歴史に翻弄され、歴史を翻弄した男 − 戯曲の終焉
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さて、溥儀の人生に話を戻す。
1937年7月7日、北京西南の盧溝橋で日本軍と中華民国軍が軍事衝突する。いわゆる盧溝橋事件である。これを契機として全面的な日中戦争(支那事変)へと突入するのである。当時、内戦状態にあった国民党と共産党は、一時休戦し、国共合作(第二次)による抗日民族統一戦線を組織し、日本に対して徹底抗戦の構えを示す。
1941年12月8日、真珠湾攻撃によりアメリカとの直接対戦に踏み切った日本は、アメリカ、イギリス、オランダやオーストラリアなど連合国と交戦状態に入る(太平洋戦争)。満洲国も同調し、連合国各国に対し宣戦布告をし、事実上枢軸国の一員として第二次世界大戦に参戦することとなるのである。
但し、満州国は主戦場から遠方である上、日ソ中立条約によって、隣国のソビエト連邦による攻撃の心配は当面なかったため、比較的穏やかな状態であった。
戦争の初期段階においては勢力を誇っていた日本軍ではあるが、イギリスやアメリカ、中華民国やオーストラリアなど複数国を敵に回し、孤軍奮闘する内、軍隊の力は衰えていかざるをなかった。連戦連勝を続けていた同盟国のイタリア、ドイツも次第に敗退を重ねるようになり、1944年の秋頃には日本の敗戦は濃厚となりつつあったのである。
1945年になると、日本にとって戦況はますます厳しくなる。既に、盟邦であるドイツとイタリアは連合国に降伏し、唯一、日本のみが孤立無援の中で戦果を諦めきれずに各地で戦闘を続けていたが、敗退を繰り返すばかりの状態となっていた。軍部は、最早、武運に見放されているのを感じながら、本土決戦も辞さない構えで、戦争の継続をしようとした。
日本の主要な都市が幾たびも空襲に見舞われ、夥しい数の民間人が犠牲になり、都市が壊滅状態となる中でも、最後の戦果を望む軍部に潔い決断はなされなかった。しかし、8月6日に広島、同9日に長崎へと原子爆弾が投下されるに至って、いよいよ軍部も覚悟を決めなければならなくなった。
戦場から離れた満洲国は辛うじて戦禍を免れていたが、戦況が厳しくなるにつれ、平静を保つことが次第に困難になってきた。
関東軍も満州にばかりとどまるわけにも行かず、部隊を割いて、南方戦線に転戦するようになる。そして、満州国は日本軍の後方支援として、日本に食糧や武器を提供する物資補給の役割を担うようになるが、こうした行為が仇となり、国内の工業地帯や軍の基地などが、連合国軍の爆撃機から標的として狙われるようになる。満州国内でも度々空襲を受けるようになり、連合国側の爆撃機と満州国軍の戦闘機が満州国上空で空中戦を繰り広げるなど、戦火が広がっていった。
8月15日、日本は遂に終戦に踏み切り、玉音放送を通じて全国に布告する。
同じ頃、満州では、アメリカ大統領からの参戦要請を受けたソ連が、中立条約の期限切れを待たず、8月6日深夜、突如、一方的に条約の破棄を宣言し、宣戦を布告した。ソ連軍は、南樺太、千島、朝鮮半島とともに、満州国に攻め入ってきた。迫り来る危機に日本軍も溥儀も敗戦が間近いことを察知する。日本が終戦を告げると、満州帝国も命運を共にし、2日後の17日には日本国政府は満州国の解体を決定し表明する。それを受けて、溥儀もまた18日、自ら満州国の消滅を宣言し、満州帝国皇帝を退位する。
宮廷の付近までソ連軍が迫って来る中、溥儀は、日本への亡命を準備していた。奉天の飛行場において、日本から救援機が到着するのを待機する間、ソ連軍の方が先に空港に到着する。直ちに空港は封鎖され、溥儀はソ連軍の空挺部隊に捕らえられ、そのままソ連極東部の強制収容所に連行されるのである。皇帝から一転して囚人となった溥儀は、命拾いこそしたものの、収容所での厳しい生活に耐えなければならなくなる。
