何とも言えない感覚を大事にしろ
「美は人を沈黙させるとはよく言われる事だが、この事を徹底して考えている人は、意外に少いものである。優れた芸術作品は、必ず言うに言われぬ或るものを表現していて、これに対しては学問上の言語も、実生活上の言葉も為す処を知らず、僕等は止むなく口を噤むのであるが、一方、この沈黙は空虚ではなく感動に充ちているから、何かを語ろうとする衝動を抑え難く、而も、口を開けば嘘になるという意識を眠らせてはならぬ。そういう沈黙に堪えるには作品に対する痛切な愛情を必要とする。美というものは、現実にある一つの抗し難い力であって、妙な言い方をする様だが、普通一般に考えられているよりも遥かに美しくもなく愉快でもないものである。」
小林秀雄『モオツァルト』
言葉は万能ではありません。何でも「表現」できると思っているのならば、それは間違いだと思います。ある程度まで行くと、言葉の持つ限界にぶつかります。これは私自身の経験ですが、あながち私一人に当てはまることではないと信じております。ある作品を読んで、感動する。その感動を、かれこれ工夫して批評にする。すると批評を読んだ側は、評者の見たような作品を目の当たりにし、評者と同じような感動を観る、こういうのが好い批評の力であるような気がします。むろん作品に直に接触するに越したことはないのです。批評を読む人間は、評者の感性に感動するのでして、結局のところ作品そのものは、眼鏡を掛けて観ているのです。ゆえに批評が作品とは別に成り立つ一個の文芸だと書いたのです。しかしそれはただの告白文学ではないところに批評の謎があります。根拠がなければならぬ。しかしそれは作品のなかを探せば済むことだ。作品から「見え」てきたものだけがその根拠なのです。なら、一方で作品に呼応する感性を、感動をいかにして「表現」していくのか、それと根拠がどのように結び合わされるのか。本日はここについて考えてみたい。
先日このような記事を読んでいたのですが、表現者としていろいろ考えさせられることが載っていました。気が向いたら読んでみてください。
『震災や原発すら「消費」してしまうのか? 舩橋淳×後藤正文対談』(http://www.cinra.net/interview/201411-futabakara)
以下は上記の記事より引用。
「この映画を見て『じゃあどうしよう』と即座に思うのではなくて、重たいものをそのまま受け取ったような感覚になった。僕らはこの『何とも言えなさ』を共有しなくちゃいけない。(後藤)」
「物見遊山にカメラを回して、『ほら、すごいでしょ?』って見せるのって、他人事の極致じゃないですか? これは映像を撮る人間として、やっちゃいけないことだと思ったんです。(舩橋)」
「作品を作る上で、自分の言葉を見つけるというか、内在化させる過程が、まさしく『戸惑い』だと思うんです。(舩橋)」
これはとても大切なことではないでしょうか。この場合の『何とも言えなさ』とは、現実の惨状に対してのものですが、ある作品に対するとびきりで痛切なる感動というものも、つまるところそういうものだと思われるのです。これを言葉にするのは容易のことではない。必ず『戸惑い』を得る。傑作としか言いようのない作品にぶち当たったとき、そこには著しい予感だけがあるが、読者は戸惑い、ひょっとすると途方に暮れてしまう。しかしそこをきちんと内在化していくことで、それが実感となって、それを言葉にすることができる。私はそういうものがないと、「表現」には今ひとつ気迫が欠けると思います。もちろん、激しい現実のみが「表現」を豊かにするという意味ではありません。むしろ激しい現実は言葉を踏み潰します。圧倒的なものは常に吾々を黙らせます。この圧倒的なものをいかに組み伏せ、己れの血肉とするのか、そういったところに「表現」者の、「表現」者たる努力が必要とされるのでしょう。つまるところ、己れの血肉とならないものは「表現」にはなりません。ならなければ、それはただの観念であり、無味乾燥な「説明」になる。そんなものは、私は興味ありません。




