50部:小栗信濃守教久
兼山城の南東方向にある*御嶽城(*またの名は御嵩城)。現在は小栗信濃守(今信濃)教久が城主である。本陣山(標高約180m)に築かれた山城で「応仁の乱」の頃に美濃に大勢力を築いた斎藤入道妙椿が最初に築城した。
かつて御嶽城を支配した先代の小栗信濃守(古信濃)重則は、南方にある高山城を手に入れようと兵を進めたが、高山城主・後藤庄介と、援軍を要請された武田信玄が後詰に派遣した信濃の豪族・平井宮内少輔光行との連合軍により撃退され、小栗重則は戦死した。しかし後藤庄介も合戦の傷がもとで戦死し、高山城主は援軍の平井氏が受け継いだ。
小栗信濃守(古信濃)重則の息子・信濃守(今信濃)教久は永禄8年(1565)の織田家の東美濃進出当時、信長に真っ先に従った親織田派だった。同年(1565)武田信玄の東美濃進入により御嶽城は武田軍に攻囲されるが、御嶽城は昔から蛇が多く住み、蛇神の加護があるという噂があり、敵方が石垣にとりつきよじ登るな落城の危機に陥ると、城を守るように石垣から*濃霧が発生し敵方は進退が判らず進めなくなり、攻略が失敗するのである。神がかりの不落の城だった(*東美濃岩村城にも同様の伝説があり井戸に蛇の骨を投げ込むと霧が発生すると信じられてきた)。
そこで、御嶽城の動きを監視・牽制するために武田軍によって小原城が建造されたのだった。
小栗教久にとっては、御嶽城の喉元に突き付けられた小原城の存在は面白くない。しかし、武田家の先方衆で高山・小原両城の城主となった平井氏が、織田と武田の和睦が成立したことにより急速に織田家と誼よしみを深め、小栗氏は仇敵である平井氏を討つことが出来なくなってしまった。
小栗教久は、織田と武田の和平に対して不満を募らせていた。
勘九郎一行が兼山城に入った時から遡る事一週前。
御嶽城、本丸郭の小栗館。
小栗教久は、本願寺一派の伊勢長島願証寺からやって来た覆面の男・山路弾正を、一族郎党を集め歓待していた。
山路弾正の装いは、覆面の額に阿弥陀如来を現す梵字を刺繍し、如何にも仏門に帰依しているがごとく僧兵の姿なりをしている。酒を飲むときは頬面の下を持ちあげ、その時だけ僅かに口元が見える。
「我々は織田信長に平井光村を討つ条件で与力みかたした。しかし、近年はもともと武田方だった平井家に小原城を安堵して優遇している。我々は奴らが奪った高山城を奪還し、仇敵・平井を信濃に追い返すまでは刀を収めぬ」
一族の不平を唱える教久。
山路弾正が小栗一族を前に演説する。
http://17453.mitemin.net/i186403/ <山路弾正>
「諸君、本願寺は信長の躍進を危惧しています。奴は日本全土を自分の意のままにしようとしている」
「そうだそうだ」と同意する小栗衆。
「本願寺は貴方方を見捨てません。それに、本願寺の為に仏敵と戦えば、極楽浄土は約束されています」
気持ちの高ぶった教久が家来衆に呼び掛ける。
「我らを裏切った信長と、仇敵・平井とは決着を付けねばならぬ。小栗一族は、本願寺にお仕えしようぞ」
「おおー!」居並ぶ一族郎党は、主の小栗教久に異議なく従う。
「頼もしいぞ皆のもの。では、山路殿、本願寺へのお執り成しをよろしく頼むぞ」
「承知しました。じつは小栗殿、別室に皆様への手土産が御座る」
「これはこれは、手土産とはなんでしょうか」
「酒の肴に運んで参ります。しばらくお待ちを」
口元に笑みを浮かべた山路弾正だが、その表情は覆面の為、教久には判らなかった。
襖が開いて、縄に縛られた女性が二人、僧兵に両腕を掴まれ引きずられ連れてこられた。一人は髪に少しだけ白いものが混じったどこかの武家の貴婦人であろうなという婦人と、もうひとりはその娘といっても差し支えないような年頃の女だが、武家出身の娘だろうという凛とした雰囲気を持っている。
「平井頼母光村の母と妻で御座る!」と弾正が手を拡げて披露する。
「「おお!」」想像もしていなかった大物を連れてきたと驚いた小栗衆。
「すでに人質まで手に入ったとは、我らは勝ったも同然ですな、カッカッカッ」手を叩いて小栗教久は高笑いをした。
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