2-3 夏休み前夜祭
賑やかな喧騒の中で、僕と来栖は、丸い子供用ビニールプールの前に中腰で座り、行き交う人々を見つめていた。
ビニールプールには、深さ全体の七割ほどに水が張ってあり、その上を、色とりどりの風船ヨーヨーが漂っている。
風船ヨーヨーは中に水が入れられ、縛り口からはゴムが伸びている。
縛り口とは反対側のゴムの端は輪となっており、そこに、針金を引っかけて釣る仕組みとなっていた。
俗に言う、風船ヨーヨー釣りだ。
夏休みの前夜祭。
学校の運動場は、テントやダンボール箱によって作られた、様々な屋台によって、雑然とした祭会場と化していた。
それぞれのテント周辺に設置された照明が、夜の闇を柔らかく押しやって、幻想的な祭の空気を漂わせている。
生徒たちは私服姿で、自分たちのテントを交代で運営しつつ、他のテントを回ったりもする。
学年によっては、運動場ではなく校舎を用いていたりもして、回るべきところは数多い。
文化祭の夏祭りバージョン、といった感じの催しだ。
周囲からは、焼鳥やウインナーの芳ばしい香りが、夏の夜風に混じり、匂ってきていた。
安いよー、おまけするよー、美味しいよー、という呼びかけの声や、とりとめもない雑談を交わす声、
遠くから友人の名を叫ぶ声、テンションが上がって夜空に向かって吠える声などが、無秩序に聞こえてくる。
今頃学校には、近所から苦情の電話が来ているだろう。
このイベントは、僕たちの学校の伝統行事であったのだが、近所迷惑など、諸々の大人の事情から、今年で最後の予定とされていた。
だからこそ、少しくらいの羽目外しは許されるだろう、否、許されねばならない、という考えが、生徒全員を支配していた。
僕と来栖はと言えば、特に騒ぐこともなく、プールに浮かぶ風船を、ぼんやり見つめていた。
時折、客が来れば相手をするが、そこまで積極的に呼び込みは行っていなかった。
普段の来栖なら、このようなイベントは、率先してテンションを急上昇させ、盛り上げているはずなのだが。
事実、先程までの来栖は無駄に元気だった。
あの電話の後からだ、と僕は内心思う。
簡易ジムを出ようとしたとき、来栖の電話が鳴り、それに出て一言二言話してから、来栖は静かになった。
日常の彼には似つかない、何か深く考え込んでいるような素振り。
「必要悪だよな」
来栖が、風船の一つを指差していった。
風船の中には、異常なまでに水を含んだものもあった。
それを釣ろうとした人間は、あまりの重さに失敗し、一つも風船ヨーヨーを入手できずに、金だけ払うこととなる。
たかだか百円ではあるが。
そういった、罠、として用意された風船は、大概、来栖が作ったものだ。
重い風船が存在しなければ、風船ヨーヨーは意外と簡単に釣られ、あっという間に、風船が足りなくなってしまう。
そういう意味では、確かに、必要な存在だ。
「憎まれても憎まれても、あいつは秩序を守ってんだよ」
「何の話をしてる」
僕は呆れ声を出しつつ、一箇所に集まってしまっている風船を、木の棒で掻き分け、広げる。
水に透明な波紋が広がる。
ずっと見つめていると、吸い込まれてしまいそうだった。
「三川は吸血症にかかった」
来栖が言った。
自然に切り出したので、理解するのに時間がかかった。
理解しても、格別、心情に変化は訪れなかった。
だが、来栖は違ったようだ。
「もう少し処置が早く施せたなら、吸血症にはならなかった可能性が大きいそうだ」
「自分を責めるな。あの場合は仕方なかった。見事な指揮だったよ」
「三川はそう言わねぇだろう。半永久的な不死を手に入れ、太陽の光を浴びることはできなくなった。そんな人間が、原因を作った俺に何を言う」
「それは違う。原因を作ったのは、僕たちが逃したあの男と、末期症状患者たちだ。それに、三川さんは自ら選んで、この仕事に就いたはずだ。来栖を責めるのはお門違いで、そう判断するくらいの分別は、持っている人だと思うけどな」
「俺は、秤にかけたんだ。あの状況で、仕方なかった。そして、三川の昼を奪った」
「来栖」
「こうやって、個人という価値は、ときに大雑把になる」
「考えすぎるなよ。身を滅ぼすぞ」
木の棒を持つ腕を伸ばし、風船の一つを突いて、遠くに押しやる。
「今日は楽しい前夜祭なんだろ」
来栖は、自嘲気味の笑みを浮かべて、風船を見つめていた。
「ああ、そうだな。そのとおりだ」
光を吸収して反射する水面。
風船が揺れながら漂う様は、不気味に美しく、涼しい。
「おー繁盛してるー?」
