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龍の住処

 途中休憩を挟みつつ高速を走って押川市に入った。押川市は中部地方の東北寄りに位置する宿場町で日本アルプスの景観が美しい地方都市だ。駅のある中心地は大型スーパーや飲食店舗が立ち並ぶ国道が通っているが、やや郊外に入ると確かに車窓から見える街並みはレトロでノスタルジックな面影を見せ始めた。

 昔ながらの木造建築が立ち並ぶ川沿いの通りを進むと、まるで江戸時代にでもタイムスリップしたような感覚に陥る。観光地にもなっている地区を通り過ぎ坂道を上っていくと、その突き当りにこれまた古めかしく年季の入った和の豪邸が建っていた。麻耶の車が何の躊躇もなく正門に吸い込まれていく。敷地内はまるで料亭にあるような豪勢な庭が広がっており、鐵は思わず舌を巻いた。


「随分立派なお屋敷ですね」

「ええ。観音寺家は元々宿場町を収める商家で、戦前はこのあたり一帯の土地を所有する地主だったそうです」

「へぇ、それはまた」


 戦前は多くの土地を所有し小作農を支配していたそうだが、戦後の農地改革を機に所有地の多くを彼らに譲渡した。しかしその影響力は残り、現代でもこの町の有力者として君臨している富豪なのだそうだ。

 屋敷に入ると使用人たちが麻耶を出迎える。深々と頭を下げ花道を作る光景はドラマの中の世界だけのものだと思っていた。


「お帰りなさいませ、奥様。……お客様でいらっしゃいますか?」


 一番年かさの使用人が鐵の顔を見ると怪訝な顔をした。


「ええ、客間にお茶を用意していただけるかしら?」

「かしこまりました」


 使用人は丁寧に一礼すると音もなく立ち去って行った。


「気を悪くしないでくださいね。皆、主人が病床に臥せっているもので神経をすり減らしておりますの」

「いえ、お構いなく」

「客間にご案内しますわ」


 屋敷の中は典型的な日本家屋の構造で道中にはお座敷がいくつもあり使用人が忙しなく働いていた。縁側を通ると車からも見えた庭が一望できた。

 案内された部屋は縁側を通り過ぎたすぐの場所にあったが、襖で仕切られた部屋にも関わらず室内はフローリングになっており内装も洋風に改築されていた。


「少しこちらでお待ちください」


 黒い皮張りのソファを勧められると、鐵は落ち着きなくそこへ座った。麻耶が出て行ってしまうと部屋はシンと静まり返る。庭の方から鹿威しの音が響いてそれがまた静けさを助長した。


 しばらくぼうっとしていると、お茶を手にした麻耶が男を連れ立って戻ってきた。


「やあ、貴方が鐵さんですね」


 仕立ての良いスリーピースのスーツに身を包んだ体格のいい男だった。歳は五十を超えたあたりだろうか。


「私は観音寺真人。観音寺正明の弟です」

「弟さん?」

「ええ、今日は兄の事で足を運んでくれたと」


 観音寺真人と名乗った男は鐵の向かいに座りにこりと笑った。鼻が高く鋭い顔つきの真人はどことなく鷹や鷲などの猛禽類を連想させ一層の若々しさを感じさせる。


「助かりましたよ。今まで色んな医師にお願いしても皆出来ないと匙を投げるばかりで」

「はぁ」

「鐵さんは優秀な装具士でいらっしゃるとお聞きしました。是非兄のために義体を作っていただけないかと」


 期待に満ち溢れた視線に鐵はたじろぐ。やっぱり麻耶に依頼された時点で断るべきだったかと今更ながらに後悔した。


「真人さん、でしたか。申し訳ありませんが、お兄様の義体に関しては私も要望に応えられるかはわかりません。はっきり申し上げますと今回の依頼はお断りさせて頂いた方がいいように存じます」


 すると真人の瞳にあからさまな落胆が浮かんだ。


「ですが完全な義体とはいかずとも延命治療に繋がる術はいくつかご提示できるかもしれない。私の知り合いには咲人専門の医師もいます。何かお力添えになれるかもと思って、本日は伺った次第です」