翌年、溥儀は再び国際舞台に登場する。第二次世界大戦の責任を問う極東国際軍事裁判(東京裁判)が開始されていたが、溥儀は連合国側の要請によりその証人に指名され、占領下の日本に護送される。法廷に立った溥儀は、連合国とりわけソ連に有利な証言を強要されていた。ここでもまた、溥儀は日本の戦争責任を追及する連合国によって政治的に利用されるのである。溥儀の証言は、事実に基づきながら、それをわざと誇張したり脚色することによって、日本の戦争責任を強く印象づけようとするものであった。しかし、連合国が求める以上に、溥儀は自らの立場を不当に過小評価し、責任の一切を日本側に押しつけようとする余り、証言内容には連合国主導の法廷も流石に退けざるを得ないものも含まれていた。
満州帝国皇帝に就任する経緯を、関東軍からの強い依頼によるものだとし、終始、「自分の立場は日本の傀儡以外何ものでもない」と主張したのである。
確かに、満蒙問題解決案の第一には宣統帝=溥儀を頭首とする国家の建設を掲げているが、それは一人関東軍だけのものではなかった。溥儀自身も、清朝の再興を宿願とし、それに合致する内容であると確信し、進んで満州に赴いたのである。だが、溥儀は保身のためにその事実は一切隠蔽しようとした。あくまでも、関東軍の強要によるものであり、「本当の気持ちは拒絶したかった。」にも関わらず、武力による脅迫によって「やむを得ず受諾した」と証言したのである。さらには、日本の皇室との良好な関係を築くために、「日満一神一崇」を表明し、自ら「天照大神」を祀ったことも、「神道による宗教侵略」であったと指弾するのである。それだけではない。自己の保身のためにはなりふり構わず、政略とは無関係に個人的な親好の深かった日本の軍人らの名を挙げ、批判したため、一層、共感を得にくくなった。法廷での溥儀の情緒不安定な態度もまた、不興を買うこととなった。溥儀の証言は、日本が軍事力によって大陸経営を進め、アジア・太平洋での戦争に突入していった経緯を辿る上で、重要な内容を含んでいたにも関わらず、虚言に満ちた発言としてその評価は著しく低められることとなった。溥儀がどのような証言をしようとも、溥儀に関する歴史事実の共有者たちはそれを許さなかった。
1949年、長期にわたる内戦の末、人民解放軍が国民党軍に勝利し、中国共産党が政権を執る中華人民共和国が誕生する。翌年、溥儀の身柄は、ソ連から社会主義国の同盟となった中国に引き渡される。
ソ連では連合国の重要参考人として収容されていた溥儀が、今度は、「戦犯」として撫順の戦犯管理所=政治犯収容所に収容される。そして、「売国奴」「国賊」の汚名を着せられ、中国人民全体の敵となり、批判を浴びせられるようになる。
尤も、この審判は法律に基づく正式な裁判を経て下されたものではなく、ソ連から移送される段階で、既に政府や人民にとって自明のものとして一切抗弁の余地も与えられないまま強引に裁断されたものである。しかも、溥儀が「戦犯」としての罪名を被せられる満州帝国皇帝の時代には、まだ中華人民共和国は存在しておらず、国際的な法観念に従えば、同国が溥儀を処罰する根拠は有していないのである。溥儀に対する裁判権は、台湾に移った中華民国側にこそあったが、台湾政府もそれを強く主張しなかったこともあって、法的な手続きのないまま溥儀は収監されたのである。
撫順の収容所は本来、政府に反逆する不満分子らを収容する監獄であったが、第二次世界大戦後は戦犯管理所として捕虜収容所の役割を担うようになっていた。1,000人以上の日本人捕虜が戦犯として収容され、溥儀もその中に混じることとなったのである。
