3-1 月は蒼く
僕は、狂っている。
そんな思いが、常に胸中を駆け巡っている。
幼い頃、妹が夢中になっていた遊びを思い出す。
おままごと。
台所、夫婦の会話、ミニマムに再現された家庭の、ロールプレイング。
それは、単純で、愛おしく、無邪気な、家族ごっこ。
――何をしたの。何をしたのよ、お前は。
僕には、もう未来しかいない。
だから、未来を守るのだ。
何よりも大事な、妹を。
延々と巡る思考を、真っ白な廊下の壁に描くように、思い浮かべる。
薄暗い病室から、南が出てくる。
来栖が、もたれていた壁から身を離す。
「尾瀬の様子は?」
「大丈夫」
南は微笑み、答える。
「感染は、免れたみたい」
メンバーの間に、安堵の色が広がった。
尾瀬の付き添いで、僕と南、来栖、小鳥遊は病院に来ていた。
「警察は九条を指名手配した」
来栖が腕組みを解いて言った。
煙草を探り、病院にいることを思い出して、やめる。
「あいつは、わざわざ俺たちの学校を、最初の大きな目標として定めた」
溜息。
「厄介な野郎に目を付けられたな、タツ」
「それは嫌味か皮肉か?」
「いや、そういうのじゃねぇ。気に障ったんなら謝る」
「これで終わるとは思えないわ。また、何かしらの行動を起こしてくるわよ」
「奇遇だな南。俺も同じことを考えてたんだ」
「とてつもなく迷惑、だよ」
奴は、と来栖は笑みを浮かべた。
「性向的には、俺と似たタイプだ。自分から出て行かねぇと気が済まねぇ。だが同時に、馬鹿でもねぇ。次の出方が、気になるところだ」
「出方?」
「奴は、俺たちが知る限り、これまでに二度、末期症状患者を引き連れての襲撃を行った。だが、犠牲者は多く出してしまったものの、俺たちは未だ、やられていない。今後も奴が同じ手を繰り返してくるとは思えねぇ。恐らくは、何か仕掛けてくるぞ」
会話を続けながらも、病院の白い壁に、まだ思考は渦巻いている。
幾つも寄せ集められ、ジャンク化された映像が、幾度も幾度も繰り返し再生されている。
今上映されているのは、先程、銀のナイフを刺した瞬間の、屍の顔だ。
だが、顔は確かに見えているのに、僕には、その表情が見えない。
見せてみろ、と心の内で呟く。
お前の顔を見せてみろ。
どんな顔をしている。
泣いているのか。
怒っているのか。
怖いのか、寂しいのか。
僕を見ろ、僕を見ているのか、何を見ている、何を思っている、どう思う。
分からない。
どうして。
僕は、屍の顔を見ていたのではなかったか。
焦って、怯えて、戦うことに夢中で、屍の死の間際の表情になど、注意を向けていなかったのか。
いいや、そんなはずはない。
僕は確かに見ていた。
今でも、屍の顔立ち、輪郭、眼に鼻に口、すべての造形を、思い描くことができる。
顔の構成を、完璧に浮かべられる。
それなのに。
どんな顔をしていたのか、それだけが、まったく分からない。
――お兄、ちゃん。
心臓が、どくんと跳ねた。
軽くよろめき、壁に背をぶつける。
未来は、妹は僕が守ってみせる。
僕にはその責任がある。
だから。
だからもう、許してくれ。
僕が、お前にしたことを許してくれ。
誰に許しを請うているのだろう。
妹にか。
それとも僕自身にか。
過去が、現実へと追いついてくる。
病室への扉。
少しずつ記憶と混じっていく。あの扉。
開けては、ならない。
それは禁忌だ。
決して破ることの許されない、絶対的な禁止命令。
それでも僕は、知りたかった。
不在の秘密を。
何が起こっているのかを。
そうして。
僕は、禁忌を破ったのだ。
視界を闇が覆った。
突然の出来事だった。
病院全体が停電したらしい。
声が上がった。
仲間たちの声だ。
「慌てんな、固まってろ」
真っ先に懐中電灯を灯し、来栖が言った。
皆、自らの小さな光源を頼りに、傍らに置いてあった武器を手に取る。
「じ、事故だよねー」
と小鳥遊。
「このタイミングで、んなわけねぇだろ。九条が仕掛けたんだ」
来栖の声が、闇にこだまする。
「ここで畳みかけておくつもりなんだろ」
「大勢いるところへの奇襲。同じ手か?」
「そうは思えねぇんだがな」
「外には、金糸雀先生が配置した、初期症状患者の構成部隊もいっぱいいるはずよ」
「それじゃ、簡単に突破はできないよねー」
「九条……そこまでの男か?」
と来栖の呟き。
闇をつんざいて、絶叫が響いた。
懐中電灯の明かりが、一斉に廊下の奥へと向けられる。
「まさか。侵入されたのか?」
