後編:祈りの重さ ~死ぬことすら許されない地獄の始まり~
「な——」
直後、アルリックは無様に転倒した。何もない平坦な床で、まるで見えない足枷に囚われたかのように。
「殿下!?」
慌てて駆け寄ろうとしたミーナのドレスの裾が自身の足に絡みつく。同時に、まるで勝利を誇示するように指先から放っていた光魔法の粒子が不自然に収束し、歪んだ。
——バチンッ!
「きゃっ!?」
暴発した光が天井を走り、重厚なシャンデリアの鎖を焼き切る。
「まさか——」
誰かが呟いた直後。
ガシャァァァン!!
巨大なシャンデリアが落下し、大広間の床を粉砕する。悲鳴と粉塵。瓦礫の中から這い出したアルリックの額から、鮮血が流れ落ちる。
「ふ、ふざけるな……偶然だ。こんなもの、ただの偶然に決まって——」
だが、異変は止まらない。立ち上がろうとしたアルリックの膝が笑い、再び無様に崩れる。
支えようとした近衛騎士の剣が鞘から滑り落ち、床を跳ね、別の貴族の足を裂いた。
窓が軋み、風が吹き込み、書類が舞い上がる。
「やめろ……やめろ……!」
アルリックは頭を抱える。だが不幸の連鎖は止まらない。その時、視界の端で、倒れた騎士が呻いた。
「ぐ……っ……この傷……本来なら、先日の訓練で負っていたはずの……」
「……は…?」
アルリックの思考が、わずかに止まる。
「い、いえ……あの時、剣が滑って……ですが、なぜか寸前で止まって……」
騎士は震える手で、自分の傷口を押さえた。その言葉に呼応するように、別の貴族が、青ざめた顔で呟く。
「本来なら、あの商談は破綻していた……だが、不思議と……」
「疫病もだ……広がるはずだったのに……」
「……殿下、もしや……」
震える声で告げたのは、王宮守護の任に就く衛兵長だった。
「あの夜……放たれた暗殺者が、勝手に階段から落ちて自滅したという報告……。あれも、偶然などではなかったというのですか……?」
断片的な言葉が、空間に浮かび上がる。
訓練で滑るはずだった剣。
決裂するはずだった交渉。
広がるはずだった疫病。
暗殺者の襲撃が、あまりに間抜けな理由で未遂に終わった夜。
「助かっていたんじゃない……」
アルリックの顔から、急速に血の気が引いていく。膝が震える。立てない。
「“助けられていた”……?」
今、目の前で起きている惨状。それは異常ではない。——エリスという蓋を失い、本来の姿に戻っただけの「正常な因果」だ。
「……じゃあ……今までの私は、何の上に立っていた?」
答えは、もう出ていた。
「……あれは、“奇跡”じゃない。……“固定”されていただけだ……」
その言葉が落ちた瞬間。
広間の外――城門の向こうに、一台の馬車が止まった。そこに立っていたのは、隣国の第一王子カイルだった。彼は跪き、エリスの手を取る。
「迎えに来た、エリス。もう、こんな場所に君を置いてはおけない」
「お待ちしておりました、カイル殿下」
その光景を、アルリックは泥を噛むような顔で凝視する。
「貴様……最初から仕組んでいたのか!」
「いいえ」
エリスは静かに首を振る。
「ただ、やめただけです。貴方を守ることを」
その言葉に、初めて本物の恐怖がアルリックの顔に滲む。
「ま、待て……行くな!私を見捨てるな!私は……私はこれからどうなる!?」
彼女は振り返らない。ただ、静かに告げる。
「ご安心ください、アルリック殿下。貴方の『死ぬ確率』は、私は、一度も触れておりません」
「……え?」
「そして、今も。ですから――しばらくは死ぬことすら許されず、生きておられるでしょうね」
理解した瞬間、アルリックの喉がひくりと鳴った。
「では、最後に。貴方がこれまで私の陰で"避け続けてきた、その因果を。どうかご自身でお受け取りください」
——馬車が動き出す。黄金の夕陽の中、エリスは静かに去っていった。
直後——遠くで、鐘が鳴り響いた。王都の一角で火の手が上がったとの報せ。
続いて、隣国との交渉決裂と開戦の急報。
さらに、国内有力貴族たちの離反、民の暴動。
積み上げた積木が崩れるように、王国が瓦解していく。
「う、嘘だ……こんな、一度に……」
崩れ落ちる王太子の背に、静かな真実が降り積もる。
——祈りの重さを、知るがいい。
(完)