溥儀が収監されると、そこには、弟の溥傑の姿もあった。それ以外にも、溥儀のかつての側近をはじめ満洲国の閣僚や軍上層部、合わせて61人の顔ぶれも揃っていた。彼らは、満州崩壊時に溥儀と共に満州を脱けようとして、ソ連軍の捕虜となった者達であった。
収容所では、囚人たちに対し、「思想改造」と称する思想教育が徹底して施されていた。「思想改造」は共産主義化のための洗脳教育とも呼べるものであった。しかし、それはマルクスやエンゲルス、レーニンらが資本主義の本質、そしてその崩壊により必然的に社会主義へと移行するしくみについて説いたような内容はほとんど含んでおらず、ただ、上辺だけをなぞるものであった。それよりも個々の戦争責任を糺し、悔い改めさせ、中華人民共和国の建設及びその思想拡大に奉仕する一個の部品たる人材を養成することに主な目的があった。「自己批判討論会」などにおいて、自主的に戦時における罪を告白させ、その内容について互いに批判し糾弾するという認罪運動が収容所内に繰り広げられた。そして、「自己批判が足りない」場合には、体罰を以てさらに反省を促すということまで行われた。徴兵制によって一兵士として駆り出されたような者まで、個人の戦争責任を問われるのである。戦争そのものに対しどのような責任も負いようのない者が、進んで自己批判するには、自虐的になるほかなかった。
溥儀もまた例外なく再教育を施される。溥儀の場合は、満州帝国の皇帝になった経緯に論点が置かれた。それも如何にしてではなく、何故そうなったか、溥儀自身の自覚について猛省を促されるのである。東京裁判では一証人に過ぎなかったが、撫順の収容所では溥儀自身がその罪を問われているのであり、容赦のない徹底した追求がなされた。
「再教育」の過程を通じて、溥儀は東京裁判での証言について深く反省する。後に、自叙伝『わが半生』において、「今日、あの時の証言を思い返すと、私は非常に残念に思う。私は、当時自分が将来祖国の処罰を受ける事を恐れ」、「自分の罪業を隠蔽し、同時に自分の罪業と関係のある歴史の真相について隠蔽した」と記す。
溥儀にとってこの「再教育」の過程は、自らが犯した大罪を省み、人間性を呼び覚まし生き方を変えていく機会となった。そのことは彼の残りの人生にとって有意義なものとなったに違いない。だが、如何な事情であれ、人間の意識や思想を意図的に操作し、「再教育」の名の下に人格まで都合良く造り替えていくことは、決して好ましいことではない。そして、その全過程において非人道的な方法が施されたことは紛れもなく歴史の裁断を下されるべきだろう。
ともあれ、「再教育」を通じて溥儀はその人格や考え方を変えざるを得なかった。中には、溥儀は本心より変わったのではなく、変わったふりをしていただけだという穿った見方をする向きもある。仮面を被って心にもない嘘を述べ立て、重い刑罰を逃れようとしただけであり、それは東京裁判での態度と何ら変わりがないと言うのである。収容所での溥儀は、礼儀正しく、模範囚と認められていたが、それも穿った見方をすれば、看守の目を誤魔化すための、偽りの行為だと断ずることもできる。果たして、真実はどうだったのだろう。それは恐らく本人にも説明できないことであるかも知れない。溥儀が自らを変えようとしたのも事実だろうし、また皇帝という位に未練を残しつつ自らを偽って難を逃れようとしたことも事実であろう。その両者の狭間で溥儀は最期まで揺れ動いていたのかも知れない。ただ、一つ言えることは、溥儀は自らを呪縛してきた清朝という亡霊からようやく解き放たれたという実感を得ることができただろうと言うことである。彼にとっての最大の不幸は、生身の皇帝という者の姿を見ることなく、モデルとすべきものもないまま、皇帝に据えられたことであり、それによって重荷を背負わされ御していかなければならなかったことである。だから、それを降ろすことができたことが最大の幸福にもなり得たのだと思う。