「こんな静かにゃ無理だ」
来栖の声が、微かに動揺している。
「最初から、病院内にいたのか」
「何だそれは。どこか暗い場所に隠れていたという事か?」
「いや……」
もう一つ、絶叫が響いた。
「どうする来栖。動くか」
「待て」
ズボンのポケットが振動した。
携帯電話が鳴っている。
すかさず出る。
思った通り、金糸雀だった。
隣で来栖も耳を澄ませる。
《やられた。九条め。思った以上にできる男だ》
「何が起こってるんです」
《攻めてきてるのは、末期症状患者じゃない》
「どういうことです。それじゃ、初期症状患者ですか」
《違う》
再び絶叫。
苦悶の叫び。
激痛の叫び。
恐怖の叫び。
哀願の叫び。
《攻めてきているのは、非感染者だ。杭を用意した、一般の人間だよ》
まさか。
目眩。
吐き気。
鼻をつく匂い。
血塗られた過去が、今、現実に追いついた。
《そいつらは、初めから何人か見舞い客の振りして病院に侵入していた。そして行動を起こし、残りの仲間が、今、病院へ向かっている。こちらからは無闇に手を出せない》
「先生は、これも九条の仕業だと?」
《今この病院に患者が増えているのは、先程の襲撃事件があったからこそだ。吸血鬼神話に取り憑かれた非感染者の連中が、その事件を知ってから暴挙に走ったにしては、手際が良すぎる。連中に情報をリークし、アドバイスした者がいるはずだ》
九条が非感染者の連中を操作した。
そういうことか。
「一つ腑に落ちません。非感染者の人間が、病院全体を停電させる理由です。連中は、これを吸血鬼との対決と捉えている。それなら、闇より光にいた方が、理に適ってる」
「タツ、そうじゃねぇ」
隣で来栖が言うより早く、電話の向こう、金糸雀が告げた。
《電気を落としたのは、九条とその仲間に違いない。そうすることで、非感染者の連中は、ここが吸血鬼の巣窟であると確信を増し、病院内の患者を皆殺しにし始めるだろう》
さらに、と金糸雀が続ける。
《演出として、九条は末期症状患者に、何人か非感染者を襲わせたりもするだろう。だが、実際に血を注入したり殺したりはさせない。脅かすだけだ。結果、後に残るものは、非感染者の連中が、何の罪もない初期症状患者を虐殺していった、という事実だけだ》
よくできた茶番劇だ、と来栖が吐き捨てる。
《すべては学校襲撃の段階から、仕組まれていたんだ。今回、九条の狙いは二つあった。一つは、哀れな初期症状患者の数を増やすこと。しかも同情を引きやすい学生を狙って。もう一つは、いかれた連中に、哀れな初期症状患者を虐殺させること》
聞きながら、僕の意識は少しずつ、生温かい闇に浸り始めていた。
九条のしていること。
一般人を襲い、初期症状患者を襲う。
それだけ聞けば、到底許されることではない。
だが今、九条を理解し始めている自分がいることにも、気がついている。
九条のやり方は、手段を選ばないものではあるが、一貫している。
初期症状患者を、救おうとしている。
将来のことを念頭に置き、考えている。
この国が、初期症状患者への理解を示し、下らない差別を捨てるときが来るように。
僕に、彼を責める資格があるのか?
彼に口出しする資格が?
僕だって、末期症状患者を殺している。
両者に違いなどあるのか。
あるとすれば、僕は九条と違い、法律によって養護されているというだけでしかない。
国を変えたいと願いながら、国の法律に甘えている。
それが、僕、なのか。
いや。
僕は、国を変えたいわけではない。
変わってほしいだけなのだ。
僕が何か行動を起こしたか?
九条のように。
国に影響を与えようとするような何かを。
九条は、影だ。
僕の影だ。
自己実現を果たそうとする、僕の、影。
《警察を待つのが得策だな。九条の計画通りで癪だが》
「ですが」
《微妙な立場にあるんだよ、この会社は。末期症状患者とはいえ、人を殺して稼いでるんだ。それが非感染者にまで手を出したとなってみろ。一気に潰される》
何の罪もない、初期症状の患者たち――。
九条の計画を理解するなら、僕はここで、彼らが殺されていくのを傍観しているべきだ。
いや、そうじゃない。
僕は九条に共感しただけだ。
決して賛同したわけではない。
そうだ。
僕はここで、戦わなければいけないんじゃないか?
自らの信念と、九条の信念を懸けて。
通路の向こうから、甚大な恐怖と苦痛の伴った、甲高い悲鳴が聞こえ始めていた。




