番外編
以前活動報告に載せた小ネタ「“キスをしないと出られない部屋”から出るまでにどのくらいの時間がかかるか」が元ネタです。
壁に刻まれたそのふざけた文章を読んで、エドアルドは盛大に舌打ちをした。
その舌打ちを掻き消すように、後ろからタタタッと軽い足音がかけてくる。
「ダメですエドアルド騎士! あっちの壁には出口も手がかりも何も無しです!」
こちらとは反対側の壁を調べていたその声の主——ユディタは、エドアルドのすぐ側までやって来ると足を止めた。晴れやかな夏の空と同じ色をした瞳が、こちらを見上げて顔を覗き込んでくる。
「こっちはどうでした? 何かありました?」
「ああ。出口は無かったが、手がかり……らしきものはあった」
そう言って、エドアルドは頭上にある忌々しい文章にもう一度目をやった。つられてユディタも正面の壁の上の方を見たが、すぐにその目をギュッと細め、非常に読みづらそうな顔をした。
「うーん……あれ、なんて書いてあるか読めます?」
ところどころが苔むした古い石壁には、エドアルドの背よりも遥か上の位置に、とある短い文章が刻まれていた。
しかし、その文章は文字がもともと小さいのに加えて、文字の一部が苔に侵食されているため大変読みづらい。身長的な差もあってか、隣にいるユディタにはほとんど読めないようであった。
「……『二人の愛の力を口づけにて示せ。さすれば扉は開かれん』……壁にはそう書いてある」
「えっ⁉︎」
「…………」
「え、エドアルド騎士……」
「…………」
「今のってもう一回言ってもらえたりします?」
「断る」
◇
そもそも何故、エドアルドがあのように意味不明な文章を読み上げる羽目になったのか。
ことの発端はいつもの魔獣討伐である。
王都近くの古い遺跡へ小型の魔獣が逃げ込んだ、という情報があったのが数時間前。
別の任務帰りで遺跡付近に居たエドアルドがそのまま討伐に向かったのが二時間前。彼に同行していたユディタが「私も行きます!」とついて来たのも二時間前。
それから無事に魔獣を倒したのが三十分前。
諸々の処理を終え、遺跡を出ようとしたところで、ユディタが床にあった謎のスイッチを偶然踏んでしまったのが五分前。
パカッと突然現れた落とし穴に二人一緒に吸い込まれ、そのまま出口も何もない、四方を石壁に囲まれた薄暗い小部屋に閉じ込められて——今に至る。
「……要するに、ここでキスをして、私たちの愛の力を示せば出られると」
そう言ったユディタがやたら“愛”の部分に力を込めていたのが少々気になりはしたが、エドアルドは特に顔色を変えることもなく、いつも通りの眉間にシワを寄せた険しい顔で口を開いた。
「邪神討伐の際、この遺跡には魔獣を仕留めるための魔法の罠が無数に張り巡らされていたと聞く。邪神を倒した後は、誤って人がかからないよう殆どは解除されたはずだが……」
「罠の解除し忘れ、とかですか?」
「いや、あまりにも数が膨大なので危害がない罠は放置したのだろう」
確か同じような遺跡が各地にいくつもあったはずだ。遺跡にある罠の種類はほとんどが討伐目的のものだったが、中には試験段階の魔法も実験を兼ねて仕掛けたと報告書で読んだ覚えもある。
遺跡にある全ての罠を解除して回っていては手間も時間もかかる。そのため、今回のような脱出のためにふざけた条件を出してくる罠を解除班が放置したのは極めて合理的な判断である……とは思うが、今はなぜ解除しなかったと責めずにはいられない。というかなぜこんな罠を仕掛けているのかも意味がわからない。
眉間の谷がどんどん深くなっていくエドアルドに対し、その隣にいるユディタは至極真面目な表情を作ったかと思うと、「ゔぅん」とわざとらしい咳払いをして告げた。
「あのですね、エドアルド騎士。私が光魔法でドーン!とここに出口を作って差し上げてもいいんですが、古い建物ですし、崩落の危険性もあると思うんです。なのでやはり、ここは平和的解決が一番といいますか、向こうの条件に大人しく従うのが賢明かと私は思うわけであります」
「…………」
「そして次に浮上するのは『じゃあどこにするのか?』という問題ですよね。額やら頬やら瞼やら、古今東西、顔には色々な部位がありますが、ここはやはり最も王道なのは口ということに……ふぎゃっ!」
つらつらつらつらと、どこで息継ぎをしているのか心配になるほど捲し立てられていたユディタの言葉が、突如として終わる。隣から伸びてきた男の手によって、ムギュッと両頬を潰されたからだ。
柔く痛くない程度に頬を押しつぶしたその手は、すぐに彼女から離れる。