ソ連から撫順に移された同じ年の10月、溥儀の身柄は800人の囚人と共にハルビンの政治犯収容所に移された時、ハルビンの駅に着いた溥儀は手首を切って自殺を図る。すんでのところで衛兵に見つけられ一命を取り留めるが、何故、彼は自殺を図ったのだろう。さまざまな推測が可能である。元皇帝という立場に有りながら、そのプライドを断ち切る屈辱に耐えられずに居たのかも知れない。また、意図するとせざるとに関わりなく、個人的な理想や野心によって、世界を巻き添えにし、多くの人命を奪う結果を招いた自らの罪を思い知らされ、脅えたのかも知れない。その時の心境からすると、「再教育」後の溥儀は、自らの人生を真正面から受け止めることができただけでも大きな前進である。
撫順の政治犯収容所で約5年間過ごした後、1959年12月4日、建国10周年のこの年、それを記念して、時の国家主席である劉少奇が「戦争犯罪人」に対する特赦令を発したのを受けて、12月9日に溥儀は模範囚として釈放される。翌年11月20日には弟の溥傑も釈放される。
1960年1月26日、溥儀は中華人民共和国幹部らが居を構える中南海において、周恩来首相と会談する。毛沢東をはじめ猛者の多い共産党幹部にあって、穏健で冷静沈着な周恩来は、溥儀に対しても終始、礼節を重んじながら応対した。周恩来は、他の共産党幹部のような「清朝皇帝即ち国賊」という紋切り型の考えを止め、溥儀を紹介する場合も「かつての私の上司」と言い、敬意を払った。
周恩来は溥儀に、一市民として人生をやり直すことについて意見を述べた上、どういった職業に就きたいかを問うた。溥儀は、自分は植物を栽培し鑑賞するのが好きだと述べたところ、周恩来は中国科学院が運営する北京植物園で庭師として働くことを薦めた。溥儀はその提案を満面に笑みを浮かべ喜んだという。
溥儀は庭師として忠実に職務を果たすうち、その職務姿勢が認められ、中国政府政協第4期全国政治協商会議文史研究委員会専門委員に任じられ、文史資料研究を行う。さらに、1964年には、周恩来の推薦により、満洲族代表として中国人民政治協商会議全国委員に選出される。それは多民族間の融和を図る調停人のような役割を担うものであり、溥儀は特に満州族と漢民族の仲介役を務めることとなった。
一市民としての生活に馴染んだ溥儀は、1962年、民間人の李淑賢を妻に迎える。皇帝の時代に皇后・婉容、第二夫人・文繍らと結婚して以来、5人目の妻である。
北京郊外で妻の李淑賢とひっそり暮らしていた溥儀を病が襲う。体調が芳しくないのを感じた溥儀は、病院で診察を受けるが、その体を癌が蝕んでいるのが発見される。溥儀は妻を気遣い、医師らに対し、自分の病状について固く口止めするが、元看護婦の妻がそれに気付かない筈はなかった。寧ろ、妻の方が溥儀を気遣い、夫の病状を悟っている素振りは一切見せようとしなかった。麗しい夫婦愛である。
時は1967年、文化大革命の嵐が吹き荒れる最中である。文革に妄信的な紅衛兵らは、元皇帝の溥儀に対し「反革命」のレッテルを貼り、ことある毎に槍玉に挙げるようなところがあった。そのため、溥儀を患者として受け入れることによって紅衛兵から攻撃を受けることを懸念した北京市内の病院は何れも、溥儀の入院を拒否していた。その間にも病状は悪化するばかりであった。事情を知った周恩来首相の計らいで、ようやく溥儀は北京市内の病院に入院するが、そこにも紅衛兵が現れ、治療を妨害する。病院では何一つ治療が施されないまま、入院中の溥儀の体はますます蝕まれていく。紅衛兵の報復を恐れる病院側はそうした事実さえ隠蔽しようとするが、溥儀の身辺を怪訝に思う周恩来の耳にもようやく真相が届く。激怒した周恩来は直ちに病院に治療を指示するが、既に癌は進行し手遅れの状態であった。最後の皇帝は、その最後まで波瀾万丈であった。
(続く)




