第1話 魔王、拾われる
魔王城が落ちた夜、空には月がなかった。
黒雲に覆われた魔界の空を、幾筋もの雷光が裂く。
かつて七つの軍団を従え、三十六の魔族領を支配した魔王ルゼルヴァルドは、玉座の間で膝をついていた。
額から流れた血が、片目を塞いでいる。
折れた角。
裂けた翼。
砕けた魔剣。
そして、胸に刻まれた封印の紋様。
「……裏切った、か」
玉座の前に立つ者たちは、かつて彼に忠誠を誓ったはずの魔族たちだった。
宰相ヴォルガ。
黒騎士団長ガルディス。
魔導参謀イリシア。
どの顔にも、後悔はない。
ただ、冷たい失望だけがあった。
「陛下。あなたは優しすぎた」
宰相ヴォルガが言う。
「人間の村を焼かず、捕虜を殺さず、戦災孤児に食料を配る魔王など、もはや魔王ではありません」
「……それが、我を弑逆する理由か」
「魔界に必要なのは恐怖です。慈悲ではない」
ルゼルヴァルドは笑おうとして、血を吐いた。
身体の奥で魔力炉が軋んでいる。
封印術式により、彼の膨大な魔力はほとんど失われていた。
今の彼は、魔王と呼ぶにはあまりにも無力だった。
「処刑はせぬのか」
「あなたを殺せば、旧臣の中に殉教者として崇める者が出るかもしれません。ゆえに、追放とします」
魔法陣が足元に広がる。
転移術──…
力を失った我を、異世界で始末させるつもりか。
「最後に、一つだけ聞こう」
ルゼルヴァルドは顔を上げた。
「我は、それほど間違っていたか」
誰も答えなかった。
沈黙が答えだった。
次の瞬間、眩い閃光が玉座の間を呑み込んだ。
そして魔王ルゼルヴァルドは、歴史から消えた。
「……っ」
目を覚ましたとき、ルゼルヴァルドは森の中に倒れていた。
湿った土の匂い。
頬を撫でる草の感触。
遠くで鳴く鳥の声。
ここが魔界ではないことは、すぐに分かった。
空気に混じる魔素が薄すぎる。
人間領だ。
「……連中め。よりにもよって、こんな場所に」
身を起こそうとして、激痛が走った。
胸の封印紋が熱を持ち、心臓を締めつけるように脈打つ。
魔力はほとんど練れない。
翼も動かない。
角も片方が根元から折れている。
本来なら、この程度の森など一息で灰にできた。
だが今の彼にできることは、木の根に背を預け、荒い息を吐くことだけだった。
「……笑えんな」
魔王が、野垂れ死にか。
支配者としては、随分と情けない末路だ。
だが、不思議と怒りは薄かった。
あるのは、冷えきった疲労と、空っぽの喪失感だけ。
そのとき、
かさ…、と草むらが揺れた。
ルゼルヴァルドは反射的に顔を上げる。
獣か。
冒険者か。
あるいは、魔王の首を求める人間の兵か。
しかし、現れたのはどれでもなかった。
「……わ」
そこに立っていたのは、小さな少女だった。
年の頃は、十にも届かないだろう。
淡い栗色の髪を三つ編みにし、少し大きめの外套を羽織っている。両手には薬草を入れた籠。
村娘。
それも、武器すら持たないただの子どもだ。
少女はルゼルヴァルドを見て、大きな琥珀色の瞳をさらに丸くした。
当然だ。
人間の少女が、森の中で角と翼を持つ血まみれの男を見つけたのだ。
悲鳴を上げる。
逃げ出す。
村に知らせる。
それが普通の反応だろう。
ルゼルヴァルドは、せめて虚勢だけでも張ることにした。
「去れ、人間」
掠れた声だった。
それでも、かつて魔王と呼ばれた者の威圧を込めたつもりだった。
「我に近づけば、命はないぞ」
少女は数秒、じっと彼を見つめた。
そして。
「おなか、すいてる?」
「………は?」
あまりにも予想外の言葉に、ルゼルヴァルドは間の抜けた声を出してしまった。
少女は籠を抱え直し、少しだけ近づいてくる。
「だって、顔色が悪いし、けがしてるし、なんか……しょんぼりしてる」
