五、花に込めた想いを
* * *
その年の冬の寒さは厳しく、例年以上に雪も降り、天気が読めない年であった。あまりに天候が悪すぎて大学に行くのが辛い日もあり、必然的に外に出る日数も少なくなる。そうこうしているうちに寒さは和らぎ、春休みに入り、今年もサークルにバイトにほどほどに奔走している日々が続いた。同時に今年は来年度の準備もしっかりしようと思っている。
毎日単調なようであるが、その間でも季節は巡り、新芽に蕾が付き始めていた。寒かった冬も明け、いよいよ様々な花が開く春を迎える。
そんな中、からっと晴れた日曜日に、駅への買い物がてら、少し遠回りして、久々に花屋へと自転車を走らせた。その日の店頭は休日であるため雅幸さんがいたが、どこか浮かない顔をしていた。
「こんにちは、雅幸さん」
声を投げかけると、びくっとしながら、顔を上げられた。
「やあ、久しぶりだね」
「ちょっとバイトやサークルに追われていて。何かあったんですか?」
「うん、まあね」
視線が机の上にいく。それを追って、私もその先のものを見る。そこに書かれていたのは――。
「お店、なくなってしまうのですか?」
それは道を拡大するために、立ち退きを依頼する内容であった。驚きのあまり、口を閉じるのも忘れて、唖然としていた。
「いいや、指定された他の場所で移ることもできるから、なくなることはない。ただもう少し遠くなるから、不便にはなるけど」
「そんな……」
この角の場所でふと通りかかって寄るのが習慣であるので、移転したらしばらくは調子が狂いそうだ。
「まあ補助金も出してくれるし、ここら辺の道がより良くなるのなら、悪い話ではないけどね」
「本当にそうなんですか? なら、どうしてそんなに浮かない顔をしているんですか?」
訝しげに雅幸さんの顔をじっと見ると、突然微笑まれた。あまりの不意打ちに心拍数が上がる。
「咲季ちゃんの誕生日って、いつだっけ?」
「三月の頭、もう来週ですね。今、聞かれるまで、すっかり忘れていました」
「花が咲き始める、いい季節だね」
その内容に対して控えめに頷いた。誕生日を祝ってもらえるのも嬉しいが、同時に花も咲き始め、さらに心が浮かれる季節である。そしてある出来事を思い出し、両手を軽く合わせながら口を開いた。
「そうだ、今年も是非桜並木を見に行きましょうよ。まだ開花時期はわかりませんが、きっと綺麗なはずです」
去年の春、思い悩んでいる時に、修次郎おじいさんと雅幸さんに連れられて一緒に近くの桜並木で綺麗な公園に行ったことを思い出す。写真からでもわかるが、鬱々した気持ちが見るだけで晴れるくらいに本当に美しく、感動した。
嬉々として提案したが、頼りなさそうな顔で辛うじて頷かれる。もはやあまりの気迫がない様子に、困惑した表情を出してしまう。
「雅幸さん、どこか体の調子でも悪いんですか?」
あまりの反応の弱さに言葉を零す。だがそれに対して、首を横に振られる。
「少し寝ていないだけかな。――ねえ、咲季ちゃん、来週もまた来てくれる?」
「来週ですか。サークルの合宿とかがあるので、週末になってしまいますけど」
「構わないよ。どうせ土日にしか店を開けていないから」
「わかりました。では来週の日曜日にでも」
意図がよく読めないが、そうはっきり答えることで、雅幸さんの表情が幾分和らいだように見えた。
忙しさにかまけて、年が明けてから数か月ほど顔を出せていなかったが、それでも定期的には会う努力をした方が、相手としては安心するのかもしれない。
* * *
一週間は怒涛のように過ぎていき、金曜に疲労困憊の状態で合宿から帰り、翌日は休息に一日を当てる羽目になった。
穏やかな天気が続いており過ごしやすい季節だ。そんな季節に産まれたのは恵まれたことだと思う。誕生日は明日であるが、前倒しで友達からは祝ってもらい、机の上にはプレゼントとそれを包んでいた紙で溢れている。髪留めやストラップ、ぬいぐるみなどがたくさん飛び出ていた。
だらだらと一日を過ごしていたが、まだ疲れは取れていないようで、夕食後に急激に睡魔に襲われた。やがてベッドに横になると、すぐに眠りについてしまった。
目の前には大きな植物がそびえ立っていた。先端には何があるのかと顔を上げると、そこには大量の小さな花が太陽に向かって咲き誇っている。リュウゼツランだ。
視線を下すと、品の良さそうなおばあさんがすぐ根元で立っていた。誰かを待っているのだろうか、時折、辺りを見渡している。
何十年に一度咲く花の下で待ち合わせなど、ロマンチストな人がいるものだなと眺めていると、誰かが駆け寄ってくるのが見えた。チェックの帽子を被っているため、一瞬誰であるか判断できなかったが、横顔を見て明らかになった。
「修二郎おじいさんと、おばあさんかしら」
おばあさんが修二郎おじいさんを見つけると、口元を緩めながら迎え入れた。幸せそうな笑顔に、仲がいい老夫婦だと誰から見てもわかる。
