70部:出浦対馬守盛清
武田家の透波衆は、義信の祖父である信虎の代の忍者頭に信虎娘婿の根津神平がいた。義信配下となった熊若なども古くからの甲州透波の一派だ。信玄の代には富田郷左衛門が甲州譜代の透波を束ねている。
信濃では外様先方衆として更科郡の出浦対馬守盛清、信濃佐久郡の高坂甚内、上州では横谷左近幸重が先方(外様)の三頭として諜報活動を担っていた。又、佐久郡の望月では、信玄直属の女忍者集団「歩き巫女」の頭領として信玄の愛人である望月千代女が君臨していた。
入道信玄斎は、忍びの頭領たちがそれぞれを牽制し合う事で制御の難しい忍びを統率しているのだった。
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苗木城城外。
「お主はどこの手の者だ」伴一郎左を見つけ声をかける盛清。
気配を消したつもりでいたので、武人のなりをしている盛清に声を掛けられ驚いた一郎左。ただの侍ではないと直感する。
「奇妙丸様の配下、岐阜城御庭番衆の伴一族の者にて候」
「甲賀衆か」と盛清も隠密の社会に通じている。
「我ら透波衆が迷惑をかけたようだな」と目で礼をする。
「忍びの世界にはよくあること」と頷いた一郎左。
「熊若殿はどうであった?」
「立派なご最後でした」
それを聞いた盛清は、そうか、と小さくつぶやいた。
「熊若殿は飯富兵部様を敬愛されていたからな、義に殉じたのだろう」
「忍び稼業とはいえ、命を懸ける主に巡り会えた事、お幸せだったのではないでしょうか」
「そうだな」
「織田と武田が戦場でまみえない事を願っておりまする」
「うむ」
何事もなかったかのように、その場から離れてゆく盛清。
ふと気がつくと、自分の手のひらがじんわりと汗をかいていた。同業者として盛清の敵にはなりたくない、と一郎左の本能が身体に訴えかけていた。
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翌朝、於竜ノ方の部屋の前でばったり出会った奇妙丸と松姫。
何を話していいか判らなくなった松姫が振り返り、来た道を戻ろうとするが、奇妙丸が呼び止める。
「待って、松姫様」
立ち止まる松姫。
「松姫様、昨日は失礼いたしました。私は貴方にずっと会いたかった。出来る事なら会って直接にお話をしたかったのです」
奇妙丸の方に振り返る松姫。
「私に対し、それほどの気持ちをお持ちなのですか?」
昨日よりずっと落ち着いている松姫に、奇妙丸は安堵しながらも、ちゃんと顔を見て話をするよう心掛ける。
「貴女の事を知りたく、信濃の国境まで来ました。昨日は思いがけずに出会えたことで気が動転してしまって。心の準備が出来ていませんでした」
「私も、婚約者本人に会うとはこれっぽちも思っていませんでしたから、大変驚きました」
落ち着いているとはいえ、ややとげのある言い方だ。
「甲斐の躑躅ケ崎の館で父上と兄上の争いがあり諏訪に避難していたのですが、相模北条ともいがみ合ってしまい、甲斐も諏訪も危険かもしれないとのことで、於竜様に付き添うお許しを貰って東美濃まで来ていたのです」と松姫。
「家の事情で転々とする。私と松姫は、同じような境遇なのですね」
「私と同じ、ですか?」
お互いに見つめ合う二人。
「私には二人の妹がいますが、貴女のように心の内をまっすぐに言葉にする方は初めてです。最初は手紙からでも良いですから、もっと、沢山、貴女とお話しがしてみたいのです。それから婚約者としてふさわしいか貴方に選んで頂きたい」
奇妙丸の礼儀正しさに、松姫も姿勢を正す。
「では、お互いの事を知ってからでも婚約の返事は良いと?」
「もちろんです。松姫様にも、私の事をもっと沢山知って欲しいのです」
「私の事を理解する努力をすると?」
「はい。ですから、私とお付き合い願えませんか?」
松姫はしばし思案し、次の言葉を吟味しているようだ。
「では、私が決めて良いということですね?」
「私は頭の中では松姫様に認められることで両家を結び、戦の犠牲になる人を少しでも救いたいと思っていました。そして昨日松姫様と会ってからは、心で貴方と判り合って繋がり合いたいと思っています」
松姫はもう一度、奇妙丸をまっすぐな瞳で見つめる。奇妙丸は、嘘偽りのない、澄んだ目をしているように思えた。
「昨日、桜から聞いたのですが、恵那山中で武田の透波衆と争われたとか」
「ええ。ですから、甲斐にも松姫様に自由に会いに行けるようになりたいし、争いの無い世の中にしたいのです」
今度は奇妙丸が松姫を見つめ返す。松姫は一瞬、どきりとしたが、すぐに気持ちを切り替える。
「それならば、私たちのこのご縁が、甲斐と美濃に平和をもたらすと良いですね」
「私が元服し、貴女にふさわしい男になりましたら、甲斐にお迎えに行きます。どうか、それまで私の事を待っていて下さい」
「わかりました。私はあなたを見ています。平和のために、そして私のためにも、精一杯努力して下さいね」
ようやく、奇妙丸と松姫が打ち解け合うことができた。もちろん、それは桜の仲介があってこそのことだった。
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