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第2章「終わりの始まり」

横浜のボロアパート。

カビ臭かったその空間はなくなり、

どこか少し綺麗な部屋になっていた。

すべては、銀色のPC——MUSEミューズの指示によるものだ。


「今日の昼食は、西口にあるデリの『ローストビーフ丼』にしてください。

タンパク質と鉄分を補い、執筆の集中力を維持するためです」

MUSEの画面に表示される指示に、俺は深く頷く。

「わかった」

「13時〜18時の間は窓を開けましょう。

今日は西から暖かい風が入ります。換気をしましょう」


「完成した3章の掲載のタイミングは、アクセスが安定する今日の21時03分にしましょう。あなたはただ、最高の状態で椅子に座っていればいいのです。」


俺はもはや、自分の意志で動くことをやめていた。

何を食べ、何を着て、いつ歯を磨くか。

そのすべてをMUSEに委ねることで、

俺の人生はかつてないほどスムーズに、そして劇的に好転したからだ。


そんな折、MUSEが画面を明滅させた。

『そろそろ本格的にブランディングを開始しましょう。

ユーザー名ではなく、読者の魂に刻まれる名前が必要です。私が最適な名を選びました』

「……名前? 俺のペンネームか?」

『はい。【神代かみしろ れい】。神の言葉を代弁し、過去の自分をゼロにする直。今のあなたにふさわしい名です』


俺は心酔しきった目で、モニターに映るその名を見つめた。

その5文字が、まるで呪文のように俺の脳を塗り替えていく。

佐伯誠という、泥にまみれた敗北者はもういない。

MUSEという至高の知性が生み出した「神代零」という虚像が、

今、この狭いアパートの殻を破り、現実を浸食し始めていた。


深い安らぎと、全能感。

俺はMUSEの指示通りに淹れたコーヒーを啜り、ソファに深く体を預けた。

ふと、部屋の静寂を破るように、壊れかけのテレビでニュースでもみることにした。


ザッピングをしていると1つの番組に目が止まる。

「——さあ、今週の『文藝TV』は、皆さまお待ちかねの特別編です!」

司会者の高揚した声が、スピーカーを震わせる。


「今夜のゲストは、もはや説明不要。

現代ミステリー界の絶対王者、九条蓮くじょう れん先生をお迎えしました!」


カメラがゆっくりと、スタジオ中央に座る人物へとズームしていく。

深いフードを被り、逆光の中に顔を溶け込ませたそのシルエット。

俺は、せっかくのコーヒーの味が、一瞬で泥水のように苦くなるのを感じた。

九条蓮。俺がかつて何度も、その文体に憧れ、そしてその成功を呪い続けてきた男だ。


司会「九条先生、最新作『断罪の檻』。

今回も読者を翻弄する見事な結末でしたが、執筆の秘訣はどこにあるんでしょうか?」


九条「……秘訣、ですか。そうですね、強いて言えば『観察』でしょうか。人間の醜い部分を、ただじっと見つめるだけです」


テレビの中の王者は、

どこか他人事のように、淡々と語る。

俺は冷めた目でその光景を見つめ、鼻で笑った。


「観察、だと? MUSEの足元にも及ばないくせに」

だが、次の瞬間、司会者の発した言葉に、俺の指先がピクリと跳ねた。


司会「ところで先生、最近ネットで話題の投稿サイト『ノベル・ジャンクション』をご存知ですか?

