第1話 ギルバートの憂鬱
空高く天旻を流浪する羽雲を鳶色の髪の少年が佇み、眺める。
カラーテレビと冷藏庫と洗濯機が出揃い、安保條約絡みの騒動が終結した。
三面記事の内容は坦々とした内容に移り、国体や誰彼の思想は己の物であるとは誰も彼れも考えたり、語り合わなくなった。「悪人とは只、己あるのみ」という風に国民達の意識が変化している。
濡れ縁に座した6歳の木戸健一は夕餉の刻を待ち侘びている。
母親の奈美江が世話をした菜園の碧色の甘藍は、シロチョウの子から奪われて崩れかけている。
近場の賃貸コーポに静居するエジンバラ州出身のギルバート老人―――木戸健一の遠縁である――何時でもメディアの中傷を言ったり、休日に河川敷へ出向いてバグパイプを奏じて山羊達に対して聴かせたり、商店街で魚屋を経営する友人宅を訪問して『霊魂の実在』についてる講じる事が日課である。
ギルバート老人の戦友であるマンチェスター市出身のジョンソン伯爵の実家で経営する企業の得意先が戦後に資産の没収を受けたので業務を縮小した。
白色テロの組織より資金を援助を受けたジョンソン伯爵の書いた雑誌論文に対して呼応するギルバート老人は今宵は酒田夫人の家の魚料理の夕食会へ招待を受けている。
ギルバート老人は酒田夫人が書店で購入した危険な書物の内容ついて数々の忠告を行った。
木戸健一の母親である奈美江は酒田夫人の催す月一の講習会へ通うので面識を持つ。
竹竿に干された化繊の奈美江のブラウスと健一の襯衣は、東風を受けて干涸びていた。草花と赤土の間から色鮮やかな光彩が映じている。
庫裏に居る木戸奈美江は、親戚から送られた山菜を重曹で灰汁抜きを行う。
リチウム塩を薬箱に収める木戸奈美江は、服用して苛苛を收めている。
遅遅とした春色の粒子が散じる赤濁をした暮色の中、哨吶を鳴らす屋台のラーメン屋に人々が集まっている。
幼稚園からの帰途。
住宅街の路地の金薄が群生する奥裏に、水道管が放置された空き地がある。
時々、その場所へ向かうと木造の校舍が建っている場合がある。
木造校舎へ通学する女学生たちは脹らかな洋袴を穿いている。
山波の様に立ち竝び、整列する児童たちは体躯を一斉に屈伸したり、伸長させた。
通常と振り付けが異なり、伴奏の音楽は鋼石ラジオが使用される。
二人組の女子児童は、大の仲良しの様子である。一人の少女の名前はマーガレット、もう一人の少女は、何処かで見覚えがある。
英雄たちの崇高さについて宣撫を行う教員たちの尖叫は、抑揚し過ぎる。
己も未来は、此の学校の児童になるのである。
木戸健一は帰宅した。
只説、板廊下を渡り歩き、襖戸を開いた。
仏壇と真空管テレビが置かれる畳部屋の様子を眺めた。別の部屋ではトランジスタテレビが置かれる。
真鍮で裝飾された仏壇の上は、白磁のマリヤ像が仏像の真横に並び立つ。
硝子戸の彼処に佇む金木犀の翠葉は、東の風で揺れていた。
砂壁に掛けた先祖たちの黒縁の遺影は神秘的に映じる。
軍服を纏う祖父の遺影の彼方を眺望する――――洋々とした山吹色の野菜畑、――瞳の中に針葉樹林の立ち並ぶ湿地帯の風致が映じる。
湿地帯を北進する草藪に往来するトナカイの群れや渡り鳥が餌場を探し求める。
粉雪が降る中、逍遥とする人々の語り合う文法と発音は理解出来ぬ内容である。
開口された硝子戸から陰風が薄暗い畳部屋へ流込む。
突如――。
漆塗りの観音開きの中から、メアリー夫人の肢体が出現した。
メアリー夫人の格好は"裸身"である。
木戸健一の姿に気付いたメアリー夫人は体躯を曲ねらせながら"○○○○"と罵り声をあげながら窓口を越えて"飃[シューッ]"と大空の雲の上まで上昇した。
翌日、木戸健一は酒田夫人の邸宅を訪問した。
蔦蔓の絡むアーチ門を潜ると二階建ての色漆喰の壁の洋館へ辿り着いた。
「健一くん、いらっしゃい。また、メアリー夫人が来たんですってね」
微笑んで勝手口から応対する酒田夫人は、木戸健一を厨房へ案内した。
重曹が使用された凝乳の西洋菓子を馳走になった。
自宅では卓袱台の横に正坐をして食事を取るが、酒田家の白塗りの卓子は椅子が付いている。
板張りの応接間に仕切られた天鵞絨のカーテンへ鉛硝子のシャンデリアが白い影を映じる。
酒田夫人の着る灰殻なカシミヤのカーディガンから二つの乳房や、デニムのジーンズから陰毛が透けて見える。
千里眼である木戸健一の瞳は女性の裸体のみならず月の裏側まで覗く事が出来る。
酒田夫人の実父は終戦後に台湾から引き揚げ、知人たちは白色テロ事件の後に、消息不明になっている。
酒田夫人は信心や宗教に対して一般的な戦後のヒステリックな偏見を持たない。
だが、彼女の様な女性でも西洋文化に対して涙もろい一面を持つ。
五人組の組頭であるハワード夫妻は、酒田夫人に対して警察署へ密告したが陰謀が発覚したので各地で村八分を受けている。
酒田夫人の所有する台湾時代の写真アルバムのセピア色の写真は、赤濁している。
我が国の帝国陸軍は右翼も左翼も双方、フランスの政治家と結託していた。
