「表現」とは「整理」である
批評というのは、ある種の創造であります。決して作品の魅力を紹介する説明文などではありません。第一、説明というなかにも、言葉の持つ独特な表現、その工夫のなかに創造が混ざっているものです。細かいところはオスカー・ワイルドの『芸術家としての評論家』(要書房)や、小林秀雄の『様々なる意匠』(新潮文庫など)なりを読めばいいと思います。批評を読んで面白いと感じるとき、私は、評者の見たように対象作品を見て、そこに再発見をするのです。まあ簡潔に言うと評者によって面白みを気づかされるわけです。しかし批評を読んだ人間は、(手助けは受けるものの)自分で発見するのです。発見したもの自体でもいいし、その発見のプロセスでもいいが、それら全ては評者自身の創り出したものでしょう。そうした内容を表現するための言葉も、評者の創り出したものでしょう。批評家は、己れの内側に潜む感動とか体験などを、言葉という形にまとめることで、批評を創るのです。それは恐らく、作者が小説を書くプロセスと殆んど同じであるか、もしかするとより忠実に書いたものであるかもしれません。そのために、面白い批評は限りなく創作に近いのだと、私は信じております。
そもそも、しばしば言われることでありますが、本当の独創はあり得ないのです。テレパシーがあるなら話は別ですけど、何かしら目に見える形に直さなければ誰にもわからないでしょう。こう言っては妙ですが、言葉自体が作者と読者とのあいだを受け持っている、一種の共通基盤なのです。極端な独創とは、むしろ誰の理解をも拒むものを指してそういうと思うのです。要するに、「表現」ということそのものが、ある種の「整理」の役割を果たしているのだと考えています。「整理」そのものには創造の機能はないです。
しかし創造するためにはある程度の「整理」が必要です。その理由は上に書いたとおりですが、言葉の伝える機能を考えると、自分のなかに混沌と渦巻いているアイディアを、井然と並び換えて、相手にわかるように「整理」することを、私は「表現」であり創造だと考えるからです。その点で言うなら作者、評者とて同じ「表現」者です。どうして分けられる必要がありましょうか。画家も彫刻家も、みな分け隔てなく「表現」者であります。用いる感覚が異なるだけです。「表現」者は五感や知恵を通じてでしか相手に作品を伝えることができないのです。
そのためにはあらゆる工夫が必要とされます。ゆえに「観察篇」にて再三述べた、「文章を味わう」ことにかなり比重を置くべきなのです。もちろん文章がすべてではないですが、エンタメにはエンタメなりの表現様式があり、文学には文学なりの表現様式があります。また同じ文学の様式のなかにも、さまざまなスタイルがあります。そういうものを通じてでしか伝わらないことがあります。作品批評(まあこれは印象批評の場合ですが)をする際に、作品を読んでいる自分自身を、何よりも呵責なく批判するべきなのです。その点について、次回は詳しく書きます。