頭上から声が降ってきて、僕は顔を上げた。
最初に、よれよれの白衣が目に入った。
続いて、眼鏡。
変に癖のついた乱れ髪を掻き上げ、僕を見下ろしている。
金糸雀だ。
担当教科が理科の彼女は、いつも白衣を着ている。
「客ですか、先生ですか、それとも社長ですか」
僕が言うと、慌てたように金糸雀は人差し指を唇に当てた。
公務員が、他の企業に勤めており、しかも社長として運営しているとなると、これは大問題だ。
「相変わらず空気を読まない若者だね、タツヒラ君」
金糸雀は、白衣に手を突っ込み、責めるように僕を見る。
「先生は空気を濁す達人ですよね」
「おやや。来栖君、この青年には棘があるぞ」
やってみますか、と来栖が釣り紐を金糸雀に差し出す。
釣り紐は、W型の針金の凸部分に薄い紙を通し、そのまま捻って紐にしたものだ。
ふむ、と金糸雀が眉を動かす。
「それは挑戦か」
「挑発です」
「残念ながら百円玉を持ち合わせてないのだよ」
「つけときます」
「右手が痛いのだ」
「どうぞ、左手で」
「右手が痛いときは、左手も痛いのだ」
「そういうもんすか」
「残念だ。その気になれば、殲滅も可能なのに」
大きな口を叩きながら、金糸雀はポケットから手を出そうとはしない。
彼女は、人前で何かを失敗するのが、とてつもなく嫌いなのだ。
特に、知っている人間の前では。
「それなら、ここに何しに来たんです」
「見廻り」
金糸雀はようやく右手をポケットから出し、その手に握られた懐中電灯を振り回した。
「こんな行事を、今年も開催した学校の神経が分からないね。とてつもなく危険だ。何度も反対したのに。一教師の意見など、少しも聞いちゃくれない」
「危険?」
「危険だろ。夜に外で、これだけの人間が集まっているんだ。奴らの格好の的だ」
金糸雀の言わんとすることが分かり、つい、周囲を見回した。
「それで、武器を用意させたんすね」
と来栖。
テントの骨組みの一つには、来栖の槍が、骨格と一緒に縛って隠してある。
僕の十字弓も、テント内のケースに、しまってあった。
「そ。どうも嫌な予感がする。昨日のこともあるし、気は抜くなよ」
「やっぱり、空気を濁しますね。お祭り気分もどこへやら、ですよ」
「うるせぇな、刺々しい。いかんよ、タツヒラ君。若者は、もっとフレッシュでないと」
「教師は、もっと厳粛であるべきでは」
「誰が決めたよ、そんなこと。教師っていう人種が、この世に何人いると思ってんだ。ちょっとした変態教師がいて、何が悪い」
「先生、そろそろ見廻りに戻ったらどうですか」
「うわ。厄介払いかよ。戻る気なくなったわ」
言うなり、金糸雀は腰を落として、居座ってやる空気を過剰に漂わせる。
「先生、寂しいんですか」
「彼氏いねぇもんだから」
と来栖。
「あー、あー、分かった。お前ら私が嫌いなんだろ」
「そういうわけではないですが」
「何言うか。話すときには目も合わせず、胸ばっか見やがって」
「自意識過剰ですよ……」
「いいや、見てるね。食い入るように見つめてるね。このイカ野郎が」
「先生程度の胸のサイズは、今時、珍しくもないすよ」
と来栖が口を挟む。
「程度と言ったか、この野郎。今ここで脱いだろか」
「いいです。それより、昨日の男ですが、どこの誰だか判明したんですか?」
「何それ。何その真面目な質問。優等生かよ」
「先生」
「まだだ」
金糸雀は煙草を地面に押しつけ、立ち上がった。
「警察が調べてる。そのうち判明するだろ。とにかく、今日は少し警戒していてくれ」
「分かりましたよ」
「先生、寂しいんだったら、今度、お茶しますか」
と来栖。
「余計な世話だ。じゃな。レッツ、エンジョイ」
言い残して金糸雀が立ち去ると、来栖が首を振った。
「どう思う」
「来栖こそどう思う」
「可愛いとこあんじゃん、金糸雀」
「そうじゃなくて。奴ら、来ると思うか」
「金糸雀のことだ。何人か、社員を警備に回してるだろう。それでも、俺たちに忠告しに来たということは、万全な警備じゃないってことだ」
どういうわけか、このとき心配したのは、自分の身ではなく、家に置いてきている、たった一人の未来のことだった。
今日は僕がおらず、寂しい夜を過ごしているだろう。
お腹を空かせているかもしれない。
楽しくしてくれていれば良いが。
過保護な思いを振り切る。
未来に僕が必要なのか、それとも僕に未来が必要なのか。
それを見失ってはいけない。
背後のテント内、アタッシュケースを振り返る。
何事も起きなければ良いのだが。