「しょんぼりなどしていない」
「してるよ」
「していない。我は魔王だぞ」
「まおう?」
少女は首を傾げた。
「魔王を知らぬのか」
「知ってるよ。絵本に出てくる悪い王さまでしょ?」
「絵本ではない。現実だ」
「でも、悪い王さまは森で倒れてたりしないと思う」
「……ぐ」
正論だった。
あまりにも素朴で、あまりにも容赦のない正論だった。
ルゼルヴァルドが言い返せずにいると、少女は籠の中から布包みを取り出した。
「これ、食べる?」
差し出されたのは、小さな黒パンだった。
焼き目は少し固そうで、半分ほどしかない。
おそらく少女自身の昼食だろう。
ルゼルヴァルドは眉をひそめた。
「人間の施しなど受けぬ」
「でも、おなか鳴ってるよ」
「鳴っていない」
ぐう、と腹が鳴った。
森に響くほど、見事に。
少女は無言でルゼルヴァルドを見た。
ルゼルヴァルドは顔を背けた。
「……今のは、封印術式の共鳴音だ」
「へえ」
「疑っているな」
「ちょっと」
「ちょっとではない顔をしているぞ」
少女はくすりと笑った。
その笑顔に、ルゼルヴァルドは一瞬言葉を失う。
恐怖も、嫌悪も、打算もない。
彼を見る者の目には、いつも何かしらの感情が混じっていたのに。
恐れ。
憎しみ。
崇拝。
欲望。
だが、この少女の瞳にあるのは、ただの心配だった。
それが、ひどく居心地悪かった。
「はい」
少女は黒パンをさらに差し出してくる。
「……いらぬと言っている」
「食べないと死んじゃうよ」
「魔王はそう簡単には死なぬ」
「でも、死なない人もお腹はすくでしょ?」
「……」
ルゼルヴァルドは沈黙した。
やがて、渋々パンを受け取る。
少女の顔がぱっと明るくなった。
「どうぞ」
「勘違いするな。これは敵地で生き延びるための戦略的補給であって、決してそなたの善意に屈したわけではない」
「うん。せんりゃくてき」
「分かっていないだろう」
「うん」
「隠す気もないのか」
ため息をつきながら、ルゼルヴァルドは黒パンを口に運んだ。
固い。
少し酸味がある。
王城の食事に比べれば、粗末にもほどがある。
だが。
「……」
なぜか、悪くなかった。
空腹だったからだろう。
そうに違いない。
「おいしい?」
「……く、食えなくはない」
「それ、おいしいってこと?」
「違う。魔王基準では最低限、糧として認めてもよいという意味だ」
「そっか。よかった」
少女はまた笑った。
どうにも調子が狂う。
ルゼルヴァルドは半分残った黒パンを見下ろした。
自分は今、人間の子どもからもらったパンを食べている。
魔界の誰もが恐れた魔王が。
七軍団を率いた王が。
名も知らぬ少女に拾われ、餌付けされている。
あまりにも情けない。
だが、不快ではなかった。
「……おまえ、名は?」
「リリィ」
「リリィ、か」
「あなたは?」
「ルゼルヴァルド・ディア・ノクス・エルグランデ。第七魔界の正統なる王にして、深淵の支配者――」
「ルルでいい?」
「よくない」
即答した。
リリィはきょとんとする。
「でも長いよ?」
「偉大なる名とは長いものだ」
「じゃあ、ル、ルゼさん?」
「それもな」
「ルーくん?」
「もはや別人だろう」
「じゃあ、ルル」
「戻った上に、確定するな」
リリィは、にこにこしている。
どうやら最初から聞く気がないらしい。
魔王は頭痛を覚えた。
封印の痛みとは別種のものだった。
「ルル、立てる?」
「我をその名で呼ぶな」
「立てないの?」
「……立てる」
意地で立ち上がろうとした。
だが、膝に力が入らず、すぐに崩れ落ちる。
「ほら」
リリィが慌てて支えてくる。
小さな身体で、必死に。
「無理しちゃだめだよ」
「無理などしていない」
「してる人はみんなそう言うって、おばあちゃんが言ってた」
