62部:信州透波三頭領・高坂甚内
これより一週間前の信濃国の佐久表。山奥の古びた廃寺。
「義信党の残党狩りは、成果があるか」と信州透波の頭領・高坂甚内が配下に報告を求める。
高坂甚内(昌元)は、「武田の逃げ弾正*1」と世間に称される武田家の老臣で海津城主・高坂弾正昌信*2の息子である。奇妙丸とは同い年ながら、早くから武田入道信玄斎に才能を認められ、若くして甲州忍者信濃透波部隊の信濃三頭領のひとりを務めている。
*1「逃げ弾正」は殿軍の上手な弾正(官位)という意味。*2文書に残された名は春日虎綱ともいう
三頭領の高坂甚内から、抜け忍・熊若と武田御坊丸の捜索を命じられているのは、甲賀出身の辻和泉守だ。
「透波の熊若をなんとしても見つけ出して討つぞ。抜け忍をのさばらせては示しがつかぬ。それに、義信殿の忘れ形見である武田御坊丸殿の行方も必ず聞き出し、義信党の希望を断つのだ」
「その任務、必ずや成し遂げてみせまする」と深く頭を下げる。
辻和泉守は、甲州に来るまでは甲賀二十一衆の黒川与四郎の配下だった。織田信長の近江侵攻により領地を失った主・六角義賢(佐々木入道承禎)の次男・六角義定(佐々木二郎)を守り、配下の辻十人衆とともに甲斐国に落ちた。そこで武田家に忍びの腕を買われ、信濃佐久の先方透波衆に配属された。
“抜け忍狩り“の任務は、新参者である辻和泉守の武田家への忠誠心を試す機会でもある。高坂甚内からみれば、武田家の派閥に左右されない辻和泉守が“抜け忍”の始末と、信玄公の嫡男・武田義信の“息子”を始末する事が適任ともいえた。
永禄八年(1565)武田入道信玄斎は、駿河侵攻に反対する嫡男・義信を甲府東光寺に幽閉し、続いて親族の穴山信邦や重臣の飯富に長坂と曾根等の反乱の恐れのある義信党を成敗した。二年後の永禄十年(1567)には義信を切腹に追い込み、信玄庶子の諏訪勝頼の息子、太郎を誕生とともに跡継ぎに指名している。
信玄自信の孫である“武田御坊丸”の抹殺こそが、信玄の不安の芽を摘むことに繋がるのだ。
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恵那山山頂を目指す勘九郎(奇妙丸)一行。
岩村城を出るときに大和守景任が心配したとおり、山の中腹辺りまで来て突然の雨に見舞われたのだった。木の下に雨宿りしながら雨が過ぎるのを待つ一行。
「いやー、恵那山はけっこう高い山なのだな」勘九郎がつぶやく。
「道に迷っては大変だ」と男平八。
「雨が激しく降ってくると、山登りは困難だよなあ」と正九郎。
人里からかなり離れた山奥だが、道下の谷間に一軒の古民家が見える。家の裏方では、樵の老人が薪を割り、軒下で子供が遊んでいる様子が見えるので、人が住んでいる事は間違いない。
「あそこの民家で雨宿りさせてもらおうか。ついでに、道を案内してくれないか聞いてみるか」と勘九郎。
男平八が私が先に聞いてきますと駆けて行った。
「すみません」と玄関から土間を覗き込む。
「どちら様で?」奥から、先程薪を割っていた老人が、杖を突きながら現れた。
「恵那山に“山踏み”に参る者です。雨宿りをさせて下さい。それから、できれば山への道を案内して頂きたいのだが」
「人数は何人だい?」
「五人です」
「お金はもってるのかい?身なりも良さそうだし金二両かな」
「それは高い。金一両でどうですか」
「いい値だな。案内してやるか」
勘九郎一行が、男平八の合図で家にやって来た。
裏で遊んでいた子供も、多数の人の気配に慌てたように土間に入ってきた。年齢は5歳から6歳といったところだろう。自然の中で成長したのであろう、しっかりとした顔つきだ。
「爺ちゃん。どうしたの?この人たちは?」
「恵那山に登られる御使さん一行だそうだ」
「爺はこの人達の道案内を引き受けたぞ」
「俺もいく、一人は嫌だから俺もついてゆく」
「坊や、山を登りについて来れるのかい?」と勘九郎。険しい山頂までついて来れるのか心配になる。
「平気だよ、爺ちゃんといつも歩いてるもの」と胸を張る少年。
「これは私の孫で坊丸と言います」
「坊丸は何歳だ」と正九郎。
「5歳です」
「私の末の妹と同じ歳くらいだな」
「正九郎のところは、双子姉妹の下に妹さんがいるのか?」と驚く男平八。
「ふっふっふ、そうなのだ」
老人が座敷に上がり、先程の薪を炉にくべる。
「では、どうぞお上がりになって服を乾かしなさって下され、晴れたら出発しますかの」
「かたじけない」
五人は火を囲んで、雨が上がるまでの間、暖を取り休憩する事とした。
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