第3話 魔王、薪を割る
翌朝、
リリィが目を覚ますと、暖炉のそばの長椅子は空になっていた。
「……ルル?」
毛布だけが、きれいに畳まれている。
昨夜までそこにいたはずの、大きくて、怖い顔をしていて、自分のことを魔王だと言い張る怪我人の姿がない。
リリィは一瞬、しゅんとなった。
帰っちゃったのかな…
「ルル!」
慌てて外へ飛び出す。
朝の空気は冷たく、草の先には白い露がついていた。
庭には誰もいない。畑にもいない。
井戸のそばにもいない。
「ルルーー!」
「朝から騒ぐな」
低い声が、家の裏から聞こえた。
リリィが駆けていくと、薪割り場にルルが立っていた。
昨日と同じ黒い服の上から、マルタが貸した古い上着を羽織っている。
頭には布を巻き、角を隠していた。
翼も背中の布の下に無理やり押し込めてある。
どう見ても不自然だったけれど、昨日よりは少しだけ、村の人らしく見えた。
ほんの少しだけ。
「ルル、いた!」
「どこへ行ったと思ったのだ」
「帰っちゃったのかとおもった」
「我が?」
ルルは眉を上げた。
「お前の家のスープを二杯も奪っておきながら、恩も返さず逃げると?」
「おかわりくらい…」
「少しだけでも、受け取ったのだ」
「二杯食べたよ」
「細かいことも覚えているな」
リリィはほっとして、ルルのそばへ寄った。
薪割り台の上には、太い薪が一本置かれている。
ルルは片手に斧を持っていた。
「薪割りするの?」
「恩を受けた以上、返さねばならぬ」
「怪我してるのに?」
「この程度、傷のうちに入らん」
その言葉を聞いた瞬間、家の窓が開いた。
「傷が開いたら、朝ご飯は抜きだよ」
マルタの声だった。
ルルの肩がわずかに揺れ、振り返る。
「……聞いていたのか」
「聞こえるように言ったのかね」
「我は事実を述べただけだ」
「じゃあ、ちょっと薪を割ってみな」
窓が閉まった。
ルルはしばらく家を睨んでいた。
けれど、反論はしなかった。
「ルル、おばあちゃんに弱いね」
「よ、弱くないぞ」
「昨日も座りなって言われて座ってた」
「せ、戦略的判断だ」
「今日も朝ご飯抜きって言われて」
「……む、食事の確保は非常時において重要なのだ」
「じゃがいものスープ、食べたいんだ?」
「いや、違う。違うが……」
ルルは不機嫌そうに斧を持ち上げた。
「見ておれ、リリィ」
「うん」
「七軍団を率い、三十六の魔族領を統べた我にとって、この程度の木片を断つことなど――…」
斧が振り下ろされた。
ドン!と大きな音がした。
薪とともに、
薪割り台が真ん中からきれいに裂けた。
「む……」
「……」
二人は黙って、二つになった薪割り台を見つめた。
上に乗っていた薪は、地面に砕け散った。
リリィは小さく首を傾げる。
「ルル…」
「何だ」
「薪じゃないところも割れてるよ」
「わ、分かっている」
「失敗?」
「い、いや! 違う」
「じゃあ何?」
「こ、これは……練習なのだ」
「何の?」
「薪割り台を破壊された状況における、緊急時の薪割りだ」
「薪割り台を壊したの、ルルだよ」
「黙っておれ」
ルルが斧を持ち直す。
すると背後から、また家の扉が開く音がした。
マルタが腕を組んで立っていた。
「その薪割り台は、亡くなった私の夫が作ったものなんだけどね」
ルルの動きが止まった。
「……修復しよう」
「できるのかい」
「魔王に不可能はない」
「薪割りもまともにできないのに?」
「今のは封印のせいだ」
「不便な封印だねえ」
マルタはため息をついた。
「今日は薪割りは禁止だよ」
「待て。我はまだ一度しか――」
「禁止」
「しかし」
「禁止!」
「……。不本意だが、承知した」
