49部:森家、兼山(金山)城
奇妙丸(のちの織田勘九郎信忠)の東美濃冒険記です。御供には梶原於八(団忠正)、森勝蔵(森長可)、池田正九郎(池田之助)、女忍者・伴ノ桜です。勝山猿啄城で川尻家の兄弟喧嘩を仲裁した奇妙丸(のちの織田勘九郎信忠)。更に東に向けて奇妙丸(勘九郎)一行の冒険は続きますが、途中で森勝蔵の実家がある兼山城に立ち寄ります。
勝山猿啄城下の川尻屋敷を後にし、恵那山を目指す奇妙丸一行。
飛騨川を渡って*兼山城に至る。*金山とも書く。
「兼山城は古城山の山頂(標高約280m)に築かれた山城だ。天文6年(1537)に東美濃を抑えるために斎藤入道道三様の猶子となった関白近衛稙家様の実子・斎藤正義殿が東美濃十四諸将の協力を得て築城し、烏峰とりみね城と名付けたのが最初だ」と金山城を解説する勘九郎。
「斎藤正義殿は実家の関白近衛家の権威を利用し、東美濃にて独自の支配を始めた。その結果、道三様にも従わなくなったとか。しかし、強勢を誇った斎藤正義も土岐悪五郎により討たれます」と勝蔵が続ける。
「正義(のち入道妙春)殿は天文17年(1548年)に近隣の久々利城主・土岐悪五郎頼興に久々利城へ酒宴に招待された時に討たれ、土岐悪五郎の一族である十郎左衛門が入城し金山城と改称したのです」
「土岐悪五郎か、なかなかの策士のようだな。しかし、それでは近衛家と斎藤家を敵に回したのと同じではないですか?」と正九郎。
「いや、その後も道三、義龍殿に仕えて重用されたようだ。道三様が罰しないところが“きな臭い”が、よく判らぬ。今となっては土岐頼興殿のみぞ知るだ。
その後、父上が東美濃を制圧し、永禄8年(1565年)に森可成殿が城主となり兼山城と改称したのだ」勘九郎が補足する。
http://17453.mitemin.net/i186257/ <東美濃兼山城>
勝蔵が父・可成に聞いた話を続ける。
「父が城主となった年に、この先(東方)の*御嶽城(別名:御嵩城)と肥田氏の米田城一帯が、東美濃の反織田諸将を後援していた武田の後詰軍に攻められ、御嶽城は落城寸前まで追い込まれたのだ」
勘九郎もその成り行きを知っている。
「父上(信長)は、これ以上の武田家との対立を避ける為に苗木城主・遠山直廉とうやまなおかどの娘を養女として入道信玄斎の次男・諏訪勝頼との婚姻を結び、武田家と和平同盟を結んだのだ。遠山殿は織田信定様の代から縁がある織田家を支持しているが、武田家とも友好関係を保ち、中立的な領主でもあるので仲介役に良かったのだ」と現状を解説した。
「皆さん、流石ですな」
勘九郎の話に熱が入っているなと思う男平八.
「遠山氏に何かあった場合は、織田譜代の森可成殿の兼山城が前線の拠点となるのですね」と分析する正九郎。
(父上は重要な所を預かっているのだな)と信長の父に対する信頼に感じいる勝蔵。
「遠征中の留守居は、祖父の林右衛門尉通安がしております。是非、兼山城にてご休息を」と勝蔵。
「そうだな、勝蔵の家族にも挨拶しよう」と勘九郎。一行は、休息のため兼山城へと向かった。
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兄の勝法師(於勝)が帰ってきたと聞いて、森可成の三男・乱法師(通称:於乱、のちに信長の小姓となる蘭丸)が駆けてきた。
「兄上、お帰りなさいませ」兄に抱きつき喜ぶ於乱。
「元気にしていたか、於乱」
於乱に続いて、外祖父の林通安、通安の娘で可成の正室・御栄御前も外まで出迎えに出てきた。
「お爺様、母上、御無沙汰しております。こちらは奇妙丸様と、仲間たちで御座いまする」
「奇妙丸です。お世話になります」仲間と紹介された一同も深くお辞儀する。
「若、よくぞお越しくださいました。城の留守を預かります林右衛門尉通安で御座いまする」
「森三左衛門可成の妻の御栄と申します。若様方、今日は兼山城にてごゆるりとお過ごしください」
母の挨拶が終わると、於乱も続けて話す。
「乱法師といいます。いつも兄がお世話になっております。皆さまよくぞお越し下さいました」母を真似て礼をする。先程とは違い、急に大人びた仕草をする。
「うむ、よく挨拶できたの。利発な子だ」と勘九郎(奇妙丸)。
「於乱の態度は、兄に似ていて、俺にはあまり似ていないのです」と勝蔵。
「信長様の小姓を務めている兄(伝兵衛可隆)に似ていると言われます。でも於勝(勝蔵)兄さんは逞しくて大好きです」と於乱。
「ハキハキした子だな」と男平八(於八)。
「ここで立ち話もなんだし」と勝蔵を即す通安。
「ご遠慮なさらず、館にお越しください」と御栄ノ方が本丸館を示す。
「かたじけない」と森家の人達に礼をする四人だった。
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