永禄12年(西暦1569)、本能寺の変まで13年
http://17453.mitemin.net/i185253/ <奇妙丸 14歳>
織田信長の嫡男・奇妙丸のち元服して織田信忠の青春を、できるだけ史実にはそった形で小説にしたいと思います。1555年*誕生1582年死去の27年間の太く短い人生ですが、永禄12年から運命の「本能寺の変」までの13年間を濃密に描きたいと思います。奇妙丸と運命を共にした、あまり世に知られていない信忠世代の若手武将や、勝者の歴史の中では登場してこない敗者や、マイナー武将達を続々と登場させて歴史の日の当たらない部分を見直しつつ、冒険あり笑いありで天下統一までの活躍を描きたいと思います。
*長くこの世に存在していて頂きたいので1555年生まれ説で進めたいと思います。
(テロップが下から上へと流れていく感じで序をお読みください!)
時は永禄12年(西暦1569年)の京都表。
寒さの厳しい1月。
新幕府の軍事指導者・織田信長の不在を狙って阿波国三好家の三好三人衆の率いる軍が京都に侵攻した。
三人衆は織田家の擁立する将軍候補・足利義昭の「六条本圀寺将軍御所」を襲撃し、御所を守る将軍奉公衆と死闘を演じた。
義昭方は、京都近郊の畿内衆が駆け付けて奮戦し、四国勢を率いる三好三人衆の第一波を押し返していた。
織田信長は「将軍危うし」と連絡を受け、単騎で岐阜城を飛び出して近江国を横断し、通常3日かかる距離を2日間で京都に駆けつけたのだった。
それから、織田信長の到着を知った畿内の諸豪が続々と集結し、味方は8万の大軍となった。
大軍を前に、奇襲の失敗したことを悟った三人衆はそれぞれ摂津と河内、そして堺へと引き上げた。
それ以来京都では、防御に優れた新たな将軍御所を必要とし、将軍の為に「二条城」の造営が始まり、その工事監督と、三好家の京都奪回作戦を牽制する目的で、新御所が完成するまでは信長が在京する必要があった。
しかしながら、信長は領内の政務を放り出して上洛していたので、美濃・尾張国に置いてきた家臣団に政治戦略、領国経営の細かい指示を出すため、兄・信広を京都での影武者に立てて隠密裏に岐阜と往来していたのだった。
******
4月中旬。美濃国岐阜城。
*****
信長の子息である奇妙丸・茶筅丸兄弟は、美濃での雑務を終えて再び上洛する父・織田信長を、岐阜城内郭の城門まで見送っていた。
信長が留守の間、美濃・尾張国の政事を一任された奇妙丸は、これから父に代わり岐阜城主になるというその重責に身が引き締まる思いだ。
「ご武運を・・・」
父・信長の騎馬隊の行軍を、心配そうな目で追っている。
奇妙丸のその険しい横顔をみて、次男坊の茶筅丸が声をかけた。
「兄上、何かして遊びませぬか?」
兄の緊張をほぐそうと、気を遣ったつもりだ。
「ふーっ」と
大きく息を吐き、呆れた顔で横をみる奇妙丸。
「緊張感のないやつだな」
誤解されるのも次男の宿命である。自分の気持ちを汲んでもらえず少しムっとしたが、
「では兄上、火の元確認、その他、用心の為に、お先に失礼いたします」と
一礼して、さっさと岐阜御殿<千畳敷き>裏の、信長家族の暮らす居館<濃御殿>へと戻って行った。
(茶筅のやつ、難しいやつだな?)
奇妙丸は自分が怒らせてしまった事に気付かなかった。
茶筅丸は、平山城である岐阜城の地山、金華山の東側、搦め手門側の<五百貫櫓>の当番を命じられ、
これから毎日そこに詰める事になっているので、その準備も色々あるのだろうと考えた。
・・・・金華山は標高約330m、井口山や、稲葉山とも呼ばれていた。濃尾平野から天に突き出た山である。山全体がチャートで出来ていて、金華山の石は“火打ち石”にも用いられ、岩肌を刀で叩けば金ノ華の様に火花が飛び散る程に硬質な岩石が露出している。
山の北側は長良川の流れに面し、南側は断崖壁の要害地形である。
奇妙丸も自分の務めを果たすべく、岐阜城本丸のある金華山山頂へと向かって歩み始める。
・・・ 岐阜城(稲葉山城)は伊賀氏の後裔である二階堂行政が鎌倉時代の建仁年間(西暦1200年頃)に創築したと伝わる。その後、斎藤道三によって山頂に本丸、西側麓に城下町が整備され、美濃に侵攻した織田信秀が何度か敗退するほどの要塞となった。更に、稲葉山城を落とした織田信長によって本格的な石垣の城が築かれ、外廓や城下町が再整備された。今では山全体が「岐阜城」と呼ばれている。
岐阜城本丸〈物見楼閣〉。
「やっと人心地着いた。いやあ~、父上は毎日よくここまで登ってくるよ」
「若様を鍛える親心なのではないでしょうか」
と乳兄弟の梶原於八(のちの団忠正)
「え?」
(これも訓練のうちだったのか)
奇妙丸には、信長が家中より選んだ、その道一番の家庭教師達が、10年間日替わりで、みっちりと生きる術を教え込んできていた。
「父上は私を鍛えるのが好きだなあ」
詰め込み教育に息苦しさを感じた時もあったが、いつか自分の為になると耐えてきた。
奇妙丸の乳兄弟である梶原於八の父・梶原平次郎が、奇妙丸の捌く今日の仕事をもってきた。
「若、早速でございますが、東美濃の多治見修理亮殿から、最近、多治見城下に怪異の噂が出回り、周辺住民が不安がっているとの上申が御座いました」
<画像右下の方に多治見>
http://17453.mitemin.net/i245969/
「むう。武田の*透波が流言をまいておるのではないのか」
*透波とは、忍者・隠密・間者のこと、特殊な技能を持って大名家に仕える者のこと、武田家では高坂党が有名。
現在は、武田家との不可侵の関係が成っているが、永禄七年(1565)には兼山(金山)城、更に岐阜近くの米田城の城下まで武田軍が攻め込んでいる。武田氏との緊張状態は継続したままだ。
「それが、多治見領内の身重の婦人が次々と神隠しにあっているようで」
「そ、それは、一大事じゃ!」
「多治見殿には、我配下の紫直垂の者達を捜査に向かわせると伝えておいてくれ」
「はっ」
岐阜城下では、紫の生地で衣服を揃えた奇妙丸直属の若衆達が、警察業務を行っている。
昔、那古屋城下では父・信長の集めた若衆がバサラな格好で徘徊していると評判だったが、
今の世では、美濃尾張太守・信長の息子なのだから、奇妙丸の若衆達は恥ずかしくない身なりでいなさいと、父から厳命されている。
そこで思案をめぐらせ、かつて平ノ清盛の支配時代に京都住民を震え上がらせたというの「赤かむろ」部隊を真似して、奇妙丸直属の従者、側衆達の衣装を紫で統一したのである。
織田家と武田家の同盟によって、多治見氏は一度美濃に戻ってきた事にしました。
登場人物については、私の作成中のHP『天下侍魂-将を語る-(武家家臣団研究)』を基に、史実に合うように話を進めて行きたいと考えています(役目上、イレギュラーな場合もあります)。
9月23日登場人物の「設定集」も開設しましたので、そちらも参照して頂ければ幸いです。(謹言)