リリィは目を丸くした。
「ルル、承知したって」
「何か問題があるか」
「魔王なのに」
「くっ……」
ルルは斧を置いた。
顔がとても悔しそうだった。
「じゃあ、鶏にご飯をあげるのは?」
「なぜ、そうなる」
「薪割りができないから」
「…わ、我は怪我人であって、家畜係ではないぞ」
「鶏のご飯は軽いよ」
「重さの問題ではない」
それでも、リリィが餌の入った桶を持つと、ルルは後ろからついてきた。
庭の端に、小さな鶏小屋がある。
リリィが柵を開けた途端、中から鶏たちが一斉に飛び出してきた。
「みんな、おはよー!」
茶色い鶏。白い鶏。羽が少しまだらな鶏。
十羽ほどの鶏が、リリィの足元に集まってくる。
ルルは少し離れた場所から、それを見ていた。
「ずいぶん統率の取れていない群れだな」
「兵じゃないよ」
「餌を前に騒ぐとは、だらしない」
「鶏だからね」
「指揮官は誰だ」
「わたし」
「ならば、まず規律を教えよ」
「みんなー、並んでー」
リリィが言った。
鶏たちはまったく並ばなかった。
「聞いておらぬぞ」
「鶏だからね」
一羽の大きな雄鶏が、ルルの前まで歩いてきた。
赤いとさかを揺らしながら、じっとルルを見上げる。
ルルも雄鶏を見下ろした。
「何だ」
雄鶏はルルを睨む。
「無礼者め。相手が誰か分かっているのか」
じっと睨みながら、雄鶏はルルを
雄鶏が跳び上がり、ルルのすねをくちばしでつついた。
「……くっ!」
ルルの顔が引きつった。
「痛かった?」
「痛いわけない」
ツンツン!
もう一度傷口をつつかれる。
「痛い?」
「い、痛くないと言っておる」
鶏の攻撃が続く。
「痛い人はみんな――」
「分かった! 少し痛い! …かもな」
ルルが一歩後ろへ下がる。
雄鶏は勝ち誇ったように胸を張った。
リリィは思わず笑ってしまった。
「ルル、鶏に負けたね」
「負けておらぬ。我が本気を出せば、鶏など一瞬で」
「だめだよ!卵を産んでくれるんだから」
「やらぬ」
「この子、コッコっていうの」
「そのままだな」
「おばあちゃんがつけたの」
「そなたの家系は名付けに迷いがないらしい」
ルルはコッコから距離を取った。
それから、他の鶏を眺める。
鶏たちは餌をついばみ、押し合いながら騒いでいた。
その少し離れたところに、小さなひよこが一羽いた。
黄色い羽の中に、灰色の模様が混じっている。
他のひよこより身体が小さく、餌のそばへ行こうとしても、大きな鶏に押し戻されてしまう。
リリィは桶を置き、そのひよこの前にしゃがみ込んだ。
「チビちゃん、また食べられなかったの?」
「チビちゃん?」
「小さいから」
「そのままだな」
ピィ。
チビちゃんは弱々しく鳴いた。
リリィが手のひらに餌を乗せる。
けれど、ひよこは少しついばんだだけで、すぐにうずくまってしまった。
「昨日から元気がないんだ」
リリィは心配そうに言った。
「おばあちゃんは、もう少し様子を見ようって」
ルルはひよこの前に膝をついた。
「どこか痛いのか?」
チビちゃんは答えない。
「鶏だからね」
「分かっている」
ルルは黒い手袋を外した。
大きな手を、ひよこの頭の上にかざす。
胸の封印が、わずかに赤く光った。
ルルの眉が寄る。
「……体温が低いな」
「分かるの?」
「弱い者は、群れの端に追いやられるものだ」
ルルは餌を少し手に取り、細かく砕いた。
「食べられぬから弱る。弱るから、さらに食べられぬ」
「どうしたらいい?」
「群れから離し、温めてやれ。餌も別にする」
「ルル、鶏に詳しいんだね」
「そういうわけではない」
ルルの声が、少しだけ低くなった。
「兵も民も同じだ。弱った者を競争の中へ戻しても、踏みつぶされるだけだ」
