホント良かった〜」
覚えている。眠くてしっかり見られなかったがあの喧騒は覚えている。サイレンやらパトランプ、救急車の音も、駆け寄る野次馬、人混み……
録画は60分以上にも及び、そのうち最後の15分は事件の検証に当てられていた。
『そう言えば、ドラ親父は?』不意に気になった。
「朝から見てないけど、私昼間は仕事で居なかったから、どこかしら、でもいつも行方の知れない人だからね」心配しても仕方が無い、そんな風に母は呆れ顔をしてみせた。
ん?あれは?、今まで気が付かなかったが、伝言メモの点滅がいつの間にか4件になっている。朝の分もまだすべて聞けてはいないが、朝は確かに3件だった筈だ!
「ちょっ、急に何よちょっと、ノン子……」戸惑うお母さんを押しのけ、私は弾かれたように伝言メモに近づき、点滅を確認した。
『やっぱりそうだ、4件だよ4件、お母さんホラ見て!』
「ホントね、いま気付いたわ、私もさっき帰ったばかりだから」
『まだ聞いてないのね?、聞けるかな〜、ちゃんと動けよ、動け〜』私は必死で念力を送った。
「あのー、オレだ、お前、あのさ、勝てるから、必ず、な!」
なんなんだーこの意味不明に自信有りげに、なお無根拠なアドバイスは?、いつもなら聞き流す、なんてことない言葉かも知れないが、今日の今このタイミングで聞くのは、あまりにも不吉すぎる!!!
『そうだ、録画!続き!!、何か映ってなかった?お母さん!』
「それが……」たぶん私たち二人以外なら見落としてしまっていただろう、ほんの一瞬、だが画面の隅に、確かにそれは映っていた。
ロンゲを振り乱した真っ青なツナギに腹巻の男が一斗缶を抱えて何かを振りまいている。それは瞬く間にフレームアウトして気づくことすら困難な細やかさだったけれども、私たち二人だから分かる。
『ドラ親父……』「ドラちゃん……」
それに気づいた私たち2人は、そのままその場で凍りついていた。
「もう……、無いの?ノン子、」
『は?』沈黙を破ったのはお母さんだった。
「伝言メモ……、もう無いの?」
『待って、ちゃんと再生されれば良いけど……』そうだあった。まだあった。
「わりぃ、ちょっともうここには帰れなくなったわ、やり過ぎたっつーか、まあでも勝てたろ?、それだけは間違いないよな、へへ、グスっ」
何故かちょっと泣いているようだった、それは録音越しにも分かった。私より先にお母さんがそれに気付き、お母さん自身も同時に涙ぐんでいた。
「ドラちゃん……」
ずるいなって思った。近くに居る時は、いつでも会えるうちは、まったく気付かなかったのに、なんで居なくなると分かった瞬間こんなにまで心が空虚になるのだろう。ドラ親父帰ってきてよ、またあの胡散臭いいで立ちで不器用に私を慰めてよ!、お前がくれた道具、怖くて使えなかったけどちゃんと御守代わりに筆箱に入れといたよ!
心の中でそこまで叫んだ瞬間涙が溢れてきた。いくら居候でも、役立たずでも、突然居なくなる奴があるかよ!寂しいだろバカやろー!
心で叫んだつもりがいつの間にか口まで動き、声になって響き渡った。涙が溢れて止まらない。お母さんは私より先に泣いていた。
「ドラちゃん、ホントにどうしちゃったの……」悔しくて恥ずかしくて寂しくて涙が止まらない。
録画を再生したまま、私はスマホで学校裏サイトに接続してみた。普段は怖くて見れないけど今日はそんなこと言ってられない。タケコとヒサコは既にログインしており、今朝の非常事態について話し合っていた。
タケコとヒサコ共に家を出た直後路面に撒かれたローションのような物質(と言うかローション)で盛大に転び、打撲。二人共それでも挫けずテストに挑もうとスクールゾーンに差し掛かると、二人のいる交差点めがけて暴走車両があちこちから乱入、スリップし、未曾有の複数台衝突事故に巻き込まれた。それでも致命傷など負うことなく紙一重で現場から生き延びた二人はなんとか無事学校までたどり着いたが、とても試験に間に合う状況では無かった。よって、私ことノン子は生まれて初めてテストによる勝負に勝ったわけだが……、これって勝ちなのか……?
