結局主観的に書くのがいい
批評の本質は、人によってまちまちでしょうが、先ずだいたいに於て私は、作品評は、その作品を一応知っている人には新鮮な再発見を、知らない人には興味を抱かせるようなものを良しと考えます。例えば私は川原礫の『ソードアート・オンライン(SAO)』(電撃文庫)という作品を一度私的に批評したことがあるんですが、下勉強にAmazonのレビューなどを観ると好き嫌い的に作品評価が分かれています。やれ「読んでいて爽快だった」とか「この作品読まなきゃ損だよ!」と煽る一方で、「期待外れ」とか「なんだよ、ご都合主義じゃん」などという評価もあります。こういうのは、まあはっきり言えば読者の「感想」であって、レビューにはなるが「批評」にはならないと思います。なぜなら、それらは作品に新鮮で面白い見方をなんら提示できていないからです。
ちなみに私の作品評は単純で、(もう削除してしまったので忘れかけてますが)要点だけ云うと「『ネットゲームが嘘であって欲しくない』という作者の想いだけがあの作品の最も痛烈なる悲願である」というようなことを書きました。詳しくは四巻のあとがきを読めばわかると思いますが、あえてここにざっくり書くと、作者はネットゲームに没頭し、やがてそれをネタにして小説を作るさいに、「デスゲーム」という機構を用いることにした。なぜなら、ゲームの中に「死」は存在しないから。リセットが可能だから。リセットで物語は作れないと感じたからでした。しかし本当にそうなのか? そこに川原礫の葛藤が始まりました。本当にゲームにリアルな死を持ち込まなければ、小説にならないのだろうか? いやそんなはずない。本当にそうであるならば、顔も見知らぬ相手と協力してクリアしたクエストの爽快感や、それまでの苦しみや喜びが、すべて嘘になってしまうではないか。そんなわけがない。あの感覚は嘘ではなく、自分が感じてきたリアルなのだ。それで川原礫はフェアリィダンス編を書き、さらにシリーズを書き続けていったわけです。フェアリィダンス編のクライマックスで、主人公のキリトが自分のことを「鍍金の勇者」と名乗らせたのは、つまり、自分はゲーム内では強い剣士だけど、現実ではただの少年にすぎなくて、しかしそれでも自分はゲームが無駄だとは思わない、という宣言でもあります。俺はゲームがゲームであるからこそ信ずるのであって、ゲームが現実になるようなことや、況してやそのなかで独裁者を気取るなんてことは論外だ、俺はたとえ、どんな傷を受けどんな誹りを受けようとも、そこにある作り物の世界の参加者であり続ける。あの作品にはその叫びが内包されているような気がしたのです。それは、たぶんネットに限らずゲームに熱中したことのある人ならだいたいわかる感覚だと思います。だからあの作品は一千万部を超える売れ行きを示し、多くの読者及び視聴者を魅了したのだと考えています。それ以外、例えば表現がいささかおかしいとか、ご都合主義だとかは、まあ見逃してもいい気もします。それらが作品の良さを損なうほどに非道いものなら、一千万部は売れますまい。
もちろんこんなことを理解したからなんだ、と云う見方もあります。飽くまでこれは私の主観でしかないわけです。しかし、主観と客観なんてものはけっこうあいまいなものではないでしょうか? ひと口に客観と言っても、第三者もまた主観的にものを見ています。例えば「ご都合主義」という言葉は、作品を批判するさいによく用いられますが、これは良くも悪くもレビュー書きの一存や感覚で決まるものです。レビュー書き、つまり読者側が「なにか不自然だ、これはこじつけだ」と思い込んでしまったら、それはもう「ご都合主義」のレッテルを貼られてしまいます。しかし、あからさまな嘘や誤った知識でなければ、そういった領域は読者がどう受け止めて感じたかと云うことになりがちです。これははっきり言って印象の問題であります。もちろんこうしたところが作品の基礎だから大事ではありましょうが、別に気にしない人は気にしないでしょう。まるで自分が読者の代表であるかのように振る舞うのは、いささか傲慢な気もするのです。
作品の善し悪しはだいたいにおいて主観に根ざしたものです。統計で「全体の六割」といっても、「十人中六人」でも「百万人中の六十万人」でも同じ「全体の六割」ですし、仮に百万人と言っても、日本なのか、アメリカなのか、インドなのか、こうした具体的な背景が見えなければ、常に吾々は印象だけで判断しがちです。このように一見客観的に見えるものは見方を変えればいくらでも変わってしまいます。そんななかで作品を評価するときは、たとえ間違っていたとしても自分一流のやり方で信じるべきだと思うのです。もちろん多少の調べ物は必要かもしれませんが、最も重要なのは、そこにある主観だと思うのです。主観を徹底して、「俺は作中のこれこれには誰がなんといってもこうだと信じる」と云う次元まで行かなければ、それは作品の揚げ足取りか、傍観者として感想を残すことしかできません。批評とは「『へえ面白かった』以上の感想文」ではないです。むしろ自己表現としての文芸の派生形であります。自分が作品のなかに入って、そこで負った傷やら感動やらを渾然一体と体験して、それをしんみりと言葉に置き換えることに私は批評の特別な価値を感じます。最初に私が「直観」を大切にしろ、と書いたのは、つまりこういうことなのです。




