100部:うぐい浦
かつての服部氏の拠点・うぐい浦。
木曽川の河口に位置し、伊勢湾の沿岸の良港であるだけではなく、内陸部の美濃への流通の入り口としても絶好の場所にあり、各地への交易拠点として服部氏の繁栄を支えた。
現在の鯏浦城は織田家が築城したもので、瀧川一益の腹心・木全又左衛門忠澄が守備している。
木全忠澄は、信長と同い年の侍だ。父・征詮の代には苅安賀城主・浅井政高に敗れ、浅井氏に従っていたが、信長が尾張国に台頭してからは織田家の家臣として、政高の跡取り浅井政貞から独立。のちに信長の命令で瀧川一益の与力となり、重く用いられ現在は家老職にある。
息子には、一益娘婿となり瀧川一門に加えられた瀧川彦次郎忠征がいる。彦次郎は現在、蟹江城の留守居を勤めている。
永禄10年(1567)に、織田信長は瀧川一益に命じ、北伊勢の平定に乗り出した。
伊勢の四家と呼ばれた、神戸、関、長野、北畠氏のうち神戸具盛と、長野具藤を次々と降し、関家は蒲生賢秀の説得で織田方に加えたことで北伊勢の八郡をほぼ手中に収めた。
残るは、南伊勢五郡を支配する国司大名・北畠家を従えるのみだった。北畠家の当主は北畠具房であったが、実権は隠居した前当主・北畠具教が握っていた。
永禄12年(1569)5月初頭、木造城主・木造具政(実は北畠具教の弟)が、滝川一益に通じた木造一門の源浄院主玄(後の滝川雄利)と、重臣の柘植三郎左衛門保重の献策により、織田家に従った。
北畠具教は5月12日に南伊勢の山奥にある本拠地・霧山城(多紀御所)から一万五千の兵を率いて出陣し、木造城を包囲攻撃する。
木造具政は籠城防戦し、織田の後詰軍を待った。
桑名から後詰に駆け付けた滝川一益の率いる尾張軍や、信長が大動員した美濃・尾張・三河の援軍も駆け付け、更に伊勢の新参・神戸と長野氏の参陣もあり、木造城は持ち堪えた。
そして現在、北畠親子は防御に優れた南伊勢の大河内城に立て籠もり、攻守の立場を変え、織田軍が大河内城を囲んでいる状態だ。
伊勢方面の御番役・瀧川一益は、桑名城を出陣して三か月。大河内城を包囲中だ。
瀧川領に残された家臣は、相互に連携して伊勢湾の治安を守っていた。
一益の尾張の根拠地、蟹江城は娘婿の瀧川彦次郎忠征が留守居を務めている。
蟹江の西にある大野城は、一益の従兄弟である佐治新介益氏が城番を務めている。
佐治氏は知多半島にも拠点を持ち、伊勢湾の運航を担う海賊衆だ。
そして、鯏浦城を木全忠澄が守備し、小木江に進出した織田信興を支援していた。
木全忠澄は、服部海賊衆が木曽川を我が物顔に荒らし回っている事を知っている。
ただ、最近では異様に訓練された兵団が船に乗り込み、沿岸部に上陸しては倉庫や田畑を略奪し、迅速に去ってゆく事から、ただの海賊の仕業ではなくなって来ている事で用心を払っていた。
また、荷之上に放った物見が、一組も戻ってこないことに危機感を感じていた。
護岸に立ち、うぐい浦の川面を見渡す忠澄。
「蟹江城の彦次郎忠征から、返事は戻ってきたか」
「いえ」傍らに控えていた木全河内守が不安げに答える。
「尾張大野城の佐治殿にも直接派兵の要請をしよう」
「そうですね、急ぎます!」河内守が庭を走る。
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