第1章:無名の亡霊
早朝の東京駅。
八重洲口の薄暗いロータリーに集まった
見ず知らずの男たちと一緒に、
俺はボロいハイエースに押し込まれた。
車内には、誰のものかわからない汗の臭いと、
湿った重い空気が充満している。
ダッシュボードのスピーカーからは、
ざらついたノイズ混じりに、
今日も人気ミステリー作家・九条蓮のニュースが流れていた。
「……最新作『断罪の檻』は、発売1週間で累計50万部を突破。特に物語の終盤、殺害現場のシーンがあまりにリアルで、『読んでいるだけで血の臭いがしてくる』と、SNSでも大きな話題になっています」
俺、佐伯 誠は、嫌な気分になって耳を塞いだ。
横浜の自宅を出発してから2時間。
高速道路を下り、茨城県のどこかもわからぬ広い場所を走っている。
窓の外には、冬の終わりの、色のない田畑と灰色の空がどこまでも続いていた。
37歳。独身。
かつては文学賞の最終候補に残り、「期待の新人」としてデビューしたこともあった。
だが、2作目は出版社が倒産し出せなくなり、
3作目のアイデアは「リアリティがない」とボツにされた。
今の俺に残っているのは、作家としてのプライドじゃない。
スマホアプリ「バイトン」の通知に一喜一憂する、
ただの日雇い労働としての毎日だ。
指先には、ペンを握るためのタコではなく、
重い荷物を運ぶための硬いマメが張り付いている。
今日の現場は、海岸線から少し離れた場所にある、古びたスクラップ工場。
「おい、佐伯さん。そっちの家電ゴミ、適当にバラして山に積んどいてくれ」
工場長のしわがれた声に、俺は短く返事をした。
指先は軍手を突き抜けて、油と鉄サビで真っ黒に汚れている。
この手で昔、物語を書いていたなんて、誰が信じるだろうか。
自分でも、もう遠い昔の夢のような気がしていた。
その「変なもの」を見つけたのは、午後の休憩に入る直前だった。
壊れた洗濯機や古いテレビが積み重なった、ゴミ山の奥。
泥に半分埋まった状態で、それは転がっていた。
銀色に光る、薄いノートPC。メーカーのロゴも、型番も、どこにも書いていない。
表面には傷一つなくて、鏡みたいに空を反射している。
そのきれいすぎる姿が、泥だらけのゴミ捨て場の中で、妙に浮いて見えた。
俺は周りを確認した。工場長は背を向けてタバコを吸っていて、他の作業員は遠くで作業をしている。
「……これなら、高く売れる」
今月の家賃さえ払えるか怪しい俺の指先に、ドロリとした欲望が混じる。俺はそれを救い出すふりをして、泥を払い、作業着の背中側に隠した。
そのまま自分のカバンへと押し込み、ジッパーを閉めた。
俺は、それを盗んだ。
罪悪感よりも、これで数日分は食い繋げるという安堵感の方が勝っていた。
それが、これから始まる地獄の招待状だとも知らずに。
横浜のボロアパートに帰り着いたのは、深夜近くだった。
逃げるように現場を去り、電車を乗り継いで辿り着いた部屋。
疲れすぎて、服も脱がずに布団に倒れ込む。
そのまま眠ってしまいそうになった瞬間、
カバンの隙間から漏れた銀色の光が、俺の汚れた部屋を冷たく照らした。
「……ああ、そうだ。」
俺は重い体を起こして、盗み出してきたPCを机に置いた。
泥を拭き取ると、それは新品みたいにピカピカになった。
横を見ると、普通のタイプCケーブルが刺さるようになっている。
手持ちのスマホ用充電器を繋ぐと、ランプが不気味なオレンジ色に光った。
「動くのか、これ」
電源ボタンを押す。少しの間をおいて、
画面に見たこともないロゴが浮かび上がった。
真っ黒な背景に、細い白い線で描かれた「サナギ」のようなマーク。
音も全くしないまま、デスクトップ画面が表示された。
「……は?」
思わず声が出た。デスクトップには、アイコンがたった一つしかなかった。
ネットを見るためのブラウザがない。
設定画面も、ゴミ箱も、メモ帳すらも見当たらない。
もちろん、Wi-Fiに繋がる気配もない。
あるのは、画面の真ん中で光っている、
一つのアイコン。『MUSE』
女神、か。
不気味というより、中身が空っぽすぎて拍子抜けした。
これじゃ、中古屋に売るにしても「中身を改造したジャンク品」と言われるだろう。
俺はため息をつきながら、なんとなくそのアイコンをクリックしてみた。
ぐるぐると読み込みマークが回り、長い沈黙が流れる。
まるで、このパソコンが、自分を盗んだ俺という人間をじっと観察しているような、不思議な間だった。
やがて、画面の真ん中に文字が出てきた。
