第2話 一人ぼっちのキャンディ
少し年月が過ぎて木戸健一は10歳の夏天を迎えていた。
沖繩は日本へ返還されて隣国では革命が終結。
老けこんだ奈美枝は昼間の洋裁工場の仕事に就いた。
彼女はグループサウンズに飽きた後は沢田研二の騒々しい歌声に対して夢中になった。
父親の陽一は出張から帰宅していたが微妙な部分で人格が変化した。
洋裁工場の同僚と一緒に奈美枝は夜の繁華街へ宴会へ出席をする為に出かけた。
健一は父親の陽一と二人きりになった。
麦酒缶で晩酌をした陽一はエタノールの麻醉成分で酩酊、居間の畳の上で暫くゴロ寢した後でとび起きて厠へ小便をしに行った。
用が済んで渡り廊下の音を立て健一の部屋に入って来た。
起きていた健一は雑誌を読んでいた。
陶器の蚊遣豚から除蟲菊の香が焚かれて芳香が立ちのぼる。
下から見上げると彼の図体の背後に黒い霧。
――いつものお客である。
陽一が陶器の蚊遣豚を片足で蹴り飛ばして緑の畳に粉灰を散布した。
後背を指さして"仏壇のメアリー夫人が云々(うんぬん)……"と、健一は汲々とした形相で陽一に対して語った。
「ギョッ」と吃驚いた陽一は振り返るが大気は透明であった。
「退散せよ」と陽一の後背へ向けて尖叫した。
「何事だ?貴様は」
憤慨して平手で打ちつけた陽一は陶器の蚊遣豚を掴んで砂壁へ放って叩き壊した。
蚊遣豚の陶器の破片が飛散して頬を翳めた。
自室へ戻った陽一は黄緑色の蚊帳の中で鼾を立てた。
静寂が戻ったので健一は欠伸をした。畳に座して救急箱のヨードホルムで傷の手当てをした。
玄関口の方から引き戸を開ける音。
奈美江が帰宅した。
陽一を起こした奈美江は事情を聞いて跫然と足音を立てて健一の部屋に入った。
「健一、怪我なんかして悪ふざけでもしたんだらう」 と健一へ叱りつけた。
(母親は白髮が増えたものだ)と健一は考えた。
硝子の引き戸の外を眺めると彼方の水銀燈の煌々(こうこう)とした光彩の原因で暗闇は白々と続いていた。
夜風から金木犀の油葉と硝子の風鈴が凛凛と鳴り亘った。
先程、陽一の背後の陰影が、一瞬、薄く変った。
だが、明日も戻るであろう。
翌日の午後、健一は奈美枝と一緒に路線バスで外出した。
夏天は奇峰、南天から水気を含む風が習習と靡く。
ポールの立つ停留所のベンチでバスを待った。
アルミ合金ボディの乗合バスが到着。
空気圧で開口、入口の機械から整理劵が出た。
窓際の2列の座席から外を見ると道路の幅員が狭まった。
彼処に入道雲。
市街地を貫いて田舍道に入った。
成長した田圃に囲まれた停留所で降車すると暗雲から滴り始めた。
九十九折の山道を進み奈美枝と別に透明のビニール傘。
霈然とした雨天の中、混凝土舖裝の路道で水溜りを避けた。
大葉子が混凝土を貫く砂利道に入った。
集合墓地の前を通過した。
啾啾とした白黒のタイル壁の四囲は深緑の広葉樹が立ち並ぶ。
花崗岩の碑、単水栓の水道を見つけた。
カーキ色の軍服を身に著けた大柄の旦那が血塗れの姿で此方を見て何事かを云った。
---雨天であるのに拘わらず旦那の着る軍服は乾いていた。
集合墓地を過ぎると木造の寺院の址を通過した。
金色の袈裟を着た和尚が佇んで、健一を向いて(行ってはいけない)と言い出した。
和尚は袈裟のみならず全身、光彩陸離。
寺址はかつて仏像のみならず神道も祭られた。
健一は母の奈美枝を呼んで「大気」を指さした。
奈美枝は「このお寺は江戸時代までだ」と答えた。
山精木魅、であった。
廃仏毀釈を発布した明治政府は仏道と神道の合祀を禁じた。
田舍者ばかり賛美する佛教はむしろ国体の障害の一因であった。
インディアンと黒人が開放されると後の日本は他の植民地に対して存ぜぬ素振り。
地方では田舍者の佛教徒は田舍者同士で固まった。伝統の為に。
だが、物理を知る事の側が本来の伝統を知ることであった。
古代文明の遺跡は科学に拠る手段で成された。
古代科学の精神は他人の家柄に口出しする図々しい田舍の無作法な宗教の精神と類似した。
科学者たちは、これ見よがしに古典的な佛教徒の格好を装う僧侶の話を眞面目に聞いた。
科学と佛教の関係----?
