「反省」そして「読み」
この作品は「反省」に重きを置いたものです。私は本人を「反省」したとき、非常に後味の悪いものを感じてしまいました。何かしら偉そうにものを語るのは気分が悪い。何せこの文章を書いている本人はさほど偉大でもないのに、さも偉大であるかのように振舞っている。ここに大きな矛盾があります。
私は前回までの、文章の話しを自分勝手に推し進めすぎました。ここに大きな不愉快があります。例えば人の顔を見て、鼻が高いとか、切れ長の瞳である、というものを「個性」と呼び得ましょうか? いやいや、それは「個性」ではなく「特徴」であって、変えようのない事実だ。変えようのない事実を指して「個性」と言えるのなら、これほど世の中単純なことはない。そういった次元に収まるものではないから、世の中は複雑であり、小説はときとして難解であるわけです。そのことを深く「反省」しない限り、話が進みません。これは非常な誤ちを犯しました。文章の「個性」とて同じであります。「文は人なり」などとやすやすと使うものではなかったわけです。「個性」というものはそれほど容易に汲み取れるものではないし、それを言葉にすることなど尚更です。辛うじて云うならば、「文章」そのものから漂う表現を、「自分」がどう受け止め、どう処していくのか、その微妙な瀬戸際に立って、ギリギリのところで「自分」と闘わなければ、そこに「個性」と呼び得るものを語るには早いということです。つまり、「読み」というのはそういう次元にまで持って行かない限り、いつまでも浅瀬でじゃれていることと大差ないわけです。もちろん、万人にこのような読み方を強いることは無茶です。そして、そのように読める人間が少ないことが、この世における本物の「個性」がいかに気軽に語られるような代物とは一線を画することがお分かりいただけるかと思われます。正直な話、今の私には力不足でした。語る力を持たなければ語らぬ方がましに決まっている。
ただ、思うところはまだ他にいろいろあるので、観察篇はここまでにして、表現篇に行きたいと思います。「読み」についていろいろ考えるのなら、外山滋比古の『読みの整理学』や『異本論』(どちらもちくま文庫)や、吉本隆明の『真贋』(講談社インターナショナル)などをお勧め致します。