「な、何するんですか」
「少し落ち着け」
驚き半分、不満半分といった様子でユディタは口をへの字に曲げる。動いた拍子に口元にかかった横髪をそっと耳にかけてやり、エドアルドが身を屈めて彼女に近づいた途端、今までが嘘のように静かになった。
「ぅ、ゔゔぉ……」
「じっとしていろ」
謎のうめき声を上げつつも、エドアルドの指示通り、ユディタの身体がピタリと止まる。
朱に染まったその頬に、骨ばった大きな手が添えられ、ギュッと固く閉じられた瞼に男の影が差した——ところで、カッ!といきなりユディタが目を開いた。
「あの!!! エドアルド騎士!!!」
突然の呼びかけに、流石に驚いたエドアルドの動きも止まる。ユディタの瞳に拒絶や怯えの色がないことを確認した後、至近距離のまま冷静に問う。
「どうした」
「その、めめめめ目は、目はやっぱり開けといた方がいいですかね⁉︎」
「好きにしろ」
「う、っじゃあ、閉じときます……」
空色の瞳が再び隠れる。そうして今度こそエドアルドの気配がユディタに触れようとした——ところで、またもやカッ!とユディタが目を開いた。
もうエドアルドは驚かなかった。心の奥で何となく、こうなるだろうと察していたのかもしれない。
「どうした」
「あのっ、てってっ手は、手はどこにやれば⁉︎」
「好きにしろ」
前回と全く同じ回答を得たユディタは、しばらく手を彷徨わせた後、とりあえずエドアルドの胸の上に置くことに決めたようだった。それから遠慮がちに彼の服をキュッと握る。
服を握られた瞬間、それに呼応するようにエドアルドがユディタの腰を自分の方にゆるく引き寄せたのだが、ユディタは目の前のことにいっぱいいっぱい過ぎてそのことには気づかなかった。
その後も二度三度、息は止めた方がいいか、背筋は伸ばした方がいいか等々、ユディタとエドアルドの謎のQ&Aは続き、とうとうユディタが足の爪の長さまで気にし始めたので、一旦エドアルドは彼女の身体を解放することにした。
一度仕切り直して落ち着いた方がいいだろう。そう考えて、頬と腰に触れていた手を離し、エドアルドはほんの2歩ほど後ろに下がって距離を取る。
すると、ユディタがその2歩分の距離を埋め、また自らエドアルドの腕の中に収まってくる。
……もう一度、エドアルドが数歩下がると、またユディタがその分を詰めてくる。
「……おい、何がしたい」
「……こっちの台詞ですよ。なんで離れちゃうんですか」
耳まで真っ赤に染め上げつつも、それはそれは不満そうにエドアルドを睨みつけたユディタは、そのまま彼の身体を両腕で捕らえた。決して離してなるものかと言わんばかりに、ぎゅうぎゅうと抱きついてくる。
ついでに頭のてっぺんをエドアルドの胸の辺りに押し付けめり込ませ、抗議の頭突きも繰り出してきた。
「……キス、もうしないんですか。やめちゃうんですか」
「…………」
「私、光魔法でドーン!と出口を作らなきゃいけないですか」
「いや、それはやるな」
何やら拗ねた様子のユディタの発言から察するに、彼女はエドアルドが自分から離れたのは、彼が口づけするのを諦めたからだと解釈したらしい。
そんなつもりは毛頭ないのだが、とエドアルドが思ったところで、項垂れていたユディタが顔を上げ、真剣な表情で口を開いた。
「今度こそ私、何が起ころうと、どんなに恥ずかしかろうと、目の開閉も手の位置も足の爪の長さも気にしません。ずっと直立不動でいます」
「ふっ」
「ちょっと! なんで笑うんですか! 私は本気ですよ!」
先程までのいじけた態度はどこへ行ったのか、いつもの調子を取り戻し始めたユディタは、やいのやいのと騒ぎ出す。「そりゃもう銅像かってくらい立って動かないようにしてやりますよ!」と高らかに宣言する愛しい女を、エドアルドは強く引き寄せた。
「……悪かった」
「え?」
「お前はずっと全力で臨んでいたというのに、俺は始めからお前に手加減しようと思っていた」
首をひねり、こちらの言葉の意味を必死に推し量ろうとしているユディタに、エドアルドは再び触れた。ただし、その手は頬に優しく添えるのでなく、もう後に引けないように、頭の後ろに回す。
「だが、お前がそこまで本気でいるならば、俺も手を抜くのはやめよう」
瞬きすらも許さないほど強く視線を交わらせれば、空色の瞳が戸惑いと羞恥に揺れる。けれどその奥に確かな“期待”の色が宿っているのを、エドアルドは見逃さなかった。
「決して動くなよ、ユディタ」
——その言葉をユディタが本当に守れたかどうかは、彼らのみぞ知る。