イギリス人が元来好んだアリストテレスの哲学は佛教哲学と類似した。
その内容は2元論であった。
日本社会党はフランス共産党を見捨て、仲間のロシア共産党を見捨てた。
大降りに変ったのでゴム靴は水気が浸透した。
ビニール傘を閉じて鉄筋コンクリートの施設へ奈美江と一緒に入った。
施設の印象は宜しくない。
階段を昇ると踊場の隅に血塗れの男女が悄然とした樣子で屈んでいた。
「救急車を呼びましょうか」
声をかけると血塗れの男女は仰天して 「私達の事が判るのですか」 と逆に質問してきた。
彼らに対して 「戦争はもう終わりました」 と答えた。
廊下の突当りの「祈祷室」へ案内された。
板張りの牀畳は埃塗れで、石膏ボードの壁に立つスチールの書棚の中身は黒色の霧靄に包まれた。
鹿革のソファーに腰掛けた祈祷師が待ち受けていた
キャンディという名前の祈祷師は涼しい麻の背広を身に着けていた。
奈美枝はキャンディに対して起立したまま御辞儀をしたが、御辞儀を成し返さずに座したままでキャンディは頷いた。
キャンディは一人のみならず。
青白い形相のキャンディは痩躯であるのに拘らず、黒い袈裟を着た長髮の大柄の旦那を背負っていた。
(何だ、この旦那は)
健一は (キャンディさんは重たくないかしら!) と考えた。
すると黒袈裟の旦那と目線が合った。
「キャンディさん。実は」
キャンディに対して、奈美江は息子の健一について「……」と勝手な話を始めた。
鹿皮のソファを起立したキャンディは部屋を出て後、すぐに戻り、桃色と紫色の柄の袈裟に著替え直して来た。
キャンディは健一の周囲を円を描いて走り、尖叫した。
その声は自宅の仏壇で聴こえた【×××××】と似ていた。
キャンディの嬌声のみならず、キャンディが背負う黒袈裟の旦那の口も同時に開いて、デュエットしていた。
健一はピンクレディーという歌手を想起した。
2人組で歌って踊る人気歌手である。
健一がピンクレディーを想起したと同時に、キャンディの背後の旦那は、首を伸張させて健一の眼前に顔を突き出し、「カルメーン」と唱歌した。
次に黒袈裟の旦那は、手の腹を後頭部に囘して拳を握り、次に開く動作を取って「ユーフォー」と唱歌した。「UFO」というレコードは未だ発売されていなかった。
儀式は1時間も続いた。
祈祷室の壁の四角の擦り窓の外から、平屋根の天井から、土砂降りの雨音が降注いだ。
キャンディと背後の黒袈裟の旦那の周辺にもう一人、メアリー夫人が裸身で飛び跳ねる姿を認めた。
このメアリー夫人は自宅の仏壇から飛び出てくる白人女性と同一人物であった。
奈美枝が御辞儀をしてお金の封筒を渡した。
奈美枝は「キャンディ先生はいつも1人で仕事して、大変忙しいですね」を労った。
(ええ?ええ?キャンディさん。貴方は1人じゃなかったよ?)
海市蜃楼、というわけであった。
雨過天晴。
照射される天陽は路道が白銀色に煌いた。
一緒にバス停へ向かって砂利道を逍遥とすると行きがかりに見かけた寺址。
先刻の時の寺址と違って金薄の群生した面積が更に拡大して、蔓草は更に茂り、蛙が唱歌していた。
(終 第3話へ続く)




