ピエロ
父親の妹尾温人は大手電機メーカーに勤めていて、朝は早く夜は遅いが、たまに早く帰っていたり、朝が遅い時もある。
でも温人は、同じ家にいるのに忍者みたいに愛結の前に姿を見せない。かといって、愛結は温人と顔を合わせたいとは思っていない。
物心ついた時から、温人は愛結を疎ましく思っていると感じていた。
千珈や天晴は、温人を子供の頃から知っているが、ただ不器用な人なんじゃないか? と肩を持つから、余程のことがない限り、二人の前で温人の話題は愛結から口にはしない。
でも母の奏子が生きている時は、まだ父親らしかった。
奏子が生きている時は、温人も家族として動いていて、公園、遊園地、水族館、家族旅行に出掛けていた。
ただ、温人は奏子と楽しげに会話をするけど、愛結が話に割って入ると、フェードアウトして、結局は奏子と愛結だけで話ていた。
そんな父子を心配したのか、奏子が温人に愛結を任せて公園行かせたり、何かと二人にさせて父子関係を改善させようと画策していた節があった。
二人になっても、温人の口数はほとんどなくて「おい」「動くな」くらいの単語しか出てこなかった。
小学校に上がる前だった。奏子の指示で休みの日の夕方、二人で買い物行かされた帰りだった。
愛結と同じで、父親と買い物に来ていた親子を何組か見ていて、今まで聞きたくても聞けなかった質問を、急にぶつけたくなった。
「お父さんは、私が嫌いなの?」と。
温人はオレンジ色の夕陽の中を、歩みを緩めずに進んだ。もっと動揺するとか、見た目の動きで変化があるかもと観察したが、愛結には分からなかった。
アスファルトを蹴る靴音、誰かが鳴らした自転車のベルの音、どこかの家の準備している夕食の匂いが何時もより、鼻と耳に入ってきた。
二人が家の前に着いた時だった。温人が立ち止まったから、愛結は不思議に思って見上げた。
「別に子供なんて要らなかった」
温人は愛結を見ずに、真っ直ぐ目の前にある家を見据えたまま、独り言みたいに口にした。
後頭部から肩にかけて、変に力は入ったみたいに痛くなってきて、頭痛がしてきたのを未だに愛結は鮮明に覚えている。
今なら何かしら雑言罵倒が可能だけど、薄々感じていたものが、ハッキリと言葉に出されて何も考えられなくなっていた。
それでも心のどこかで「そんなことはない」と否定をしてくれると淡い期待をしていたのも事実。だって親子なんだから。
温人の携帯が鳴って、半ば放心状態だった愛結は我に返った。
「もう家の玄関だよ」
ずっと無表情だった温人の顔が緩んで、さっきまでとは別人だった。いや、何時も奏子と話している時は嬉しそうにしていて、破顔していた。
温人にすれば、自分の娘であろうと妻の奏子が一番で、愛結は何番目かで、大好きなお菓子に付いている欲しくもない玩具程度なんだと感じた。
それまでは、温人に構って欲しくて、振り向いて欲しくて色々としていたが、サーっと潮が引くみたいに、温人に愛結自身から接することはなかった。
ただ母である奏子は大好きだったから、状況に応じてそれなりに温人に接してきた。娘の変化に奏子は気付いていて、何度も寂しそうに笑うのを見た。
妻を世界一、宇宙一と言っても過言ではない温人は、奏子のそんな変化を気付いていたのだろうか。いや、温人気付いていたに違いない。
何故なら、本人さえ気付かないちょっとした体調の変化、不安に気付いて奏子を何度も驚かしていたから。
愛しい奏子を悲しませてまで、愛結に関する譲れない何かがあったのは確かだ。でも原因は分からずじまいだ。
愛結は温人に対して期待せずに、温人にも変化がなくも妹尾家は家族の形を保っていた。
家族の揃っての朝食と夕食、週末のお出掛け、休みの旅行。参観などの学校行事には絶対に温人は顔を出さなかったが、運動会にだけは奏子とお弁当を持って来ていた。
大好きな母奏子のために、愛結はその度にピエロとなった。自分かピエロになって理想の家族を維持させるために。それは奏子が亡くなる直前まで続いた。
愛結が小学五年になった秋だった。堤防には銀色のススキが風で揺らいで、街路樹や学校に植えられている木々が、オレンジや赤色になり始めていた。
愛結は奏子に誘われて夕方、一緒に駅前まで買い物に行っていた。秋のオレンジ色に染まった空と町は、それだけで形容し難い寂しさと哀愁を感じさせていた。
買い物を済ませて、奏子と愛結で袋を一つずつ持って歩いていた。会話は余り覚えていないけど、学校や友達の話をしていたと思う。
横断歩道で信号待ちをしていていた時だった。
「愛結。お父さんの事なんだけどね」と奏子が不意に温人の話題を口にして話を始めた。
しかし高音のブレーキ音、鈍い重低音、悲鳴が耳に入ってきたと同時に、愛結は奏子に思いっきり突き飛ばされた。
腕、肘、膝、胸をコンクリートで打った痛みに耐えて、後ろを振り返った。
道の真ん中でトラックが横転していて、二人が立っていた場所には、乗用車が横倒しになっている。その下からは、赤い液体から真っ白い手が出てきたみたいに伸びていて、何か訴えているようにも見えた。
周りには、《《誰かの》》財布の中身が散乱していて、小銭や薄っぺらい緑など、色とりどりのカード類が落ちていた。
事故が起きたんだと、愛結にも理解できた。状況を理解した愛結は、直ぐに奏子の姿を探したものの、姿を見つけられないでいた。
「君、大丈夫かい? 一人なの?」
男の人が愛結の肩を揺らして、質問攻めしてきた。
「お母さんが、居ないんですけど」
隣で質問していた男の人が、愛結の前に移動して来て視界が遮られた。
気が付くと病院のベッドにいて、愛結の手を握った伊久子が目を腫らして泣いていた。
「良かった……良かった……ちょっと待ててね」
伊久子が出て行って数秒後に、温人が泣きながら入って来て、愛結を怒鳴り始めた。
「何でお前が生きているんだ! 何でお前じゃなくて奏子なんだ! お前が死ねばよかったんだ。死ね! 死んで奏子を返せ!」
温人の絶叫に近い声を聞いた看護師や医師、伊久子が部屋になだれ込んで来た。
愛結に罵声を浴びせ続ける温人に、伊久子が大きな音がする平手を浴びせたが止まらず。温人は医者と看護師に引きずられて行った。
病室に残った伊久子が「奏子さんが守ってくれたのよ。あの馬鹿息子の言葉なんて気にしなくていい。母親が子供を身を持って守るのは、当たり前なんだから」
伊久子は愛結をキツく抱きしめながら、何度も言い聞かせるように言葉を繰り返した。