リリィはルルの横顔をじっと見た。
怖い顔だった。
けれど、怒っているのではなかった。
遠いところを見ているような、寂しい顔だった。
ルルはひよこをそっと両手で包んだ。
魔王の手の中に、小さな命が収まる。
「温かい?」
「少しな」
「ルルの手は?」
「魔族の体温は人間より低いのだ」
「じゃあ、温められないね」
「……そうだな」
ルルは不満そうに呟いた。
リリィは自分の服の中へ、ひよこを入れた。
「これなら温かいよ」
「潰すなよ」
「つぶさないよ」
「リリィは時々、勢いで行動するからな」
「ルルを拾ったこと?」
「それもだが…」
そのときだった。
鶏たちが一斉に鳴き始めた。
コッコが羽を大きく広げ、森のほうを睨んでいる。
「どうしたの?」
リリィが顔を上げる。
朝の風が止まっていた。木々の葉も動いていない。
鳥の声も消えている。
ルルの表情が変わった。
「リリィ」
「なあに?」
「家へ戻れ」
それは、今までの不機嫌な声とは違った。
低く、鋭い命令だった。
「でも、鶏が――」
「今すぐだ」
ルルが立ち上がる。
胸の封印が赤く脈打っていた。
ドクン、ドクン、ドクン。
心臓とは別のものが、ルルの身体の中で暴れているようだった。
「ルル、苦しいの?」
「我のことはよい」
森の茂みが、ゆっくりと揺れた。
黒い霧が、地面を這ってくる。
それは初め、煙のように見えた。
けれど煙は四本の脚を作り、長い尾を作り、巨大な口を開いた。
狼に似ていた。
ただし、普通の狼の三倍は大きい。
身体は黒い影でできていて、目だけが赤く光っている。
「魔物か……」
ルルが呟いた。
「知ってるの?」
「魔界の魔獣だ」
「どうして村にいるの?」
「刺客かもな」
グルル…
魔獣が低く唸った。
その声に、鶏たちが逃げ惑う。
リリィはひよこを抱いたまま、動けなかった。
「リリィ!」
ルルがリリィを背中へかばう。
その瞬間、魔獣が二人に飛びかかった。
ルルは地面に置いてあった斧を拾い、横へ振る。
斧の刃が、魔獣の身体を切り裂いた。
黒い霧が散る。
けれど、すぐに集まり直した。
「倒せないの?」
「魔獣の魂を破壊せねば再生する」
「魂はどこ?」
「普通なら胸の魔石の中だ。だが、これは――」
魔獣が再び襲いかかる。
ルルは斧で牙を受け止めた。
衝撃で、足元の土がえぐれる。
「ぐ……!」
ルルの胸の傷から、血がにじんだ。
「ルル!」
「来るな!」
魔獣が前脚を振るう。
ルルはリリィを抱きかかえ、地面を転がった。
鋭い爪が、さっきまで二人がいた場所を切り裂く。
「ルル、血が」
「気にするな」
「おばあちゃんに怒られるよ」
「今はそれどころではなかろう」
ルルはリリィをかばって、鶏小屋の陰へ押した。
「ここを動くな」
「ルルは?」
「我は大丈夫だ」
「でも、今は怪我人だよ」
「それでもだ」
ルルは斧を構え、魔獣の前に立った。
魔獣が背中の布が裂く。
傷ついた黒い翼が、ゆっくりと広がった。
「怪我人を戦わせぬために、我は王であった」
魔獣が吠えた。
森の木々が震える。
ルルは地面を蹴った。
翼はまだうまく動かない。魔力もほとんどない。
それでも、ルルは速かった。
斧を振り下ろし、魔獣の肩を切り裂く。
影が散り、再生する。
魔獣の牙を避けるが、爪が届き
ルルの服が裂け、腕に傷が走る。
「この程度か!」
強がる声とは裏腹に、息は荒かった。
魔獣の尾が、ルルの脇腹を打った。
大きな身体が吹き飛び、薪の山へ叩きつけられる。
薪がガラガラと崩れる。
「ルル!」
リリィは立ち上がった。
「動くなと言ったろうが」
「でも!」
「大丈夫だ!」
