172部:参拝
五徳姫が、信康の傍に来て自分の手拭いで信康の体に付いた血をふき取る。
「無茶されるのですから」
仕方ない人ですね、という表情の五徳姫。
「義兄上殿は強いな」と五徳に微笑む。
姫の優しさにより、信康の中で試合前に感じていた「もやっ」としていたものは晴れた様子だ。
「では、明日の準備もありますので、我々は引き上げます」
家康が奇妙丸に退去することを告げる。
「よろしくお頼みいたす、義父殿」
再び両者がにっこり微笑み合った。
「いくぞ、信康」と素っ気ない家康。
「はい。父上」
力ない返事をする。
信康は完全に朝の勢いを失ってしまっている。
信康には、父・家康の冷たい眼差しが相当応えていた。
「それでは兄上、また明日」
五徳姫が手を振る。
「おう」
奇妙丸も五徳姫に手を振る。
父・家康のあとに従い信康も岡崎城へと引き上げる。
岡崎の八人衆も、その後ろ姿に元気がない。
浜松勢に囲まれて委縮する様は、まるで捕虜が連行されているような光景だった。
こうして、安祥神社奉納大相撲大会は意外な形で幕を閉じたのだ。
日も暮れて、参拝者が松明を掲げ始める。
境内の各所で、神社で用意した大松明が灯され、更に、焚火が燃やされて、観衆の足元を照らし、境内の中は昼の様な明るさだ。
武家衆には明日の都合もあるが、民衆にとってはハレの日はまだ続いている。
「これから力餅とお神酒を配ります」氏子が集まった民衆に呼びかける
社殿の要所に立つ安祥八幡神社の神職達の案内で、民衆が本殿に参拝に向かい始めた。
安祥城代・織田市郎信成が、奇妙丸のもとに来る。
「奇妙丸殿、朝からの立ち合い。お疲れでしたな」
「うむ。我々も参拝して、安祥城に戻ろう」
鵜殿長信が、奇妙丸に声をかける。
「私も、安祥にお邪魔しても良いか?奇妙丸殿と話をしたいのだ」
「それでは、私も」
と大河内秀綱も随伴することを申し出る。
「私達も」
「私もだっ!」
次々と、居並ぶ武家の頭領たちが、奇妙丸との同伴を求めた。
三河衆達は、奇妙丸と親交を深めるこのような機会はなかなか無いので、そのまま城下の宿には帰りがたい様子だ。
「清長、どうだろうか?」
市郎信成も三河諸豪の声に応えたいようだ。
「では、ご当主方は城内になんとか休息場を設けましょう。それ以外の方々は、城下の方に戻っていただいてもよろしいかな?」
「異議なし!」
内藤入道が歳を忘れたかのように威勢よく答えたので、皆おかしくて笑顔で応じる。
こうして安祥の城で、今宵も軽く宴が開催されることとなった。
奇妙丸一行を中心に、
安祥八幡神社の拝殿に諸将が並ぶ。本多豊後入道が、隣の大給松平親乗に小声で話しかける。
「こうして、織田家の若君と武運長久を祈ることになるとは思わなかったな、時代が変わったようだな大給のよ」
「これから、日ノ本がどうなるのか、想像がつかぬ」と親乗が、奇妙丸の後ろに控えている、異国人武将の横顔をみる。
楽呂左衛門は、視線を感じて、目が合った親乗に、右手の親指を立てて片目をつぶって見せる。
「これ、御神前だぞ」と、山田左衛門佐が楽呂左衛門の親指を抑える。
山田につっこまれる呂左衛門を見て、クスッと笑う桜達。
尾張を代表して奇妙丸、三河を代表して鵜殿長信が、神前に進み出て、玉串と供物、宝刀を捧げた。
楽呂左衛門は、拝み方が判らないので、周りを見回してから心の神に祈る。
参拝が終了して、於勝と於八は、桜と一緒に虎松のところへ戻り、高橋政信の所に寄ることにした。
三宅与平次は、単身そのままついてくるというので、土肥助次郎がいろいろと教示することになった。
「与平次、大鹿毛を頼むぞ」
と奇妙丸が、大鹿毛の世話を託す。
「はいっ、幸せで御座います!今日は大鹿毛の傍で眠りたいです」
与平次は大喜びだ。
「おいおい、蹴られるぞ。挨拶だけにしておけ」と、与平治の興奮する様子を心配して注意する助次郎。
「はっはっはっは」と周囲の侍達は与平次の馬に対する純朴さを微笑ましく思う。
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