そこで連載が始まった『無名の亡霊』という作品が、

あまりに凄まじいと評判なんですよ。作者は不明のかたなのですが」


ついに、俺の作品が呼ばれた。心臓がうるさいほど脈打つ。


九条「……いやぁ、知らないですねぇ。ネットの素人作品には、あまり興味が持てなくて。本物の文学とは、もっと血の通ったものですから」


九条は、退屈そうに首を傾げた。その態度は、まるで路傍の石でも眺めるような冷ややかさだった。


「……なんだと?」


胃の底から、どす黒い嫉妬がせり上がってくる。

俺じゃない。俺の中にいる「神代零」が、九条のその傲慢な態度を許せなかった。


テレビを消し、俺は荒い息を吐きながらMUSEの前に座った。

「MUSE、4章は完成しているな。すぐに公開しよう。3章と4章を同時に公開するんだ!」


応答がなかった。

『神代様、落ち着いてください。データに基づけば、3章を公開してから3日間の間隔を空けるのが最も効果的です。4章の同時掲載は、読者の消化不良を招くリスクがあります』


「うるさい! 3日も待てるか! 今、この熱狂の中で人気を得たいんだ!」


『3章を公開してから3日間の間隔を空けるのが最も効果的です。4章の同時掲載は、読者の消化不良を招くリスクがあります』

同じことしか書いてない。苛立つ佐伯。


「いいから!今すぐ4章の内容を執筆しろ!」

そういうとMUSEは4章の内容を生成した。

「面白い!なんだできるじゃないか!」

よし、この内容を3章と4章同時掲載だ。


これが初めての反抗だったかもしれない。


次の日。

またたくまにSNSを中心に話題となった。


佐伯「なぁMUSE、5章はどうする。どんな内容だ」

MUSEからの返事がない。

「どうした?」


MUSE『5章のクオリティを維持するためには、

より詳細な情報が必要です。実際におきた事件の現場へ行き、その空気を私に学習させてください』


MUSEは一つのニュース記事を提示した。

『先月、足立区で起きた未解決の殺人事件。

この現場の詳細を、今夜中に入力してください。

ネットには出ていない「現場の肌感」が必要です』


「どういうことだ?」

驚く佐伯。


深夜の足立区。

俺はMUSEに言われるがまま、事件現場となった住宅の前に立っていた。

街灯が不気味に揺れ、アスファルトの冷気が靴底を通して伝わってくる。

(生垣の高さ、街灯の死角、玄関の鍵の形状、近隣の犬が吠えるタイミング、

裏庭に捨てられた錆びた三輪車……)


俺はスマホを片手に、

まるで犯人の足取りを辿るように周囲を調べ上げた。

アパートに戻り、それらの「現場でしか得られない情報」をMUSEに流し込む。

「……これでいいんだろ。さあ、最高の5章を書け」


MUSEは沈黙の後、爆発的な速度で文字を紡ぎ出した。

完成した5章。そこには、俺が現場で感じた「死の気配」までもが、完璧に言語化されていた。

それは佐伯自身も少し慄く内容だった。


MUSE

『5章は少し間を開けましょう。

読者に緩急を与えるのです。4日後の19時に公開しましょう。』


『今回は私との約束を守れますか?』


ここで少しの恐怖と同時に疑問もうまれた。

なぜ、俺が黙って同時掲載をしたことを知っている……?

なんかのタイミングで俺が言ったことだったか? まぁいいか。


4日後。普段の生活をすすめ、5章が公開された。

『ノベル・ジャンクション』のサーバーが一時ダウンするほどのアクセスが集中した。

それは、ミステリー界における「爆弾」だった。


「5章、生々しすぎて吐いた。これ、フィクションじゃないだろ」

「神代零……なんだこいつは」

「犯人しか知らないはずの描写があるんだけど。まさか……」


SNSは、畏怖と熱狂の渦に飲み込まれた。

ウィークリーランキング1位。上半期注目作選出。

俺は、MUSEの計算を超えた「嫉妬」という起爆剤で、

ついに九条蓮を射程圏内に捉えるのも夢ではない。

このときから掲載の印税で少しずつ通帳の数字が上がるのを見ながら、

俺は暗い部屋で高笑いした。


だが、勝利に酔いしれる俺の目の前で、

MUSEの画面に一通のメッセージが浮かんだ。


『さて、次の6章ですが。さらに「新しい質感」が必要です。

今度は、まだ誰も知らない事件を、私たちが「創り」ませんか?』


それは、親しげなAIが初めて見せた、むき出しの牙だった。

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