「大丈夫じゃないよ!」
ルルは立とうとした。
けれど、膝が崩れる。
魔獣が、ゆっくり近づいてくる。
獲物が弱るのを楽しむように。
ルルは斧を支えにして、どうにか立ち上がった。
「……なるほど」
口元の血を拭う。
「我を殺すための追手か」
「どういうこと?」
「ただの魔獣ではない。魂がここにないのだ」
「倒せないの?」
「我の魔力を吸い続ける限りな」
魔獣の身体から、細い黒い触手のようなものが伸びてくる。
その触手は、ルルの胸の封印に近づき。
封印の赤い光が、少しずつ強くなっていく。
「ルルから力を取ってるの?」
「そのようだ」
「じゃあ、逃げよう!」
「無理だ」
「どうして?」
「こやつは我を追う」
「じゃあ、みんなで逃げよう!」
「村人全員を連れてか?」
ルルは小さく笑った。
「それは、王の逃げ方ではない」
魔獣が二人に飛びかかる。
ルルは斧を投げた。
刃が魔獣の額を貫く。
だが、魔獣は止まらなかった。
大きな口を開き、ルルへ迫る。
「ルル!」
リリィは叫んだ。
怖かった。
昨日拾ったばかりの人だけれど。
名前だって、まだ長すぎて覚えられていない。
いつも怒った顔をしている。
素直においしいと言わない。
鶏に負ける。
薪割り台まで壊した。
でも…
スープを食べたとき、少しだけ嬉しそうだった。
おやすみと言った声が優しかった。
弱いひよこを、そっと手で包んでくれた。
リリィの前に立ってくれた。
「ルル、死んじゃだめ!」
胸の奥から、言葉が飛び出した。
その瞬間。
ルルの胸の封印に、白い光が走る。
「……何?」
ルルが目を見開く。
赤かった紋様が、まばゆい金色へ変わった。
ドクン、と大きな音が辺りに響く。
次の瞬間、凄まじい魔力が庭を吹き抜けた。
黒い翼が大きく広がる。
裂けていたはずの翼は、黒い光に包まれ、夜空のような美しい形を取り戻していた。
折れた角の周囲には、青い炎が揺らめき、失われた角の形を作る。
ルルの足元から金色の光が広がる。
庭を覆い。家を覆い。
村全体を包み込んでいく。
空が明るくなった。
リリィは息を呑んだ。
これが魔王の力なのだ。
森を焼き、村を滅ぼし、人間を怖がらせる力。
けれど、
力はリリィを傷つけなかった。
鶏たちも。
家も。
畑の小さな芽も。
金色の力は柔らかな結界となり、村を優しく包んでいた。
「王の領域に」
ルルの声が響く。
さっきまでの弱々しさはなかった。
空気そのものが、彼の言葉に従って震えている。
「許可なく入ったことを、後悔せよ」
魔獣が初めて怯えた声を上げた。
逃げようとする。
「我の力を食らったな」
ルルが指を握る。
「ならば、我の命令に従え」
黒い触手を力が逆流した。
魔獣の身体が膨らむ。
赤い目が裂ける。
そして。
音もなく、影喰らいは消え散った。
黒い灰が風に散り、朝の空へ消えていく。
庭に静けさが戻った。
ルルの翼から光が失われた。
青い炎の角も消えた。
「ルル!」
リリィが駆け寄る。
ルルの身体が、ゆっくり傾いた。
リリィが支えようとしたけれど、やはり重かった。
二人は一緒に地面へ倒れ込んだ。
「ルル、大丈夫?」
「……大丈夫だ」
「うそ」
「嘘ではない」
「血が出てるよ」
「魔王は、この程度では死なぬ」
ルルは苦しそうに息を吐いた。
「それに……子ども一人守れずに倒れたとあっては、末代までの恥だからな」
リリィは少し考えた。
「ルル、子どもいないでしょ?」
「……言葉のあやだ」
「まつだいって誰?」
「説明すると長い」
「ルルの名前みたいに?」
「我の名は関係ない」
そのとき、家の扉が勢いよく開いた。
「リリィ!」
マルタが杖を持って飛び出してくる。