ずっと幸せでいて欲しい、そう思わずにはいられない光景であった。
ほんの少しの夢ではあったが、心が温かくなるような満ち溢れた夢を見ていたようだ。
お昼前といつもより早い時間であるが、店の方に行って、修二郎おじいさんがいたら、是非話してあげようと思った。
支度をし終えると、自転車に跨り、走らせ始める。木々を揺らす風が吹いている。春の香りというものが、どのようなものかは分からないが、きっと今感じているものだと思う。
穏やかな春の一日、その言葉がぴったり当てはまる日だ。
視界に、〝おおさき花屋〟が目に入ってくる。だが意気揚々としていた感情は、いつも通りに開店している花屋ではないことに気づき、急激に冷えていく。
店の前に出している売り物の花が植えてある鉢は出ておらず、シャッターさえも閉まっていた。そしてその前には一人の青年が視線を地面に向けて、しゃがみ込んでいた。急いで辿り着くと、投げ捨てるかのように、自転車を乱雑に止めて走り寄った。
「雅幸さん、どうしたんですか!」
投げかけた声に気づき、ゆっくり顔を上げると、そこには目を真っ赤に腫らした彼がいた。そして無言で脇にあった花束を取り上げ、私の前に差し出した。チューリップやスイートピーなど淡い桃色を主としつつも、明るいオレンジ色の薄い花びらを咲かしているアイスランドポピーが目立つ、可愛らしい花束だ。
「これは……」
「……お誕生日おめでとう。僕とおじいちゃんからのプレゼントだ」
「修二郎おじいさんも? そうだ、今、おじいさんは――」
口走った途端、雅幸さんの歪んだ顔を見て、すぐに後悔をした。
なぜ、気づかなかったのか。
いや、なぜ、今まで気づこうとしなかったのかと、過去の自分を疎ましく思った。
気づいていれば、雅幸さんに対する違和感を追及していれば――。
花束を受け取ると、自然と涙が溢れ始めた。思わず蹲り、雅幸さんと視線を合わせる状態になる。
「今朝、息を引き取った。夏の終わりからまた体調を崩して、検査をしたら末期癌。もう色々と遅かった。けど最後まで花のことは考えていたんだ」
本当は雅幸さんだって泣きたいはずなのに、その感情を押しとどめて、私に伝えようとしている。だからできる範囲で涙を堪えようとしたが、流れ始めたものはなかなか止まらなかった。タオルを差し出され、ほんの少しだけ躊躇ったが、すぐに受け取り有り難く使う。
「土日だけでもいいから店を開けて欲しいと言われた。そして注文は受けて、その花束はなるべく自分が花を選ぶって意気込んでいた。今渡した花束も考えて、選んだのはおじいちゃんだ――最後の花束を」
包み方等は修二郎おじいさんの丁寧さと比べると程遠いが、雅幸さんらしい包み方だ。〝最後の〟という言葉が胸に響く。
「おじいちゃん、言っていた。おばあちゃんが亡くなってから、どうしてすぐに後を追わなかったのかという理由を。リュウゼツランをこの目で見て、天国で報告をしたかったからだって。だから見た後に気が抜けたように、体調が悪くなったんだ」
朝見た老夫婦の夢は偶然ではなく、修次郎おじいさんの思考によって見させられたものかもしれない。
そう思うと、いつまでも涙を流すわけには行かなかった。タオルを顔に当て、出ているものを無理矢理拭う。そしてどうにかして、微笑む。
「なら修次郎おじいさんは、頑張ってより長く生きてくれたということですよね。数年前にただおばあさんの後を追うのではなく、二人でできなかったことを、一人でも達成するために」
「長生きか。そうだね。もしすぐに後を追っていたら、おじいちゃんも僕も咲季ちゃんとも出会うことはなかったし」
「私と、ですか?」
「ここの花屋はおじいちゃんだけの一代限りで店を閉める。だからおばあちゃんの後をすぐに追っていたら、咲季ちゃんと出会う前に閉めてしまっただろう。――そうそう、おじいちゃん、よく咲季ちゃんには感謝しているって言っていた」
思わぬ言葉に目を丸くする。一瞬慰めのための嘘だと思ったが、真っ直ぐに見つめてくる瞳はまったく揺れていなかった。
「若い子が花に興味を持っていく様子が嬉しかったらしい。そして花に想いを込めて、プレゼントとして買っていく様子も」
「そんな、私以外でもそういうことをする人はいると思いますよ」
「でもおじいちゃんにとって、一番心を許せた人は咲季ちゃんで、そしてあることに気づかせてくれたのも咲季ちゃんだったんだ」
「私が修二郎おじいさんに?」
何も心当たりがない。むしろ助けられてもらったほうが多い。私が首を小刻みに横に振りつつも、雅幸さんはゆっくりと私の想いを否定するかのように首を横に振った。
「おばあちゃんが亡くなった日は雨が降っていて、そのために到着が遅れたんだ。だからそれ以来、おじいちゃんは雨の日がより嫌いになった。けどおばあちゃんは雨の日は好きで、静かで、心が鎮まるような雰囲気が好きだって言っていた。そして、それをようやく理解したらしいんだ、咲季ちゃんの言葉で」