「そうですか……」

「一度正明さんの容体を診せていただいてもよろしいですか? 判断するのはそれからでも遅くはない、かと」


 真人は顎に手を当て考える仕草をした。そうしてしばらく逡巡した後、


「わかりました。兄の元へご案内いたします」


 どこか浮かない様子であったが、真人は重い腰を上げた。




 鐵は再び迷路のような屋敷を歩く。前を歩く真人に鐵はいくつか質問をした。


「この家は元々地主層だと伺いましたが、家業は何をなさっておいでなのですか?」

「戦前はこの町の近郊に炭鉱場がありましてね、中国から買い付けた鉄を精錬して製鉄業で財を成していました。この押川の街一帯が観音寺家の土地でしたが、戦後農地改革とエネルギー革命の煽りを受けて、観音寺は財産と土地、そして事業のほとんどを手放しました。今は細々と海外製品の卸売なんかをしています」

「ほう、それで今は手堅く商売をしている、と」

「そうでもありませんよ。先のバブル崩壊でうちも多くの損失を出しましたし、全盛期に比べると売り上げは数パーセントにしか満たない。この豪邸も形ばかり、昔みたいに使用人も多くない」


 とはいえこれだけの敷地を維持しているのだから、それなりに収入はあるのだろうと鐵は推測した。


「この家に暮らしているのは正明さん夫妻と真人さんだけですか?」

「あとは私の妻とその弟ですね。妻の琥珀(こはく)は私とは少し歳が離れているのですが、人見知りで滅多に人前には出てきません。両親とは早くに死別したそうで、弟と二人でこの屋敷に来ました。弟の(あくた)は――」


 真人は言葉を濁して苦い顔をした。


「今年高校を卒業したばかりになるのですが、少々気難しい子で……。滅多に口を利かないし笑わないし、正直少し不気味なんですよ。まあ彼は滅多に屋敷にはおりませんので気にしなくて構いません。――それより着きましたよ」


 話し込んでいるうちに鐵たちは屋敷の奥に位置する離れに到着した。家の正面側とは異なり、北側のここは陽の光もほとんど届かず、じめじめと陰鬱な空気が流れている。薄暗い廊下を突き当りまで歩いていくと、


「……っ!」


 鐵は息を呑んだ。

 目の前に現れたのは水墨画で彩られた飾り襖。巨大な龍が襖いっぱいに描かれた何とも迫力のある襖絵だった。

 鐵は絵画に詳しいわけではない。絵画鑑賞なんて高尚な趣味を持っているわけでもない。

 ――でも、この絵は、


「兄が幼い頃に初めて描いた絵です」


 己の生み出す墨で描いた最初の習作。


(こんなものを幼い子供が描けるのか?)


 絵はただ無作為に墨の塊を投げつけたような稚拙な画法だ。子供が親の目を盗んで壁にクレヨンで落書きするのと同じ、細部を見ればそれは絵画と呼ぶにも烏滸がましいものだ。

 それなのに、そこには十人に問えば十人全員が龍だと答える完璧な姿の幻獣が君臨している。洗礼などされていない、ただ感情のままに墨をぶちまけて描いただけの偶然の産物。

 だがその龍は活き活きと襖を泳ぎ、こちらに巨大な牙と爪を向ける。

 ぎょろりとこちらを睨む目が一瞬動いた気がした。その大きな口に飲み込まれ、今にも喰われそうな錯覚に陥る。鬼気迫る狂作があるとすれば、これはまさしくそうだ。

 その龍の顔が縦に割れた。襖が開かれ闇に沈む部屋が鐵を手招きする。


「どうぞ」


 真人に誘われ、鐵は足を踏み入れた。途端、強い膠の匂いが鼻を衝く。部屋は暗く照明もなく、庭に面した障子から透ける明りだけが部屋を照らしていた。部屋には何も置かれていない。がらんどうの畳部屋は生活感がなく不気味だった。

 最初の部屋からさらに奥へ進んだ座敷に、ぽつりと一組布団が敷かれている。他の部屋とは対照的に、その布団のある部屋には大量の半紙が散らばっていた。部屋の隅にも何か荷物が置かれ、物置のようになっている。


「――観音寺正明です」


 布団に近づくと、そこに龍の巣の主が眠っていた。痩せこけた頬とまばらになった白髪、乾いた肌は今にもひびが入ってボロボロと崩れてしまいそうだ。

 骨と皮で出来たその翁は、まるで干からびた唐木のようにただ静かにそこに横たわっている。


(これは……また)


 鐵は言葉が出なかった。先刻救済の道があるかもしれないと言った自分を殴りたい。

 観音寺正明の身体はすでに生命活動を終えている。延命治療だのそういう次元の問題ではなかった。


(さて、どうしたものか)


 このまま彼らの目を盗んで逃げてしまった方が幾分かましな気がした。

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