墨の懇願
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しばらくご主人と二人で話をさせてください。
そう真人に頼むと、真人は承諾して部屋の扉を閉めた。光源を失い部屋が暗闇に包まれる。あまりの静寂に耳の奥でポーンと音が鳴り響いた。
鐵は電灯をつけようとしたがスイッチの紐を引っ張っても反応がない。
「切れてるのか」
仕方なく、正明の枕元に置いてあった古いオイルランプをつけた。ぼうっと部屋に灯りが灯り、鐵の影が壁に揺らめく。
鐵は正明の枕元に座ると改めて彼の姿を観察した。
老弱した死体は見れば見るほど痛々しい。歳は見た目ほどいっていないようだが、かなり衰弱した状態で息絶えたという事だろう。
(まあ、生まれてからほとんどこの離れに幽閉されていたそうだから、それも当然か)
長く日に当たっていないのか肌は血管が透き通るほど白く、手足もやせ細って碌に歩くことも出来なかっただろう。
見ればすぐに死体とわかるそれに、麻耶や真人は延命処置を施してほしいと頼んだ。気が狂ったものの主張だと思われるかもしれないが、彼らがおかしいとは必ずしも言えない。
何故なら観音寺正明は普通の人間ではない、――咲人だからだ。
鐵は正明の額に手をかざすと、ぐっと掌に力を込めた。
刹那、ランプの火が出鱈目に揺れる。弱くはあったが確かな光源となっていたその光が、途切れ途切れに消え始めた。
隙間風が通るか細い音が聴こえ、床からじわじわと黒い靄が生まれ始めた。
『起きろ』
鐵の声が静寂の中で轟いた。動かなかった正明の身体が何かに引っ張られるように反り返り、次の瞬間激しく痙攣を始める。
部屋全体からラップ音が鳴った。部屋の外側から箱を押しつぶすかのごとく圧がかけられ空気が軋む。それでも鐵は構わず正明の身体に圧力をかける。
閉じていたはずの正明の口がぽっかりと開いた。鐵が掌を持ち上げると、その掌に引っ張り上げられるように正明の口から黒い塊が湧きだした。
部屋一帯に膠の匂いが充満し始める。黒い塊は表面に泡を纏わせ、独りでに変形を始めた。
やがてそれは正明の身体から完全に切り離されると、一人の人間の身体を形作っていく。畳の上で蠢くその塊の足元がじわりじわりと黒に塗りつぶされていった。
入口の襖の龍と同じ色――墨の色だ。
「観音寺正明だな?」
鐵がその塊に向かって問うと、塊の頭の部分がぐらりと揺れた。頷いたらしい。
咲人の中には、己の身体よりも己が生み出す作物に執着し、そちらに精神を移し替える者がいる。己の身体が死してもなお、精神はその作物に宿り生き続ける事は珍しくない。
しかしその現象は大抵は作物が動植物である場合に起こりうる。こうして生き物でない物に精神を残しているというのは珍しいケースだろう。
それほどまでに、観音寺正明は墨という物体そのものに執着している。
「観音寺正明。お前に聞きたいことがある、質問に答えてくれるか?」
また頭が傾いた。
「お前の身体はすでに使い物にならなくなっている。お前はただ、身体の中に宿る墨に精神を取り残しているだけに過ぎない。……墨に意識を移しているのはお前の意思か? 身体が死しても尚お前に生きたいという執着があるのか?」
墨は答えない。ただ頭らしき部分を項垂れさせてゆらゆらと揺れている。
「お前はすでに死人だ。だが、そうして墨を媒介にしてまだ自我を保っている。それはお前自身に墨に対する強い未練があるからだと俺は思う。俺は五帝の一人、『烏羽帝』。咲人を管理する役割を担っている。お前の未練を俺が絶ってやろう。お前は何が望みだ?」
ゆらゆらと影の輪郭が揺れた。形の安定しない観音寺正明は、彼自身の魂の迷いを体現しているように思える。
影は答えなかった。自我があると言ってもおぼろげなものなのかもしれない。鐵は試しに話しの切り口を変えてみた。
「実はお前の妻、麻耶にお前の義体を作るよう頼まれた」
麻耶の名前を出した瞬間、揺らぎが止まった。
「彼女やお前の弟、真人はお前に延命治療を望んでいる。正直義体を作ったところでお前が生き返る事は出来ない。だがもし彼らに伝えたい事があるのなら――」
だが、次の瞬間墨が内から強力な空気砲を発した。周囲に墨が飛び散り襖や畳を汚す。鐵も慌てて顔を覆ったが生温い水が全身に降りかかって思わず呻いた。
墨は何度も何度も空気を発する。それはまるで人間が叫び声をあげているかのような光景だ。ただの墨の塊のはずなのに、悲痛に叫び続けるその姿は間違いなく意思を持つ生き物だった。
墨は布団を飛び越えると、部屋の壁に激突した。ばしゃりと壁に墨が叩きつけられ大きな黒い染みを作る。その下で墨の塊はもぞもぞと蠢きまた何かを発していた。
アー アー アー
音にならない叫び、形のない墨は必死に壁に這いつくばり何かを探し求めている。
「……おい、何してる?」
鐵が恐る恐る尋ねても、墨は一心不乱に壁を伝った。そして、
アー! アー!
また部屋全体が揺れ始めた。大きな地震にも似た振動に鐵は身を固くする。
墨が壁を叩いていた。
ドンッ ドンッ
形のない墨が壁を叩く度部屋は揺れ、バシャバシャと水音が鳴る。
「……っ、やめろ!」
鐵が一喝すると、墨の塊が弾けた。畳に広がったそれは怒られてシュンとしたように覇気を失くし、するすると畳を這って元の正明の身体に戻っていく。
気が付けば鐵は全身びっしょりと汗をかいていた。墨の物体のものとは思えない気迫とエネルギーに脱力する。辺り一面に飛び散っていた墨も全て正明の身体の中に吸収されていった。鐵の身体にかかったはずの墨もない、本当に墨の一滴一滴が正明の意識そのものなのだ。
一息つくと鐵は倒れて消えてしまっていたオイルランプに再び火をつけた。ぼうっと明るくなる室内を見渡し、異常がない事を確認しようとして、
「……っ」
壁の方を見て戦慄した。先ほど墨が何かを喚いて這いずり回っていたところだ。周囲に散っていた墨は全て消えたはずなのに、その壁にはまだそれが残っていた。
入口の龍と同じ、子供が書き殴ったような、それでいて狂気にも似た力強さを感じる文字で、
『ころしてくれ』
壁いっぱいに訴えられたその叫びに鐵は言葉を失った。