雅幸さんの目が花束の方に向けられる。
「――わだかまりが一つ消えたことに、そして他にも多くのわだかまりや、思い出を作ってくれた咲季ちゃんに伝えたかったんだ、花束で。花に込めた最後の想いを」
改めて花束に視線を落とす。淡い色で構成された優しい気持ちになれる花束。いい香りもし、嗅ぐと幸せな気分になれる。
無理して微笑んだ雅幸さんを見ると、修二郎おじいさんが一瞬重なる。
「おじいちゃんがよく言っていたのは、女性はまさしく花だって。棘を持っているものもあるけど、たいていが人々の心を癒してくれる。そしてその花の中にはそれぞれ言葉が込められており、同時に人々の想いも含まれている。例えば、アイスランドポピーには〝気高い精神〟という言葉が込められているように。そんな風にずっと生き続けて欲しいという想いがあったからじゃないかな」
花束を握る力が強くなる。これを受け取って感じたことは、なんて綺麗で、優しい気持ちになれる花束なのだろうかということ。だけど、それだけでなくその奥に秘められた言葉が私の心を突く。
私はそんな風になれるのだろうか。それともなれているのだろうか。
でも、今、これだけは言えることがある。
修二郎おじいさんの想いはしっかりと私の心の中に埋め込まれたということに。
春の訪れを告げる、暖かな風が吹く。付き始めた葉を揺らし、虫たちが現れ始める。
まるで、優しかった修二郎おじいさんの心の中のように、穏やかな空だった。
* * *
修二郎おじいさんの四十九日を迎えた頃、しばらくあの地から離れていたが、精神的にも落ち着いてきたので、久々に〝おおさき花屋〟の前を通りかかろうと、自転車に乗った。
訃報を聞いた当初は花束を見るたびに、表現しきれない切ない想いが込み上げてきていた。前を向いて元気にいて欲しいのだろうが、心の中にできた空虚感はなかなか埋められなかった。
花束を、始めはドライフラワーにでもして、ずっと保存していようかと思ったが、それでは本当の美しさを見ずに終わってしまう。だからアイスランドポピーを一本だけドライフラワーにして、あとは花瓶に入れた状態で一週間以上眺めていた。だんだんと枯れてきてしまうのは寂しいが、果敢にも咲いている姿を見ていると、私も元気になりそうだった。
この先を真っ直ぐ行けば、角に店が視界に入ってくる。シャッターは閉まったままであろうが、外観だけでも見られるだろうと、その時点までは思っていた。
だが何か違和感がする。目を細めて、先まで見ようとすると、途中で唖然としてしまった。
数メートル前で自転車から降り、押していくと、おおさき花屋があった場所は――更地になっていたのだ。
周りの建物も一緒に壊されたのだろう、一回り大きな空間ができていた。
「本当に無くなっちゃった」
四十九日は、生きている人が亡くなった人に対して心の整理を付けるためにあるのだと聞いたことがある。その内容は確かに私自身にも当てはまることで、この期間のおかげでだいぶ気持ち的には楽になっていた。
だが急にあったものが無くなってしまうというのは、やはりどこか物寂しい。
更地になった場所に足を踏み入れる。そして周りを見渡した。
住宅街であるから、近場はそこまで変わりはないが、少し離れたところには十年までは見られなかった高層ビルが建っている。そのビルの近くには並木通りがあり、それは変わっていない。
変わるものがあれば、変わらないものがある。
この、〝おおさき花屋〟があった地は変わる場所であったのだ。
四十九日は心の整理だけでなく、立ち止まっていた場から、進み始める期間でもあった。
花が美しいと感じられるのは、同じ様子を常に保ち続けるわけではないからだ。時が経てば、花は枯れるだろう。だが次の世代を残すことで、想いは続いていく。
それは想いが途切れない限り、ずっと続いていくだろう。
その日の空もどこまでも、どこまでも真っ青な青空であった。
了
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
ファンタジーやミステリー要素は一切なく、恋愛もほぼないといった、ある女性とおじいさんとその孫との日常の交流を描いた小説でした。
無理なく穏やかな展開で最後まで持って行ってしまったので、他の小説とは違った印象を受けるかもしれません。
自分としましては、「死」というものを真正面から感じ、それを受けた結果書いた一作となります。
一方、随所に花もあしらいましたが、一話ごちに主となるものが違います。
一押しは、4のリュウゼツラン。実際に見たときは、あまりの迫力に驚いた覚えがあります。
最後に拙作を読んで、何か少しでも感じるところがあれば幸いです。
今後もさらにより良いものが書けるよう、頑張りたいと思います。ありがとうございました。
桐谷瑞香(二〇一一・〇八・一六)




