歴史に翻弄され、歴史を翻弄した男 − 博愛精神
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溥儀は、紫禁城の時代より、慈善活動に強い関心を抱き、洪水や飢饉による被災者や生活困窮者に対する支援を惜しまなかった。紫禁城に籠もる溥儀にできることと言えば、資金援助のほかになく、そのため、事ある毎に義捐金や寄付を送ることで、できる限りの貢献をしようとしたのである。関東大震災(1923年9月1日発生)のニュースが紫禁城に舞い込んだ時も、溥儀は被災状況に関する情報を収集し、直ちに日本政府に対して、金銭の他、紫禁城内に保管されている財宝を送り、義捐金に当てるように申し出る。溥儀が北京政変により紫禁城を追われた際、唯一、日本だけが救援の手を差し伸べたのも、ひとつにはこの時の返礼の意味があった。
しかし、溥儀自身はこうした多額の募金を行う背景に政治的意図や打算を隠し持っていた訳では断じてなかった。あくまでも、博愛主義、人道主義より発した行いであり、教養ある人間の積徳で(せきとく)あった。財源も宮廷の予算を取り崩して捻出したものでは決してなく、溥儀自身が私財を投じたものであり、また、ほとんどの場合、匿名で行っていたのである。
満州国の傀儡皇帝であることを嫌と言うほど思い知らされた溥儀ではあるが、それでも満州の発展に向けた活動を怠ることはなかった。その一例が、日本との学術交流に対する貢献である。
満州国の建設には、優秀な人材が必要であり、とりわけ満州における工業化の担い手たる技術者の養成には、日本も満州も力を注いでいた。満州国では、南満州鉄道が単に鉄道事業に止まらず、同社を柱として関連会社をいくつも設立し、近代化・工業化のための事業を展開していた。そのためには、それに先行する学術研究も勿論必要であったが、それを具体に応用し実現するための技術者が大量に必要であった。
明治の頃より、工業化に注力していた日本は、技術者養成のための高等工業学校を全国に整備していた。高等工科学校、工業専門学校などもその中に分類される。その大半は官立であるが、私学も少なからず含まれており、戦後、これらの学校は大学の工学部や工業高等専門学校へと発展する。満州国の建設に当たって、日本の政府は、特別にその任務を与えられた学校を設立することとした。当時、日満の称号を付与されている学校があったが、それらは明らかに満州開拓のための技術者養成を目的として設立されたものである。秋田日満工業学校、酒田日満工業学校(山形県)、九州日満高等学校(福岡県)がそれであり、いずれも日満技術工養成所を前身として改組、改称したものである。
加えて、私学では立命館日満高等工科学校がそれらに列せられる。厳密には前記学校とは性格を異にするものであるが、満州国建設の技術者養成という意味では共通している。
溥儀は、満州国における工業化とそのための技術者養成の必要性について正確に認識しており、日満の協力が不可欠であると考え、自らも協力を惜しまなかった。これには、政治的打算もさることながら、先述のとおり、慈善活動に関心を寄せていた溥儀であるから、有能な人材の育成に心から期待しての純粋な意味があったのではないかと思われる。
1939年、溥儀は立命館に50万円という大金を寄付する。
立命館は、寄付金のうち20万円で立命館日満高等工科学校の敷地として衣笠の土地を購入し、残りの30万円を学舎の建設費や設備費などに充てた。
50万円と言う額は、現在(平成23年)の貨幣価値で言えばいくらくらいに相当するのだろうか。
何を基準に比較するかにより評価は異なるが、例えば、主要な消費財の価格を元にした物価水準でみると、約2,000倍、給与水準で比較すると約5,000倍になる。この差は、当時のわが国の給与水準が極めて低かったことによるものである。いずれにせよ、寄付金の50万円は前者であれば10億円、後者であれば25億円に換算することができる。
現在、衣笠キャンパスの校地面積は約34万㎡(約10万坪)であるが、記録によると、このうち6万坪が溥儀の寄付により購入したものである。この辺りの路線価は2011年現在、約40〜50万円/㎡であるから、総額約300億円弱の評価になる。この額を、用地購入資金に充てた20万円の現在価値と見なすことも無理なことではないかも知れないが、ただ、これには地価そのものの高騰分も含まれているので適正とは言えない。
京都の古い地域区分で言えば洛外に位置する衣笠は、立命館が購入した当時、洛中と比べると地価も格安であり、広大な敷地を手に入れるには丁度良かったのであろう。その後、戦後の高度成長やバブル期を経て、地価が高騰し、先述の額になったのだが、それには立命館大学の評価が名実ともに向上したことも無縁でなく、立命館に学ぶ学友も卒業した校友もそれを誇りとするのは一向に構わない。
さて、溥儀が立命館日満高等工科学校に対して寄付を行った経緯は不明であるが、凡そ次のようなものだと推測できる。
立命館の創始者である中川小十郎は、学園の充実を図るため、文部省はじめ政府に精力的に働きかけていた。京都法政学校を前身とし社会科学、人文科学の分野において展開してきた立命館には、学園として発展していくために自然科学分野での展開がどうしても必要であった。工学系技術者の養成を目的に京都大学内に設けられていた「私立電気工学講習所」を1914年に継承し、それを母体として1938年に立命館高等工科学校を開設する。
中川はこれの更なる発展のために、満州国建設に向けた技術者養成という国策に則り、1939年に立命館日満高等工科学校へと改組するのだが、この辺りの事情は、詳細はどうあれ、文部官僚であった中川の政治力の賜であることは間違いない。そして、この時に溥儀からの50万円の寄付が送られるのである。中川は日本の満州政策に理解を示し協力的であり、満州国建国の立役者である関東軍参謀・石原莞爾とも交流があったから、それを梃子に政府に立命館日満高等工科学校の整備を認知させるとともに、何らかの方法により溥儀に接近したものであろう。
一方、溥儀の身辺では丁度その頃、実弟の溥傑と嵯峨侯爵家の令嬢で天皇家の親戚に当たる嵯峨浩との縁談が進められている最中であった。関東軍の主導による明らかな政略結婚であり、はじめ溥儀はこの縁談を快く思っていなかったが、溥傑と浩との仲睦まじい関係を見るうち、受け入れるようになるのである。浩は東京生まれであるが、嵯峨家の元は京都の公家であるから、溥儀はその縁から京都の立命館に少なからず関心を寄せたであろうし、それが立命館に対する寄付の内面的な要因になったとしてもおかしくはない。実際、満州側でこの一件に関し仲介者となったのは溥傑であったから、浩との縁談も決して無関係ではないだろう。
さらに想像を膨らませれば、嵯峨家とも縁があり、また嵯峨家同様に天皇家と縁戚関係にある西園寺公望が、中川の懇願により溥儀と仲介に一役買ったであろうことも十分に考えられる。しかし、リベラルな思想の持ち主である西園寺は、軍部とも協調しようとする中川とは対称的に、満州国建設には批判的であったから、立命館日満高等工科学校に関する一切の事案については消極的であったように思われる。
溥儀の資金援助により、衣笠の地に生まれた立命館日満高等工科学校は、その後、立命館大学理工学部へと発展する。そして、衣笠キャンパスは周知の通りである。
なお、立命館日満高等工科学校とともに、溥儀が寄付を行ったのは他に秋田日満工業学校のみである。
(続く)




