174部:岡崎城
翌日の早朝から、城内では城主・織田信成の家臣達が、城外では三河の頭目達の家臣が、慌ただしく出立の準備をしている。
頭目達も身支度の為に比較的早く起きて、それぞれの宿に旅立ちの指揮を取りに戻って行った。
安祥城には城主・信成が三千の兵で残り、小瀬清長が二千近くの兵を率いて奇妙丸に付いて行く事になった。清長部隊は岡崎城外で、もしもの時に備えて待機する予定だ。
矢作川に到着すると、鳥居家の渡し場から船を利用することになる。鳥居家は矢作川流域の船持ちに声をかけて、大小様々な船を五百艘ばかり掻き集めてくれたので、岡崎までの運搬船にあぶれるものはないだろう。
一行は船に乗り込んで菅生川(乙川)を遡り岡崎城を目指す。岡崎城下から矢作川までは伊賀川が合流し水量が増える。
水深が深く川幅も広いので、その区間は大型船が往来することができる。
「まるで赤壁の戦いにおもむく、曹操軍のようだな」
奇妙丸が、船の前後を囲む大船団を見渡して呟く。
「私は周瑜の方が好きなので、呉の孫権軍と改めさせてください」
と弥富服部の政友がすぐさま突っ込んだ。さすが水軍の長で「唐風かぶれ」なだけはある。故事にも通じているようだ。
「私はマルタの港町ヴァレッタの運河を思い出します」
(楽呂左衛門は港町や舟が好きなようなので、本職はやはり船乗りだったか)
奇妙丸はひとり楽呂左衛門の前職を想像した。楽呂左衛門の経歴は、彼の口から出てくる国や単語の意味が理解できないので、奇妙丸にとって謎が多い。
理解できたのは、楽呂左衛門の生まれ故郷が、異教を信仰する大国オスマンのスレイマンという大王と戦いを繰り返している事だ。
その帝国軍に捕まった者は皆、奴隷として売られてゆく運命にあるそうだ。
(日本国の外の世界は、どこまでも戦国の世が広がっているのだろうか。平和な国はあるのだろうか)
ふと、遠い世界に思いをはせる。
楽呂左衛門は、頭巾を外してよい許可がでたため、風を頬に受けてすこぶる機嫌が良い様子だ。
「快晴で良かった」
と、於八に於勝、伴ノ一郎に桜も景観を楽しみながら船に乗っている。山田左衛門佐と三宅与平次に高橋虎松は具合が悪くなって、横になって空を見上げている。どうやら得意不得意があるようだった。
船に乗らなかった御庭番・伴ノ衆と弥富服部の元海賊衆は、民衆に紛れて四方の状況を探り、異変があれば烽火で連絡する段取りになっている。服部海賊衆は潜伏生活が長く、敵地に潜入する役目には打ってつけの能力を経験的に備えていた。服部衆の武士らしくない武士な一面が、奇妙丸にとっては心強い戦力増強となった。
岐阜城周辺は、鵜飼衆の居る番屋が各所にあり、漁村や農村が川沿いに栄えるがどちらかというと「のどかな風景」だ。津島周辺は商人が多く住み、流通が活発で護岸が施され、それ以外の所は高い堤防が巡らされた要塞的な村々が多い。
岡崎城周辺は、東海道を川が縦断していることもあり、船に乗れない旅人が、歩いて渡るために川の増水をみて逗留するものも居る為、宿場も栄えている。
やがて、北から伊賀川が流れこむ合流地の小高い丘に、岡崎城の全容が見えてきた。
<岡崎城>
岡崎城は、三河守護代の西郷氏が建設した。
室町幕府が開かれてから、足利尊氏の執事・高兄弟の失脚により、仁木頼章が尊氏第一の側近となり、執事兼・三河守護となった。
その仁木氏に仕える三河守護代・西郷氏が、矢作川の支流である菅生川(乙川)と、それに注ぐ伊賀川の合流地点を望む台地を利用して築いた平山城だ。
台地にあった明大寺という古寺と、その背後の龍頭山を利用して、龍頭山城を築城したのが始まりである。
享禄4(1531)年家康の祖父・松平清康が、西郷家から奪取するが、「森山崩れ」で清康が暗殺され、幼かった広忠は今川家に逃れる。天文8(1539)年足利一門で幕府式奉公衆の吉良持広と、その家老で清康の義兄・富永忠康の後援で、松平広忠は岡崎に入城して本拠とした。天文18(1549)年広忠の暗殺により岡崎松平は当主を失う。
家康が返り咲くまでのその間、岡崎城は親織田派と、親今川派勢力の係争地となった。
永禄3(1560)年に再び家康が入城し今川家から独立。永禄10(1567)年に駿河と抗争するようになってからは、信康が城代として岡崎を守って来た。
桶狭間合戦後に独立を計った家康の家族は、捕虜となった今川一族の鵜殿長照の遺児二人との人質交換を経て、三河に居住する事となった。
その頃から、今川家一門関口氏の娘である築山御前は、岡崎城外の築山館で暮らしている。遠江守護だった今川貞世の血統をひき、家康との間に出来た息子の信康には、先祖の領地国である遠江を継承する権利があるといってよい。
家康の血統的にも、遠江守護の斯波氏に協力して遠江国支配を飯尾家と争った守護代・大河内家の血が入っており、信康は両家の血を体内に併せ持った遠江支配の大義名分の結晶だった。
しかし、家康とは、結婚生活13年目になるが、遠江遠征に出た家康が岡崎に帰還しても築山館にはほぼ立ち寄る事は無い状況だ。
築山殿の身辺警護や、身の回りの世話は、信康配下の大賀弥四郎達に任されている。
奇妙丸達が到着すると、湊の警備兵や、船着き場の先導役は信康の岡崎衆が勤めており、
城内は、家康の連れて来た浜松衆に案内された。
本丸の黒金門には、家康自らが出張して来ていて、信康と五徳姫と共に門前で奇妙丸を出迎えてくれた。
築山御前の姿はみえず、やはり、母・奇蝶御前の言っていた通り、御前は世間の事とは一切関わる事がない生活をしているようだった。
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