現にタケコもヒサコも事件の恐ろしさを語るばかりで、ノン子との勝負に負けたことなどどこかにいってしまったようだ。
もしドラ親父が仕組んでくれたのなら、なんと無意味で、危険で、不毛な作戦だろう。下手すると私や母まで危ないところだった。幸い今回は人命に支障無く、怪我もタケコとヒサコの打撲くらいで、むしろちょっといい気味だくらいに思っているが。
そんなに気にしてくれていたなら、行方などくらまさずに帰ってきてよ。
お母さんも待ってるから。ねぇドラ親父……、ドラちゃん……、ドラ……。
その時、スマホの受信ランプが点灯した。見たことないアドレス、どうやら捨てアドのようだ。一瞬スパムかと思ったが、件名は……「ノン子へ」……ドラ親父からだ!
「ノン子へ、初めての勝利の味はどうだった?今までは逃げるか一方的な負け試合ばかりで、でもたまには勝つのも良いもんだろ?」バカやろー、こんなんで勝利の実感なんてあるかよ!、ちゃんと戦ってちゃんと勝たなきゃ、
「でもやっぱ帰れなくてさ、オレ……」
大惨事起こしてお前が居られなくなって、いったいなんの意味があるんだよ!帰ってこいよ!ドラ!
は?、ひょっとしたらまだ近くからここを見てるのかも知れない、そうだ、このメールはオンタイムで届いた。つまり私がいまスマホ見ていることを知ってたんじゃ?
そう思うと私は弾かれたように玄関から飛び出した。周囲は月明かり。でもどこを見渡してもドラ親父の姿は無い。
『ドラ!、どこだよー!帰ってこいよ!ドラ!ドラちゃん!、帰ってこいよ、帰ってこいよ、帰って……』無駄だと知って私の声は徐々に細くなっていった。涙と鼻水と嗚咽が同時に溢れてくる。私は泣きながらその場に立ち尽くした。
いつからだろう、いつの間にか家に住み着き、今まではただ胡散臭いだけの存在だったドラ親父。それが離れていく直前にこんなにまで心に深く刻まれるなんて……。
『ドラ……寂しいよ、ドラ……お母さんも寂しがってるよ、ドラ……』
ひとしきり涙が出ると少し心が落ち着いてきた。ドラは自分の意志でやってきて、そして去っていった。もともとどこかおかしい奴だったのだ。もともとそうやってさすらっていたのが、たまたま数年間うちに居着いただけだったのかもしれない。そう思うとさっきまでが嘘のように心が落ち着いてきた。
ドラ自身は行ってしまったけれども、ドラはとんでもない置き土産をしていってくれた。いや、同時にとんでもないものを盗んでいった。置き土産は勇気で、盗んでいったのは私の弱い心だ。そう考えればよい。そう思う事にしよう!
そこまで考えると、なぜか涙は完全に止まり、逆に私の顔には笑みが溢れてきた。
『この笑顔で生きていくよ!ありがとうドラ親父!ありがとう!そしてさようなら!』
「あーもしもし良いですか?」突然私の両腕が二人の男性によって左右から捻り上げられ後ろ手に固定された。
ガチャリ
冷たく響く金属音。もう自由は効かない。真っ黒なドーベルマンが2匹私の周りを嗅ぎ回り、しきりに吠え続ける。
「こいつらが君だって言っててさ、すいませんが署までご同行願いますよ。」
『ええーーーーーーーーー!?!?』
「もうそろそろあなたのお家にもガサが入ってる頃でね、いやなに、心配要りませんよ、潔白ならすぐに解放されますんで、お母さんと2人尿検査に入って貰いますよ。取り敢えず今夜は泊まってって下さいや」
男は顔写真の入った警察手帳を開いて見せ、淡々と告知事項を語り始めた。
「あなたには弁護士を呼ぶ権利があります。本行為は令状に基づいており、拒否する事は出来ません。以後の発言はあなたにとって不利な証拠とされる可能性があります。あなたにはあなたが不利と考えることを黙っている権利があり……」
『ドラ親父!、ドラ親父ィ、ドラーーーーー!!!!!!!!!』
【了 かな】