71部:静や(しずや)
於苗御前が於竜の容態を看に部屋にやって来た。松姫は隣の部屋に居たが、於苗の邪魔をしてはいけないと遠慮し、隣室に控えていることにした。
「於竜、身体の具合はどうですか?」
「今日も調子が良いです。心配事もひとつ減りましたし」
「松姫様の件ですか?貴女が嫁いでしまって寂しく思っていたのですが、こうして松姫様と共に苗木城に来てくれて、本当にうれしいのです」
於竜姫が、ゆっくりと上半身を起こした。
「先程、廊下で奇妙丸様と松姫様がお話しされていました。すっかり打ち解け合われて、もう大丈夫な様子です」
松姫が於竜ノ方に奇妙丸との会話を聞かれていたと知り、隣で顔を真っ赤にしている。
「私の代わりに、武田と織田の新しい礎を築いて頂ければと願っております」
「そのような心細い事を言わないでおくれ」於竜に触れる於苗御前。
「お二人が判り合っていただけたようで、本当に良かったです。もちろん、私も早く回復して、我が遠山家と織田に武田の縁を更に太く強くしたいと思っております」
(於竜様はそのようなお気持ちでいたのですね)心配をかけてしまって申し訳ないと思う松姫だった。
松姫は、二人に気付かれないようにそっと隣の部屋を出て行った。
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奇妙丸達の泊まる〈来客の間〉、そこへ松姫が訪れていた。奇妙丸の趣味のひとつである舞を松姫が是非みたいと所望したことにより、奇妙丸が自室で披露することになったのだ。
丁度、池田正九郎が小鼓の芸道を、信長の小姓として勉強していたので、正九郎が鼓を打つ。
隣室から男平八の声がする「奇妙丸様の準備ができました」
「では、お願いします」と勝蔵。襖を開けて男平八が先に入ってくる。
小鼓を構える正九郎。
奇妙丸が冬姫から貰った能の衣装を着て、面を装着し入ってきた。演目は『平家物語』の「静御前」だ。
正九郎が打つ鼓に合わせて、奇妙丸が足踏みして舞う。
トンと両足を畳みに打ち付けるように揃え、一瞬の静寂の間。
「いにしへの~ しずのを だまき いやしきも よきも さかえは ありしものなり」
「静や しづ しづの おだまき 繰り返し 昔をいまに なすよしもがな」
「御吉野の 山の白雪 踏み分けて 入りにし人の おとずれもせぬ」
「吉野山 みねの白雪 ふみわけて 入りにし人の あとぞ恋しき~」
詩の繰り返しにも変化をつけて、頼朝の前で舞いを強要された静御前の気持ち、義経からの静御前への気持ちを思いながらも、松姫への自分の気持ちを込めて舞った。
奇妙丸の熱の籠った舞を見届けて、パチパチパチと松姫も思わず手を叩いた。
松姫が喜んでくれたので嬉しくなる奇妙丸。
「若、信長様のあれもお願いします!」と勝蔵。
「うむ、いいぞ」っと奇妙丸がまた部屋の中心に戻りたたずむ。
「人間五十年~」身体がほぐれてきたのであろう、舞も大きくなり勢いが増している。
桜も、信長様が好んでよく舞うという話は聞いたことはあるが、「敦盛の舞」を見るのは始めてだ。
「夢幻の如くなり~」奇妙丸がゆっくりと静止する。
パチパチパチと松姫も桜も手を叩いた。
「若、次は私にも舞わせて下さい!」勝蔵が立ち上がる。
「いや、私も舞いたい!」正九郎も素早く立ち上がった。
奇妙丸が面を外すと、勝蔵が奇妙丸の服を脱がせにかかった。
「こら、松姫様の前で脱がすな」と抵抗するも正九郎や男平八も奇妙丸から服を剥ぎ取って、勝蔵よりも自分が先に着ようとする。皆、信長の真似をやってみたいようだった。
そんな四人を眺めながら、松姫が隣の桜に話しかける。
「桜、私にも何か、世の中を変える事ができるかしら?」
「松姫様の御気持で、争いが無くなり、多くの命が救われるかもしれません」
「そう」
「松姫様は、奇妙丸様をどう思いますか?」
「嫌いじゃない。きちんと話をしてみたら、むしろ、いい人だったわ」
「松姫様、難しく考えなくとも良いと思います。松姫様が感じられた素直な感情を大切にしてください」
「そうね。周りのことは考えないで、奇妙丸様を見るわ」
「はい」
「桜、ありがとう」
「いいえ。私はちゃんと、奇妙丸様を見ていただきたかったので」
「桜、私はあなたも大好きよ。応援してね」
松姫に向けられたまっすぐな笑顔を、桜はとても微笑ましく思った。
「私が一番です!」
畳の上でじたばたする勝蔵を足で抑えつけて、男平八が面を装着していた。衣服を整え、今度は奇妙丸が小鼓を打つ準備をする。
松姫と桜、二人だけが観客の即席踊り興行は、この後、三人がくたくたになってあきるまで続けられた。
松姫は嫌がりもせず、最後まで奇妙丸と仲間たちとの時間を楽しんでいた。
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