いつもの曲がった腰からは想像できない速さだった。
杖の先には、昨夜ルルの枕元に置かれていた銀の護符が結ばれている。
マルタは庭を見渡した。
壊れた薪割り台。
散乱する薪。
傷だらけのルル。
地面に残った、黒い焦げ跡。
それから、ルルの胸元で光る封印。
「……間に合わなかったか」
マルタが小さく呟いた。
「おばあちゃん?」
「何でもないよ」
マルタはルルのそばへしゃがみ込む。
傷を確認したあと、額に青筋を浮かべた。
「あんた」
「何だ」
「傷を開いたね」
「敵襲だ。不可抗力だろう」
「朝ご飯は抜きだよ」
「ま、待て…」
「昼も薄いスープだね」
「それは治療ではなく罰ではないか」
「立てるかい」
「当然だ」
ルルは起き上がろうとした。
けれど、まったく動けなかった。
「……こんなもの、少し休めばな」
「重症な者ほど、そう言うんだよ」
「む…。そ、そんなことは……」
マルタはため息をつきながら、ルルの腕を自分の肩に回した。
リリィも反対側を支える。
三人で、ゆっくりと家へ戻ろうとする。
「ピィ」
小さな声が聞こえた。
リリィの外套の中から、チビちゃんが顔を出した。
「あ、忘れてた」
チビちゃんは外套から飛び出すと、ルルの肩に乗った。
そして、黒い髪の近くに身体を寄せる。
「何をしている」
「ルルのこと、好きになったのかな」
「なぜだ」
「助けてくれたから」
「我はひよこを助けた覚えはない」
「魔物から守ったよ」
「お前…いや、村ごと守ったのだ。ひよこを特別扱いしたわけではない」
チビちゃんはルルの肩から頭へ移動した。
髪の上に乗り、丸くなる。
「おい。我の頭は鳥の巣ではないぞ」
「嫌だって。動きたくないって」
「お前は、ひよこの言葉が分かるのか」
「たぶん」
「嘘だな」
チビちゃんは目を閉じた。
すっかり安心した様子で、眠り始める。
ルルは不満だった。
けれど、ひよこを振り落とすのは我慢した。
「ルル、嬉しい?」
「嬉しくない」
「顔がちょっと嬉しそう」
「わ、我は魔王だぞ。嬉しいわけがない」
「魔王って、顔に出るんだね」
マルタが吹き出した。
リリィも笑った。
「笑うな」
ルルは怒ったように言った。
けれど、その声は少しだけ優しかった。
朝の光が、庭へ差し込む。
壊れた薪割り台。
逃げ回る鶏たち。
傷だらけの魔王。
その頭で眠る、小さなひよこ。
ちょっと変わった朝だった。
でも、リリィは思った。
昨日よりも、少しだけ家族が増えたみたいだと。
その頃、
遠く離れた場所で、一人の女が目を開いた。
長い銀色の髪。紫色の瞳。
かつて魔王のそばで、数え切れないほどの戦を指揮した魔界の参謀イリシア。
彼女の前に置かれた黒い水晶に、ひびが入っていた。
魔獣の刺客とのつながりが、切れたのだ。
「……封印が解けたか」
イリシアは水晶へ指を触れる。
最後に映った光景は、ほんの一瞬。
小さな人間の少女。
古い小さな家。
鶏小屋。
そして、少女を守るように翼を広げた、追放された王。
「変わっておられないのですね」
イリシアは微笑んだ。
それは、蔑むような笑みだった。
「愚かな陛下」
彼女の背後で、黒い鎧を着た兵士が膝をついた。
「ご命令を」
イリシアは立ち上がる。
「場所が分かりました」
「捕らえますか」
「いいえ」
彼女は静かに首を振った。
「まずは、陛下がどれほど弱くなられたのかを確かめます」
黒い水晶の中に、小さな村の影が映る。
「それから――」
イリシアの指先が、リリィの姿をなぞった。
「陛下が、何を守ろうとしているのかも」
辺りから光が消える。
誰もいないはずの海で、黒い魔獣がリリィの村に近づいていた。