それ故、フランス人の横暴について現在の与党である日本社会党には勿論、筒抜けである。
共産主義者即ちフランスの仲間という図式は我が国では「誤解」であり「デマゴーグ」である。その理由は、ソビエト連邦の共産主義と決裂したからである。
酒田夫人が木戸健一の母親である奈美江を疎んじていると、悟った息子の健一は、色々と案じていた。
料理や意匠に精通する酒田夫人に対して頭が上がらぬ女性は数多い。
インテリゲンチャである酒田夫人の視点で、巷の女子如き誰でも馬鹿げた妄想を夢見ている様子に見えていたのである。
夜半に母親の奈美江と同行して近場の湯屋(銭湯)へ外出をした。
番台で受付をして陶タイルの床畳に入るとプラスチックの洗面器の音が一面に反射していた。
湯煙の彼処に青ペンキ塗りの富士山。
ギルバート老人が湯船の外で糸瓜で行水して精悍な体躯がミセルに包まれている。
湯船で暫く潜水すると気血が昇ってきた。
湯船から上がって蛇口の上に取り付けてあるタイル壁の平鏡は白濁していた。
健一は何事かを喋った。
「おい」 糸瓜で身体を研磨するギルバート老人が健一を呼ぶ。
「木戸さんとこの坊主。鏡と何を喋っていたのだ?」
丸裸で立ち上がってギルバート老人に対して 「――」と答えた。
その話を聞いたギルバート老人は瞿然として脱衣所へ向かった。
浴室を出た健一も、脱衣所の浴袍で身体を拭く。
釦を嵌めて襯衣を着て頭髪は筒型のドライヤーで乾燥させた。
銭湯を出て帰途についた奈美枝と健一の二人が逍遥する住宅街の夜天は朧朧とした白月と乙女座が煌いた。
白熱燈で銀白色に映じた土瀝青の夜道、ブロック塀の上で煌々とした矮小な閃光。
エジプトのスフィンクスの形態を取る猫へである。接近すると跳舞してブロック塀の彼方側へ、白銀色の花の咲く柿の枝へ跳舞。
淋漓として湿気の残る髮の毛は夜風で乾いてきた。
石橋の近くの川沿いの道を通過。
それ程、大きな河川ではないけど水深が深い。
暗い澱みがある。この滔滔とした流れには何かが痞えている。
小鼻に突然、芬芬と臭い水の匂いの感覚が入った。
背後から頭髪をひっぱられた。
杳杳とした夜道を振り向くと多人の気配は無し。
帰宅すると奈美枝は夕餉を出してステンレスの流し台で片付けを始めた。
ドーナツ型の螢光燈の周辺を蟲が飛転している。
銀白色のスプーンで夕餉を頂く健一は、トランジスタテレビの歌番組のフォークソングを聴いた。
アニメを見る為にダイヤル式のチャンネルを回転するとフォーク好きの奈美江が制止した。
近所の井戸端会議においては、奈美枝の趣味について
「変わり者の女はグループサウンズやフォークソングなんて連合赤軍のようなガチャガチャした騷々しい音楽が好きなんだよ。」――と、噂話をしていた。
若者たちも冥夜の都邑へ飛来してゴーゴー喫茶で羽を広げた。
公害、刹那的な氣分に浮かれた。
TRIOの大型ステレオでイギリス人のビートルズのレコードを流すと上機嫌に変る奈美枝を見る事は健一にとっても幸せな事であり、健一もビートルズが好きになった。
ベトナム戦争は有色人種が親しんだ拍子に対する流行を生んだ。
良き旋律についてアレコレと言う古代ギリシャに由来する理屈は忌み嫌われていた。
現在、我が国の与党である日本社会党の精神は古代ギリシャより古代ローマ、アテナイよりもスパルタに対して惹かれている。
日本社会党は常にイギリス人と趣向を同様にした。
イギリスにはビートルズがいた。
玄関口の黒電話が鳴った。電話には奈美枝が出た。
電話の相手は先だって湯屋で健一と会話をしたギルバート老人である。
螺旋巻きの受話器の線を奈美枝は指で興じ、
「まあ、あの子はいつもおかしくて」
と1人でお辞儀をして黒電話をガチャンと切った。
その後の奈美江は、白粉と紅を顔に塗り、茶髮に櫛を入れ、洒落た洋装をしつらえて夜天の中へ仲間達と一緒に外出をした。
木戸健一の父親――奈美江の旦那である――木戸陽一は長期出張中で好き勝手をしていた。
子供部屋の柱時計が秒針がカチカチと打った。濡縁に佇み、寂寞した闇夜の風致を眺める。発光する蛍虫が金木犀の横をチラリと動く。
酒田夫人の乳房の事が頭の中を離れない。
季節の終焉であった。
(第2話へ続く)
木戸健一:主人公。愛称はキッド。宇宙人の子孫で且つ超能力を持つ
木戸奈美江:木戸健一の母親。クラ星出身の宇宙人
木戸陽一:木戸健一の父親。ピカ星出身の宇宙人。
神村哲郎:木戸健一の親友
ピカ星:古代より地球と交信を行う。
クラ星:古代より地球と交信を行う。
ライト・コミニュニティ:地球の新興宗教。教祖の正体はピカ星出身の宇宙人
ブルーネイチャー:地球の新興宗教。教祖の正体はクラ星出身の宇宙人
クラピカ戦争:古代の宇宙戦争。選挙制度を持つ自由主義の国家体制であるピカ星と、中央集権制度を維持するクラ星との間で、長期に渡る戦争が続いた。
現在ではピカ星とクラ星の立場が逆転している。クラ星では民衆が蜂起して革命が起きていた。