「そなたの祖母はなかなか鋭いな」
「すごいんだよ。薬草も育てるし、料理もできるの」
リリィは誇らしげに胸を張った。
その姿があまりにも無防備で、ルゼルヴァルドは眉をひそめる。
「なぜ助ける」
「え?」
「我は魔王だと言った。角も翼もある。人間にとっては敵だろう」
「でも、今はけが人だよ」
「……それだけか」
「うん」
あっさりと言われて、ルゼルヴァルドは黙った。
それだけ。
本当に、それだけなのだろう。
倒れている人がいる。
だから助ける。
目の前の少女にとっては、それ以上でも以下でもない。
かつて彼が魔族たちに与えようとしたもの。
弱い者を切り捨てない国。
飢えた者に食料が行き渡る領地。
敵であっても、泣く子どもまでは殺さない軍。
それらは甘さだと笑われた。
魔王にふさわしくないと否定された。
けれど。
この小さな少女は、その甘さだけで魔王の命を拾おうとしている。
「ルル、うちに来る?」
「……正気か」
「おばあちゃんに見てもらったほうがいいよ」
「人間の村に魔王を連れていくつもりか」
「うん」
「討伐されるぞ」
「じゃあ、角を隠そう」
リリィは自分の頭に巻いていた布をほどくと、背伸びしてルゼルヴァルドの頭にかぶせた。
片方だけ残った角が、布の下に収まる。
翼は外套で隠された。
リリィは一歩下がって、満足げに頷く。
「これで大丈夫」
「どこがだ。怪しすぎるだろう」
「遠い親戚ってことにする」
「設定が雑だな」
「ルルは、いとこ」
「魔王を親戚扱いするな」
文句を言いながらも、ルゼルヴァルドは拒まなかった。
本気で抵抗する力が残っていなかったのもある。
だが、それだけではない。
差し出されたリリィの小さな手を見て、彼は思った。
ここでこの手を取らなければ、自分は本当に終わるのだと。
命ではない。
もっと奥にある何かが。
「……リリィ」
「なあに?」
「我は、そなたに恩を受ける」
「うん?」
「魔王の恩は高くつくぞ。覚悟しておけ」
リリィは少し考えたあと、ぱっと笑った。
「じゃあ、元気になったら薪割り手伝って」
「……薪割り?」
「うん。おばあちゃん、腰が痛いから」
魔王はしばらく黙った。
七軍団を統べた王。
深淵の支配者。
恐怖の象徴。
その恩返しが、薪割り。
「……よかろう」
ルゼルヴァルドは重々しく頷いた。
「この魔王ルゼルヴァルド、そなたの家の薪をすべて断ち割ってみせよう」
「ほんと? ありがとう、ルル!」
「だからその名で呼ぶなと言っている」
リリィは楽しそうに笑った。
ルゼルヴァルドはその手を取る。
小さな手だった。
頼りなくて、柔らかくて、けれど不思議なほど温かい。
魔王城の玉座よりも。
魔剣の柄よりも。
その手のほうが、ずっと彼を現実に繋ぎ止めている気がした。
森の向こうには、人間の村がある。
そこに彼の居場所などあるはずがない。
魔族に捨てられ、人間にも受け入れられなければ、今度こそ本当に行き場を失う。
それでも…
「ルル、歩ける?」
「誰にものを言っている。我は魔王だぞ」
「じゃあ、ゆっくり歩こうね」
「聞いているのか、お前は」
「うん。聞いてるよ」
リリィは彼の手をぎゅっと握った。
「大丈夫。うちのスープ、おいしいから」
「なぜそれで大丈夫になるのだ」
「おいしいものを食べると、ちょっと元気になるでしょ?」
ルゼルヴァルドは答えなかった。
ただ、口元をほんのわずかに緩めた。
魔王が拾われた日。
世界の歴史には、まだ何も記されていない。
だが確かにこの日、滅びかけた王の物語は終わらずに済んだ。
小さな少女の手によって。
そして、彼が最初に得た新たな臣下は、魔将でも騎士でもなく。
じゃがいものスープを自慢する、村の少女だった。