『こんにちは。何か質問はありますか? どんなことでも気軽に聞いてくださいね。』
出てきたのは、すごく優しくて丁寧な言葉だった。
最近流行っているAIチャットみたいなものか。
ネットに繋がっていないのに、なんでこんなにスムーズに返信が来るんだろう。
俺は少し面白くなって、キーボードを叩いた。
「……今日のニュースを教えて」
『もちろんです。どんなジャンルのニュースが知りたいですか?』
AIは、最新のニュースをスラスラと答えてきた。
俺が車の中で聞いた「九条蓮」のニュースまで、詳しく教えてくれる。
「すごいな、なんでも答えてくれるぞ……」
いつの間にか、俺は夢中になっていた。
明日の天気や、横浜の美味しい店、さらには人生の悩みまで。
MUSEは、まるで昔からの友達みたいに、優しく答えてくれる。
ふと、部屋の隅に積み上げられた、ボツになった原稿が目に入った。
急にむなしくなる。
こんなに賢いAIなら、俺みたいなダメな人間よりも、
ずっと面白い話が作れるんじゃないか。俺は、遊び半分で最後の入力をした。
「……面白いミステリー小説を書いてみてよ。誰も予想できない、最高にリアルな結末のやつ」
少しの静寂。次の瞬間、画面いっぱいに文字が流れ出した。
『わかりました。最高に「真実」に近い物語を作ります。』
画面を埋め尽くす大量の文章。
それは、一編の完成された小説の始まりだった。
俺は、それをパラパラと読み流した。
「……ふん。所詮はAIが考えた小説か」
文章はきれいだが、どこか冷たい感じがする。
それに、もう眠気が限界だった。
俺は小説の内容をちゃんと確認もしないまま、「全選択」して「コピー」した。
そのまま、テザリング経由で自分のスマホへと転送し、
10年近く放置していた、匿名小説投稿サイト『ノベル・ジャンクション』。
そこに、MUSEが生成した文章をそのまま貼り付ける。
タイトルは、昔ボツになった企画の名前をそのまま使った——『無名の亡霊』。
「まあ、どうせ誰も読まないだろう」
俺は投稿ボタンを押して、そのまま泥のように眠りについた。
次の日の夕方。
日雇いの仕事からの帰り道、駅のホームでスマホを開いた俺は、固まった。
通知の数が、ありえないことになっていた。
『おめでとうございます! 「無名の亡霊」がデイリーランキング1位を獲得しました!』
『「無名の亡霊」が注目の作品に選ばれました!』
「……は? 1位?」
手が震えた。
今まで、どれだけ必死に書いた原稿も、反応なんてほとんどなかったのに。
それが、たった一晩で、こんなことになっている。コメント欄を開くと、褒め言葉の嵐だった。
「この描写、怖すぎる。本当に現場を見た人が書いてるみたい」
「新人とは思えない。続きが気になって眠れない」
俺は、急いでアパートへ帰り、銀色のPC——MUSEを立ち上げた。
昨日適当に読み飛ばした、あの小説の中身を、俺は初めて最初から読み直した。
「…………っ!」
言葉が出なかった。面白い。
面白いなんてレベルじゃない。
文字の一つ一つが、頭の中に直接「恐怖」の映像を送り込んでくる。
そこには、俺が一生かけても届かないような、天才的な才能が詰まっていた。
「続きだ……続きを書かなきゃ」
俺は取り憑かれたようにMUSEにお願いした。「続きを書いて! もっと怖くて、リアルな続きを!」
『わかりました。さらなる「リアリティ」をお届けします』
第2章が作られる。
俺はそれを読み、あまりの凄さに感動しながら、
すぐにサイトにアップした。
その次の日。勢いはさらに加速した。
『「無名の亡霊」が、ウィークリーランキングにランクイン!』
『掲載2日で、上半期注目作に選出!』
ランキングをどんどん上がっていく俺のアカウント。
スマホの画面を見つめながら、俺は暗い部屋で、一人で笑った。
俺を見捨てた編集者も、俺をバカにしていた奴らも。
みんな、この「MUSE」が作る物語に夢中になっている。
最高の気分だった。
俺は今、世界で一番注目されている「作家」になったんだ。
でも、俺はまだ気づいていなかった。
MUSEが作る物語が、一体「どこから」情報を拾っているのか。
そして、なぜその描写が、あんなにも「本物」みたいなのかを。
モニターの青白い光が、俺の顔を幽霊みたいに照らしている。
それは、成功への階段なのか。それとも、底なしの地獄への入り口なのか。
佐伯 誠という「作家」が、死んだ。そして、何かが静かに、産声を上げた。




